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田丸美寿々の情報 (たまるみすず)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

田丸美寿々の情報(たまるみすず) ニュースキャスター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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田丸 美寿々さんについて調べます

■名前・氏名
田丸 美寿々
(読み:たまる みすず)
■職業
ニュースキャスター
■田丸美寿々の誕生日・生年月日
1952年7月1日 (年齢72歳)
辰年(たつ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
広島出身

(昭和27年)1952年生まれの人の年齢早見表

田丸美寿々と同じ1952年生まれの有名人・芸能人

田丸美寿々と同じ7月1日生まれの有名人・芸能人

田丸美寿々と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


田丸美寿々と関係のある人

頼近美津子: 『週刊宝石』1982年4月17日号は「第2の田丸・頼近を目指すテレビ局の新人美女を全角度品さだめ! ブラウン管に登場するフレッシュギャルを誌上紹介」というタイトルで、「いつの世にも、うら若き女性の"あこがれの職業"は存在するもので昨今の花形といえば、さしずめ、TV局の美人アナ(まだ「女子アナ」という言葉の使用は見られない)ということになろうか(中略)このところ、田丸美寿々と頼近美津子の人気はうなぎ登り。


大久保好男: フジテレビアナウンサーを務めた田丸美寿々は大学の同期。


頼近美津子: 同郷で父親がアメリカ生まれの日系二世、弟1人の4人家族というのも、後に慕った田丸美寿々との共通点である。


一城みゆ希: きょうふのキョーちゃん(田丸美寿々


堺正幸: 『シリーズ こんな生き方がしたい ニュースキャスター田丸美寿々』(板倉久子著、理論社)では、新人だった1975年に当時新宿区河田町にあったフジテレビ本社の正面玄関で撮影された新人アナウンサー5人が一列に並んだ写真が掲載されており、その写真には最前列から田丸、酒井、テレビ新広島の新人2人(神田康秋と池本良子)、そして最後部に堺が写っており、22歳だった当時の姿を見ることができる。


阿部知代: 元々、他局に比して女性アナウンサーの立場が不利であったフジテレビだが、特に報道では1978年に阿部の11期先輩の田丸美寿々が初めてニュース番組の司会に抜擢されたものの、1980年代になっても女性アナウンサーが一人でニュースを読む事はなく、『FNNレインボー発』等のフジテレビの定時ニュースは長年にわたり男性アナウンサー限定の仕事であった。


一条みゆ希: きょうふのキョーちゃん(田丸美寿々


城ヶ崎祐子: フジテレビの先輩である田丸美寿々も同じ東京外国語大学外国語学部英米語学科出身である。


大島典子: 日テレなのに「フジテレビの田丸美寿々さんが目標です」と公言。


小出美奈: 先輩・田丸美寿々、頼近美津子については「気さくで優しいお姉さま。


逸見政孝: その後、逸見は共演の田丸美寿々とともに、様々な現場へ取材に出向く。


神田康秋: 系列局の同期入社に元フジテレビアナの堺正幸、酒井ゆきえ(現・タレント)、田丸美寿々(現・ニュースキャスター)、和田圭(元記者)、伊藤治明 (元北海道文化放送)、浅見博幸(元仙台放送)、小笠原和人、坪郷佳英子(共に元福島テレビ)がいる。


堺正幸: 同期は和田圭、田丸美寿々、酒井ゆきえ。


頼近美津子: 加賀美幸子の『7時のニュース』も同月から放送開始(頼近と加賀美がNHK初の女性キャスター、民放では1979年4月から始まった『FNNニュースレポート6:30』の田丸美寿々が女性キャスター第1号)。


田丸美寿々の情報まとめ

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田丸 美寿々(たまる みすず)さんの誕生日は1952年7月1日です。広島出身のニュースキャスターのようです。

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テレビ、卒業、結婚、父親、母親、事件、現在、事故、退社、離婚、引退、ドラマ、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。田丸美寿々の現在の年齢は72歳のようです。

田丸美寿々のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

田丸 美寿々(たまる みすず、1952年(昭和27年)7月1日 - )は、日本のニュースキャスター、テレビ・アナウンサーである。日本ニュース時事能力検定協会理事、早稲田大学大学院政治学研究科非常勤講師。身長163cm。

フジテレビ勤務を経て、1983年からはフリーとして活動している。

広島県高田郡八千代町(現・安芸高田市)出身。埼玉県立川越女子高等学校、東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業(1975年)。

「女性報道キャスターの草分け」、またフジテレビアナウンサーを経てフリーに転身して成功、「女性フリーアナウンサーの草分け」でもあり、同時に、略奪結婚で話題となって「不倫女子アナの草分け」ともいわれる。また、頼近美津子らとともに、女性アナウンサーのタレント化といわれる「女子アナ」、「美人女子アナ」といわれる存在の先駆けでもあった。

著書、翻訳多数。

祖父は若い時、一旗上げようとアメリカ合衆国に渡り貿易商をしていた。父親はアメリカで生まれ、帰国後高校教師、母親も小学校教員であったが、美寿々が生後8ヶ月の時、父は職を辞し単身英語の勉強を目的にアメリカに留学。父親はサンノゼ州立大学卒業後、サンフランシスコで邦人向けの新聞記者職を得た。それに伴い美寿々は母親と共に渡米、5歳からの5年間をカリフォルニア州で過ごす。アメリカではシスコの急坂をローラースケートで疾走し「ローラースケートのジュディ」と異名をとるお転婆娘だったという。父親がアメリカ生まれの日系二世というのも頼近との共通点である。頼近とはライバル視された時期もあったが、大学の先輩後輩の間柄で頼近が田丸を慕っていた。

小学校4年の時、父親が日本のNHK国際放送に就職したため帰国し、初めは東京都小金井市、中学校から埼玉県草加市、以降はフジテレビ在籍中まで所沢市に居住した。これは昭和30年代後半のことであり、いわゆる帰国子女のはしりだったともいえる。アメリカでも日本語を勉強していたが、学校では広島弁を笑われて苛められ、高熱が続いて登校拒否にもなった。自分が少し解放されたのは大学に入ってからという。

大学卒業後は海外進出企業に就職して、海外に駐在するのが夢で、三井物産など数社から内定をもらっていたものの、持ち前の好奇心から学内の掲示板を見て、興味本位から親に内緒でフジテレビへも応募。当時はまだ「男女雇用機会均等法」もなく、入社試験で、女子学生に聞く質問と言えば「お茶くみはやりますか」といった内容ばかりだったが、フジテレビの面接では、とても手応えのある質問をしてもらい、真剣に自分の話を聞いてくれたことに感激した。こうして当時低迷期にあった同局の就職試験に合格し、1975年に報道局解説放送室付リポーターとして入職した。2000人の受験者で大卒の採用は3名だった。

当時のフジテレビでは、正社員以外のアナウンサーをリポーター(記者)と呼んでいたが、田丸はこのリポーターとしての入職で、身分は一介の契約社員だった。同期入局には、後の同局アナウンス室長になった堺正幸や、報道局解説委員の和田圭、フリーアナウンサーになった酒井ゆきえらがいた。

フジテレビに入社した女子アナの最初の仕事は"お茶汲み業務"で、女子アナは男性社員一人一人の珈琲にクリームひとつ、砂糖を2つとかのお茶の好みを全部覚えなければいけなかった。田丸は「そんなの一覧表にしとけばいいじゃないですか」と言ってのけた。

「重要なニュースは男が読まなければ信頼されない」「女の声でニュースを読んだって信憑性がない」「女のくせにニュースをやりたいのは生意気だ」などと思われていた時代、ニュースをやっている人はみんな、ここは男の世界だと自負しており、女が入るということに、相撲の土俵に女が上がるぐらいに拒否反応など嫌悪感を示す人もいた。女性アナウンサーの出番は、街の話題やお知らせなど、業界で言う「暇ネタ」とか「ヤワネタ」の担当、天気予報、番組司会者のアシスタントなどだった。当時は女性アナウンサーは勿論、女性記者、カメラマン、ディレクターなど、女性そのものの姿が報道の現場になかったという。当然、ニュースを取材したり、ニュースに近い距離で関わる女性はいなかった。当時はそれが普通で、田丸本人もアナウンサーを長くやるとは思わず、それを差別とも思わなかったと話している。このような古い風習を打ち破ったのが田丸だった。1986年の「男女雇用機会均等法」の改正施行に合わせて女性たちもどんどん職場に進出していき、社会が女性を無視できなくなった。「ちょうど女性に報道現場の門戸が開かれる過渡期に入社したんですね。もっと前だったらそんな重い扉はとうてい開かないと思って辞めていたかもしれないし、もっと後だったら、すごい先輩たちがたくさんいて、私なんか入り込める余地がなかなかなかったかもしれません。70年代から80年代はちょうど女性の時代といわれ、報道に限らず、いろんな分野で女性がかかわっていくところが広がっていって、毎日がすごく新鮮でした。今日できなかったことが明日できる、今日会えなかった人に明日会える、今日行けなかった現場に明日行ける…とか。日々開けていく感じで楽しかったです」などと述べている。入社時、「報道をやりたい」と当時の鹿内信隆会長に直訴すると半年間、お茶くみやコピーとりばかりの閑職に追いやられた。同期の酒井は、『ママとあそぼう!ピンポンパン』の担当となっていたが、田丸にようやく決まったのが『FNNニュース』の天気予報だった。入局2年目の1976年にはロッキード事件が発生したが、田丸は天気予報中に自由民主党の内部抗争の話題を引き合いに出し、政府筋から猛抗議を受けることになった。

その後、天気予報や『3時のあなた』のアシスタントを1年半務めた田丸は1978年10月、『FNNニュースレポート6:30』へ先輩の逸見政孝と共にメインキャスターとして抜擢された。これはフジが報道を強化するという方針によるもので、日本のテレビ史上初めて女子アナをメインに起用したケースだった。「逸見がとにかく現場に行って生の声を伝えようとしたので、田丸も時に強引な突撃取材を行う。デカのように一晩中張り込んだりもした。「女だって粘るじゃん、女だって現場に行ってやれるじゃん」と少しずつ思ってもらえるようになったという。そのうち、記者でもカメラの世界でもガッツのある女性が少しずつ出てきて、やらせてみたらとなってきた。「男のように考え、レディーのように振る舞い、犬のように働け」というアメリカのキャリアウーマンのスローガンが好きで、私の仲間たち、友達といつもこの言葉を繰り返しながら、頑張っていたという。最初の扱われ方は確かに酷く、今でいえばセクハラもいいところの職場だったが、それが少しずつ変わっていった。80年代は少しずつ女性の関わる範囲も広がり、女性が活躍する場が広がってきて、どんどんやっていく仕事の質も上がってきて、すごくワクワクした時代でした」などと述べている。当時はまだアナウンサーが取材することが珍しい時代で、やりすぎて自民党や警視庁からお叱りを受けることもあったが、その美貌は入社時から評判で、そんな彼女が現場で体当たりリポートする姿はたちまち評判になり、一躍、時代の寵児となった。逸見は田丸を評して「女だからといって、引くという部分のない人」「この番組に強烈なイメージを持たせたのは田丸美寿々さんであり、報道番組における女性の位置を考える時、彼女の果たした役割というのははかりしれないものがある。当時、アナウンサー、レポーター採用試験の際に『田丸さんのようなキャスターになりたい』という女性志願者の声が、どんなに多かったか。彼女は、さまざまな意味で個性的な女性でした。今まで私が一緒に仕事をした女性の中では傑出しています。彼女は十年に一度、あるいは二十年に一度出るかどうかの逸材であろうと思います」。

1980年4月にNHK初の早朝ニュースショー、『NHKニュースワイド』で、初代女性キャスターとして頼近美津子(森本毅郎とのコンビ(平日)、土曜日は山根基世と明石勇)が、同じ月から加賀美幸子が『7時のニュース』でメインキャスターとなる。田丸はフジテレビ女性キャスター第1号であり、業界全体でも女性キャスターの草分けである。森彬大フジテレビ第3制作部長は「美寿々はいかに相手からホンネを引き出すか、努力を怠らない人です。日本最初の女性テレビ・ジャーナリストと言っていいんじゃないかな。酒を飲めば猥談も平気でするし、ざっくばらんな女ですよ」などと評した。長野智子は「憧れの田丸美寿々様。かつて田丸さんのキャスター姿に憧れ、報道キャスターを目指しました」と話した。田丸のフジテレビで6年後輩にあたる山中秀樹は「女子アナはあくまでもサポートという立ち位置でしかなかったのですが、田丸さんが報道でキャスターを務めるようになってからは文化が変わりました」と評している。当時の女性アナウンサーは主婦層から反感を持たれてはいけない、控え目でやさしそうで、さわやかで原稿をトチらないことが求められ、田丸も自己嫌悪の毎日で苦しんだと言うが、「私は私でしかないし、読みの上手いアナウンサーはNHKに任せればいい」と開き直った。また髪も小じんまりした頭(髪型)が女子アナの慣例だったが、長い髪が好きだったから「好きにしちゃえ」とファラ・フォーセットみたいなハイレイヤーロングに適度なパーマ、高級クラブのチーママみたいな妖艶な雰囲気でテレビに出て特に「出勤前のママ」などと揶揄され、主婦層から反撥を買った。しかし話は鋭く分かりやすい、自分の意見も堂々と主張することから「同じニュースを見るなら美魔女のほうがいい」という男性層には支持された。田丸は女性キャスターの時代へ突入する草分け的な存在となった。主婦層から反撥を買った。こうした抑圧から『FNNニュースレポート6:30』の最終週には目いっぱい夜遊びしていたという。女性アナはそれまで「30歳定年」といわれていて、それを変えたのが田丸だった。『FNNニュースレポート6:30』では、キャスターが現場に出向いてリポートする新しい手法がとられ、田丸も中川一郎や笹川良一、武見太郎ら、大物とされる人物に直撃インタビューを行った。笹川には開口一番「あなた、評判悪いですねえ」と言われたが、決して笑わず、ギョロ目から下だけ苦笑いした。こうした相手に田丸は、言葉じりをひとつひとつ捉えて揶揄する形で、さらに言葉を引き出そうという手法を取ったため、相手が激昂し「やり過ぎ」「最も聞きたい筈の本質についてアプローチ出来ていない」などの批判を受けた。田丸は『噂の眞相』1982年6月号のコラムで「ただがむしゃらにやるうちに世間では"本音に迫る"とか"スッポンの美寿々"が定着しはじめたようである。しかしこんな未熟者のやっていることが"本音"を突いていたり"スッポン"のように喰らいついているといえるのだろうか。もしそうであるなら今までのテレビにはよほどきれいごとで済ませる奥ゆかしい控え目な女性アナウンサーしかいなかったのだろう。カッコよくいえば奥ゆかしいのだろうが、極言すればプロ根性が希薄であるとも言える。視聴者の尖兵として送り込まれた報道アナは、マイクを握ったことだけで重責を担うのである。専門家には『そんなことも分からんのか』とアホ呼ばわりされても、単純に納得できないことには喰い下がるべき使命を負わされているのである」などと述べている。この記事に書かれた浜田幸一、笹川良一、渡辺美智雄の批判は活字に出来ない程酷い。

1981年3月に出した初めての著書『薔薇は荒野に咲け』刊行にあたり「テレビは一望の荒野ーからもじってタイトルをつけました。女性アナウンサーの数も増え、画面の花なんていわれて、自分でバラになったような錯覚を持つけど、温室育ちのひ弱なバラじゃいけない。地面に足をつけて荒野に野性的に咲け、と言いたかったんです。今は私がインタビューに行ったら『あっ、女性がインタビューに来た。面白いな』と思われて、現在、女でトクしている部分があるとすれば、いずれそうでなくなると思います」などと話した。2008年のインタビューでは「フジテレビでニュースをやっている頃は、まだまだテレビジャーナリズムはなかった。確立されていませんでした。新聞や活字ジャーナリズムの情報をもらって、映像を付けているだけ。キャスターだって新聞社から来ていて、新聞社の子会社みたいでした。活字ジャーナリズムがまだまだ優位で、活字の人から教えてもらうということでした。それを考えると、テレビの影響力とはいわないが、影響度は活字をしのぐほどになってきているのではないでしょうか。テレビジャーナリズムは屈辱を乗り越え、活字ジャーナリズムの呪縛から解き放たれたと思います。エポックメイキングだったのは、磯村尚徳さんの『ニュースセンター9時』(NHK)でした。キャスタージャーナリズム、テレビジャーナリズムの最初であり、それをアップグレードさせたのが、久米宏さんの『ニュースステーション』(テレビ朝日系)だったと思います。あのあたりから、活字ではない、テレビを通じてどう報道していくかというスタイルをやっと見つけた、確立したといえます。それまでは、テレビニュースは視聴率もとれず、そこから何かを得ようというより、まともな情報は新聞で得ようという時代でした。テレビにおけるニュースの手法が確立されてから視聴率も少しずつ上がっていきました。時間枠が長くなるとともに手法や演出が確立されていく。するとスポンサーがつき、制作予算も上がるという良い循環で、テレビの報道番組がどんどん充実していきました」などと述べている。

1981年4月、頼近がフジテレビに引き抜かれて鳴り物入りで移籍してきたが、この移籍を手引きしたのは、同郷で大学の先輩・後輩の関係でもある田丸であった。元々、アナウンサー志|週刊サンケイ1981219望だった頼近は、大学時代から先輩の田丸に就職先など相談していた間柄であった。頼近がフジテレビ史上初の女性正社員となったため、機構改革が行われ、ようやく田丸らもアナウンサー(正社員)という身分になった。1981年7月、頼近と共にフジテレビ代表としてダイアナ妃結婚の衛星中継をロンドンからレポート。このとき、内輪のパーティで野球拳をやり、負け続けてヌードになった。この事件はすぐに伝説化し、当時のマスメディアに「ロンドン野球拳事件・田丸アナが全裸に!」などと、大々的に報道されたため、会う人会う人から言われ、江川卓からも「野球拳やりましょう」と言われた。広島の親戚一同が心配し、「美寿々ちゃんはテレビに出んとハダカになっとるんじゃ」などと電話してきたという。田丸は「ちなみにまだ新人の私に野球拳の醍醐味を教えてくれたのは露木アナである」と述べている。

1982年2月に発生した日航機事故の取材の際、機長に事故発生当時の心境を聞こうと、警察が張っていた立入禁止のロープを越えて病院から出てきた機長に突撃取材を敢行したが、警察はこの予想外の取材姿勢に対し、フジテレビに警視庁記者クラブへの出入りを5日間禁止する処分を下した。

『FNNニュースレポート6:30』を3年半務めた後の1982年4月1日から、17年間続いた『小川宏ショー』の後番組『おはよう!ナイスデイ』のアシスタントに抜擢される。田丸人気の高まりでの起用であった。夜の顔から朝の顔、地方区から全国区への転身に、取材申し込みが100本以上殺到し、フジテレビ広報史上初めてと騒がれた。当時は女性が社会的に評価されるような時代でないため、田丸は「今女性が何かやって評価されるのは。報道が残された一つのジャンルじゃないか」と考えていた。自分で取材し、感じたことを体を通して表現するというのが一番向いている、ジャーナリストしか道はないという感じていたため、長くテレビに出ることに固執していなかった。『おはよう!ナイスデイ』も報道色の濃いものにしたいと考えていたが、実際に視聴率を取るのは芸能ニュースで、葛藤があった。同年5月13日放送の同番組内で日航機事故で慈恵医大から東京警察病院多摩分院に移送される機長をリポートし「一種の晒し者という感じがするんですよね。警察も何もここまで歩かせる必要ないんじゃないかな」と発言。これが勇退間際の今泉正隆警視総監の逆鱗に触れ、日枝久編成局長が警視庁に頭を下げる騒動になり、田丸自身も大目玉を喰らい、さすがの才女もシュンとなり、記者会見でも「反省しなくっちゃ」としおらしい発言に終始した。天真爛漫な問題発言・行動を繰り返す田丸に局内でも"田丸降ろし"の声が上がったが、大勢は田丸擁護論。特に宇留田俊夫プロデューサーが「ハラハラさせられますなあ。でも彼女の持ち味は本音で喋ることです。天真爛漫なところがいい。これからも活躍させます」とバックアップを表明。マスメディアでは「もう一度騒動を起こしたら小川宏が復帰するかも」と皮肉られた。

「女子アナ」という言葉の初出と見られるのは『週刊宝石』1982年10月29日号であるが、同記事は田丸と頼近美津子、山村美智子を取り上げた記事だった。

1982年、田丸が妻子あるジャーナリスト・美里泰伸と不倫関係にあることが報じられた。田丸と美里は翌1983年2月17日に 赤坂日枝神社で結婚式を挙げた。当時美里の妻が妊娠中であったことが報道された。田丸は、「(美里泰伸を前妻から)奪ったのではなく、譲ってもらった」と述べている。1983年1月31日に田丸は山田祐嗣アナウンス部長に退社を申し出た。これに対して日枝久編成局長も慰留につとめたが、田丸の辞意の意思が強く引きとめを断念。こうなるとフジテレビ幹部は田丸がフジへの不満を洗いざらいぶちまけないと恐れた。このため森彬大フジテレビ第3制作部長が「辞める理由が個人攻撃ではいろいろ差し障りが起きるから、記者会見ではそれは言わないで欲しい」と田丸に頼み、田丸もそれは了承していた。

1983年2月2日に田丸の退任記者会見が行われ、同年3月末をもってフジテレビを退職することを発表した。担当していた『おはよう!ナイスデイ』は1983年に入って視聴率が上がり、同局編成局長・日枝久も「結婚は個人の問題。番組は4月以降も続けてもらう」と話していて、田丸の契約は3月で切れるもののフジテレビは4月以降も起用の方針であった。田丸は急転直下の電撃退職だった。退社会見には日枝も同席したが、宇留田俊夫プロデューサーが田丸の牽制に会見場に姿を見せたことから、これに気付いた田丸が暴走機関車と化し、「私の結婚に関して、意図的とも思える、イメージダウンを狙った妨害工作を受けました。具体的なことですか?それはあなた方が調べればお分かりになることです。不信感が生じたのは突然ではありません。かなり以前から継続的に蓄積されたものです。時期は私たちの結婚の話が表面化したころからです。昨年の12月あたりからもうあのプロデューサーとは一緒にやっていけないなと思いました」とぶちまけた。会見場の『おはよう!ナイスデイ』のスタッフも「おい、言っちゃったぞ!」と驚いた。前述のように『おはよう!ナイスデイ』に田丸を抜擢したのは宇留田プロデューサーで、宇留田は田丸の後ろ盾の一人だったのだが、田丸が美里との交際が発覚すると関係がギクシャクした。また田丸が『週刊文春』に寄せた手記で、テレビ局の人間は活字媒体の人間より薄っぺらいかのように論断したことが番組スタッフと溝が出来た原因ともいわれる。2月4日、日枝編成局長は「本人がプロデューサーに対する不信感に陥り、番組を降りると公表した以上、このまま番組に出演することは、番組の信頼感を欠くことになる」と判断を下し、田丸は1983年2月7日をもって担当番組の全てから降板し、約40日間の長期有給休暇に入った。最後の10日間でフジテレビの各部署に挨拶回りを済ませると、予定通りに同年3月一杯で同局を退社した。関係者は「4月以降も仕事をもらうと局で言ったのは表向きです。既に田丸を切るという結論は出ていたと思います。その結論を出したのはいうまでもなく、鹿内春雄副社長です。その直系の宇留田くんが環境作りをやった。田丸がやめると自分から言わざるを得ない状況を作っていった。彼女がまんまとそれに乗った。いや乗ったのは美里の方だ。組織が巧妙に仕組んだワナを彼は見抜けなかった。そういう男を愛してしまった田丸がかわいそうだとも言えるけどね」と解説した。

田丸は「私にフジテレビでの8年間は放電そのものの毎日であった。この放電によって"田丸美寿々"には、一定のイメージとある種の"虚名"が作られたように思う」などと述べた。

1983年3月31日付でフジテレビ退社して独立すると、退社翌日にゲスト出演した『モーニングジャンボ奥さま8時半です』(TBS)から田丸は結婚後の本名である「美里美寿々(みさと みすず)」の名前で、フリーランスのアナウンサーとしての活動を開始した。

1985年からは、客員研究員(国際関係論)として、アメリカ合衆国・ニュージャージー州のプリンストン大学に約1年間留学したが、これには夫・美里も付き添って同地に滞在した。

翌年帰国した田丸は初め、テレビ朝日と専属契約を締結、同局の番組、『モーニングショー』、『ザ・スクープ』、『ナイトライン』、『朝まで生テレビ!』、『ザ・ニュースキャスター』などに出演した。これらの活動を通して、田丸は女性フリーキャスターの草分けともなった。1986年、フィリピンの2月革命直後のマニラに乗り込み、就任直後のアキノ大統領にインタビューを敢行、日本大使館の強いバックアップもあって世界のメディアに先駆けこれを成功させた。『ザ・スクープ』でコンビを組んだ鳥越俊太郎は、「田丸さんとCMに入ると、2分くらいずっと言い合いをしましたね。『あんた喋りすぎだ』とか。限られた尺のなかで、田丸さんと時間の取り合いになるんです。僕がモタモタ話してたから、イラついたんでしょう。ある日、番組が終わって僕がメイク室で鏡を見ながら化粧を落としている時、彼女がこう言ったことがありました。『鳥越さん、一度しかいわないから聞いてよ。あなたは30秒のコメントに血を吐いてない。私たちアナウンサーは5秒あれば大抵のことはいえる』と言った。この時ばかりは僕も殺意を覚えました。でも後になってから彼女の言っていることが正しいと分かりました。殺さないで良かったですよ(笑)。そういう意味では感謝しています」と述べている。

1991年美里泰伸と離婚した際にもマスコミの関心が集まった。美里は手記を発表したが、田丸は沈黙を通した。テレビ朝日との専属契約を1994年に解消した田丸は、新たにTBSとの間に専属契約を締結、同局の報道番組 『報道特集(2008年4月から2010年3月までは『報道特集NEXT』)』の総合司会を2010年9月まで務めた。また、選挙報道特別番組にも司会として度々出演した。

TBSの「報道特集」のメインキャスターを2010年9月末で降板、母親の介護に専念しており、事実上、テレビキャスターを引退している。

林真理子『幕はおりたのだろうか』の主人公・荻野夏美は田丸がモデル。本著は1990年にテレビ東京で『女キャスター物語』としてテレビドラマ化された(テレビ東京日曜9時連続ドラマ)。

活動名は結婚中は「美里美寿々(みさと みすず)」とし、離婚後は「田丸美寿々」に戻した。

選択的夫婦別姓制度導入に賛同する。「反対派の議論は、社会の現実と合わない現在の法律を守ろうとしている」と反対論者を批判する。

フジテレビ在籍時に初めて他局に出演したのは1982年7月31日放送のテレビ朝日『鉄矢のにっぽん人国記』だった。ホストの武田鉄矢が、日本人の県民性をその土地出身の著名人を毎回ゲストに招いて浮き彫りにしていくというトークショーで、番組プロデューサー・上村道也が「言いたいことをいい、時にそれが失言を招く田丸さんは、幼い時に広島を離れていますが、うがった見方をすればそれが県民性に結びつけられるのではないか」と出演を交渉し、他局への出演をフジテレビも快諾したことから、田丸はその第5回放送に同郷の坂田明とともに出演し、広島人気質を語った。「広島の卑弥呼」と武田からおだてられたが、「広島カープも昔のように弱いと一生懸命応援するんだけど、今みたいに強いとちっとも応援する気にもならないですね」などと歯に衣を着せない発言を繰り返した。

フジテレビ在職時代

フリーランス時代

おもしろクイズBOX(日本テレビ、1983年9月12日 - 1985年3月、アシスタント)

テレビ朝日専属契約時代

ニュースステーション(レポーター) - 不定期出演

スポーツフロンティア(1991年4月 - ニュースコーナー、1992年4月 - メインキャスター) - いずれも1993年3月までの担当

TBSテレビ専属契約時代

はなまるマーケット(番組コーナー『とくまる 主婦の検定』) - 日本ニュース時事能力検定協会理事でのVTR出演

ここがヘンだよ日本人(ゲスト)

みのもんたのサタデーずばッと(コメンテーター) - ジャーナリスト側での出演

水曜プレミア・島田紳助の国民的潜在能力検定 PQテスト(パネリスト)

ドリーム・プレス社(ゲスト)

みのもんたvs国会議員ずばッとコロシアム春(2007年3月3日放送、ゲスト)

JNN50周年記念 歴史大河スペクタクル 唐招提寺1200年の謎〜天平を駆けぬけた男と女たち(2009年11月3日放送、ナビゲーター)

乱!参院選2010(2010年7月11日放送、アンカー) - 第3部~第5部での出演

1999年度 放送ウーマン賞(主催:日本女性放送者懇談会)

薔薇は荒野に咲け(1981年、東京白川書院)

面白おしゃべり術(1982年、青春出版社・プレイブックス)

美寿々の"アイデア・リフォーム"の本 新おしゃれ感覚 誰でも簡単、何でもつくれる(1984年、文化創作出版)美里美寿々 名義

美寿々の女の子だけの英会話(1984年、アイペック)美里美寿々 名義

美寿々の気まぐれエッセイ(1985年、双葉社)美里美寿々 名義

女の転機は三度ある(1987年、主婦と生活社)美里美寿々 名義

可愛い女はちょっと生意気 もっと大胆素敵に生きるための提案(1987年、祥伝社 ノン・ブック)美里美寿々 名義 のち1994年、PHP文庫

「恋と仕事で素敵になりたい」あなたに "いい顔"になるために、今しておくべきこと(1991年、大和出版)美里美寿々 名義  のち田丸で新版、「本当にやりたいことのために、今しておくこと」PHP文庫

男の空模様(1993年、マガジンハウス)

言葉のおしゃれ365日 あなたの魅力を倍加させる「話し方」ノート(1996年、三笠書房)のち「働く女性の会話のおしゃれ」知的生きかた文庫

自分らしさが愛される 幸せの選択・7つのステップ(1996年、大和出版)

20代のあなただからできること 自分を好きになる7つのステップ(1999年、大和出版)

本当にやりたいことのために、今しておくこと(2004年、PHP研究所)

編著『知的で素敵な女性のためのちょっと気のきいたものの言い方』(1993年、三笠書房)

テレビ朝日「ザ・スクープ」取材班共編『死刑の現在 今、何が行なわれているのか ザ・スクープ徹底取材』(1994年、太田出版)

編著『働く女性のちょっと気のきいたものの言い方』(2003年、三笠書房・知的生きかた文庫)

デボラ・タネン『わかりあえない理由 男と女が傷つけあわないための口のきき方10章』(1992年、講談社)※金子一雄共訳

ミーブ・ハラン『キャリアマザーの選択』(1994年、飛鳥新社)

デボラ・タネン『「愛があるから…」だけでは伝わらない わかりあえるための話し方10章』(1995年、講談社)のち2003年『わかりあえる理由わかりあえない理由』(講談社+α文庫)

ソニア・フリードマン『自分を信じて生きてみよう 人生を変えるための第1歩を踏み出す方法』(1995年、大和書房)

ソニア・フリードマン『賢い女はいつも前向き 変化を恐れず、自分を変えていこう!』(2000年、大和書房)

デボラ・タネン『どうして男は、そんな言い方なんで女は、あんな話し方 男と女の会話スタイル9 to 5』(2001年、講談社)※金子一雄共訳

デボラ・ナッキー『あなたはお金が貯まらないA子さん?上手に使うB子さん?』(2003年、三笠書房)のち知的生きかた文庫

^ 田丸自身「そもそも当時はまだ女性キャスターそのものがなかったですから」と述べている。佐藤正志は「田丸さんは、女性ジャーナリストとして道を切り開き、テレビジャーナリズムの基盤を作ってこられた」と評している。

^ 田丸を「美人アナ」と形容した記事は『週刊平凡』1981年4月2日号(「田丸美寿々vs頼近美津子 おふたりとも名前に"美"がつくだけあってルックスも満点。その美人アナふたりの華麗なる女の戦いが始まる…」)、『報知新聞』1982年6月11日付(フジテレビの美人アナ、田丸美寿々が初めて他局の番組にゲスト出演する…)。『週刊宝石』1982年10月29日号(「なぜか、そろって名前に"美"がつく3美人アナ。実力勝負の田丸、オーソドックスな頼近、ハチャメチャぶりで人気の山村が三者三様の大活躍…」などに見られる。和田アキ子は1983年の著書『和田アキ子だ 文句あっか!』で、女性アナウンサーの美人化、タレント化について、田丸をその嚆矢として言及している。

^ フジテレビアナウンス部は、正式には『解説放送室』という報道部の直轄だった(週刊ポスト2009年7月31日号 46頁。

^ 1981年1月にフジテレビが頼近をフジテレビ初の女性の正社員として迎えられたことを機に、田丸たち女子アナなど社内の契約社員たちが全員、正社員になった。

^ もっとも、日本テレビでは青尾幸や小池裕美子、石川牧子など田丸の前から夕方のニュースでキャスターを務めた女性もおり、業界全体で田丸が明確に"第1号"と言えるかは不透明である。

^ この年、千葉大女医殺人事件などで田丸がレポーターとしての本領を発揮し、視聴率は10%を超えて同時間帯民放番組のトップに躍り出ていた。

^ 美里との不倫は発覚した際に、『おはよう!ナイスデイ』のスタッフから陰に陽に精神的な圧迫を受け、番組スタッフとの信頼関係が失われた、その元凶は宇留田俊夫プロデューサーです、とマスメディアにぶちまけていた。「私の結婚に関して、意図的としか思えない情報の流布など、結婚の妨害工作があったんです。その方とはもう一緒にやっていけない。それは一緒に続けろという会社の方針に相反するのだから、会社を辞めることにしたんです」と話した。妨害工作について具体的には会見で話さなかったが、芸能誌では「宇留田俊夫プロデューサーが『番組のイメージダウンにつながるから、離婚を成立させてから知り合ったという風に発表してくれ』と私たちの結婚問題に干渉してきた」などと話した。「プロデューサー以外のスタッフとの軋轢はまったくない」と話したが、プロデューサーを含むスタッフとの間に溝を深め、修復できない所までいったのではないかと評せられた。美里泰伸はメディアに対して「宇留田は許せない。結婚は人権です。守らなければいけない。男を飛ばして仕事を取るか…そういうところまで美寿々は追い込まれていたんだ。われわれのイメージダウンにつながることをマスメディアに流すヤツです。ぼくは彼を名誉棄損で訴える気持ちもあるんだ」などとぶちまけた。

^ 瀬川至朗 (2008年3月31日). “Jオピニオン 田丸美寿々インタビュー 『女性とテレビジャーナリズム』”. ジャーナリズムコース JOURNALISMSCHOOL. 早稲田大学大学院政治学研究科. 2012年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月8日閲覧。

^ 「週刊サンケイ」1981年2月19日号、24-25頁

^ 山際淳司「ヒューマンウォッチング人間観察誌No.38 美人レポーター、突撃の春 田丸美寿々」『週刊サンケイ』1982年4月15日号、50-53頁

^ 「スペシャル・インタビュー第40回 田丸美寿々 『ポルノ映画に出演してくれって話があったのよ!もう少し若い頃ならね、ウフフッ No.1 美人キャスターが語る野球拳事件の後遺症、自由奔放な男性観、ジャーナリストへの挑戦… 』」『週刊明星』1982年4月15日号、集英社、40–45頁。 

^ “田丸アナ初の他局出演 武田鉄矢と対談 テレ朝『人国記』ゲスト”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 19. (1982年6月11日) 

^ 「「家」の履歴書(283) 田丸美寿々(ニュースキャスター) 『「家」幻想は離婚とバブルと共に消え』」『週刊文春』2000年6月29日号、文藝春秋、146–149頁。 

^ 「美人アナウンサー・ライバル戦争 田丸美寿々VS頼近美津子 大学の先輩・後輩、よく似た境遇のふたりが同じテレ簿局で火花を散らす! 軍配は、どちらに?」『週刊平凡』1981年4月2日号、平凡出版、174–177頁。 

^ 2014年05月08日の記事 | 山村美智 Official Blog アーカイブ 2015年11月6日 - ウェイバックマシン

^ 日本初の女子アナ 1年で退社し9年後年下男性と心中した(NEWSポストセブン)

^ “田丸美寿々70歳が美しい!若々しい!長野智子がツーショット「いつお会いしても凛」”. デイリースポーツ (神戸新聞社). (2022–09–24). オリジナルの2022年9月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220924080210/https://www.daily.co.jp/gossip/2022/09/24/0015666494.shtml 2024年3月8日閲覧。 

^ “SPECIAL REPORT:キャンパスナウ:教育×WASEDA ONLINE”. 読売新聞オンライン. 読売新聞社×早稲田大学 (2008年3月31日). 2009年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月8日閲覧。

^ 田丸美寿々さん: わたしと司法 | 関東弁護士会連合会

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^ 二田一比古 (2021年3月19日). “芸能記者稼業 血風録 田丸美寿々、小宮悦子、安藤優子 草分け3人の共通項は不倫”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 日刊ゲンダイ. 2021年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月8日閲覧。

^ “指南役のTVコンシェルジュ第23回 「女子アナの歴史」(前編)”. チェリー 永遠のオトナ童貞のための文化系マガジン. トレンダーズ (2017–07–21). 2023年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月8日閲覧。

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^ 「不倫女子アナの全歴史」 『週刊現代』 (講談社) 2008年8月23・30日号、25-27頁

^ 「不倫したい女子アナ」調査 杉浦友紀、田丸美寿々らが人気

^ 「女子アナ体張りすぎ!30年史」『FLASH』、光文社、2013年9月10日、p.50、2014年5月17日閲覧。 

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^ 和田アキ子「これからがおたのしみ。アナウンサーたちの過激タレント化」『和田アキ子だ 文句あっか!』日本文芸社、1983年、116-121頁

^ 「フジテレビの女子アナの目立ちたがり戦争花盛り 再び野球拳で脱いだ田丸、連日ゲームセンター通いの頼近、フジの看板娘山村、益田……。人気女子アナの奮闘ぶりは?」『週刊宝石』1982年10月29日号、光文社、214–217頁。 

^ 山本幸子「マンスリー・フェイス うわさの人 田丸美寿々さん フジTVアナウンサー」『噂の眞相』1981年3月号、噂の眞相、33頁。 

^ 「週刊文春」1981年12月24、31日号、159-160頁

^ 「報道特集」田丸美寿々キャスター9月いっぱいで卒業

^ “【500人アンケート】フジテレビ歴代最高の女性アナランキング 『めざましテレビ』MCがトップ3に”. NEWSポストセブン. 小学館. p. 2 (2024年2月23日). 2024年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月8日閲覧。 page=2「めざましテレビ30周年記念 フジ歴代最高の女性アナ ランキング」『週刊ポスト』2024年3月1日号、小学館、8頁。 

^ 逸見政孝氏 田丸美寿々を「20年に一人の逸材」と語っていた(NEWSポストセブン)、日本初の女子アナ 1年で退社し9年後年下男性と心中した(NEWSポストセブン)

^ 逸見政孝『マジメまして逸見です Majime it's Me』フジテレビ出版、1985年、113-114頁

^ 「サンデー毎日」1980年4月6日号、116頁

^ ニュースキャスター田丸美寿々: 紀伊國屋書店BookWeb

^ 甲斐幸弘「TV視聴率ゼロ 田丸アナ抜擢に疑問あり」『週刊新潮』1982年3月11日号、96-97頁

^ 『マジメまして逸見です Majime it's Me』120-121頁

^ 田丸美寿々「発言 本音」『噂の眞相』1982年6月号、噂の眞相、42–43頁。 

^ 週刊朝日」1981年2月13日号、35頁

^ 佐藤孝吉『僕がテレビ屋サトーですー名物ディレクター奮戦記』文藝春秋、2004年、312-317頁、「週刊朝日」1981年8月24日号、43頁

^ 「Special Report 『おはよう!ナイスデイ』(フジTV)で本音のレポートがまたまた一騒動おこして…… 田丸美寿々が天真爛漫に大反省させられた」『週刊明星』1982年6月10日号、集英社、83頁。 

^ 幕は降りたのだろうか – マリコ書房 - 林真理子YouTubeチャンネル

^ 離婚を認めた田丸美寿々が怒りの猛反論を展開した「ホテル密会不倫」/壮絶「芸能スキャンダル会見」秘史

^ 「美里美寿々のページ "充電期間"を前にして」『噂の眞相』1983年4月号、噂の眞相、113頁。 

^ 「ドキュメント2・2 田丸vsフジTV 美里泰伸さんと婚約中の田丸美寿々 フジTV退社で見せた凄まじい女の怨念! 売ったケンカ? 売られたケンカ? 結婚を巡って大紛糾!」『週刊平凡』1983年2月17日号、平凡出版、28–31頁。 

^ 「サンデー毎日」1983年2月20日号、163-164頁

^ 田丸美寿々さん報道特集降板 - 高世仁の「諸悪莫作」日記

^ 鳥越俊太郎氏 共演した田丸美寿々アナに殺意を覚えた思い出(NEWSポストセブン), 鳥越俊太郎氏、『ザ・スクープ』で共演した田丸美寿々に「殺意を覚えた」と告白

^ 田丸美寿々の「降板」で『報道特集』に不協和音 - 現代ビジネス

^ 「婦人公論」2003年2月7日号

^ “他局ゲストに緊張田丸さん 坂田明と広島気質語る テレビ朝日『鉄矢のにっぽん…』”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 15. (1982年6月26日) 

^ “歴代受賞者”. 日本女性放送者懇談会 SJWRT. 2016年6月21日閲覧。

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板倉久子『シリーズ こんな生き方がしたい ニュースキャスター田丸美寿々』理論社、2001年

山崎朋子『「女の生き方」四〇選 下』文藝春秋、1995年

週刊文春『「家」の履歴書』光人社、2001年。ISBN 4-87761-054-5。 

早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース Jオピニオン 田丸美寿々(2008/03/11)

田丸美寿々さん: わたしと司法 | 関東弁護士会連合会(2001年5月11日)

〇-出演当時、NET→テレビ朝日局アナウンサー(嘱託の木島・美里を含む)

  高知放送所属のアナウンサー(当時)。同局からの出向扱いで番組に出演。

  産休により降板。

  一般公募による起用(前歴は日本経済新聞社所属のカメラマン→タクシードライバー)。わずか3か月で降板。

  この時期は溝口、渡辺を中心とした複数司会制をとっていた。

  当時は朝日新聞記者。

  田丸美寿々の旧名。

  飯星景子の旧名。

  静岡けんみんテレビ(現・静岡朝日テレビ)所属のアナウンサー(当時)。同局からの出向扱いで番組に出演。

 番組内では総合司会として出演。

 『ANNニュース&スポーツ』から続投。1991年3月まで『ナイトライン』を兼務。

 『サタデージャングル』から続投。『サンデージャングル』を兼務。

 コーナー担当として不定期出演。

  『情報プレゼンター とくダネ!』も続投。

  系列の関西テレビのアナウンサーであったが、総合司会期間中は東京に単身赴任して出演していた。

  1期目の出演の末期に結婚し、大林姓を名乗るようになった。

  2期目の出演(その後現在の吉崎姓に戻る)となる。

  『FNNニュース・明日の天気』、『FNNニュースレポート23:30』を兼務。

  途中降板した山川、逸見の代行。

  『FNNスーパータイム』も続投。

  佐々木紀代子の旧名。

1973 藤本裕子・(特別賞)渡辺典子

1975 常田久仁子・ 平野愛子

1976 井村千鶴子・ 吉村陽子

1977 橋田壽賀子 ・井口保子

1978 黒柳徹子・上貞良江

1979 兼高かおる・磯野恭子

1980 せんぼんよしこ・坂本登志子・(特別賞)江上フジ

1981 石井ふく子・笹谷清子

1982 加藤道子・五井千鶴子

1983 大野靖子・市岡康子

1984 澤地久枝・高橋幸子

1985 アグネス・チャン・うないフェスティバル'85

1986 樹木希林・湯川れい子

1987 和田アキ子・額田やえ子

1988 落合恵子・福田雅子

1989 樋口恵子・松永英美・(日本女性放送者懇談会20周年特別賞)久米宏

1990 内館牧子・小池ユリ子

1991 米原万里・山田邦子

1992 宮嶋泰子・NHK『はんさむウーマン』スタッフ

1993 櫻井よし子・岩井まつよ

1994 東海林のり子・橋本佳子・(日本女性放送者懇談会25周年特別賞)秋山ちえ子

1995 小山内美江子・合津直枝

1996 斎明寺以玖子・城菊子

1997 国谷裕子・星田良子

1998 五十嵐久美子・伊井純子

1999 田丸美寿々 ・宮田輝美・(日本女性放送者懇談会30周年特別賞)大島渚

2000 増田明美・鹿児島テレビ『ナマ・イキVOICE〜100%女性倶楽部〜』スタッフ

2001 竹葉晶子・佐藤園子・(放送ウーマン賞2001特別賞)平良とみ

2002 浅野加寿子・土江真樹子

2003 東ちづる・野澤喜代

2004 大山のぶ代・大脇三千代・(日本女性放送者懇談会35周年特別賞) FMながおか・ FMゆきぐに

2005 磯山晶・大原れいこ

2006 岡江久美子・糸林薫

2007 中園ミホ・金本麻理子

2008 宮本理江子・水野晶子

2009 右田千代・(日本女性放送者懇談会40周年特別賞) 黒柳徹子・宇田川清江

2010 大石静・三上智恵

2011 堀川惠子・白石草

2012 岩谷可奈子・内山聖子

2013 薬師丸ひろ子・日本テレビ『キユーピー3分クッキング』制作チーム

2014 喜多あおい・深谷茂美・(日本女性放送者懇談会45周年特別賞)加藤みどり

2015 小柳ちひろ・山口千波

2016 大橋グレース愛喜恵・松本彩夏

2017 岡野真紀子・柿澤真理子

2018 斉加尚代・長嶋愛

2019 平良いずみ・松原文枝

1999:ともさかりえ

2000:加藤あい

01:深田恭子

02:上原多香子

03:上戸彩

04:後藤真希

05:松浦亜弥

06:BoA

07:長澤まさみ

08:堀北真希

09:成海璃子

10:福田沙紀

11:前田敦子

12:武井咲

13:川島海荷

14:川口春奈

15:橋本環奈

16:小松菜奈

17:中条あやみ

18:岡田結実

19:浜辺美波

20:Kōki,

21:森七菜

22:芦田愛菜

23:ラウール

1990:紺野美沙子

91:安田成美

92:今井美樹

93:牧瀬里穂

94:松雪泰子

95:石田ゆり子

96:飯島直子

97:梅宮アンナ

98:鶴田真由

99:松嶋菜々子

2000:安室奈美恵

01:本上まなみ

02:米倉涼子

03:菊川怜

04:伊東美咲

05:長谷川京子

06:小雪

07:倖田來未

08:加藤ローサ

09:広末涼子

10:ベッキー

11:黒木メイサ

12:大島優子

13:剛力彩芽

14:吉高由里子

15:桐谷美玲

16:井上真央

17:西内まりや

18:菜々緒

19:吉岡里帆

20:有村架純

21:新木優子

22:広瀬アリス

23:永野芽郁

1990:池上季実子

91:古手川祐子

92:島田陽子

93:名取裕子

94:樋口可南子

95:黒木瞳

96:石川さゆり

97:かたせ梨乃

98:川島なお美

99:高島礼子

2000:財前直見

01:中村江里子

02:川原亜矢子

03:小島奈津子

04:水野真紀

05:天海祐希

06:深津絵里

07:篠原涼子

08:中谷美紀

09:滝川クリステル

10:観月ありさ

11:木村佳乃

12:米倉涼子*

13:松嶋菜々子*

14:吉瀬美智子

15:深田恭子*

16:松下奈緒

17:柴咲コウ

18:上戸彩*

19:橋本マナミ

20:木村文乃

21:戸田恵梨香

22:佐々木希

23:田中みな実

1990:村山勝美

91:沢田研二

92:阿川泰子

93:篠ひろ子

94:小池百合子

95:和田アキ子

96:田丸美寿々

97:小林幸子

98:小柳ルミ子

99: 天童よしみ

2000:安藤優子

01:林真理子

02:萬田久子

03:浅田美代子

04:黒木瞳*

05:大竹しのぶ

06:大地真央

07:YOU

08:江角マキコ

09:真矢みき

10:大塚寧々

11:草刈民代

12:檀れい

13:永作博美

14:鈴木保奈美

15:宮沢りえ

16:吉田羊

17:石田ゆり子*

18:遼河はるひ

19:常盤貴子

20:藤原紀香

21:小池栄子

22:アンミカ

23:松嶋菜々子

1990:芳村真理

91:岩下志麻

92:若尾文子

93:佐久間良子

94:野際陽子

95:三田佳子

96:浅丘ルリ子

97:中村玉緒

98:島倉千代子

99:五月みどり

2000:瀬川瑛子

01:木の実ナナ

02:由美かおる

03:松坂慶子

04:桃井かおり

05:秋吉久美子

06:小池百合子*

07:阿川佐和子

08:風吹ジュン

09:夏木マリ

10:戸田恵子

11:高畑淳子

12:余貴美子

13:高橋惠子

14:浅野温子

15:片平なぎさ

16:沢口靖子

17:賀来千香子

18:浅野ゆう子

19:紫吹淳

20:松下由樹

21:斉藤由貴

22:真矢ミキ

23:永作博美

1997:森英恵

98:朝丘雪路

99:雪村いづみ

2000:市原悦子

01:デヴィ・スカルノ

02:白川由美

03:黒柳徹子

04:十朱幸代

05:野際陽子*

06:八千草薫

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09:森山良子

10:髙橋真梨子

11:八代亜紀

12:浅丘ルリ子*

13:由紀さおり

14:竹下景子

15:伊藤蘭

16:和田アキ子*

17:桃井かおり*

18:大竹しのぶ*

19:森昌子

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99:佐々木主浩

2000:高橋由伸

01:西城秀樹

02:新庄剛志

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11:伊藤英明

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13:東山紀之

14:市原隼人

15:哀川翔

16:DAIGO

17:三浦春馬

18:福士蒼汰

19:舘ひろし

20:田中圭

21:横浜流星

22:北村匠海

92: ジュリー・ドレフュス

93: ヒロコ・グレース

2001: 高橋尚子

08: 松坂大輔

10: イ・ビョンホン、鳩山幸

11: ウォンビン、蓮舫

12: 少女時代、本田圭佑

13: KARA、内村航平

14: 松本潤

15: 髙橋大輔、May J.

16: ももいろクローバーZ、市川海老蔵

17: 福原愛

18: 浅丘ルリ子、村田諒太

19: コシノジュンコ、加山雄三

20: 浅田真央、高橋英樹

21: 内田篤人

22: 水谷隼

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2024/11/17 08:47更新

tamaru misuzu


田丸美寿々と同じ誕生日7月1日生まれ、同じ広島出身の人

西河 翔吾(にしかわ しょうご)
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西河 翔吾(にしかわ しょうご、1983年7月1日 - )は、広島県広島市中区出身のサッカー選手(元プロサッカー選手、ディフェンダー)。 2017年に結婚。 2019年、FC琉球HP上では未婚とな…

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田丸美寿々と近い名前の人

珠 瑠美(たま るみ)
1949年1月15日生まれの有名人 東京出身

珠 瑠美(たま るみ、1949年1月15日 - )は、日本の女優、映画監督・脚本家。出生名は小谷 瑠美(こたに るみ)、木俣堯喬との結婚後本名は木俣 瑠美(きまた るみ)。珠 るみ、珠 ルミとクレジッ…


田丸 麻紀(たまる まき)
1978年9月4日生まれの有名人 大阪出身

田丸 麻紀(たまる まき、1978年9月4日 - )は、日本の女優・タレント。大阪府和泉市出身。帝京短期大学卒業。オスカープロモーション所属。女優・ファッションモデル。 15歳の時に雑誌『mc Si…

田丸 一男(たまる かずお)
1960年9月11日生まれの有名人 大阪出身

田丸 一男(たまる かずお、1960年9月11日 - )は、オフィスキイワードに所属する日本のフリーアナウンサー で、元・NHKおよび毎日放送(MBS)アナウンサー。防災士。 大阪府大阪市の出身で、…

田丸 裕臣(たまる ひろおみ)
11月7日生まれの有名人 東京出身

田丸 裕臣(たまる ひろおみ、11月7日 - )は、日本の男性声優。以前はゆーりんプロ、ビーボに所属していた。東京都出身。アミューズメントメディア総合学院出身。 夢色パティシエール(カメラマン) 世…

田丸 浩史(たまる ひろし)
1970年2月21日生まれの有名人 大阪出身

田丸 浩史(たまる ひろし、1970年2月21日 - )は、日本の漫画家、同人作家。大阪府枚方市出身、在住。大阪府立牧野高等学校、大阪商業大学卒業。代表作は『超兄貴』、『アルプス伝説』、『最近のヒロシ…

田丸 秀治(たまる ひではる)
1914年4月20日生まれの有名人 鹿児島出身

田丸 秀治(たまる ひではる、1914年4月20日 - 1990年1月25日)は電通代表取締役相談役、日本広告業協会理事長、東京商工会議所広報委員長。通称:マルさん。鹿児島県鹿児島市出身。 鹿児島県…


田丸 昇(たまる のぼる)
1950年5月5日生まれの有名人 長野出身

田丸 昇(たまる のぼる、1950年5月5日 - )は、将棋棋士。2016年10月、引退。長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)出身。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号109。 順位戦A級在籍1期。A級初…

塩田 丸男(しおだ まるお)
1924年7月27日生まれの有名人 山口出身

塩田 丸男(しおだ まるお、1924年〈大正13年〉7月27日 - )は、日本の元新聞記者・作家・政治評論家。 1924年(大正13年)、山口県豊浦郡豊北町(現在の下関市)生まれ。國學院大學中退。読…

田丸 篤志(たまる あつし)
2月27日生まれの有名人 埼玉出身

田丸 篤志(たまる あつし、1986年2月27日 - )は、日本の男性声優。埼玉県出身。マウスプロモーション所属。 出生地は北海道だが、生まれてまもなくして埼玉県に移り住む。 高校時代、大学受験の…

田丸楓(たまる かえで)
5月15日生まれの有名人 山口出身

NTV「e-girl」 CX「堂本兄弟」「ネプリーグ」 田丸 楓(たまる かえで、5月15日 - )は、日本の声優・ナレーターである。山口県下関市出身。パインズ所属。勝田声優学院卒業生。血液型はB型…

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田丸美寿々
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