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スーパーモンキーズ
SUPER MONKEY'S(スーパー・モンキーズ)は、過去に存在した日本の女性ダンスアイドルグループであり、安室奈美恵とMAXの源流のグループである。 元々は「沖縄アクターズスクール」内における20人ほどのトップ選抜グループの総称であり、現kiroroの玉城千春も一時在籍していた。そこからデビュー予備軍の新たなチームが編成され、最終段階では女子5人男子2人(そのうち一人は牧野アンナの実兄)のメンバーとなるが、デビュー前に変更されて女子5人グループとなる。 名前の由来はスクールの校長であるマキノ正幸の「お前たちはまだタレントではなく猿の段階、でもただの猿(モンキー)じゃかわいそうだから”スーパー・モンキーズ”にしよう!」の一言がきっかけであると当時の雑誌インタビューなどで発言している。 グループ結成から「TRY ME 〜私を信じて〜」がヒットする迄、何度かメンバーチェンジしている。 1991年、「SUPER MONKEY'S」から選抜された女子5人男子2人のメンバーでグループを結成。メンバー全員が琉球空手の初段で、デビュー前に琉球放送『HOT NIGHT沖縄アイランド』のオープニングで空手を取り入れたダンスパフォーマンスを披露するなど地元番組に度々出演しており、それが東京のテレビスタッフの目に留まったことがきっかけで全国ネットのテレビ出演が決まる。 全国出演をきっかけに男子メンバーが抜け、安室奈美恵、牧野アンナ、澤岻奈々子(95年頃に「沢詩」に改名、後のNana)、天久美奈子(後のMina)、新垣寿子の女子5人グループとなる。それに伴い、グループ名もアクターズ内選抜の「SUPER MONKEY'S」をそのまま代用。 1992年4月より、TBS系『KATO&KENテレビバスターズ』のアシスタント(バスターズガール)としての出演や、ロッテ「シリアルアイス」のCMに初出演し、本格的に東京での芸能活動をスタート。また同時期に、日本テレビ系バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に琉球空手少女として出演した。 1992年9月、当時の東芝グループの東芝EMI(現・ユニバーサルミュージックLLC)より「恋のキュート・ビート/ミスターU.S.A.」でメジャーデビュー。デビュー当時のキャッチフレーズは「OKINAWAからカリフォルニアが見える」。
安室、澤岻、天久、新垣の4人体制に移行。同時にメンバー全員が沖縄アクターズスクールを正式に卒業し、上京する。 1993年4月より、NHKの音楽番組『POP JAM'93』に番組のマスコットガール兼バックダンサー・“PJG(ポップ・ジャム・ガールズ)”としてレギュラー出演。
11月、シングル「愛してマスカット」をリリース。同曲でロッテ「マスカットガム」のCMイメージキャラクターとなり、新曲発表も兼ねたガムのキャンペーンイベントを各地で行う。 12月、年末の『第44回NHK紅白歌合戦』では、森口博子の楽曲「ホイッスル」のバックダンサーとして参加した。 1994年7月、中西圭三が作曲・コーラスを担当したシングル「PARADISE TRAIN」をリリース。同時にグループ名を「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」へと改名し、以降は安室が単独でボーカルを務めた。
10月、新垣が沖縄アクターズスクールの講師となるためグループを脱退。新垣と入れ替わる形で松田律子(後のLina)、安室の同級生で同じ中学校に通っていた宮内玲奈(後のReina)が加入し、デビュー時以来の5人体制となる。 1995年1月、MAX松浦プロデュースによるシングル「TRY ME 〜私を信じて〜」をリリース。ユーロビートのカバーでもある同曲は、初登場の49位からじわじわと上昇し、初のオリコンチャートTOP10入りを果たすと同時に累計でも70万枚を超える売上を記録。その後も「太陽のSEASON」、「Stop the music」と同路線で立て続けにヒットを生み出す。
8月、初の本格ライブ「安室奈美恵 with Super Monkey's Concert '95〜ハートに火をつけて〜」を岡山、愛知、東京の3か所で開催。 12月には初の沖縄凱旋ライブ「TVガイド PRESENTS 安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S FIRST LIVE in OKINAWA」を沖縄コンベンションセンターで行い、4000人を動員。念願の地元での初公演だったこともあり、アンコールの際のMCでは全員が感極まり涙を見せた。 1996年3月〜5月、日本武道館・大阪城ホール公演を含む初の全国ツアー「mistio presents AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S TOUR '96」を開催(ホール21公演)。この時期になると、安室の一大ブームやMAXのブレイクなどから別々での活動が目立つようになり、テレビで5人が揃うことが減少していく。
1997年9月に一度「スーパーモンキーズ再結成」という記事のもと、年明けからの5人での活動再開が検討されるが、安室の結婚・産休やMAXの多忙も重なり立ち消えとなった。また、2000年に放送されたテレビ番組の中で安室が「またMAXの皆と同じステージがしたい」と語ったが、5人でのステージも1997年放送の「THE夜もヒッパレ」を最後に実現されていない。 2018年5月2日、安室のデビュー25周年に合わせ、グループ唯一のベストアルバム『ORIGINAL TRACKS VOL.1』が、全曲リマスタリング、内装の完全復刻、高品質ディスクSHM-CD仕様でユニバーサルミュージックから再リリースされた。同アルバムは1996年にリリースされたが、2000年代に入り廃盤となり入手困難となっていた。 2022年10月2日に行われた「沖縄アクターズスクール大復活祭」にて、一夜限りの復活ステージが実現された。引退した安室を除く初期メンバーの牧野、沢詩、天久、新垣の4人でデビューシングルの「恋のキュート・ビート」、そして松田、宮内を加えた計6人で「ミスターU.S.A.」が披露された。グループとしては1996年の活動休止以来、実に26年ぶりのステージとなった。 エピソード1992年の春から東京のマンションに5人揃って共同生活を行う。メンバーの中学卒業までは、金曜日に東京へ行って仕事をこなし、火曜日に沖縄へ帰るという生活をしていた。 当初デビューするには『空手で初段取得』『バック転が出来ること』が条件として挙げられていたが、一番順応していた安室が右肘の靱帯を痛めてしまい「やはりアクロバットは危ない」ということになり引き下げられた。 本格的に上京した際、リーダーの牧野が作ったルールに則り、ボイストレーニングやダンスレッスン以外にも朝起きてからの腹筋、背筋、ストレッチ、それが一通り終わると近くの公園までジョギング、到着すると空手の形(上段蹴り・中段蹴り・下段蹴り)などをするのを日課にしていた。また、羽根木公園に無料設置されていた器具で体を鍛えたりもした。 当時デビューするために上京したアクターズの研修生は、寂しさから恋人を作ったり、または東京での遊びに目覚めてハメをはずし過ぎたことが原因で出戻りが多く目立った。そのためSUPER MONKEY'Sのメンバーも行動や発言を厳しく制限されており、恋愛禁止令・菓子は1ヶ月に1回・門限は夜6時とされた。他にスクールの代表としての自覚と責任を忘れないために家の玄関に生徒皆が写った集合写真を飾り、それに向かって毎朝「行ってきます!」と言っていた。 下積み時代はあまり仕事がなく、交通費も自腹で食事も割り勘で洋服を買っただけでもお金が足りなくなるため、どこへ行くにもメンバー全員で行くことが多かった。どうしても足りない場合は電話で沖縄に居る家族に頼んでいた。しかし、それぞれの親からの仕送りの量がいっぺんに重なると部屋中が食料や沖縄名産品で埋め尽くされてしまい逆に断りの電話をしなければならないこともあった。 メンバー安室奈美恵 澤岻(→沢詩)奈々子(Nana) 天久美奈子(Mina) 松田律子(Lina) 宮内玲奈(Reina) 牧野アンナ 新垣寿子 中曾根梨乃 |
※文章がおかしな場合がありますがご了承ください。
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