鶴ヶ嶺昭男の情報(つるがみねあきお) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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鶴ヶ嶺 昭男さんについて調べます
■名前・氏名 |
鶴ヶ嶺昭男と関係のある人
迫水久常: 会長になった当時の井筒部屋は関取の数が少なく、面倒を見るようになって見込みの薄い者は次々と故郷に帰し続けることとした迫水は、幕下でうろうろしていてパッとしない部屋頭の鶴嶺山(後の鶴ヶ嶺昭男)の処遇を思案していたところ、部屋付きの甲山が「必ず栃錦でも負かす男になりますから、もう少し面倒みてやって下さい」と頭を下げたことにより、多少半信半疑のところがあったようだが鶴嶺山の現役続行が決まった。 北の富士勝昭: 同時に井筒の名跡を旧井筒部屋(現:陸奥部屋)の傍系である君ヶ濱部屋の師匠だった鶴ヶ嶺昭男に譲渡し、君ヶ濱部屋が井筒部屋と改名した。 鏡里喜代治: 1956年1月場所で優勝した際、優勝決定戦の相手が同門の弟弟子でかつて自身の付き人を務めた鶴ヶ嶺昭男であったことから、「優勝は半分ずつだ」と鶴ヶ嶺を優勝パレードの旗手に指名、さらに1晩限りで鶴ヶ嶺に優勝旗を貸し出して自らの居室に飾ることを許可した。 |
鶴ヶ嶺昭男の情報まとめ
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鶴ヶ嶺 昭男(つるがみね あきお)さんの誕生日は1929年4月26日です。鹿児島出身の相撲のようです。
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エピソード、家系図などについてまとめました。卒業、現在、引退、テレビ、兄弟、母親に関する情報もありますね。77歳で亡くなられているようです。
鶴ヶ嶺昭男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)鶴ヶ嶺 昭男(つるがみね あきお、1929年4月26日 - 2006年5月29日)は、鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)出身で井筒部屋(ただし初土俵は時津風部屋名義)に所属した大相撲力士。本名は福薗 昭男(ふくぞの あきお)。最高位は西関脇(1956年5月場所・1962年9月場所)。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。現役時代の体格は177cm、114kg。 旧制加治木中学校3年時の1944年8月、予科練に入り、鹿児島航空隊、次に小富士海軍航空隊31文体に入隊する。戦時中は海軍年少兵として海軍相撲で鳴らし、やがて大相撲への興味を抱く。戦後、加治木中を卒業し、当地の農業会(農民組合)に勤務する。巡業でやってきた幕下力士の薩摩錦(父のいとこ)に勧誘され、元前頭2枚目・鶴ヶ嶺道芳こと井筒親方の元に入門、1947年(昭和22年)6月場所で初土俵を踏む。この時はまだ師匠が現役力士であり、しかも最後の場所であったことから書類上の所属は大横綱双葉山が興した時津風部屋になっていた。 その翌場所から独立した井筒部屋に所属した。独立したばかりの井筒部屋は例外なく弱小で、井筒と同じ鹿児島出身の政治家で当時公職追放中であった迫水久常が部屋の後援会会長に就任して、部屋のための金品や食料の調達に奔走する有様であった。ある時、迫水は部屋のあまりの貧乏さに人員整理を考え、見込みの薄い力士は次々と故郷へ帰して再就職させることとし、やがて鶴嶺山の処遇を考えることとなった。ここで、部屋付き親方の甲山が「必ず栃錦でも負かす男になりますから、もう少し面倒みてやって下さい」と頭を下げ、迫水自身は「そうかねえ」と多少半信半疑のところがあったようだが現役続行は決まり、「お前、勝とうと思って相撲とるな。負けまいと思って相撲とれ」と激励。迫水の激励に対して「わかるかわからないかわからんけれど、とにかく先生のおっしゃったように、私は負けまいと思って相撲をとります。勝とう勝とうと思わないで、これから負けまいと思って相撲をとります」と、精進を誓った。 その後、1953年(昭和28年)3月場所で新入幕。本来右四つだったが、相手に合わせてまず左四つになり、右を巻き替えてもろ差しになる取り口が開眼した。「もろ差し名人」と呼ばれ、「栃若時代」から「柏鵬時代」にかけて活躍。技能賞を10回(現在でも最高記録)受賞、栃錦・若乃花・朝潮の3横綱を相手によく健闘し、計10個の金星(当時の最高記録)を挙げている。「必ず栃錦でも負かす」と見込んだ甲山の見立ては、間違っていなかった。 前捌きや巻き替え、得意のもろ差しを生かして好成績を挙げることが多く、1956年(昭和31年)1月場所では14勝1敗の好成績を挙げ、優勝同点も記録した。優勝決定戦の相手、横綱・鏡里は同門の時津風部屋であり、鶴ヶ嶺が関取になる前は自身の付け人として従えていたことも考えてか、「優勝は半分ずつだ」と優勝パレードで旗手を依頼し、当日1晩だけ優勝旗を鶴ヶ嶺の部屋に貸し出したという。なお、この決定戦にもし勝っていたら、翌場所の3代朝潮に一場所先んじて、最初の昭和生まれの優勝力士になっていた。雷電賞を4度(1956年1月場所、1961年1月場所、1962年7月場所、1964年9月場所)受賞していて、これは史上最多タイである。 1967年(昭和42年)7月場所を最後に、38歳で現役を引退。幕内在位77場所と通算550勝は、本場所が現在のような6場所制に移行する過渡期であったためもあるが、当時の最多記録だった(通算勝ち星は翌9月場所で横綱・大鵬に更新され、場所数は1980年(昭和55年)11月に、前頭6枚目・高見山によって更新された)。 引退後は年寄・君ヶ濱を襲名し、審判委員となり、1972年(昭和47年)に井筒部屋から独立して君ヶ濱部屋を創設。当時、部屋持ち親方は審判委員になれないため、審判委員を退任。その後、同部屋は1977年(昭和52年)12月より名称を変更して井筒部屋となった。自身の息子3人(鶴嶺山・逆鉾・寺尾)をすべて関取に、霧島を大関に育てるなど名伯楽ぶりを発揮し、その功績が認められて役員待遇に抜擢された。薩摩国出身の横綱初代西ノ海嘉治郎の7代井筒からの伝統を引き継ぎ、自身の郷里である鹿児島県出身の力士が非常に多く、「薩摩部屋」と称される程であった。判りやすい丁寧な語り口でテレビ・ラジオ中継の解説者を務めた他、勝負審判長としても物言いの際の場内説明で、「行司軍配は○○にあがりましたが、××ではないかと物言いがつき、協議の結果~」と明快に解説、この口上は現在ではほぼ定型のものとなっている。また、「ただいまの協議についてご説明申し上げます」と最初につけるようになったのも、彼からだとされる。 部屋の師匠としては「五年後に幕下をつくる。そして五年後に二十人の弟子をもつ」と立ち上げ時に目標を立て、また「私は色のついた者はいらない。師匠冥利とは、ゼロから弟子を育てることだ」として大学相撲や実業団相撲出身の力士を採用しなかった。弟子育成に関しては、寺尾の突っ張りや逆鉾のもろ差しは自分が特別教えたものではなくたまたま関取になるべき人間がその時代に集まったのだとしており、技術指導も新弟子にはまず前に出ることしか教えなかったという。1人関取に挙がると他の若い衆が「オレたちも上がれるんじゃないか」と活気づいた面があると振り返っている。 年寄を停年退職後は鎌倉で陶磁器店を経営していたが、晩年の面倒を見ていた内縁の妻の乱脈振り等が原因で、息子との不和も伝えられ寂しい晩年を送った。2002年から一時期、妙見温泉で小料理屋を経営していた。 2006年(平成18年)5月29日午後6時6分、敗血症のため大分県別府市の病院で死去。77歳没。 エピソード現役時、プロ野球選手であった中西太とは親友の間柄であった。 四股名の「鶴ヶ嶺」は師匠の現役時代の四股名を贈られたもので、力士としては大変な栄誉であるが、自身は故郷・加治木町の隣町である隼人町から大正期・昭和初期の2代にわたって出た力士「源氏山」の四股名を望んでいた。「源氏山」の四股名は後に三男の寺尾が新十両時に継ぐことになったが、わずか1場所のみで返上している。 新関脇だった昭和31年(1956年)5月場所、横綱栃錦をもろ差しからの速攻で寄り倒したが、勇み足で負けとなった。怒りと悔しさに、土俵下に落ちた横綱に手を貸すのも忘れてしばらく仁王立ちとなり、栃錦からはのちのちまでこの時のことを冷やかされたという。 やくみつるの4コマ漫画では、その容貌が誇張されてジャンルを問うことなくスポーツコメンテーターや、また占い師役としても登場した。 三兄弟の母親に当たる妻・節子は、「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人であった。節子の父(井筒部屋の元幕下・加賀錦)は相撲茶屋「吉か和」の元締役を務め、鶴ヶ嶺と節子の仲人を務めたのは師匠の時津風であった。節子は時津風を「おじちゃま」と呼ぶなど親しい仲であった。1973年に両国2丁目に構えた君ヶ浜部屋は、元は節子の実家のあった場所である。節子は生前三兄弟からも大変に慕われており、それだけに三兄弟は自身と後妻との内縁関係を受け入れられず、結局晩年は「お袋を裏切った」と三兄弟から責められ続けたという。 節子の最期を3人の息子が看取った際、すでに力士であった長男と次男には「おまえらお客さんいるんだから(病院から)帰れ」と言い聞かせた。 『大相撲ダイジェスト』での解説時、息子の相撲を見ていた際に息苦しくなり、薬を飲んだことがあるという。 もろ差し名人と謳われた鶴ヶ嶺の相撲の技術は次男である逆鉾、さらに逆鉾の弟子(鶴ヶ嶺から見れば孫弟子)にあたる横綱・鶴竜にも伝承されている。 好きな調味料はポン酢で、それこそパンにまでポン酢を付けて食べていた。 家系図西ノ海(25代横綱)の孫(養女の養女の夫)、薩摩錦(元幕下)の従兄の子供、鶴ノ富士智万(元十両)の伯父。長男は鶴嶺山(元十両)、次男は逆鉾(元関脇)、三男は寺尾(元関脇)、孫(逆鉾の娘)は元宝塚歌劇団花組娘役の天咲千華。 2024/06/09 04:38更新
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鶴ヶ嶺昭男と同じ誕生日4月26日生まれ、同じ鹿児島出身の人
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