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シャーリー=テンプルの情報 (ShirleyTemple)
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シャーリー=テンプルの情報(ShirleyTemple) 女優、外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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シャーリー=テンプルさんについて調べます

■名前・氏名
シャーリー=テンプル
(読み:Shirley Temple)
■職業
女優、外交官
■シャーリー=テンプルの誕生日・生年月日
1928年4月23日
辰年(たつ年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和3年)1928年生まれの人の年齢早見表

シャーリー=テンプルと同じ1928年生まれの有名人・芸能人

シャーリー=テンプルと同じ4月23日生まれの有名人・芸能人

シャーリー=テンプルと同じ出身地の人


シャーリー=テンプルの情報まとめ

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シャーリー=テンプル(Shirley Temple)さんの誕生日は1928年4月23日です。

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経歴、映画界を離れてなどについてまとめました。結婚、子役、映画、引退、母親、テレビ、家族、卒業、病気、現在、事故、事件、離婚、再婚、ドラマ、趣味に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

シャーリー=テンプルのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

シャーリー・ジェーン・テンプル (英: Shirley Jane Temple、結婚後はシャーリー・テンプル・ブラック、英: Shirley Temple Black:1928年4月23日 - 2014年2月10日)は、アメリカ合衆国のハリウッド女優。身長157cm。

テンプルは1930年代のアメリカを象徴するスター俳優であった。フォックス・フィルム社の子役として登場した時、大物プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンは「シャーリーはいくつになっても素晴らしい才能を発揮するだろう」と語ったと伝えられる。その言葉どおり、女優、政治家、外交官、企業の社外役員など、6歳から85歳で亡くなるまでアメリカの名士であり続けた。なお、シャーリー・テンプル・ブラック大使 (英: Ambassador Shirley Temple Black)とも呼ばれた。2014年2月10日、カリフォルニア州サンフランシスコ市郊外のウッドサイドの邸宅で死去。

アメリカで定着したシャーリー・テンプルのイメージは勤勉できまじめ、温かく優雅で品行方正な女性であり、伝説的な映画俳優としても著名な人物である。1930年代から60年代にハリウッド映画界で女優として活躍、特に1930年代に高い評価を得た。たった6歳で伝説的な天才子役と呼ばれ、またしばしばコカコーラや自由の女神と比較されるほど、国外でも知名度を得ていく。10代はアイドルとして芸能活動をつづけ、1950年、幸福な結婚をして映画界を引退

テンプル自身は人生に「女優、母親、外交官の3つの時代があった」と述べており、映画界の人気スター、10年ほど3人の子供を育てるかたわらテレビ番組に出演した第2期、やがて第3の時期にあたる40代より外交官や数社の社外役員などを務めている。

経歴

家族

テンプル家は厳密にはペンシルバニア・ドイツ人が混ざった家系でありながら、ワスプに数えられた。一族はキリスト教の宗派の長老派清教徒で、代々医者か弁護士か銀行員を職業としてきた。清教徒には伝統的に実業を重んじ、演劇や映画を軽視する傾向があるため、シャーリーが少女スターになった時、一族の反応には複雑なものがあったと伝えられる。

父方の祖父は医師、父ジョージは銀行員(後に実業家)で、娘が生まれたとき当時の大手銀行30社のひとつカリフォルニア銀行のサンタモニカ支店長。

母方の祖父はドイツ系の宝石・時計商、母ガートルードは専業主婦である。

2人の兄はそれぞれスタンフォード大学と陸軍士官学校を卒業、FBIの幹部と海兵隊の士官を務めている。

生い立ち

1928年生まれ、カリフォルニア州サンタモニカの上品な住宅街で育つ。この州で人生の大半を過ごしており、清教徒らしく勤勉でまじめなうえ、いかにもカリフォルニア生まれらしい、明るく積極的な性格だった。

母親は妊娠中、音楽や美しい絵、きれいな風景に接して胎教につとめた。生まれてきた娘が赤ん坊の時からダンスと音楽に強い関心を示したという「シャーリー・テンプルの胎教」のエピソードは、アメリカではよく知られている。家庭は円満で両親に愛情を注がれて育つ。栄養を考えた食事、適度な運動と日光浴、規則正しい生活によって3歳までほとんど病気をしていない。既に10代だった2人の兄に手がかからなかったため、母親はもっぱらシャーリーの世話をして一緒に歌ったり踊ったりして過ごした。3歳の頃(1931年)、娘がダンスと音楽に強い関心を示すと母親はメグリン・ダンス学校(Meglin's Dance School)に入学させる。ちなみにジュディ・ガーランドもこの学校の卒業生。

目の色は茶色、髪の色は生後7歳ぐらいまで金髪、8歳ぐらいから赤みを帯びておよそ10歳の時には茶色になった。やがて大人になるとほぼ黒髪といっていい。

少女スター誕生

1932年から1933年にかけて出演した短編映画はユニバーサル映画社の下請けだったエデュケーショナル社(英語 Educational Pictures)が製作した喜劇のシリーズで、幼児だけが登場する「ベビー・バーレスク」(Baby Burlesks)やManaged Money(1934年・日本未公開)等、十本を超える。

フォックス・フィルム社(20世紀フォックス社の前身)に見出されると1933年に7年契約を結び『歓呼の嵐』に出演、準主役だが高い評価を受ける。次にパラマウント映画社に貸し出されて『可愛いマーカちゃん』の主役をつとめ、一夜にしてアメリカを熱狂させた。さらに『ベビイお目見得』も主演、この作品を見たフランクリン・ルーズベルト大統領は定期的に行うラジオ演説「炉辺談話」で「大不況のさなか、わが国民が映画で見るシャーリー・テンプルの笑顔に励まされ苦労を忘れることは素晴らしい」と全国民に向けて述べている。

6歳にしてフォックス・フィルム社の看板女優になったばかりでなく、映画会社の予測をはるかに超え、たちまちアメリカ映画界で最も人気のあるスターの座へと昇り詰める。一連の作品の成功は大恐慌下のメジャースタジオだったフォックス・フィルム社を倒産から救い、『輝く瞳』から『小連隊長』(1935年)へと次々ヒット作が生まれた。

シャーリーの持ち味は、生真面目で勤勉な性格である。映画の出演が決まると撮影が始まる前に必ず台本に載った登場人物全員の台詞を暗記し、台本には書き込みやマーク等は一切しない。決してNGを出さず一回の撮影で監督を満足させたことから、ジョン・フォードに「一回撮りのシャーリー」("One-take Shirley") と褒められるほどだった。決して遅刻をせず予定より少し早めにセットに入る几帳面さは成人してもそのままで、終生、時間に正確だった。

アメリカの国立機関ケネディ・センターは次のように称えている。

1930年代の5、6歳の子役で大人のプロダンサーでも難しいステップを楽々と踊り、正確な音程とリズムで難しい曲を歌い、気難しい批評家すら唸らせる絶妙な間合いで台詞が言えて自然な演技が出来る者は、彼女しかいなかったといえよう。映画監督のデイヴィッド・バトラーが「あの子と話をした者はみんな人柄に感動した」と語ったとおり、生まれつき人々を惹きつけ相手の心を明るくしてしまう強い魅力がシャーリーにはあり、どんな時でも快活で不機嫌そうにしたりすねたりグズったりしたことはない。1930年代に「世界最高のタップ・ダンサー」と言われた俳優ビル・ボージャングル・ロビンソンは、「神様はシャーリーを唯一無二の存在として創られた。あの子に続く者は二度と現れないであろう」と述べている。

少女スターとしての成功

『可愛いマーカちゃん』(Little Miss Marker・1934年・日本未公開)のころのこと。両親とホテルに滞在していると紳士が近づいてきて、この街のカトリック教信者を代表する者だと名乗り、シャーリーにメダルをあげましょうと声をかけた。シャーリーはおもちゃのメダルを集めていて、ほしいと答えると男性は彼女を抱き上げてホテルの大広間へと入っていく。両親とフォックスフィルム社の広報担当が止める間もなく、数千人の信者が集まる会場の真ん中を抜けると、シャーリーを連れてステージに上がりメダルを授与した男性は、何か挨拶をしてほしいと頼んだという。

両親もフォックスの担当者も真っ青である。まだ有名になるかならないかという時でもあり、こんな時どうふるまえばいいか誰も教えていない。たった5歳の子供になにができるだろうかと固唾を飲んで見守るほかなかった。すると、笑顔でメダルのお礼をして「大会が成功しますように」と述べ、「皆さんが大好きです」と投げキスで結んだという。心に浮かんだまま、しゃべったこの言葉に、大きな拍手は鳴り止まなかった。両親はホッと胸を撫で下ろし、ステージから降りるところを待ち構えていた担当者は感に堪えない様子で「君に教えなきゃならないことはもう何もない。いつだって自分をそのまま出せばいいよ」と言った。こうしてシャーリーはどんな時にも自然な自分を出すことで、アメリカのファンに感動を与え続けた。

そのころ受け取ったファンレターは週に4000通以上。同じ時期、アメリカで最もファンレターの多いスターである。たちまち週1万通を超えるとフォックス社はフルタイムの専属秘書を10人付けている。サインを求められることも多く、あるクリスマスの時期に母親とデパートに行ったところ、アルバイトのサンタクロースがサインをほしがったという。サンタクロースはほんとうにいると信じていたのに、このときからそう思わなくなったと後に語っている。

『可愛いマーカちゃん』公開の翌年、映画界であげた功績に対してアカデミー賞特別賞を受賞。初のトーキー映画を公開したワーナー・ブラザース、チャーリー・チャップリン、ウォルト・ディズニーについで4番目である。シャーリーはこのとき6歳、アカデミー賞のすべての分野における最年少記録は2015年現在も破られていない。午前1時半過ぎにようやく授賞の番が巡ってくると、大人でも仕事の疲れで眠いはずであるが、にこやかに受賞の挨拶を済ませている。ところがステージから降りて母親に「ママ、もう帰っていいの?」とささやいた声がマイクに拾われて会場に大きな音で流れてしまった。会場は爆笑に包まれ、やがてこんなに幼い女の子が疲れや眠気を全く表に出さないことを称えて拍手喝采を送った。

母のガートルードは映画デビューした娘にぴったりと付き添い、「映画界の悪い影響」を受けないように守った。フォックス・フィルム社も同じく保護が必要だと認め、撮影所内に専用の家とおもちゃを用意している。会社は他の子役や裏方と遊ぶことを禁じた。法律上、1日4時間しか働かせてはならないため仕事に専念させたがり、切実な事情として西部劇のウィル・ロジャースの事故死で看板俳優を失ったことからシャーリー・テンプル一人に社運を託すほかはなく、子役や裏方と遊ぶうちに病気や怪我をしないかとひどく用心した。成功を妬んだ他の子役母親が硫酸を顔に浴びせようとしたり、毒入りのキャンディーを送りつけたりしてからはなおさらである。『輝く瞳』で共演した子役のジェーン・ウィザースとも友だち付き合いはなかった。撮影のとき、毎日シャーリーが彼女に物真似でからかわれ、撮影の本番では台詞を先回りして横で大声で言われ、とても演技がやりにくかったという理由による。ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』の中でジェーンは、シャーリーの母親のせいで共演は二度となかったと述べているが事実ではなかったらしく、1985年に全米に放送されたテレビ番組で自ら訂正した。

撮影所では仕事が4時間、勉強が3時間。1時間の昼休みにさえ名士の訪問を受けることもしばしばだった。帰宅は毎日4時か5時ごろで夕食まで近所の子供たちと遊び、最も親しかったのはナンシー・メジャーズ。夕食後はごく普通に遊んだりラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりして、寝る前には必ず次の日の撮影の準備をした。母ガートルードも会社も他の早熟な子役から悪い影響を受けて「品行方正な子供」というイメージに傷がつかないように心を配り、彼女は大人に守られ明るく品行方正に育った。

フォックス・フィルム社は20世紀映画会社と合併、1935年から20世紀フォックス となる。合併祝賀パーティの席上、ある脚本家が6歳のシャーリーを抱いて「高い高い」をしたところ、パーティの出席者全員、怪我をさせるのではと恐怖で凍りついた。そのとき両手で高く差し上げている少女は会社の全財産にも等しいと気づくと、脚本家は恐ろしさにめまいを起こして危うく彼女を取り落としそうになったという。

看板俳優の座を継いだシャーリーにはスタンドインが付き、マリリン・グラナス (Marilyn Granas) やメリー・ルー・イズライブ (Mary Lou Isleib) 等が務めた。初期の担当だったマリリンは1歳年上、以前にベビー・バーレスク作品(The Kid's Last FightKid in Hollywoodほか)で競演した仲である。『ベビイお目見得』(Baby Take a Bow・1934年)や『輝く瞳』ほかのスタンドインを務め、やがてキャスティング・ディレクターに転身。メリー・ルー・イズライブはマリリンの後に付き、撮影所では他の子役から離されたシャーリーにとってただのスタンドインではなく、学友であり親友でもある。シャーリーは小学校入学の年齢になっても通学はせず、20世紀フォックスの撮影所で専任の家庭教師を付けられて数学年上の授業内容を勉強したという。6歳のときの知能検査でIQは10歳相当。12歳では155以上、「天才」の範疇に分類される評価である。

子役の少女は成長するとマーガレット・オブライエンやナタリー・ウッド、テータム・オニールのようにどこか影のある子供あるいはブルック・シールズやジョディ・フォスターなど妖艶さが売り物という性格づけがされる。しかしシャーリー・テンプルは20世紀のアメリカ映画唯一の大物少女スターとして、どこまでも純粋で無邪気で明るく、子どもらしい子どもを演じ続けた。

ハリウッドの頂点へ

20世紀フォックスと契約以後、シャーリーが会社にもたらした興行収益は1930年代当時の金額で3000万ドル以上と言われる。1930年代、アメリカ映画界最高のスターであり、1935年から1938年まで4年連続で興行収益1位という歴史的な記録を打ち立てる。これは子役としては不動の記録であり1940年代に史上最高の5回を獲得したビング・クロスビーに破れるものの、女優でこの記録を抜き去る者は2009年にいたるまで現れていない。また他のスターは俳優業に一生を捧げ、その総決算として興行収益トップの座を手に入れるのであって、彼女のケースは10歳未満で易々と4回も取ると別の分野に転進して顕著な功績を挙げ、非常に際立っていると言えよう。なお20世紀フォックスを含む日本の一部の情報源にはシャーリー・テンプルの映画1作品あたりの出演料が100万ドルだと述べてあるがそれは完全な誤り。女優の映画1作品あたりの出演料が100万ドルになったのは1960年代、エリザベス・テイラーの『クレオパトラ』(20世紀フォックス)やオードリー・ヘプバーンの『マイ・フェア・レディ』からである。出演料トップのシャーリー・テンプルさえ、1930年代は10万ドルである。

この時期、ゲイリー・クーパーとスペンサー・トレイシー、キャロル・ロンバードとジャネット・ゲイナー、フランク・モーガンとライオネル・バリモア、アリス・フェイ、ランドルフ・スコット等、錚々たるトップスターと共演している。また世界最高のタップ・ダンサーといわれたビル・ボージャングル・ロビンソンとの共演は特筆すべきで、この二人はアメリカ史上初の黒人と白人のダンス・ペアである。彼女は共演した相手の中でロビンソンが最も好きだったと語った。

有名なユーモア作家アービン・コッブが「(子供たちへの)サンタクロースの最大の贈り物」と呼んだように、シャーリーは世界中の少女から熱狂的に支持された。アイデアル社(Ideal Toy Company)が発売したシャーリー・テンプル人形は爆発的な売れ行きを示し、シャーリー・テンプルにちなむ少女向け子供服やアクセサリーも飛ぶように売れ、アメリカ・ヨーロッパ・日本だけでなく文字通り世界中の少女たちがこういう商品を欲しがった。その陰でシャーリーは何度か誘拐事件がらみの脅迫を受けたり、気のおかしい女性から射殺されそうになったりしたが、いずれも間一髪で難を逃れた。

1939年の『オズの魔法使』のドロシー役もシャーリーが演じる予定だった。非公式にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーがカメラテストをして衣装をつけて主題歌を歌わせてみたところ出来が素晴らしく、ルイス・メイヤー社長は彼女以外にこの役を演じられる者はないと惚れ込んだ。しかし20世紀フォックスとの話し合いがつかず、結局ジュディ・ガーランドに役が回った。 だがシャーリー個人の語る降板理由は、アシスタントプロデューサーのアーサー・フリードがまだ12才だった彼女が一人でフリードの部屋に面接に入った時に、彼は下半身を出して陰部を見せ付けたというセクシャルハラスメントがあったことが原因だと自伝で明かしている。 フリードは女優相手に「キャスティング・カウチ(セックスをした相手に役や契約を回すこと)」を頻繁に行う悪名高いな人物であった。

フリードにような倫理観に乏しい人物の魔の手を逃れたシャーリーは、もはやただの少女子役にとどまらず、「アメリカン・イノセンス(無垢なアメリカ)」の象徴となった。

無垢なアメリカの象徴

アメリカ国内外の名士が頻繁にシャーリーと顔を合わせた1930年代、フランクリン・ルーズヴェルト大統領と社会運動家のエレノア夫人はじめ、アインシュタインからH・G・ウェルズ、フーバーFBI長官まで、政治家や著名人と知り合う。ルーズヴェルト大統領就任式(1933年)では膝に乗り「ハッピーバースデートゥーユー」を歌って新しい大統領の誕生を祝っている。

人気がどれほど過熱したか伝えるエピソードは数え切れない。雑誌やニュース映画に毎号、大きく取り上げられ、旅先のボストンで熱を出して寝込んだときなど、新聞各紙の一面トップに大見出しが踊り、テレビでは相次ぐニュース速報。宿泊先のホテルは病状を案じる1万人以上もの大群衆に囲まれてしまう。また1935年12月に家族旅行でハワイを訪れたおりには、シャーリー・テンプルの姿を一目観ようと行く先々に押し寄せた人々が10万にも達したという。ハワイ到着予定の日、州内の公立学校が臨時休校になる騒ぎだった。彼女の言葉は頻繁に新聞の見出しに取り上げられ、「シャーリー・テンプル語る 喫煙は悪い習慣」、「シャーリー・テンプル ムッソリーニに占領地エチオピアから退去を命令」などと書き立てられた。

明るく健気、楽天的で清楚というイメージのシャーリーは国民の誇りであり、また大恐慌に直面する人々の心の支えとなる象徴的存在となった。作家のアン・エドワーズはほぼ同世代のエリザベス英国王女(後のイギリス女王)と対比させ、シャーリーはある意味「アメリカの王女」であり「敬意をもってうやうやしく」扱われたと述べている。実際、1930年代以来「アメリカのプリンセス」と呼べる存在がいるとすればシャーリーをおいてほかにないと言われてきた。初めて表紙を飾った『ライフ』誌1938年7月11日号 には既に「プリンセスさながらの独得の地位を自然に受け入れている」という記述がある。

少女スター時代の映画について

ケネディ・センターは「子供のとき、彼女は歌とダンスでアメリカ的精神を体現し、アメリカ人に計り知れないほどの喜びと希望を与えた」と述べている。少女スター時代に出た映画家族向けで、『足長おじさん』や『小公女』、『少女レベッカ』など人気の少女小説の映画化が多い。ヒロインはたいてい当時の児童文学のパターン通り明るく健気な孤児の少女という設定である。また多くの作品はディズニーの長編アニメと同様にミュージカル仕立てで、当時の英米の児童劇の伝統に則ったものである。

ミュージカル作品はシャーリーの映画の呼び物の一つで歌い手として魅力的であり、さらに踊り手として非常に優れたタップダンサーで、フレッド・アステアやエレノア・パウエルと並ぶ1930年代を代表する大スターに加えられる実力の持ち主だった。『歓呼の嵐』と『ベビイお目見得』でジェームズ・ダンと共演、『テンプルちゃんお芽出度う』ではピアノの上でソロで踊ってみせ、『小連隊長』や『テンプルの愛国者』と『農園の寵児』で組んだ相手はビル・ロビンソン。『テンプルの灯台守』の踊りの相手はバディ・イブセン、『テンプルの福の神』で共演した相手はアリス・フェイとジャック・ヘイリーであり、『テンプルの上海脱出』でフレッド・アステア人形と踊り、『天晴れテンプル』でジョージ・マーフィとの踊りが有名である。

劇中歌は『輝く瞳』で歌った「こんぺい糖のお舟」(On the Good Ship Lollipop)が特に有名で大ヒットし、その後、彼女のテーマソングになる。劇中で歌われたものはヒット曲が多く、たとえば『テンプルちゃんお芽出度う』で歌った"Animal Crackers in My Soup"(Animal Crackers in My Soup)、『テンプルの愛国者』の"Polly Wolly Doodle"、『テンプルの福の神』から"Oh, My Goodness"、『テンプルの灯台守』は"At the Codfish Ball"、『テンプルの上海脱出』"Goodnight, My Love"(Goodnight My Love)、『農園の寵児』で歌った"An Old Straw Hat"である。2009年現在においても彼女の歌は愛され、欧米でCDの全集と選集を発行し続けている。アメリカの小学校の音楽の教科書に載り、幼稚園でも歌わせている。

少女スター時代をめぐるシャーリーの思い

ほとんどの子役スターは、ハリウッドの子役時代に対して何らかの心の傷を抱えている。しかしシャーリーは、ハリウッドという危険な虎の穴に入って、その体験を楽しみ、けろりとして無傷で出てきたほとんど唯一の存在だった。その時期を振り返り、おごることなく慎ましやかに語っている。

「私は最高の子供時代を過ごした。神話や小説とかの素晴らしい物語を読んでもらう代わりに、実際に物語の中で生きることが出来たのだから。幼い頃母は雑誌や新聞に私の記事が載ると、私の目に触れないようにしていた。後に、もし読みたいなら読んでもいいと認められたのだが、二、三の記事を読んだだけで止めてしまった。確かに私について書いてはあるものの、他の人が作り上げたシャーリー・テンプル像で、たいていは理想化してあったからだ。私はプリンセスではないし女神でもないし、なりたいとも思わない。最高の人生を送ってきたのは運がよかったのだし、映画で人々に喜びをもたらしたと思いたい。その反面、チャンスがまわってきたのは運命つまりタイミングのいたずらだと感じている」。

ティーン・アイドル・スター

やがて思春期になると子役として微妙な時期にさしかかる。本来は13歳で中学校へ進むところ、成績優秀のため12歳でアメリカ最難関の私立中高一貫校(プレップ・スクール)の一つに飛び級で入学。したがって高校卒業は18歳ではなく17歳である。学校はウェストレイク女子校(Harvard-Westlake School)といい、多くの優れた人材を送り出すことで定評があった。授業が始まると夏休みだけ映画の撮影にあて、残りの時期は学業に専念し始める。主演作『青い鳥(1940年リメイク版)』のプレミア試写会に出席して舞台挨拶と記者会見をするように会社に命じられても校長の許可が出なかったと仕事を断わり、20世紀フォックス幹部を唖然とさせた。

20世紀フォックスの最後の2作品『青い鳥』と『ヤング・ピープル』は興行的に赤字である。『青い鳥』はMGMの『オズの魔法使』の大成功を受けて急いで作られ、大作だが脚本の象徴主義が時代を先取りしすぎて観客には理解できない部分があった。さらにグリム童話の雰囲気を出そうと衣装や小道具をドイツ風にしたところ、おりしもナチス・ドイツのポーランド侵攻が勃発し観客の不興を買い、脚本もシャーリーのイメージと大きくずれていると受け取られる。『ヤング・ピープル』も筋立てがひたすらセンチメンタルでお粗末である。ただし彼女の回想録によれば『青い鳥』は1970年代になって再評価の動きがあったという。

プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニック(『風と共に去りぬ』他)のプロダクションはアメリカで最高の品質の映画を作ると定評があった。当時はユナイテッド・アーティスツ映画社と密接な関係にあり、同時にどの映画会社とも取引があった。セルズニックはジェニファー・ジョーンズと大恋愛の最中で一番よい娘役(たとえば『ジェニーの肖像』や『聖処女』)はジェニファーに回る。シャーリーも映画界でたった数人のティーン・アイドルの一人として立派に成功をおさめていく。セルズニックのもとで撮った作品はすべて黒字である。

ただし品が良すぎ、皆から愛される天真爛漫なティーンは上手に演じられてもセクシーさやダークな面はどうしても出せない。役柄は極めて限定されて「明るい健全な夢見るティーン」タイプ。1930年代に無垢なアメリカの象徴になったためそういう役は演じにくかったことも事実で、観客はセクシーなあるいはダークなシャーリーを見たいとはどうしても思わなかっただろう。ワーナー・ブラザースに貸し出し中に撮った『That Hagen Girl』(1947年・日本未公開)の台本に相手役のロナルド・レーガン(後のアメリカ大統領)から「アイ・ラブ・ユー」と言われる台詞があったところ、イメージにそぐわないと判断してその台詞を削らせたほど、ワーナー・ブラザースは気をつかった。品行方正なスターという評判はとても高く、有名なゴシップ記者でスターのスキャンダルを暴くルエラ・パーソンズやヘッダ・ホッパーですら常に賞賛したほどである(このふたりはジュディ・ガーランドの薬物依存、ディアナ・ダービンの「不倫」等をスクープした)。

ティーン・アイドル時代、彼女自身が最も気に入た作品はコメディ『接吻売ります』(Kiss and Tell) だったという。

映画界を離れて

最初の結婚

女子校を卒業した17歳の1945年、同級生の兄でシカゴの大手食品加工会社社長の孫、ジョン・エイガー軍曹というハンサムな青年と結婚する。婚約が決まるとアメリカ議会で祝福の演説がなされるほど、この結婚は第二次世界大戦にまつわるさまざまな出来事と共に終戦の年に最も多く報道された事柄だった。

ところが夫は人格に問題があり一児をもうけてからも連日、家を空けて酒に溺れ浮気をした。家に戻るとシャーリーに罵声を浴びせ続けた。この夫はのちに脇役俳優になり芸能界入りした。シャーリーは1949年、ハリー・トルーマン大統領の就任式で舞踏会の主賓をつとめる。翌1月に離婚。別れたジョンは離婚後も素行が悪く、数年後には常習的な飲酒運転で数か月投獄されている。また2番目のモデル出身の妻と再婚する際、酔っぱらった状態で結婚式場に現れたので、牧師が彼の酔いが少しさめるまで挙式を拒否するというスキャンダルを巻き起こし先行きが不安視された。そして再婚後も彼は飲酒運転で数回逮捕され、俳優の仕事を干された時期もあったが、2番目の妻が献身的に彼を支えアルコール依存症から更生させ、亡くなるまで49年間添い遂げた。エイガーは低予算映画の主演で復活し、テレビドラマの仕事にも恵まれ晩年まで活躍した。

離婚が決まるとセルズニックからティーン・アイドルは卒業して、ほんものの大人の女優を目指すべきだとアドバイスされ、何年かイタリアに行ってリアリズム映画の演技を本格的に勉強するようにとまで勧められた。しかし旅行先に選んだハワイで好青年のチャールズ・ブラック海軍少佐と、まるで映画のような運命的な出会いをする。パーティーで視線を交わしたふたりは、おたがいに一目ぼれをしてしまった。セルズニックとの契約は1950年10月で終えた。

幸福な結婚

1950年12月に、22歳で結婚歴のないチャールズ・ブラック(英語:Charles Alden Black)海軍少佐と再婚する。この結婚にあたってFBI長官ジョン・エドガー・フーバーは前回の結婚の轍を踏ませないよう、部下に結婚相手の素行を調査させた。彼女はFBIから非常によい報告を受けたという。

ブラック家は先祖が1620年にメイフラワー号でイギリスからマサチューセッツへ移民してきた、清教徒の名門だった。チャールズの父はアメリカ最大手に数えられるパシフィック・ガス電気会社 (Pacific Gas and Electric Company (PG&E)) 会長で、チャールズは次男。地元カリフォルニアでは指折りの資産家の生まれでしかも独身だとよく噂の種にされた。アメリカ最難関の中高一貫私立男子校(プレップ・スクール)の一つで全寮制のホッチキス校 (en:The Hotchkiss School) からスタンフォード大学に進み、ハーバード大学大学院でMBAを取得、第二次世界大戦の徴兵で海軍情報将校に任命される。二人が知り合った頃は予備役であり、パイナップル栽培加工で有名なドール社の社長室付だった。結婚すると海軍に戻り1951年5月に中佐としてペンタゴンに赴任するため首都ワシントンへ転出。数年して退役するとテレビ会社アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABCネットワーク)の幹部を経てスタンフォード研究所の財務担当理事に就任、同研究所を退職後はアンペックス社の副社長から牡蠣・鮑・鮭の養殖に転じてマディーラ社を起業する。社長業と並行してサンタ・クララ大学 (en:Santa Clara University) の評議員に選ばれた。海洋学の専門家でもあるチャールズはタイタニック号発見にも貢献。また世界最高の超エリート会員制クラブボヘミアンクラブ・オブ・サンフランシスコ (Bohemian Club) の会員でもあり、趣味はサーフィンで結婚前は毎日のように海に通っていたという。

二人の結婚は「おとぎ話のような結婚」として注目された。彼女は彼が当時のアメリカで指折りの裕福な一族の生まれと知らず、勉強と軍務とサーフィンに明け暮れた彼は12歳からずっと映画を見なかったため彼女がシャーリー・テンプルだと分からず、そんな二人の恋が成就したからである。

結婚直後、女優と結婚したことを理由に夫チャールズが社交界名士録から名前を消される事態がおきる。アメリカの上流社会では演劇や映画を軽視するという清教徒の伝統がまだ強く、結婚相手が俳優の場合は社交界から締め出すという規則があった。国の誇りとまで言われ、上品さで有名な映画スターのシャーリーでさえ、例外ではなかった。夫は社交界名士録から名前を外されたことなど気にしなかったが、1950年12月に妻は22歳で映画界を引退。その3年後の1953年に1歳年下のオードリー・ヘプバーンが、『ローマの休日』で映画デビューをしたことを思えば、あまりにも早い引退だったと言えよう。それ以後、上流階級という言葉を使うことを彼女自身は嫌っても、富裕層の一員としての生活が2014年に至るまで続いた。

ワシントンへ引っ越したシャーリーはやがて室内装飾の趣味が高じて1954年にインテリア・デザイナーの資格を取り、仕事をしようとしたことがある。富裕層の個人の邸宅を対象にすることから、アメリカの上流階級の女性は当時よくこの分野で働いていた。その時の名刺には旧姓「テンプル」は入れず、「インテリア・デコレーター、シャーリー・T・ブラック」とだけ記しており、仕事を始めたばかりなのに相当な問い合わせがあったという。ただし初めて仕事先の邸宅に出向いたところ、シャーリー・テンプルに興味津々の女性が何人も待ち構えていたので、回れ右をして引き返すとそれきり仕事は辞めてしまった。

二人は非常に仲むつまじい夫婦で、シャーリーは子供が3人いる専業主婦として子育てに専念した。義理の父はドワイト・アイゼンハワー大統領と親交があり、シャーリーと夫チャールズも大統領と親しくなる。彼女は後に、歴代の大統領で一番好きな人物としてアイゼンハワーの名を挙げている。

テレビ出演

夫の海軍退役を機に1954年にカリフォルニア州へ戻り、アサートン (英語:Atherton) で日本風庭園のついた家に落ち着くと1961年まで暮らす。つぎの引越し先はサンフランシスコ市郊外ウッドサイド (英語:Woodside)、テューダー朝風の邸宅だった。

末娘が3歳になってあまり手がかからなくなると、1958年から1961年にかけてNBCのテレビ番組に出演する。一流のスターをゲストに招く子供向け番組の司会兼ナレーターである。多額の予算をかけた『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』(1958年・英語:Shirley Temple's Storybook)と『シャーリー・テンプル・シアター』(1960年・英語:The Shirley Temple Show)の両シリーズに出演する契約の条件には、主婦として子育てをメインに据えるため一か月の拘束時間は最長3日に限ることが盛り込まれた。29歳から31歳の時期にあたり、優しい声と清楚な雰囲気は子供向け番組の司会にうってつけで視聴率は高かった。

その後もNBCのテレビ番組「The Red Skelton Show (英語)」 などにゲスト出演する。

やがて1999年にはアメリカン・フィルム・インスティチュートの選ぶ「映画スターベスト100」(CBS特別番組)で総合司会を務め、さらに自伝に基づく映画 『シャーリー・テンプル物語』(ウォルト・ディズニー・カンパニー)(2001) を監修した。

第2波、第3波のブーム

アメリカの子供向け番組の開始にあわせてゴールデン・アワーに繰り返し放送された番組がある。『シャーリー・テンプル・フェスティバル』という題で人気絶頂だった1930年代の映画を見せ、毎回高い視聴率を得た。人気に導かれて第2波のブームが起きると、デザインを変えたシャーリー・テンプル人形(アイデアル社)、『ベビイお目見得』でシャーリーが着た水玉模様の服にそっくりの子供服ほか、彼女の名前を冠した少女向けの服飾品やアクセサリーが再び売上を大きく伸ばし、さらに絵本やぬり絵も加わった。人形は発売6か月で30万体、絵本のシリーズは3か月で22万5000冊を売り上げた。夏休みやクリスマス休暇、イースター休暇には少女スター時代の作品をテレビで放送するのが恒例になっていく。

子役時代の出演作が1980年代にすべてカラー化されるとディズニー・チャンネルで放送するたび高視聴率で、ビデオやLDも人気を集めた。第3のブームである。シャーリー・テンプル人形はまたも大ヒット。テレビ放送を引き継いだフォックス放送は来る年も来る年もクリスマス当日にシャーリーの映画を放映、彼女の誕生日には恒例の特集番組を見せた。すると放送日前後に20世紀フォックス版DVDの売れ行きが伸びたという。テレビ番組『大草原の小さな家』シリーズで人気子役だったメリッサ・ギルバート(1964年生まれ)も大ファンで、毎日ビデオを見てはシャーリーに合わせて歌ったり踊ったりしたと2005年に語っている。アメリカ人は成長過程のどこかで必ずディズニーのアニメ、1939年の映画『オズの魔法使い』、シャーリー・テンプルの映画に接するという。小さなファンはあらわれ続けた。

子役時代の映画家族向けのDVDとして世界中で発売されている。子供にも理解できるように音声を吹き替えた各国語版にはイタリア語・スペイン語・チェコ語・中国語・デンマーク語・ドイツ語・ヒンディ語・フランス語・ロシア語がある。ただし、日本向け商品だけは例外で日本語音声はなく字幕のみである。

財政状況

シャーリー・テンプルが得た収入の高さは伝説として語り継がれている。

1937年を例に挙げよう。この年のアメリカ成人の平均年収は860ドル、彼女のスタンドインを務めた親友のメリー・ルー・イズライブは週給50ドルだった。映画俳優の出演料第1位はシャーリーで30万7014ドルである。大物俳優と比べてみよう。

クラーク・ゲーブル 27万2000ドル

グレタ・ガルボ 27万ドル

フレッド・アステア 26万6837ドル

スペンサー・トレイシー 21万2000ドル

ジンジャー・ロジャース 20万8000ドル

制作陣はというと、プロデューサーで脚本家のダリル・ザナックは26万5000ドル、同じくセルズニックが10万6000ドルだった。ふつう俳優は映画会社からの報酬を除くと副収入はほとんどなく、それでも大恐慌下のアメリカで最も豊かな層に属していた。その点、シャーリーにはそれに加えて人形等の商品からライセンス料450万ドルがあり、映画会社から受ける出演料のじつに約15倍に相当する。こうして見ると1930年代、彼女がどれほど図抜けて裕福な存在だったか明らかだろう。

年代順に映画会社から受け取った収入を並べた場合である。

『歓呼の嵐』週給4150ドル

Pardon My Pups 週給1000ドル、契約金3万5000ドル(受け取りは契約終了後)

母ガートルードの手当ては週250ドルに昇給

20世紀フォックスと契約が終了しセルズニックと契約すると、1944年から1年の試用期間が始まり、『君去りし後』は週給2200ドル。この作品の成功により契約期間は7年に、週給は5000ドルにそれぞれ伸び、1本当たり契約金5万ドルが上乗せされる。『アパッチ砦』が契約金11万ドルだった1948年、シャーリーは「アメリカの恋人(アメリカン・スイートハート)」と呼ばれ、娘役の人気をジューン・アリソンと二分するまでになった。収入はティーン・アイドル・スターの最高額に達する。エリサベス・テイラーはまだ後ろから彼女を追う存在だった。

女優業にカムバックした1958年、テレビシリーズ2本の出演料は1話あたり10万ドル、これに歩合給として販売益の4分の1を加えることが決まった。合計41話で出演料の総計410万ドル。テレビ界の最高額であることは言うまでもない。同時期の映画女優の出演料と比べるなら、シャーリーのテレビ出演料がどれほど別格の扱いだったことか。例えば同じティーン・アイドル出身のエリザベス・テイラーの場合、撮影に足掛け4年を費やした『クレオパトラ』(1963年)により、ようやく100万ドルに達する(歩合収入含まず)。その金額はその当時、映画女優のトップでもあった。

出演料を含むシャーリーの財政状態が明かされるのは、チャールズと結婚したばかりのころである。未成年のあいだの出演料およそ320万ドル(実収入)を含む資産のほとんどは父ジョージ名義にしてあり、父が投資に失敗、資産は大きく目減りして総額81万ドルばかりが残っていた。この話題は今も多くの本やネット上の記事で大きく取り上げられるものの、子役のジャッキー・クーガン(英語:Jackie Coogan)ほか親が蓄えを使い切り無一文になった例とは、全く状況が異なる。

シャーリーは豊かだった。22歳で父から引き継いだ資産の内訳は首都ワシントン郊外に敷地約2.5エーカー(約1万2000平方メートル・東京ドームのグラウンドよりやや狭い面積)の土地と邸宅、自分名義に書き換えた預貯金と有価証券をあわせて8万9000ドル。それ以前も以後も、父から毎週75ドルほど仕送りを受けている。

選挙

義父は世界最大の企業USスチールの重役を兼ねており、親交のあった同社の副社長に連れられてシャーリー夫妻はアメリカ最高のパワーエリートの内輪の会合に加わる。子供のときから名士たちと親交のあった彼女は、すんなりとその会にとけこんでいった。

結婚後、共和党の活動に参加、一貫して共和党中道派に属する一方で環境保護に関して熱心に活動をしたことで知られる。1967年にはドワイト・アイゼンハワー元大統領のバックアップで共和党から下院選挙に出馬するが落選。共和党が掲げたベトナム戦争の北爆続行を選挙区の有権者が嫌ったこと、彼女の立場を無所属で立候補した共和党員ピート・マクロスキー (英語 Pete McCloskey) から徹底したネガティブ・キャンペーンを受けたためである。

結果的にはマクロスキーが当選するが、彼女自身は選挙公約の第一条にベトナムからの早期の名誉ある撤退を掲げたように、戦争拡大を続ける民主党のリンドン・ジョンソン大統領に強く反対した。また減税、環境保護、ドラッグおよびポルノの規制強化を訴えている。女性の地位向上には賛成していたものの、その進展を妨げる女性解放運動の過激化には懐疑的だった。

2024/06/09 12:24更新

Shirley Temple


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