高橋政知の情報 (たかはしまさとも) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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高橋政知
高橋 政知(たかはし まさとも)さんの誕生日は1913年9月4日です。福島出身の経営者のようです。
生い立ちと妻・弘子との出会い、「酒豪の交渉役」としてなどについてまとめました。卒業、結婚、父親、現在に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
高橋 政知(たかはし まさとも、1913年(大正2年)9月4日 - 2000年(平成12年)1月31日)は、日本の実業家である。東京ディズニーランドを誘致したオリエンタルランド元社長。 福島県福島市生まれ。1961年にオリエンタルランドへ専務として入社。1978年8月に第2代同社社長に就任する。千葉県浦安沖の漁業権放棄に向けて、地元漁業協同組合などとの補償交渉を担当した後、「東京ディズニーランド」の建設のために、ディズニー社との交渉などを担当する。その後、世界初の「海」をテーマにしたディズニーパークである「東京ディズニーシー」をはじめとした「東京ディズニーリゾート」の実現に大きな役割を果たした。東京ディズニーシーが完成間近となった2000年1月31日午後0時38分に心不全のため東京都港区の病院で死去。享年86。故人の遺志により、葬儀は近親者のみで実施され、後日オリエンタルランドによる「お別れの会」が開かれた。 生い立ちと妻・弘子との出会い福島県福島市にて太田政弘・タミエ夫妻の次男として生まれる。父・政弘は、旧制一高から東京帝大へ進み、貴族院議員まで勤め上げた内務官僚である。内務官僚時代には原敬に厚遇され、そのことが警視総監や福島県知事、台湾総督などを歴任することにもつながっていった。 政弘が福島県知事在職中、後妻であるタミエとの間に次男として生まれたのが「政知」であった。「政知」とは、父・政弘の「政」と知事の「知」から一字ずつもらい、付けられたものである。 父・政弘はかなりの酒豪としても知られ、政知は学生時代から父に酒の手ほどきを受けていたという。また、六尺二十貫という体躯からも想像できるように、喧嘩も強く、いつも政知に喧嘩の極意を言い聞かせていたという。後に政知を特徴付ける酒の強さ、負けん気の強さは、すでにこの頃から養われていた。 第一東京市立中学、山形高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部へと進んだが、戦争の影が政知のすぐ近くまで忍び寄ってきていた。1939年に大学を卒業後、父に反発する形で、理研コンツェルンの創始者である大河内正敏が経営する理研重工業に入社する。 入社の翌年には、当時富士製紙の専務に就いていた高橋貞三郎(1871-1934、岡山県後月郡高屋町出身、エール大学卒)の一人娘・弘子と見合い結婚。婿養子として高橋家に入り、「太田」から「高橋」に改姓した。かなりの資産家だった高橋家には数多くの見合い話が持ち込まれていたが、弘子の目に留まったのは政知だった。一方、政知自身は、自分を政治家の娘と結婚させたがっていた父親の機先を制するために、太田家に持ち込まれていた十数枚もの見合い写真のなかから一番の美女を選んだという。そのあまりの美貌さに妹は驚き、見合いの失敗を確信するほどであった。 高橋夫妻は、上海にあるフランス租界で暮らしていたが、政知はそこで赤紙を受け取り、一路ラバウルへと向かう。一緒に出発した輸送船三隻のうち、無傷でラバウルに到着できたのは、政知が乗った「平安丸」ただ一隻だった。残りの二隻は、アメリカ軍からの攻撃を受け、大きな被害を受けていた。このようなところにも、高橋の「強運」があった。戦後はオーストラリア軍の捕虜となるも、無事に復員した。 「酒豪の交渉役」として戦後直後の就職難のため、思うような就職先を見つけることができなかったが、日本石油(現在のENEOS)の特約店だった富士石油販売に役員として招かれることになる。この比較的小さな特約店での仕事の中で、高橋は当時三井不動産で取締役業務部長を務めていた江戸英雄と出会う。江戸は高橋に「オリエンタルランド」という会社を紹介した人物である。江戸は高橋と違い小柄だが、度胸の良さと懐の大きさを感じさせる人柄で、二人はすぐに意気投合し、よく酒を酌み交わした。 「オリエンタルランド」が設立されたのは、1960年7月11日のことである。千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発および大規模レジャー施設の建設を行うことを目的として、三井不動産・京成電鉄・朝日土地興業(船橋ヘルスセンターの運営会社で、後に三井不動産に吸収合併)の三社による出資で設立された。 当時、この会社の社長を務めていたのは、川崎千春。「日本にディズニーランドを持って来よう」という、当時としてはとてつもない夢物語を打ち立てる人物である。1958年1月、「京成バラ園」で販売するバラの買い付けへと出かけたアメリカで、その3年前にオープンしたばかりの「ディズニーランド」に出会い、深い感銘を受けたのが川崎であった。その後、川崎は、この夢と魔法の国に対して強い情熱を傾けていくこととなる。 高橋は江戸の紹介で、この会社に「浦安漁民との漁業補償交渉」を目的として入社した。高橋の酒豪ぶりを知り尽くしていた江戸が、漁民との交渉役に適任である旨、川崎に紹介状を書いたのである。入社時の役職は「専務」であった。 この会社で高橋は、上澤昇や加賀見俊夫といった、その後共に「東京ディズニーランド」や「東京ディズニーリゾート」の実現に尽力する人々と出会うのである。 高橋が入社した当時、オリエンタルランドは名だけの会社だった。社屋はおろか専用の部屋も与えられず、東京・上野の京成電鉄本社内5階の片隅に三つばかりの机が置かれた場所が、「本社」であった。社員わずか三名、実働部隊は「高橋」ただ一人という状態だった。 補償交渉は難航が予想されていた。気性が荒い海の男が相手であることに加え、当時の浦安の漁業組合が二つに分裂していたことも、オリエンタルランドにとっては逆風だった。そんな状況を見ていた江戸は、相手の心をしっかりと掴むことのできる人間として、大酒を酌み交わし、腹を割って話し合うことが出来る交渉役を必要としていた。高橋はまさにこの「交渉役」にピッタリな人物だった。旧制高校から東京帝大に進んだエリートにもかかわらず、虚栄心や驕り高ぶることは一切無く、いつでもどんな人に対しても一人の人間として、常に水平な目線を保ちながら対話をすることができたと伝記では書かれている。 直接漁民の家を訪ねていっては、次々に交渉をまとめていく高橋。それに加え、連日連夜は漁業組合の実力者を高級料亭に招待しては、酒を酌み交わし、交渉を続けていった。最初から一流料亭に招待したのも、高橋の誠意であった。そんな高橋に多くの漁民達がほれ込むようになった。 2024/05/16 10:40更新
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