久保寺雄二の情報(くぼでらゆうじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
久保寺 雄二さんについて調べます
■名前・氏名 |
久保寺雄二と関係のある人
立石充男: 開幕時の正遊撃手であった定岡智秋がアキレス腱断裂で長期離脱したため、三塁手の久保寺雄二を遊撃手で起用、控えの立石が三塁手に入って半月後のことであった。 元田昌義: 二軍時代の定岡智秋、河埜敬幸、久保寺雄二、新井宏昌をみっちり鍛えた。 木田勇: 1981年は、開幕第2戦の対南海戦に先発登板して完投勝利は収めたものの、久保寺雄二に満塁本塁打を打たれるなど9失点のスタート。 髙田琢登: 静岡商業から直接のプロ入りは1976年に南海からドラフト2位で指名を受けた久保寺雄二以来44年ぶりとなった。 中尾明生: 久保寺雄二・小川史とレギュラーを争い、その後も内野のユーティリティプレイヤーとして起用されるが、1988年オフに現役を引退。 田中富生: 初奪三振:同上、久保寺雄二から 大石大二郎: 3年生時には同級生で後にプロとなる久保寺雄二が遊撃手を務め、自身は3番・三塁手となりチームは県予選で本命視されていた。 島貫省一: 福島商業高では、2年次の1974年に夏の甲子園に出場も、初戦(2回戦)で大石大二郎や久保寺雄二らがいた静岡商に1-6で敗退している。 高橋三千丈: 2学年下に遊撃手の久保寺雄二、内野の控えであった大石大二郎がいた。 大石大二郎: 1985年には、高校時代からの同級生で南海ホークスに入団していた久保寺雄二が急死。 |
久保寺雄二の情報まとめ
久保寺 雄二(くぼでら ゆうじ)さんの誕生日は1958年7月18日です。静岡出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。1985年に亡くなられているようです。
久保寺雄二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 久保寺 雄二(くぼでら ゆうじ、1958年7月18日 - 1985年1月4日)は、静岡県三島市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 三島北中学校出身。卒業後の高校については決めていなかったが、野球部監督に「お前の進学先は俺に任せろ」と言われ、そのまま静岡県立静岡商業高等学校への入学が決定した。静岡商業高校では入学後すぐに遊撃手のレギュラーとなり、1974年の夏の甲子園に出場。3年生エース高橋三千丈の好投もあり準々決勝に進むが、前橋工の向田佳元に完封を喫し0-1で惜敗。翌1975年は中学時代にライバル校の選手だった大石大二郎と3、4番の打順、守備では三遊間のコンビを組み春の選抜に出場する。この大会も準々決勝に進出するが、報徳学園に3-4で敗退となった。同年夏は静岡大会準々決勝で静岡学園に敗れ、甲子園にはあと一歩届かなかった。最後の夏となった1976年、チームは順当に実力をつけており、県大会では甲子園行きの本命との呼び声が高かった。しかし、野球部関係者で一学年上の先輩が1月末に他校の生徒と喧嘩をしていたことが4月に発覚し、事態を重く見た学校の意向で県大会の出場辞退を余儀なくされてしまう。勝敗とは関係ないところで甲子園への道が断たれた久保寺は、仲間たちと大会期間中に傷心旅行として北海道へ出掛けている。 1976年に南海ホークスからドラフトで2位指名を受け入団する。背番号は幼少の頃憧れた長嶋茂雄のゾロ目の「33」。1978年に一軍に定着、二塁手、遊撃手、外野手をこなしユーティリティプレイヤーとして活躍、1980年に初めて規定打席(17位、打率.292)に到達し、リーグ最多の29二塁打を記録した。1982年オフには藤原満が突然引退、1983年はその後継として三塁手に回る。1984年からは藤原がコーチ1年目も引き続き付けていた背番号7を受け継ぎ、細身な身体で三塁手としてしばしば美技を見せた。同年は定岡智秋が5月に故障で欠場となり、その後は遊撃手としても起用された。 プロ9年目のシーズンを迎えようとした矢先の1985年、実家に帰省していた折りの1月2日、風邪の悪化により38度を超える高熱を発したため母校・静岡商高のOB会を欠席する。翌1月3日午後には一旦平熱に下がり、パチンコ店へ外出するなど体調回復をみせていた。だが同年1月4日未明の就寝中に突然もがき苦しみ、全身が痙攣する状態となって救急車で近隣の病院に搬送されたが、急性心不全により26歳で急死した。 戒名は「觀譽盛鷹雄俊信士」(かんよせいおうゆうしゅんしんし)。葬儀では近鉄の大石が友人を代表し、号泣しながら弔辞を述べた。入団当時の二軍監督でもあった南海の穴吹義雄監督は、特に残念がり「今年のキーマンと考えていたのに…痛すぎる」「まだ力の半分も出していなかったのに、天国へ行ってしまった…」と嘆き、惜しんだ。南海では3年後輩の香川伸行は、久保寺のことを「人がダメな時に、意外なことをする選手。」と評していた。 ホークスファンでもある漫画家の水島新司もその死を悼み、連載中であった漫画「あぶさん」に主人公の景浦安武とのエピソードを執筆した(単行本第32巻第五章「悲しみを乗り越えて」より)。 各年度の太字はリーグ最高 初出場・初先発出場:1977年6月3日、対阪急ブレーブス前期9回戦(阪急西宮球場)、6番・左翼手として先発出場(偵察要員、1回裏に片平晋作と交代) 初打席・初安打:1977年6月5日、対阪急ブレーブス前期11回戦(阪急西宮球場)、9回表に野村克也の代打で出場、山口高志から二塁打 初本塁打・初打点:1978年4月3日、対阪急ブレーブス前期3回戦(阪急西宮球場)、3回表に白石静生からソロ 33 (1977年 - 1983年) 7 (1984年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、200ページ ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 【1月4日】1985年(昭60) 突然もがき苦しんで…26歳久保寺雄二、就寝中に突然死 - ウェイバックマシン(2019年3月22日アーカイブ分) 静岡県出身の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 藤井将雄 - 同じホークス出身者で現役選手のまま死去。 板沢峰生 - 久保寺と同様、帰省中に急性心不全で急死。 現役中に亡くなったプロ野球選手の一覧 個人年度別成績 久保寺雄二 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1位:武藤一邦(入団拒否) 2位:久保寺雄二 3位:唐木祥一(入団拒否) 4位:村上之宏 5位:相方裕二 6位:上野克二 日本の野球選手 静岡県立静岡商業高等学校出身の野球選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 静岡県出身のスポーツ選手 1958年生 1985年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/21 11:23更新
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