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中川一郎の情報 (なかがわいちろう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

中川一郎の情報(なかがわいちろう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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中川 一郎さんについて調べます

■名前・氏名
中川 一郎
(読み:なかがわ いちろう)
■職業
政治家
■中川一郎の誕生日・生年月日
1925年3月9日 (年齢57歳没)
丑年(うし年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
北海道出身

(大正14年)1925年生まれの人の年齢早見表

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中川一郎と同じ出身地北海道生まれの有名人・芸能人


中川一郎と関係のある人

中川昭一: 父親は農林水産大臣や科学技術庁長官を歴任した中川一郎、叔父は元参議院議員の中川義雄。尊敬する政治家としては、父・中川一郎のほか、中曽根康弘、19世紀のイギリス首相パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルを挙げていた。


渡辺美智雄: 第3次佐藤内閣で農林政務次官を経験するなど農林族議員として頭角を現し、「ベトコン議員」が多く参集する「米価問題懇談会」では斬り込み隊長となって、同期の中川一郎、湊徹郎と共に「(イッチャン、ミッチャン、テッチャンの)3チャン艦隊」と呼ばれた。


前田正男: 中川一郎


春日一幸: 自民党議員の中川一郎と親交を持ち、春日は中川を高く評価していた。


近藤鶴代: 中川一郎


中川昭一: 1953年(昭和28年)7月19日、東京都渋谷区宮代町(現:渋谷区広尾)に北海道開発庁に勤務していた中川一郎と、その妻・貞子の長男として生まれた。


三塚博: 前述の中川一郎の自由民主党総裁選挙出馬の件に関して、三塚の先輩である浜田幸一は、著書『日本をダメにした九人の政治家』にて、「金で総てを動かし、中川さんが苦しんでいるさまを横目に出世していった三塚君の人間性を許すわけにはいかない」と厳しく断じ、「この男が首相にでもなろうものなら、間違いなく日本は滅びてしまう」と警鐘を鳴らし、「三塚博よ、真っ先に辞職を」と迫った。


伊東良孝: 中川一郎の後援会青年部で活躍し、中川の筆頭秘書であった同い年の鈴木宗男とも親しかった。


中川昭一: 父・中川一郎は初代・農林水産大臣であり、農林水産省の銘板も父の揮毫によるものであったが、大臣就任後に初登庁した中川は、その銘板に向かって一礼し、「しっかりやれって親父が言っているみたいだ」との感想を述べた。


山本幸雄: 以後自由民主党公認で通算当選7回(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・田中六助・伊東正義・渡辺美智雄・藤尾正行・中川一郎・鯨岡兵輔・西岡武夫・三原朝雄・奥野誠亮など)。


小渕恵三: 同期には橋本龍太郎、中川一郎、大出俊、田中六助、伊東正義、渡辺美智雄などがいる。


中川郁子: 1983年1月9日、義父の中川一郎が急逝。


大野伴睦: タカ派の政策集団・青嵐会を結成した中川一郎の政界での師匠として知られる。


江藤隆美: 1973年には中川一郎が主催する青嵐会の結成に、石原慎太郎らと共に参加した。


佐藤孝行: 自民党の実力者・河野一郎の秘書を経て、1963年の衆院選で旧北海道3区から初当選し以後11期当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。


鈴木宗男: 昭一との遺恨、自ら「中川一郎先生の応援をえて最年少道議として政界デビュー」と語る保守系無所属の武部勤の参戦もあって、毎回自民3候補(鈴木が当選してからは4候補)対社会党3候補の激戦が、日本一面積の広い選挙区(都道府県面積第2位の岩手県よりも広く、四国一島に相当)で繰り広げられた。


竹内黎一: 中川一郎


高橋辰夫: 中川一郎の死後は石原慎太郎、平沼赳夫らと共に福田派に合流。


田本憲吾: 中川一郎衆議院議員の支援を受け、無所属で元北海道議会議員の熊谷克治、日本共産党の湊昇を破り、初当選。


大平正芳: 大平の入院に対し、反主流派の中川一郎は、健康問題をかかえた大平では6月22日から予定されているヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも、国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語って暗に退陣を要求、反主流派の一部から大平おろしの声が上がりはじめた。


後藤田正晴: 官房長官となった後藤田は、1982年12月のソ連による対日諜報活動・間接侵略が暴露されたレフチェンコ事件や、1983年1月の中川一郎の自殺事件、同年9月のソ連軍による大韓航空機撃墜事件、三原山噴火による住民の全島避難 の際に優れた危機管理能力を発揮。


鈴木宗男: 1969年(昭和44年)9月、大学在学中に、十勝支庁広尾郡広尾町出身で、保守系がひしめいていた旧北海道5区選出の中川一郎衆議院議員の秘書を務める。


名取礼二: 『小児生理学』中川一郎共編 朝倉書店 1958


河本敏夫: 反田中勢力の受け皿として序盤から順調に票数を伸ばし、有力候補と目されていたが、田中派の集票マシーンから支援を受けた中曽根に過半数を取られて次点となり、3位の安倍晋太郎や4位の中川一郎ともども国会議員による本選挙への立候補を辞退する。


村上正邦: 1982年、玉置が青嵐会に参加していたことが縁で、自由民主党総裁選挙において中川一郎を出馬させるべく参議院での推薦に集めに奔走して、総裁選に立候補をさせる。


藤尾正行: 読売新聞社記者を経て、河野一郎に見出され1963年の第30回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧栃木2区から出馬し、初当選した(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫らがいる)。


森下元晴: 1963年の衆院選に旧徳島県全県区から出馬し初当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。


田中角栄: 魚の干物なら食うが、熊の干物は誰も見向きもしない」(中川一郎に『鯉は跳ねちゃいけませんか?』と、小派閥ながら自民党総裁選に出馬を決めたという報告を受けた際の返答)


浜田幸一: 川島と角栄の他、中川一郎、金丸信に師事した。


田本憲吾: 2016年(平成28年)、市長時代の思い出や中川一郎とのエピソードをまとめた回顧録「柏州夢想」を自費出版した。


中川一郎の情報まとめ

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中川 一郎(なかがわ いちろう)さんの誕生日は1925年3月9日です。北海道出身の政治家のようです。

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人物・逸話、著作などについてまとめました。兄弟、姉妹、卒業、事故、事件、テレビ、結婚、趣味に関する情報もありますね。57歳で亡くなられているようです。

中川一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

中川 一郎(なかがわ いちろう、1925年〈大正14年〉3月9日 - 1983年〈昭和58年〉1月9日)は、日本の政治家。衆議院議員。自由民主党の派閥・中川派の領袖。正三位勲一等。 農林大臣(第49代)、農林水産大臣(初代)、科学技術庁長官(第35代)、原子力委員会委員長(第35代)。

「北海のヒグマ」と呼ばれ、タカ派議員として知られていた。財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)などを務めた中川昭一は長男。参議院議員を務めた中川義雄は実弟。

北海道広尾郡広尾町に農業・中川文蔵、セイの長男として生まれた。祖父・五八郎の時代に富山県福光町から北海道の広尾郡広尾村にある山奥の開拓地に移住した農民の出である。

出身地の広尾について、政治評論家の今井久夫によれば、「なにしろ広尾というところは北海道の中央を北から南に貫く日高山脈が太平洋に没するその海岸線の北に位置する小さな部落である。馬が生きながらクマに喰われるところであった。人々はその馬の泣き声を何度も聞いた。」という。

父・文蔵は14歳の時に北海道に渡り、道東の僻地を選んで開拓に従事した。母セイは山形県出身。子だくさんの文蔵とセイは一生懸命働き、一郎は両親からの北国の血が流れている10人の兄弟姉妹の長男とされているが、実際の長男の竜太郎は生まれて間もなく、いろりの火にころがり落ちて焼死し、長女のミヨも夭折、姉の節子、敏子のあとに生まれた男児のため、一郎と名付けられ、“長男扱い”された。

小学校2年生の時、父・文蔵は開拓地を離れて町なかに住み、雑貨商兼家畜商に転じた。学校での得意な科目は一貫して算数・数学であった。

豊似小学校時代の一郎は、小柄でおとなしかった。学校では勉強に精を出し、家に帰っては両親を助けて野良仕事に励んだ。

一郎の筋骨たくましい身体は、小さい時からの労働の名残である。

北海道庁立十勝農業学校、宇都宮高等農林学校(現・宇都宮大学農学部)を経て、1947年(昭和22年)9月、九州帝国大学農学部農業土木科卒業。農林省の役人を志望していたが、東京にいたのではメシが食えないと懸念し、志願して北海道庁に入った。

当初は家業を継ぐ予定だったが、広尾町会議員に出世した文蔵が北海道庁に陳情に出かけた際、ろくに相手にもされなかった口惜しさから、「お前は役人になれ」と言われ、両親思いの一郎は父の命ずるまま地方役人になった。

中川が北海道に戻った時、北海道は社会党の天下であり革新系の田中敏文が社会党に担がれて北海道知事に当選した。中川は可愛がってくれた教授が書いた紹介状を持参して、九州大の先輩にあたる田中のもとを訪れたが、来客が多くなかなか面会しようとしない田中にしびれを切らし、紹介状を焼いてしまった。

1951年(昭和26年)、北海道開発庁が設置され、開発担当官となる。昭和28年(1953年)大野伴睦北海道開発庁長官の秘書官を務め、大野に見出されることとなる。

大野長官はわずか7カ月の在職で、自民党総務会長に転じた。後任の長官は緒方竹虎で、副総理との兼務であった。中川はそのまま、緒方長官のもとでも秘書官を務め、第5次吉田内閣総辞職のあと、開発庁の開発専門官に異動させられた。

大野は1959年(昭和34年)、中川に「役人を辞めて俺の秘書になれ」と要請した。父・文蔵は大反対したが、大野に惚れ込んだ中川は12年間の役人生活に別れを告げ、身分の不安定な政治家秘書になる決意をしたが、文蔵は「こんな馬鹿な息子とは思わなかった。まあ交通事故で死んだと思って諦めるから、おまえの好き勝手にしろ」と突き放した。

1963年(昭和38年)、大野の勧めで旧北海道5区から第30回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選した(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・田中六助・伊東正義・藤尾正行・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮・三原朝雄など)。初代の後援会会長は幕別町の吉田菊太郎である。

1970年、佐藤栄作・田中角栄両首相から大蔵政務次官に任命される。1973年(昭和48年)には渡辺美智雄、石原慎太郎らと「青嵐会」を結成、若手タカ派として名を売った。福田赳夫に私淑し、後年は福田と政治行動を共にする。

1977年(昭和52年)に福田赳夫内閣を自民党国民運動本部長として支え、保守派の活動を通じて親交のあった作曲家黛敏郎に新たに立ち上げる党友組織自由国民会議初代代表に要請、受諾される。同年の福田内閣改造内閣で農林大臣(省庁改称のため、1978年7月5日より農林水産大臣)、鈴木善幸内閣では科学技術庁長官に就任した。

1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙で、福田が敗れ、12月6日に内閣総辞職をしたが、「予備選はインチキだ」として、農水相辞任に際し、福田内閣の最後の閣議で、内閣総辞職の署名を断固として拒否しぬいた。単なるポーズや嫌がらせでなく、大平政権誕生阻止のため、喧嘩師・中川一郎が最後の大博打に打って出たと思われた。

1979年(昭和54年)には石原、長谷川四郎、松沢雄蔵、長谷川峻らを結集して、自由革新同友会(事実上の中川派)を結成した。

1982年(昭和57年)10月の自民党総裁選挙・予備選に中曽根康弘、中川、河本敏夫、安倍晋太郎らが立候補した。当時は立候補に国会議員50名の推薦が必要であったため、福田派から安倍に投票する予定の議員の名前を借りての出馬だった。結果は、中曽根一人で全党員の6割近い支持票を集め、中川は最下位だった。この時期には後述するように奇行が目立つようになる。

総裁選後間もない1983年(昭和58年)1月9日、札幌パークホテル10階1022号室バスルームにて中川が死んでいるのを、妻の貞子が発見した。当初死因は「急性心筋梗塞」と発表されたが、2日後に「自殺」に訂正された。57歳没。

中川の自殺から間もなく、高知県にいた後藤田正晴官房長官には、1月9日午前の段階で北海道警察と古巣の警察庁のルートを通じて中川の自殺を知らせる急報が伝えられていた。急報を聞いた後藤田は中曽根康弘総理に電話でことの真相を伝えた後に、記者団に対して中川が急死したことを発表したが、その死因は遺族と中川の側近に配慮して伏せていた。

突然の訃報を聞いた堂垣内尚弘北海道知事が駆けつけている。 中川の遺体は、1月9日のうちに空路で札幌から東京の中川邸まで運ばれた。総裁予備選挙が終わってから中川は「夜、眠れない」と強く訴えるようになり、睡眠薬を服用していたという。 衆議院での追悼演説は安井吉典。墓所は渋谷区諦聴寺。

人物・逸話

性格

一般には「明るい中川一郎と怖い中川一郎の2人がいる」と言われていた。一方、中川を良く知る元秘書の鈴木宗男は、豪快さと繊細さが真の二面性と語っている。

愛称

愛称は、“北海のひぐま”、“十勝のじゃがいも”など。

今井久夫 1979, p. 109-110によると、「中川が福田の蔵相の下で、はじめて大蔵政務次官になった時、中川を“北海道のひぐま”と呼んだのは福田である。それまで中川は、北海道の地元では“十勝のじゃがいも”といわれていた。中川を見ているとやっぱり“じゃがいも”より“ひぐま”の方がぴったりする。以後、地元でも中川を“ひぐま”あるいは略して“くま”と呼ぶようになった。このように福田はアダ名をつける名人である」という。

思想

中川は自他ともに認める熱烈な国粋主義者で、反共主義者だった。

憲法9条改正論者

農林水産大臣であった1978年(昭和53年)10月6日、週刊誌などでの発言で解任された栗栖弘臣統合幕僚会議議長の「超法規発言」について、衆議院予算委員会で民社党の大内啓伍から見解を求められ、「憲法についても改正すべきだという議論があるということも十分耳を傾けなければならぬ」と述べた。

ペルソナ・ノン・グラータ

CIAの諜報活動により、上記のように表向きは反共を唱えながらも裏では親ソビエト政権の樹立を画策していたと見なされ、1983年1月首相の名代としてのアメリカ合衆国訪問に際し「ペルソナ・ノン・グラータに相当する」として入国拒否を通告された。こうしたことが彼の死にまつわる疑惑を形成することにもなった。

中川と酒

選挙にも酒にもけんかにも強い中川だったが、ある時期から、強いはずの酒が中川の人生を狂わせ始めた。酒飲み仲間の玉置和郎がその変わりようを証言する。

国会議事堂の敷地内で立ち小便しているところを写真週刊誌に撮影されたことがある。今井久夫 1979, p. 226によると、

という。

自殺説と他殺説

先述したように、公式には中川の死は自殺とされ、遺書は残されていないが原因としては「しゃにむにニューリーダーの一角に割り込み、13人の少人数ではあるものの、自民党に自分の派閥を作り上げて総裁候補にまでのし上がった。その過程で、人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺という形で爆発してしまった」というのが定説である。また中川の秘書から北海道選挙区選出参議院議員となった高木正明が、本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされ、死の2日後には火葬されている。しかし、遺書もなく政治家としては早急な火葬、また死因の変更などから、中川の死はいくつかの疑問点があるとして今もって議論されることがあり、特に他殺の可能性について指摘されることもしばしばあるが、当時第一秘書だった鈴木宗男を始め関係者一同は事実無根と主張している。

内藤國夫 1985, p. 251によると、

という。

なお、2010年10月、鈴木は中川が1975年7月に世界銀行の招待で南アメリカ諸国を歴訪する出発前日に全日本空輸の藤原経営管理室長と料亭で会食した際に、「餞別」として100万円を受け取ったこと、さらに後の東京地検特捜部による「ロッキード事件」の「全日空ルート」の捜査の過程でこのことが明らかになり、1976年8月に特捜部からの事情聴取を受けていたことを月刊誌『新潮45』の記事で証言している。鈴木は、このことを後の1982年に福田赳夫に追及されたことが自殺の原因となったとも記しているが、これに対しては中川の妻の貞子が否定している。

中川の死から5日後の1983年1月14日、東京のソ連大使館からモスクワに宛てたKGBの暗号電報に、ソ連のスパイであり、テレビ朝日専務だった三浦甲子二の話として「中川は明らかに他殺だ。CIAの手先に消された」と記されていたことが明らかになっている。ほか、「鈴木はCIAと結託して中川を収賄疑惑に引き込んだ」との記述も確認されている。

妻・貞子との関係

中川一郎と貞子が結婚したのは、1951年(昭和26年)7月9日。札幌市中央区南14条西4丁目にある弥彦神社で、神前結婚式が行われた。2人の結婚に当初から反対していた一郎の父・文蔵は姿を見せなかった。

中川の夫婦仲の悪さは、政界でかなりの程度知られていた。中川にとっては兄貴分的存在で政治の指南役でもあった金丸信は、

と述べている。

貞子は中川一族の血を憎むだけでなく、一郎の生活スタイルからスマートさのかけらもない“百姓あがり”のずんぐり、むっくりした武骨な体軀そのものまでを嫌った。

一方で皮肉なことに、中川一郎は「開拓農家出身であることを誇りにし、政治家になってからはその土着性、庶民性にあふれたムードを売りものにさえした」。中川夫妻は、「この一点だけでも“似合いの夫婦”の正反対、趣味から好き嫌い、人間の付き合いかた、生きざまとすべてが相反する、世にも稀なカップルであった」。

長男の昭一には兎唇の障害があったため、幼児期と東大を卒業してからと2度にわたり、兎唇であることがわからぬよう手術を受けた。したがってその跡はほとんど目立たなかったが、問題は1回目の手術の際、貞子のとった態度である。手術代を払えぬほど貧乏していたわけではないのに、「これはあなたがた中川兄弟の血に問題があるのですから、あなたがたでお支払いください」と冷たく言い放って、手術代を本家の中川正男に支払わせた。“マドンナ賢妻”に頭のあがらない一郎は、妻の冷酷な仕打ちに人知れず泣き、兄弟姉妹には「申し訳ない。我慢してくれ」と頭を下げ詫びて回った。

その他

北海道に生まれ育った中川だが、スキーができなかった。貧しさのためというより、病弱の母を助けて家事や牛馬の世話に追われ、学校から帰っても遊んでいる暇がなかったからという。

1988年(昭和63年)、故郷広尾町に中川一郎記念館が完成した。食肉卸業大手ハンナンの元オーナー浅田満は記念館の建設費として3億円支払っている。大学時代の愛読書だった河上肇の「貧乏物語」(岩波文庫)、初代大臣として自らが揮毫した農林水産省の看板のレプリカなどが展示されている。また敷地内には、片手を上げ軽く頭を下げて「ヨッ!」とあいさつしながら歩く、という生前お得意だったポーズの銅像が立ち、台座の揮毫は盟友であった安倍晋太郎の手になる。なお敷地の芝生は後にパークゴルフ場に改修された。

著作

論文

中川一郎「青嵐はなぜ必要か」『自由』第15巻第10号、1973年10月、178-186頁。 

中川一郎、末永基晴「自民党五つの改革と日本の春」『自由』第19巻、1977年11月、118-128頁。 (末永基晴の徹底対談 12)

中川一郎、小山内高行「米・魚からテロ・防衛まで」『自由』第20巻第9号、1978年9月、52-66頁。 

2024/06/13 19:26更新

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