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ヒロシの情報 (ひろし)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

ヒロシの情報(ひろし) タレント 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ヒロシさんについて調べます

■名前・氏名
ヒロシ
(読み:ひろし)
■職業
タレント
■ヒロシの誕生日・生年月日
1972年1月23日 (年齢52歳)
子年(ねずみ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
熊本出身

(昭和47年)1972年生まれの人の年齢早見表

ヒロシと同じ1972年生まれの有名人・芸能人

ヒロシと同じ1月23日生まれの有名人・芸能人

ヒロシと同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


ヒロシと関係のある人

杉浦圭子: 泣いて笑って歌って(ヒロシマの女性シニアコーラス「トワ・エ・モア」)(取材制作ナレーション、1993年12月)


寺村輝夫: おむくん とむくん(多田ヒロシ、あかね書房、1965年)


篠原梨菜: 生島ヒロシのおはよう定食・生島ヒロシのおはよう一直線(2020年12月31日・2021年1月1日、生島ヒロシの年末年始休暇に伴うパーソナリティ代理)


生島ヒロシ: 新谷弘実、生島ヒロシ『ドクター新谷・生島ヒロシが「胃腸を語る」 : 対談"新谷式健康・長寿法"』弘文堂、2001年10月。


亀井宏: 『戦時少年ヒロシ


世界のうめざわ: いつもここからの山田一成(Vo)、今泉稔(Ba)、ヒロシ(Gu)と「ハートせつなく」という4人組バンドを組んでいる(うめざわはドラム担当)。


升毅: キキコミ 第1話(2007年、ニフティ) - ゴウダヒロシ


手島悠介: 1970年(昭和45年)、ヒロシマを扱った『かべにきえる少年』が、児童小説学研児童文学賞に入選したのを機に創作の道に入る。


松重美人: 松重は定年退職後の1980年8月、同じ被爆記者である中村敏(被爆当時、同盟通信記者 / その後共同通信)および大佐古一郎(被爆当時、中国新聞記者)とともに「昭和20年8月7日・8日付」のガリ版印刷『廣島特報』を発行、当時の視点から「被爆後2日間の報道の空白」を埋める試みを行った(この試みは中国新聞労働組合による1995年8月6日刊の『ヒロシマ新聞』に継承されている)。


浜名ヒロシ: 浜名ヒロシ(はまな ひろし、1950年1月26日 - 2009年10月24日)サイドボーカル担当。


山口良一: 大森ヒロシプロデュースvol.3『あおげば』(中野テアトルBONBON)


龍虎勢朋: 生島ヒロシのおはよう一直線(TBSラジオ) - 「大相撲一直線」のコーナーのコメンテーター ※電話での出演


山口良一: ドキュメンタリー・ドラマ 「ヒロシマ 復興を夢みた男たち」(2013年3月16日、NHK) - 石島治志 役


朝比奈順子: ウルトラマンA 第26話「全滅! ウルトラ5兄弟」・第27話「奇跡! ウルトラの父」(1972年、TBS / 円谷プロ) - 坂本ヒロシの姉 ※小早川純名義


笹野高史: CUT(2011年) - ヒロシ


滝川拳: 極道ロミオとミスジュリエット Love Love ラプソディー(2012年) - 鮫島組組長 鮫島ヒロシ


田中雄望: 生島ヒロシのおはよう一直線(生島のピンチヒッター)(TBSラジオ)


佐々木祐滋: 『ヒロシマの少女の折鶴』(ヤオホラン・インヘ作詞・ダリザフ・ダッシニャム作曲・倉田信雄編曲・藤公之介訳詞・オユンナ歌唱)


増田雅昭: 生島ヒロシのおはよう一直線(TBSラジオ)


西原健一郎: 高校2年生の時、藤原ヒロシのプロデュースするMILK BOYのファッションショーで音楽制作・ライブを行う。


菅生隆之: ヒロシマ 原爆投下までの4か月(レズリー・グローヴス〈リチャード・D・マズー〉)


棚橋弘至: チーム名は『ヒロシとトオル』。


佐久間宏則: 華麗なる刑事 第8話「エース・ストライカーを撃つな!」(1977年、CX) - 岡崎ヒロシ


竹村元雄: NHK広島放送局製作のドキュメンタリードラマ『シリーズ被爆70年 ヒロシマ 復興を支えた市民たち 第1回「鯉昇れ、焦土の空へ」』(2015年2月7日放送)でも紹介された。ヒロシマ 復興を支えた市民たち|NHK広島放送局 - NHKオンライン(キャスト)。


神保共子: 朗読『夏の雲は忘れない〜一九四五・ヒロシマ ナガサキ〜』サザンクス筑後大ホール(福岡)


樋口日奈: 樋口日奈×ヒロシュー(2012年8月22日) - EAN 4988009052861。


中野安子: 生島ヒロシのおいしいフライパン(同上)


外山雄三: ヒロシマのみどり(カンタータ『みどりの炎』より第2部)(1985年)


福士秀樹: 公開生放送『サタデーホットリクエスト』(「今週のHOTカルチャー」コーナー:ゲスト) NHK-FM(2007年11月17日)※福士秀樹ナレーター講座に、杏子・ヒロシ・AKINAが挑戦


ともろー: 2020年1月~ 大和ヒロシのプロレス入場曲に「ノリノリ海苔のリノベーション」が採用。


ヒロシの情報まとめ

もしもしロボ

ヒロシ(ひろし)さんの誕生日は1972年1月23日です。熊本出身のタレントのようです。

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来歴、芸風などについてまとめました。卒業、趣味、テレビ、父親、事故、家族、解散、現在、ドラマ、映画に関する情報もありますね。ヒロシの現在の年齢は52歳のようです。

ヒロシのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ヒロシ(1972年1月23日 - )は、日本のお笑いタレント、漫談師、俳優、ベーシスト、YouTuber、実業家。本名、齊藤 健一(さいとう けんいち)。 ヒロシ・コーポレーション所属・代表。

熊本県荒尾市出身。

九州産業大学商学部商学科卒業

身長172cm。

血液型O型。

趣味はキャンプ、キャンプグッズ集め、旅行、釣り、家庭菜園、熱帯魚飼育、ベースギター演奏(パンクロックが好き)。

小型船舶操縦免許取得。

愛車はスズキ・ジムニーとカワサキ・250SSマッハⅠ。

喫煙者。吸っている銘柄はセブンスター。

酒は飲めない。※50歳を超えて酒を覚えるのもいいかも(本人談)。

特技は「あるんだったら、もっとテレビに出てるよね」(本人談)。

来歴

生い立ちからデビューまで

福岡県大牟田市で生まれ、熊本県荒尾市で育つ。実家は万田坑のそばで、父は炭鉱マンだった。本名の「健一」は「健康第一」という願いを込めてつけられたもので、弟・康次(診療放射線技師をしている)と一字ずつとって合わせると「健康」となる。ヒロシ曰く、「同じ熊本とは思えない」と言われるほどの地域に住んでいた。炭鉱の街の炭鉱住宅に住み、みな生活レベルが同じだったため、貧富の差を感じたことが無かったが、中学生の時、神奈川県に住むいとこが遊びに来た際に、「汚いから」という理由でヒロシの家に泊まらずホテルを利用したことから、初めて自分の家が貧しいということを知った。1981年の秋、ヒロシが小学4年生の時、父親が仕事中の落盤事故で左ももから下を失った。炭鉱の落盤事故は珍しいことではなく、近所を歩けば片足を失った炭鉱マンと頻繁にすれ違っていたヒロシにとって見慣れていたが、父親が左脚を失った現実はなかなか受け入れることが出来なかったと語っている。父はその後、炭鉱の保健課の事務職として働いていた。父は読書家で教養のある人物だった。勉強に関しては厳しく、ヒロシが宿題で分からないところがあると叱られたり、家の外に締め出されることもあった。ヒロシ自身も、父が勉強に厳しかった理由は自分のように危険な仕事ではなく、大学を出て安定した企業でサラリーマン生活を送るという道を息子に歩ませたかったのではないかと考えている。反面、父は身体を使う仕事に誇りを持っており、ヒロシが高校生の時に、飲食店の皿洗いのアルバイトをすると激怒して辞めさせたが、土木作業や駐車場整理のアルバイトは応援してくれた。

ヒロシが小学生の頃、漫才ブームの真っただ中で、特に好きだったのがツービートの漫才だった。「芸人」という職業に衝撃を受け、自然と憧れの気持ちが強くなったのもこの頃だった。小学生の時、家族に頼み込んでなんばグランド花月に行き、初めて生のお笑いライブを観劇。その中でひときわ面白かったのが、全国区になる前のダウンタウンで、劇場の外で待つ多くの女性ファンを見て、「お笑いで頑張ればこんなにモテるんだな」と衝撃を受けた。小学生時代のヒロシは暗くいじめられっ子で、担任教師にさえ嫌われていた。中学は地元の荒尾市立荒尾第三中学校に進学。中学三年生の時の三者面談で、初めて「芸人になりたい」と打ち明けたが、教師に軽くあしらわれた。

熊本県立荒尾高等学校卒業後、指定校推薦で九州産業大学商学部商学科に進学。大学一年生の時、ヒロシは男友達2人を誘ってトリオ「貴族」を結成し、吉本興業が主催するお笑いオーディション番組「激辛!?お笑いめんたい子」(テレビ西日本)に応募。テレビ熊本で行われた熊本予選に参加するが不合格。折しも大卒のため就職氷河期の始まりの時期と重なり、就職活動で大阪府や福岡県などの企業を数社受けたが全滅。就職が決まらないまま大学を卒業し、実家に帰りしばらくダラダラとした生活を送る。その後見かねた両親が知人の伝手で保険会社に就職させ損害保険の営業の仕事に就くも、極度に人見知りの性格であったため、営業の仕事が務まらずサラリーマン生活自体不向きだと考えるようになり、入社から半年後、身内を一通り保険に加入させたところで退職した。23歳のとき、再び「激辛!?お笑いめんたい子」のオーディションに挑戦。前回一緒に出場した男友達2人には断られた為、1人で出場し、中森明菜や近藤真彦の物真似を披露。結果は不合格だったが、福岡吉本のスタッフが不合格者の中からどうしてもお笑い芸人になりたい人を募った。前回出場したときも同じような声かけはあったが、その時は勇気がなく手を挙げられなかった。しかし、2度目の挑戦のときは会社員として挫折を経験していたため、ヒロシも「もう逃げ道はない」という強い気持ちでそのスタッフに連絡した。

お笑い芸人

しばらくするとナインティナインが出演するイベントに呼ばれ、芸人になるきっかけが出来たと喜んでいたが、ヒロシがやらされた仕事はチケットのもぎりであった。その後も、ヒロシは雑用係としてイベント会場に呼ばれる日々が続いた。不安になっていたある日、突然「ライブをやるからネタを作ってこい」と言われた。そのとき残っていたのは十数組だけで、後の「福岡吉本6期生」として同期となるメンバーであった。その中には、パンクブーブーの佐藤哲夫、スパローズなどがいた。ネタ見せは福岡吉本の所長がいる中で行われた。ヒロシ自身もネタの詳細は覚えていないが、下品な下ネタを含むネタを披露したところ、所長に激怒されスリッパを投げつけられた。ネタを酷評されたことからピン芸人としてやっていくことに不安を感じ、元々漫才師を目指していたこともあり、コンビを組みたいという気持ちが強くなっていった。早速、同期に声をかけコンビを組むが、当時思い切ったことをやれば売れると勘違いしていたヒロシは、その相方に拒絶され、舞台に1度も上がることなく僅か1か月で解散。その後は3人組でコントをやり、そこそこ評判が良かったものの、短期間で解散となった。そしてツッコミが上手そうだった友納一彦を誘い、「ベイビーズ」を結成し、落ち着いた。ヒロシがあがり症で大きな声を出したい気持ちが強かったため、ベイビーズ時代はキレ芸をしていた。ライブではそこそこウケるものの一向に売れる気配がなく、事務所からの評価も最悪だったことから、友納と多くの芸能プロダクションがあり、新人発掘のライブが頻繁に行われている東京で暮らした方が良いのではないかと考えるようになった。そこで、3年間所属した福岡吉本を辞め、26歳の時に上京。当時は芸人仲間6人(その中にパラシュート部隊の矢野ぺぺもいた)と中野区の6畳一間のアパートで共同生活を送っていた。

ベイビーズ時代のヒロシは、「熊本弁の認知度を上げたい」という気持ちと、ヒロシや相方も日常生活がままならないほど方言訛りがひどく、標準語が話せなかったため熊本弁でキレ芸を展開していく。ライブ後のアンケートではいつも「何を言っているのかさっぱり分からない」と不評だった。最初は「観客が理解するようになればいい」と強気だったが、人気投票でいつも最下位だったことから危機感を覚え、徐々に標準語にしていった。ライブへの出演が続いていたある日、相方と一緒に受けたテレビ番組のオーディションにヒロシだけが合格した。それは建設現場のとび職の体験で足場の下に土佐犬が待っているというものだった。出番までの2か月間、その土佐犬の世話までさせられたが、出演料は2万5千円だった。仕事を終えて帰ると相方と温度差が出来ており、コンビは解散。相方は地元福岡に帰った。コンビ解散後、生活費に困っていたところ、ライブに出ていた芸人仲間から「ホストは稼げるし、モテるぞ」と聞いた。後々それはその芸人が自分がモテると自慢したいがための嘘だったと判明するのだが、ヒロシは騙されて知り合いの知り合いの彼女の更に知り合いという遠いつてをたどり、歌舞伎町の小さな店で働き始めた。源氏名は「冴神 剣(さえがみ けん)」で、殺し文句は「あなたの心を一刺し」。面接で酒が飲めないと知らせていたにも関わらず採用されると毎晩大量の酒を飲まされ、飲まないと怒鳴られる、長時間労働で風呂も入らず仮眠をとっただけで出勤、高熱が出て仕事を休んでも罰金3万円を払わされるといった辛い日々が続いた。指名がほとんどなかった為、給料は月3万円程度で唯一の休みだった日曜日は、コンビニでアルバイトをしていた。週1回のアルバイトなのに、ホストよりコンビニのアルバイトのほうが給与がよかった。ホストクラブを辞めようとすると「代わりのホストを探せ」と脅され、逃げようとすると1日6万円で借用書を書かされ、取り立てに来られた。また、ホスト時代はホームレスになった。当時交際していた女性が二股をしており、ヤクザ風の男たちがヒロシが芸人仲間と共同生活をしていたアパートに押しかけてきた。身の危険を感じて窓から逃亡し、それ以降はそのアパートには戻らなかった(パラシュート部隊が自身の番組でヒロシのエピソードに触れている。)。新しいアパートを借りる余裕もなかった為、ホストの客引きの時間に見知らぬ通行人に泊めてくれるように頼んだ。時々泊めてくれる人もいたが、何日もお金を払わずに居座ると追い出され、また新しい宿を探すという生活を続けていた。宿がなく二日酔い状態で意識が朦朧とし、路上で倒れているときに仲の良かったお笑いコンビのサンドウィッチマンに偶然発見され、介抱してもらったこともあった。ヒロシは後に、29歳から31歳までのこのホスト時代を「まさに生き地獄」だったと回想している。また、「ヒロシです」のネタでブレークした頃、よく「ホストキャラ」と呼ばれたが、ホスト時代に辛い経験をしていた為、そういわれるのが嫌で仕方なかったと明かしている。

ホスト時代、ヒロシは芸人に戻りたいと考えていたが、ライブやテレビ番組に出れば居場所を特定され連れ戻されるかも知れないという恐怖心を感じていた。心身ともに限界に達し、2003年の初日の出とともに誰にも告げずに荒尾市の実家に帰った。それから2か月間、実家に引きこもり、ひたすら大学ノートにネタを書き溜めた。幼い頃いじめられた経験、女性にモテなかった青春時代、ホストとしてお笑いが出来なかった悔しさなど様々な思いをネタにぶつけた。その時に生まれたのが「ヒロシです‥」のネタであった。そのネタをいつもここからの山田一成に見せに行ったところ、「いいじゃない!」と背中を押してくれた。「ヒロシ」という芸名は、フリーアナウンサーの生島ヒロシに由来する。たまたま家にあった雑誌の表紙に生島が写っており、「親しみやすい名前」だと思って採用した。早く「ヒロシです」のネタを広めたいと思い、多くのライブに出演した。数人だけが極端に笑うという状況が続き不安になって山田に相談したところ「間違ってないんだから、そのままでいい」と助言され、路線を変えずにネタを続けた。友人に借りてきたビデオカメラで「ヒロシです」のネタを収録し、若手芸人の登竜門と言われていた「爆笑オンエアバトル」宛てに送ったが、なんの音沙汰もなかった。その後も早朝に起きてネタを作り、オーディションを多数受け月20本のライブ出演をこなし、深夜アルバイトをこなすという生活を送る。そんなある日、サンミュージックプロダクションから「うちで預かります」と声をかけられ、初めて正式に芸能事務所に所属した。それから間もなく「エンタの神様」に出演(キャッチコピーは「孤独な男のモノローグ」)、これが初の全国放送出演となった。放送から数日後、どれだけ人気が出たか確かめようと吉祥寺で行われたライブの会場周辺を「ヒロシです」のBGMを流しながら何度も往復したが、誰にも気づかれず、1度全国番組に出ただけでは何も変わらないと思い知らされた。2004年、三宅裕司と同郷のくりぃむしちゅーが司会を務める「笑いの金メダル」に出演。当初は1回出演するだけの予定だったが、三宅とくりぃむしちゅーが気に入ってくれたため、その後何度か出演し、ブレイクのきっかけとなった。ブレイクする少し前、「あっぱれ!!さんま大教授」に美輪明宏の今一番気になる人としてゲスト出演した。美輪からは「誰にでも思い当たるようなことをネタにするセンスと、照明やポーズを含めた自己演出に秀でている。すごく頭がいい芸人」と称賛された。それからヒロシは美輪の大ファンとなり、彼の舞台を何度も見に行った。「笑いの金メダル」に出演してから3、4か月たった頃、給料が30万円振り込まれ、初めて売れた実感を得た。お金が貯まると家賃2万円の4畳半から渋谷にある家賃13万円の2LDKのアパートに引っ越した。荷物の搬入が終わり、近くの吉野家で牛丼を食べ終えて店を出ると週刊誌「女性自身」の記者に突撃取材を受けた。居場所が特定された恐怖心から動揺して人違いだと立ち去り、すぐに事務所に電話した。それからしばらくして「四畳半は卒業したとです…。2LDKピカピカのマンション新生活!」(2005年5月31日号)という見出しの記事がジーンズとスニーカー姿の写真付きで掲載された。これが、ヒロシの雑誌デビューとなった。2005年の『R-1ぐらんぷり』では、前回に引き続き2回目の決勝進出を果たした。決勝戦では、結果は6位だった。2005年の『第1回お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』で見事初代王者となり200万円と車を獲得した。

ヒロシがお笑い芸人を目指したのは、「女性にモテたい」というのが最大の理由だった。ブレイクしたとき、ライブ会場には出待ちの女性たちが何百人単位で詰め掛け、黄色い声援を飛ばした。「ヒロシ」と書かれたうちわを持ったファンもいた。ようやく訪れたモテ期だったが、人見知りの性格で話しかけられず、警備員に囲まれてそのままタクシーに乗せられるだけの日々が続いた。どうしても欲望に勝てなくなり、風俗店に通った。ある日、やっと購入した高級車ジャガーに乗って東京を代表する吉原の風俗店に行ったところ、それが「週刊女性」に「貧乏じゃなかとです…。白いジャガーで『ソープランド』」(2007年6月12日号)という題名で記事が掲載された。料金ほか、部屋の備品からヒロシの様子まで詳細が掲載され、ヒロシはとても恥ずかしい思いをしたが後にこれを「ヒロシです。彼女の名前を知りません。」とネタにしている。絶頂期は月収1000〜3000万円が1年ほど続き、最高月収は4000万円だった。ヒロシは炭鉱街出身だった為、贅沢が性に合わず、その当時にした贅沢は3万円のアパートから家賃48万円の家に引っ越し、高級車ジャガーを購入したくらいで、その他の稼ぎは全て風俗への利用につぎ込んだと言われている。。

ヒロシは、上記の売れても女性にモテないことや週刊誌による暴露的な報道、売れてから周囲の人間に「天狗になった」と陰口を叩かれるようになるなど様々な苦悩を経験したが、ブレイクして何よりもつらかったのは、各局の番組スタッフに嫌われたことだった。ヒロシは、思い当たる点がいくつもあると語っている。例えば、番組側が用意した「ヒロシです」のネタを披露するように言われたが自分の人生経験から生まれたこだわりのあるネタであったためそれを拒否したこと、大して面白い話も出来ないのに出演料を貰うのは申し訳ないという意味から「もうひな壇には出たくない」と発言したことなどである。いずれもコミュニケーション不足が招いた誤解だった。さらに極度のあがり症だった点もヒロシを追い詰めた。テレビ番組の収録がある時には、吐き気がして前日から眠れず、テレビ局に近づくと体が震え出した。楽屋で有名タレントに会っても緊張して話せず、収録中は意識が朦朧として、共演者が何を言っているのか、半分以上理解できない状況が続いた。ヒロシは幼い頃からあがり症ではあったが、「ここぞ」というときには力を発揮できるタイプで、テレビ出演を続ければ慣れると思っていたが一向に慣れなかった。精神的に限界を感じ、ブレイクから約5年後、ヒロシは事務所に「もうテレビに出ません」と伝えた。自分から断ったとはいえ仕事が減り、悩んでいたころ、4年ぶりに仕事で会った美輪明宏に「待つのも仕事なのよ」という言葉をかけられた。美輪はその後、ヒロシが2008年に発表した自叙伝「沈黙の轍 ずんだれ少年と恋心」の帯に推薦文を書いてくれた。ヒロシが一発屋と呼ばれ始めていた時期の上に金にはならない仕事であり、大物の美輪に頼むのは図々しいと思っていたが、美輪は快く引き受けてくれたという。

ヒロシは事務所に「テレビに出ません」と宣言後、仕事は激減した。ただし貯金や営業、インターネットテレビ番組への出演などで生活できる程度のお金はあった為、沖縄県に旅行に行ったり、釣りにはまったり、寂しさを紛らわすためにガーデニングを始めるなどヒロシ曰く「早めの老後のような生活」を送っていた。2009年11月、古巣の「エンタの神様」に久々に自虐ネタで笑いを取り、復活かと話題になったが、番組自体が2010年に終了。2010年には収入が全くない時期が3、4か月あり、事務所から給与明細すら届かなかった。生活のために違う仕事をしようと思ったが顔が知られているため、アルバイト探しも大変であった。売れなくなった一発屋芸人がアルバイトをしているとなめられる場面が容易に想像できたためである。人に会わなくて済むだろうと思い長距離トラックの運転手を目指そうと思ったが、荷物の積み下ろしで人と会うのが怖くて断念。ラブホテルのシーツ替えのアルバイトの面接に行ったが、2人1組での仕事だと聞き、働いていることをばらされたり、偶然友達と会って気まずい思いをするのを恐れて断念。元々田舎暮らしが好きだった為、田舎で農作業をやろうと考えたが、田舎ならではの濃厚な人間関係の中に「ヒロシ」が登場することで訪れる騒ぎを恐れて断念した。

ブレイクから6年後、ある日の真夜中、ヒロシは途方に暮れ18階の自宅マンションのベランダから飛び降り自殺をしようとした。眠れない夜が続き、今までに感じたこともない不安感に襲われた。1人で家にいるのが怖くて外に出ようとしたがエレベーターに乗るのが怖く、「人がいればいい」とコンビニに行ってみたがさらに恐怖感が増した。そんな時、自宅マンションのベランダに行き、「このまま死ねるな」とビルから飛び降りることだけは怖くないという今まで味わったことのない感覚になった。「このままだと危ない」と突然、我に返り福岡吉本の同期だったお笑いコンビのたかしひできのひできに電話をかけた。ひできはすぐに駆けつけてくれ話を聞いてくれたが、ヒロシは「ひできにも嫌われたらどうしよう」とひできにさえおびえてしまうという異常な事態だった。その翌日は雑誌のインタビューがあり、自分で車を運転して現場に向かったが、トンネルに入った途端、再び恐怖に襲われ、車を置いて飛び出したくなる恐怖に苛まれた。生命の危険を感じ病院の精神科を受診したところ、パニック障害と診断された。医師からは「趣味を見つけなさい」と助言された。抵抗があった薬物治療も受けた。

そんなとき、事務所からマネージャーの佐方麻緒を紹介された。ヒロシは佐方に「ライブ、やったほうがいいですよ」と助言され、しばらくは気力がなかったため断っていたが、会うたびに誘ってくれ、少しずつ気力を取り戻していった。2010年11月、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のコーナー「笑いニートを救え!ギャグマーケット」に出演。同番組への出演は6年ぶりで、名前が紹介されると出演者や観客は騒然となったが、ネタでは大きな笑いを取りコーナー進行役のさまぁ〜ずにも絶賛された。2011年、以前からお世話になっていた放送作家の高田文夫が主催するお笑いライブに出演し、テレビに出ていない間に考えた「ヒロシです」のネタを披露したところ、ライブに来ていた出版社スタッフにネタ本の出版を持ち掛けられた。ヒロシは何度も断ったが、スタッフの熱意に押され、2011年5月に東邦出版より「ヒロシです。華も嵐ものり越えて」を発表。このネタ本の影響か大きな仕事の依頼が次々に舞い込んだ。そのうちの1つが日本テレビのバラエティー「しゃべくり007」である。テレビ番組で共演する大物芸人たちもネタで笑ってくれ、笑いを取るという快感を思い出し、徐々にやる気を取り戻した。2011年にサントリーのBOSSのテレビコマーシャルに起用され、池脇千鶴の恋人役を演じたが、東日本大震災が発生し、テレビコマーシャルが自粛された時期だったため、あまり放映されなかった。2013年11月、新宿シアターモリエールで8年ぶりとなる単独ライブ『泥水』を行った。

2015年6月、バラエティ番組「しくじり先生 俺みたいになるな!!」に出演。「極度の人見知りなのに芸能界に入ってしまった先生」として登場し、2004年から2005年のブレイクから仕事を失い、今に至るまでの話を語った。番組の終わりには、教訓として「しくじっても信念があれば、その先に幸せが待っている」と伝えた。番組の評判は良く、トークの面白さを評価する声がヒロシに届いた。9月、ヒロシの名言を集めた日めくりカレンダー「まいにち、ネガティブ。」を発売し、10万部以上のヒットを記録。2016年3月、11年ぶりに「徹子の部屋」に出演。この頃からテレビ番組の仕事が徐々に増えていった。2016年11月、カレンダー「今日のネガティブ。」を発売。

2015年にYouTubeチャンネル「ヒロシちゃんねる」を開設。かねてよりヒロシが趣味とするソロキャンプを扱った動画を投稿したところキャンプファンの間で人気が広がり、再ブレイクを果たした。ソロキャンプの魅力は、「なんといっても、圧倒的な自由さ」だと語る。2018年12月には、自分の著書「働き方1.9 君も好きなことだけして生きていける」(講談社)を発売。2020年、初のキャンプ本「ヒロシのソロキャンプ~自分で見つけるキャンプの流儀~」(学研)を出版。同年の新語・流行語大賞のトップテンに「ソロキャンプ」が選出された際には、受賞者として表彰式に出席した。「『ソロキャンプ』が選ばれていて、別にヒロシが選ばれているわけではないけど、ソロキャンプの代表として呼んでいただけた。感謝しております」とコメントした。

2021年現在も続く「キャンプブーム」の先駆け的存在でもあり、キャンプユーザーの男女1000人を対象としたアンケートでは「キャンプを教わってみたい著名人」「アウトドアグッズを買う上で参考にしている映像コンテンツ」で大差をつけて第一位となっている。

自身の動画にも頻繁に登場する愛車「スズキ・ジムニー」も回を追うごとにカスタムが施されて行っており、ジムニー愛好家である「ジムニスト」からの評価も高い。

俳優

ドラマは『タイガー&ドラゴン』(TBS系)が初出演。ヒロシの役柄は、元ミュージシャン「デス・キヨシ」。2005年1月に放送されたスペシャル版と、連続ドラマ版の第7話に登場。その後、同年の『FNS ALLSTARS あっつい25時間テレビやっぱ楽しくなければテレビじゃないもん!』(フジテレビ系)枠内で放映された『THE WAVE!』に編成部員・谷口真治役で出演している。このドラマで主役を演じた明石家さんまは、いつものネタの時のヒロシとキャラクターが同じなので笑いをこらえて演技しなければならないのが困る、と述べた。

2006年、『青春★ENERGY』で連続ドラマ初出演。2007年に公開された映画『転校生 さよならあなた』(大林宣彦監督)で映画俳優デビューを果たす。その後『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』(大林宣彦監督)にも出演。いずれも本名の斉藤(本名は旧字の「齊藤」)健一で出演している。彼のファンである大林が出演を依頼したのだと言う。また『転校生』で医大生を演じるにあたり、上京して以来ずっと金髪だった髪を8年ぶりに黒くした。(その後金髪に戻している。)

2011年、土田英生演出による『バッド・アフタヌーン』にて舞台初主演。同年、日本テレビの『しゃべくり007』出演を機にメディアの露出が再び増え始める。

いつもここからの山田一成、18KINの今泉稔、世界のうめざわと「ハートせつなく」というバンドを組んでいた。バンド名は「いつもここから」のコンビ名が決まる前に、候補に上がっていた名前が由来。原由子の楽曲に同名のものがある。現在は活動停止している。現在ではパンクバンド「MARMALADE」にベーシストとして参加(ドラムは世界のうめざわ)。JAPANESE PUNK界の大御所COBRAやSAとの共演他コンスタントに東京都内中心にLIVE活動をしている。

その他

2015年6月、カフェ&カラオケ喫茶「ヒロシのお店」を開いた。個人事務所ヒロシ・コーポレーションを設立したが、店はその事務所も兼ねている。 2018年8月には「ヒロシのお店」を改装し、カフェ「FOREST COFFEE」を開店する。

2018年11月1日、ヴィジュアル系パンク・ロックバンドかまいたちの元ボーカル・SCEANAのバースデーライブ「SCEANA 生誕祭『Fxxk Off』」にベーシストとして出演。セッションバンドで憧れであったかまいたちの楽曲を本人達と共に演奏。

2020年3月17日放送のNHKラジオR1「ごごラジ!」にて、ソロキャンプをするため、関東近郊の山林3000平方メートル(1000坪)を購入したことを明らかにした。

2021年4月23日、SWITCHインタビュー 達人達(Eテレ)に出演。高校時代から憧れていた“神様”、櫻井敦司(BUCK-TICK)との対談に興じた。対談はヒロシが櫻井に宛てた手紙がきっかけで実現。手紙には「神様がいるなら櫻井さんみたいなビジュアルなんだろうなと思ったりします」と書かれていた。

2021年前半、自身が購入した中古の一軒家を、後輩でもあるバッドボーイズの佐田正樹が率いる「佐田工務店」にリノベーションを依頼した。一連の様子は佐田正樹のYouTubeチャンネルでシリーズ化され公開されている。

芸風

自身の日常や失敗談を題材とする、いわゆる自虐ネタを得意とする。基本的なスタイルは、ポケットに手を突っ込み上目使いで「ヒロシです」と名乗ってから、うつむきつつ九州弁(詳しく言えば、肥筑方言の「 - とです。」)でネタを言って笑いをとる、というもの。この時、ラテン音楽のスローナンバーやブルースがBGMとして流れる(主にペピーノ・ガリアルディの「ガラスの部屋」("Che Vuole Questa Musica Stasera") が使われる)。「ヒロシです」が3回以上繰り返される事でネタは終了する。「一発屋」と呼ばれることが多いため、近年は「給料が少なくなった」「熱烈なファンレターがパッタリ途絶えた」「テレビに出る機会が減った」などの売れなくなったネタが定番となっている。「ヒロシちゃん、あんなにテレビに出まくっていたのに、いっさい出なくなってやったぜ、ワイルドだろ?」や「安心してください、生きてますよ」など、その時の流行りの芸人の持ちネタのパロディーで、売れなくなったことをネタにすることもある。

ネタの時に音楽を流すという手法は、尊敬するいつもここからに影響を受けたものである。彼らが「悲しいとき」のネタでBGMとして使用していたカノンが好きだった為、自身のネタにも音楽を付けたいと考え、近所のTSUTAYAに行き、クラシック音楽や映画音楽などのCDを5、6枚選び、その中から他よりも哀しい雰囲気が圧倒的に良かった「ガラスの部屋」を採用した。同曲がイタリア語で失恋の歌と知ったのはそれからしばらく経ってからだった。

「ヒロシです」の「ヒロシ」のアクセントは、初期は平板型であったが、途中から頭高型に変えている。また、日常的には共通語を話し、なまりはないものの、方言を使うことで下に見られてかわいげが出るのではないかという計算があったと語っている。

テレビでネタを放送するときには、必ず、音楽番組におけるソロ・アーティストのようなディゾルブを多用したカメラワークを用いられるが、これは2003年秋からほぼ毎月ライブ出演していた『お笑いCDTV』(TBS、 - 2004年秋)のカメラマンが開発したもので、それ以降、各局で用いられるようになった。『お笑いCDTV』は、ヒロシがテレビで初めてネタを披露した番組でもある。

2024/06/12 03:05更新

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