大石大二郎の情報(おおいしだいじろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大石 大二郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
大石大二郎と関係のある人
水口栄二: だが、1992年、1993年も、二塁の大石大二郎、遊撃の吉田剛のサポート役としての起用が多く、レギュラーを奪うまでには至らなかった。 荻野貴司: 球団での盗塁王獲得は2006年に獲得した西岡剛以来15年ぶりで、36歳での盗塁王獲得は35歳で獲得した大石大二郎、糸井嘉男らを上回り史上最年長となった。 高橋三千丈: 2学年下に遊撃手の久保寺雄二、内野の控えであった大石大二郎がいた。 牧田勝吾: 2008年は、ひざ痛から復帰した清原和博の代わりに、不調以外の理由で誰を二軍に落とすかで大石大二郎監督は何日も頭を悩ませた結果、牧田を選択。 新井宏昌: 大石大二郎と1、2番コンビを組み、チームの得点源で大石、新井にサインに出たことはなく、動くはどうかは2人で決めていた。 糸井嘉男: 福本、大石大二郎の34歳11か月を上回る35歳2か月での受賞で、史上最年長盗塁王となった。 森脇浩司: 2007年からは秋山幸二の一軍総合コーチ就任に伴い一軍内野守備・走塁コーチに専念し、2009年は監督に昇格した秋山の下で一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチを務めたが、11月24日に「組織の活性化」を理由に大石大二郎と入れ替わる形で解任された。 水谷宏: 引退後、西本幸雄監督から「打撃投手をやってくれないか」と要請され、梨田昌孝、佐々木恭介、大石大二郎、中村紀洋ら「いてまえ打線」を陰からサポートした。 高須洋介: 背番号は「4」をもらい、同番号の前任者で引退した大石大二郎の後継者として期待をかけられる。 辻本弘樹: 2020年の7月1日付で前任の大石大二郎に代わり監督として再就任した。 鈴木郁洋: 2008年の大石大二郎監督代行就任後は、控え捕手としてはもちろん、代走要員として起用される事が多かった。 定岡正二: 巨人は当初、前年(1984年)のセントラル・リーグ首位打者だった篠塚利夫との交換を条件に、正二塁手の大石大二郎を獲得することを近鉄に打診。 大村直之: 2003年は大石大二郎をはじめとする首脳陣の方針で盗塁を積極的に試みるようになり、5年ぶりの打率3割・27盗塁と結果を残した。 福本豊: このシーズンの盗塁は55に終わり、60盗塁を記録した大石大二郎(近鉄)に連続盗塁王の記録を13年で阻まれた。 藤原満: 藤原・福本とヤクルトの若松勉が「つちのこバット」で結果を出したことで、松本匡史・高橋慶彦・大石大二郎ら俊足の選手がこのタイプのバットを使用するようになった。 郭泰源: 福本豊と大石大二郎は郭のフィールディングについても高く評価している。 森山周: テリー・コリンズの監督在任時はほとんど一軍出場が無かったが、2008年5月下旬から大石大二郎が監督代行になると、一番に一軍に呼ばれた。 谷繁元信: 福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも全試合に先発出場したが無安打は続き、11月20日の第7戦5回の第2打席で三振を喫し、1989年の大石大二郎(近鉄バファローズ)の21打数連続無安打のシリーズワースト記録を更新、22打数連続無安打を記録。 福本豊: この戦法はのちの俊足打者にも強い影響を与え、若松勉(ヤクルト)・大石大二郎(近鉄)らもつちのこバットを愛用していた。 濱中治: 4月1日の対埼玉西武ライオンズ戦では西口文也から逆転決勝1号満塁本塁打、4月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では9回裏に青山浩二から代打同点3号2ランホームラン、5月6日の対千葉ロッテマリーンズ戦では成瀬善久から逆転決勝4号2ランと、開幕直後はチャンスで好打を度々放ったが、打率は伸び悩み、大石大二郎に監督が代わると、スタメンから外れるケースも多くなった。 大島公一: 入団当初は大石大二郎が二塁手の不動のレギュラーだったが、ユーティリティープレイヤーとして1年目から三塁手や二塁手として90試合以上に出場している。 島田誠: しかし、盗塁数に関しては十分タイトルを狙える数をこなしていたが同時期に福本、大石大二郎、西村徳文などのハイレベルな他チームのライバルの高い壁に阻まれ、最多盗塁のタイトル獲得はならず、日本ハムの盗塁タイトルは前身の球団を含めても1946年創設から2013年の陽岱鋼が獲得するまで現れなかった(日本人選手では翌年の2014年に西川遥輝が獲得)。 河西俊雄: 1977年から近鉄バファローズのスカウト部長に就任し、大石大二郎・金村義明・小野和義・阿波野秀幸・赤堀元之・野茂英雄・中村紀洋・高村祐・吉井理人・加藤哲郎らを担当した。 山本隆造: 大村は山本に確認したと主張し、オリックスの大石大二郎監督も抗議した。 川藤幸三: 全セの王貞治コーチの指示で二塁を狙ったが、王の予想していた以上に鈍足だったため、秋山幸二 - 石毛宏典 - 大石大二郎の見事な中継に阻まれ二塁で悠々アウト、選手・ファンらの爆笑を誘った。 矢野祐弘: 監督・総監督の時を通じて、大橋穣、山本和行投手、古屋英夫、大石大二郎、宮本賢治投手、古川慎一、阿波野秀幸投手、佐藤和弘、与田剛投手、小池秀郎・高津臣吾・川尻哲郎ら1990年の亜大3枚看板投手を育てた。 野村謙二郎: 3年時の春季リーグ戦では亜大大石大二郎が記録した17盗塁を塗り替える18盗塁のシーズン記録を達成し、2季連続でベストナインに選出された。 長岡学: 1992年には打撃のスタイルを一変し、当時一軍の正二塁手だった大石大二郎のように、太くて重いバットを使うことで出塁率の向上を試みた。 久保寺雄二: 翌1975年は中学時代にライバル校の選手だった大石大二郎と3、4番の打順、守備では三遊間のコンビを組み春の選抜に出場する。 関口清治: 1982年は大石大二郎ら若手を抜擢し、前期3位・後期2位の通算3位、大石は同年新人王を獲得。 |
大石大二郎の情報まとめ
大石 大二郎(おおいし だいじろう)さんの誕生日は1958年10月20日です。静岡出身の野球選手のようです。
卒業、父親、結婚、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。大石大二郎の現在の年齢は66歳のようです。
大石大二郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 大石 大二郎(おおいし だいじろう、 1958年10月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、野球指導者、解説者、評論家。1987年から1990年までの登録名は、大石 第二朗(読みは同じ)。 静岡県静岡市で、鮮魚の小売・仕出し業を営む家庭に生まれた。中学校(静岡市立高松中学)では2学年上の兄が野球部主将を務めており、同じ部となる事を嫌がられたため当初は柔道部に入ったが、考えを改めて6月には野球部に移り本格的な野球を始めている。 高校も兄と同じ静岡商業高校に進み、部員50人を超す大所帯で1年生の夏からベンチ入り。1974年夏の選手権に出場し、大石本人の出場機会はなかったものの、3年生のエース高橋三千丈の力投もありベスト8進出。翌年は1番打者として春の選抜に出場し、ベスト8進出に貢献している。3年生時には同級生で後にプロとなる久保寺雄二が遊撃手を務め、自身は3番・三塁手となりチームは県予選で本命視されていた。しかし一学年上の先輩が1月末に他校の生徒と喧嘩をしていたことが4月に発覚し、チームは夏の県大会に出場できなかった。 高校卒業後は競輪選手になる事を考えていたが、父親の勧めで亜細亜大学に進学。1979年の3年次の春季リーグ戦では17盗塁をマークし、当時の東都大学リーグ新記録を樹立した。大学4年間では通算91試合出場、344打数99安打、打率.288、4本塁打、25打点、44盗塁を記録している。また、ベストナインには2回選出されている(1979年春には二塁手で、1980年秋には遊撃手で受賞。)。大学卒業後は今度こそ競輪選手になるつもりだったが、1980年のドラフト会議で近鉄バファローズに武藤一邦のハズレ2位で指名され、野球部総監督の矢野祐弘の勧めもあり近鉄に入団した。契約金は3000万円、年俸は330万円(金額は推定)。 1981年は代走や守備固めの出場が多く、77試合の出場で打数はわずか19だった。同年は西本幸雄の監督最終年で、無我夢中のまま厳しい練習で鍛えられた。 1982年はオープン戦で負傷した二塁手のビクター・ハリスが外野手にコンバートされると、オープン戦で3割以上の高打率を記録して二塁手のレギュラーとなる。同年はレギュラーシーズンで打率.274、12本塁打、47盗塁の成績を残し、新人王とダイヤモンドグラブ賞を獲得した。オフの12月12日の契約更改では約164パーセント増の年俸1000万円(推定)でサインした。 1983年、7月14日の対西武ライオンズ戦(日生球場)では6回一死満塁の打席で木村広から満塁本塁打を放った。シーズンでは60盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、福本豊の連続盗塁王記録を13年で止めた。同年から1番・二塁手に定着し、2年連続のダイヤモンドグラブ賞に加えてベストナインにも選出された。オフの12月11日の契約更改では100パーセント増の年俸2000万円(推定)でサインした。 1984年も盗塁王、ダイヤモンドグラブ賞、ベストナインを獲得し、パ・リーグを代表する二塁手となっていった。1984年のオールスターゲーム第3戦(ナゴヤ球場)ではそれまで8連続奪三振を続けていた江川卓と対戦して二ゴロを放ち、江夏豊に並ぶ9連続奪三振の記録を阻止した。オフの12月5日の契約更改では60パーセント増の年俸3200万円(推定)でサインした。 1985年には、高校時代からの同級生で南海ホークスに入団していた久保寺雄二が急死。大石は1月8日に葬儀に参列し、号泣しながら弔辞を読み上げた。4月25日の対南海ホークス戦(藤井寺球場)では6-6の同点で迎えた9回無死無走者の打席で畠山準からサヨナラ本塁打を放ったが、7月7日の対阪急ブレーブス戦で併殺プレーの際に左膝を痛め、検査の結果「左膝内側の靭帯損傷」と診断、翌8日に出場選手登録を抹消された。1985年のオールスターゲームのファン投票では26万余票を集め、2年連続の最高得票者となったが、出場辞退した。オフの12月6日の契約更改では11パーセント増の年俸3600万円(推定)でサインした。 1986年は全試合、全イニング出場。4月15日の対ロッテオリオンズ戦(平和台球場)では1回表に荘勝雄から放った初回先頭打者本塁打を含む1試合3本塁打を放つが、チームは8-9で敗れた。オフの12月18日の契約更改では45パーセント増の年俸5200万円(推定)でサインし、近鉄史上初の日本人野手の5000万円プレイヤーとなった。 1987年も全試合出場。9月14日に7歳年下の一般女性会社員の婚約を発表。翌15日より登録名を「大石第二朗」に変更。シーズンでは西村徳文(ロッテ)と並ぶ41盗塁で3回目の盗塁王を獲得したが、この頃から右肩痛が続いたため、打率は.265と低下した。オフの12月15日の契約更改では現状維持の年俸5200万円(推定)でサインした。 1988年は10.19の翌月に大阪厚生年金病院で右肩の手術を行い、12月8日には都ホテル大阪で結婚式を挙げている。 1989年は年明けから夫人も帯同してハワイやサイパンでリハビリに取り組み、その後もチームのキャンプには参加せず小松市の温泉で単独トレーニングを行った。8月3日の対オリックス戦で右ふくらはぎの肉離れが起きるなど、同年は出場が109試合に減少したものの、打率.277などトップバッターとしてまずまずの働きでチームの優勝に貢献した。現役時代の出来事では、この優勝と前年の10.19が最も思い出に残っているという。なお、読売ジャイアンツとの同年の日本シリーズ初戦(藤井寺球場)では、斎藤雅樹からシリーズ史上唯一の第1戦初回先頭打者本塁打を放っている。 1990年には肩が完全に回復してキャンプから順調な調整を見せ、6月26日の対ロッテ戦(日生球場)では3点を追う9回一死満塁の打席で伊良部秀輝から逆転サヨナラ満塁本塁打、7月13日の対日本ハムファイターズ戦(藤井寺球場)では1点を追う9回一死二塁の打席で西崎幸広からシーズン2本目のサヨナラ本塁打となる逆転サヨナラ2点本塁打を放っている。同年はリーグ2位となる打率.314、20本塁打という好成績を収めた。オフの12月25日の契約更改では1600万円増の年俸8400万円(推定)でサインした。 1991年、5月16日の対西武戦(藤井寺球場)では1点を追う9回一死二塁の打席で石井丈裕から逆転サヨナラ2点本塁打を放った。 1992年で新井宏昌が引退すると、山本和範が復帰する1996年までの間、チームの最年長選手となっている。また、同年の契約更改で年俸が1,300万円増の1億500万円(推定)となり、近鉄史上初の日本人の1億円プレイヤーとなった。 1993年には6年ぶりとなる盗塁王を獲得し、同タイトルの最年長記録に並んだ。 1994年頃からは準レギュラーとなり、「40歳までの現役と2000安打の達成」を目標として掲げていた。 1997年、5月15日の対福岡ダイエーホークス戦(大阪ドーム)では8回無死一塁の場面で、若井基安の中前へ抜けそうな打球に追いつき、一塁に悪送球してピンチを広げ、同点にされるが、4-4の同点で迎えた9回一死二塁の打席でホセ・ヌーニェスからサヨナラ2点本塁打を放った。同年夏からは監督の佐々木恭介に起用される機会が急減し、9月には球団からも引退を勧められる雰囲気となった。このような球団の姿勢をあっさり受け入れ、同月20日に現役を引退している。引退試合は翌1998年3月14日のオープン戦(対ヤクルト)で行われた。1番・二塁手で先発出場し、1回裏に伊藤智仁から右前安打を打つ。本来ならそこで交代する予定だったが、ファンからの“走れコール”に応えて盗塁を試みるも、相手捕手・古田敦也の送球に刺された。1回裏終了後にナイン総出で胴上げされている。 引退後は近鉄から二軍守備・走塁コーチへの就任を打診されたが固辞し、フジテレビ・関西テレビ野球解説者、日刊スポーツ野球評論家(1998年 - 2002年)となった。 2003年から近鉄の一軍守備・走塁コーチに就任すると、キャンプではスライディング練習にビデオを導入して選手とともにプレーを確認し、個々人の塁間走タイムやセーフティーリードの幅を計測して走塁の具体的なイメージを明確にさせた。3月28日の開幕戦の初回からタフィ・ローズがノーサインで盗塁を成功させるなど、同年はチームの盗塁が大きく増えている。 2005年に近鉄が球団統合されると、オリックスの二軍であるサーパス総合チーフコーチに就任。さらに監督の加藤英司が腰痛のため休養すると監督代行となる。 2006年にはサーパス監督に就任している。一軍監督の中村勝広とはキャンプ中から二日に一度は電話するなど密に連絡を取り合い、キャンプでは自身やスカウトも打撃投手を務めるなど精力的な指導を行った。球場では常に全力でプレーし、考えて練習に取り組むことを二軍の選手に求め、前年最下位のチームを上位争いに食い込ませた。 2007年からは一軍ヘッドコーチとなった。 2008年からは内野守備・走塁コーチも兼任。同年5月21日にシーズン途中でテリー・コリンズが監督を辞任すると、一軍監督代行に就任した。コリンズの辞任を球団から聞いたのはその2日前であったという。 監督代行に就くとそれまでのチーム方針を一変し、先発投手の1試合100球制限の撤廃、休日や早出の練習推奨などを打ち出し、また前監督ができなかった二軍視察も積極的におこなう。二軍からは小瀬浩之や森山周らを昇格させ梶本達哉を支配下登録するなど、積極的に若手を発掘するとともに細かな指導をした。一方でタフィ・ローズとアレックス・カブレラの両ベテランには実績を尊重して自主的な調整を認め、その結果は二人合わせて76本塁打、222打点の活躍と待遇に応えるものであった。また同年限りで引退した清原和博についても、大差の場面では出さないなど起用方法には気を配った。 就任時に借金7で5位だったチームは7月下旬に自力1位が消滅したものの、復調して上位争いに加わったことで8月2日には監督に昇格。これにより旧・大阪近鉄バファローズOBとして初のオリックス・バファローズ監督となり、あわせて翌2009年も続けて指揮を執ることが発表される。チームは9月上旬に2位に浮上してそのままレギュラーシーズンを終え、最終的に貯金7でクライマックスシリーズ進出を決める。同シリーズは第1ステージで日本ハムと対戦し、同年15勝を挙げた小松聖を初戦ではなく2戦目に先発させる奇策を取ったが、エラーや不運な打球もあって敗退。第1戦に近藤一樹を先発させたことについて「悔いはないが、投手交代をもう少し早くすべきだった」と述べている。 2008年の秋季キャンプではかつて同僚だった野茂英雄を臨時投手コーチとして招聘。また2009年は前年からの清川栄治、赤堀元之に加え、現役時代から長年の付き合いがある佐々木修を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制とする。しかし、同年のチーム防御率は12球団ワーストと低迷し、4人の外国人選手(ローズ、カブレラ、ラロッカ、フェルナンデス)の死球などで全員骨折・長期離脱するなどで長打力も不振。結局6月に4勝14敗、勝率.222と大きく負け越すなどシーズン終了まで再浮上のきっかけをつかめる事が出来ず2年ぶりの最下位に終わり、責任を取る形で球団本部長の中村勝広(9月30日限り)とともに解任される。 2009年11月25日に、福岡ソフトバンクホークスからヘッドコーチへの就任を発表。監督の秋山幸二は「大石さんは監督経験があるので、とても助かる。サインを出してもらっているけど、考えもほとんど一緒」と大石を信頼している。 2010年は、12球団断トツの盗塁数(148)を記録し、チーム7年ぶりのリーグ優勝に導く。 2011年のリーグ連覇・日本一(自身初)に貢献。 2013年シーズン限りで退団した。 2014年からは再び関西テレビの解説者(本数契約でテレビ西日本の解説も兼務)、2015年からJスポーツも兼務、日刊スポーツ(日刊スポーツ新聞西日本)の評論家を務める。 2015年1月より出身地である静岡県静岡市で障害者福祉のための事業所を立上げ、自らも街頭でキッチンカーに立つなどの活動を続けている。 2016年3月12日、ベースボール・チャレンジ・リーグ・新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの野手総合コーチに就任。ただし、常時チームには帯同しない非常勤となる。 2016年12月、愛知県名古屋市に本拠地を置く社会人野球チームのジェイプロジェクトの監督に就任した。2020年6月30日退任。 歴代7位の通算415盗塁を記録(2023年シーズン終了時)。 大石は福本豊を史上最高のプロ野球選手に挙げており、走攻守の総合的な能力では王貞治や長嶋茂雄にも勝るとしている。現役時代は福本に近づくことを目標とし、走塁に関してだけは7合目ぐらいまで到達できたと述懐している。 いてまえ打線のトップバッターとして、体格には恵まれていなかったが、ホームランを意識して打席に臨んでいた。1984年には29本塁打を記録している。20代の頃は1,120グラムもあるすりこぎ型のバットを使っていたが、右肩のケガを機に1,060グラムのものに変更した。バッティングに関しては特に教えられた記憶がないと言い、グリップを上げて叩きつける打法を持ち味としていた。 トップバッターは.330から.350程度の出塁率を目指すべきと語っており、一般的に長打を警戒した四球が少ない分、クリーンナップより出塁率が上がりにくいと分析している。また、初回をはじめとして試合展開の中で得点のチャンスが欲しい場面では確実に出塁することを重視していた。 プロ入りを初めて意識したのは大学3年の春に東都大学リーグ新記録の17盗塁を記録した時だといい、近鉄入団時にも特に足を評価されていた。プロでは盗塁王のタイトルを通算4度獲得し、福本豊の連続盗塁王の記録を止める存在となった。三塁への盗塁は通算74度試み、失敗はわずか3度、成功率は.959に達した。三盗は1984年から1997年に引退するまで45度連続で成功している。また盗塁だけでなく、走力によって単打を長打にすることにもこだわった。三塁にいる場面では外野フライが飛んだ瞬間にタッチアップの判断ができたという。1983年9月1日の対南海ホークス戦では、1イニングに二盗・三盗を連続して成功させ、本盗にも挑んだが失敗し、1979年の島田誠以来となる「1イニング3盗塁」はならなかった。 「足にスランプはない」という見解については否定的で、投手の癖が分からなかったり体調不良の時には積極的な走塁が難しかったと述べている。特に、右肩痛に苦しんだ時期は痛みが走塁にも悪影響を及ぼしていた。 大石が記録した415盗塁は近鉄の球団記録である。 ベースボールマガジン2023年12月号(福本豊と阪急ブレーブス)の取材を受けた際「走塁に関しては師匠らしい師匠は一人もいません。ほぼ独学です。しいて一人挙げるのならコーチ時代の仰木さんです。「失敗を恐れず走っていけ」と言ってくれました」と述べている。 同時期にパ・リーグで同じ二塁手として活躍した辻発彦や白井一幸には、俊足を生かした守備範囲の広さを高く評価されていた。1982年からは3年連続でダイヤモンドグラブ賞を受賞している。守備に際しては打者ごとの打球の傾向を把握し、さらに試合の状況も考慮に入れて守備位置を決めていた。打ち分けのうまい打者の場合は予測がしにくいので、捕手のサインを見て投球モーションに入ってから動いていたという。打球の予測には長年の経験が非常に重要で、さらにその打球を処理する良いイメージを持つことを大切にしていた。 試合中に細かく変わる守備位置については、他の内野手にその都度知らせて互いの守備や送球を円滑にする事を心がけていた。また、二塁走者がリードしている時はスタートの癖を観察し、二塁への牽制を一回で決めるために役立てていた。スタートを遅らせたい場面では、牽制もしくはそのサインを繰り返していたという。 二塁手は常に起こりうる全ての状況を想定しておく事が特に重要だと考えており、非常に頻度の低い例として走者一塁でバントが小フライとなった場合、ノーバウンドでダブルプレーを取るのが難しければワンバウンドで一塁に送球されるので、二塁手は一塁を踏む前に走者にタッチすることをあらかじめ頭に入れておくする必要がある、と語っている。 愛称は「大ちゃん」。現役時代、打席に立つと「だーいちゃーん!」コールが3回行われた後、鉄腕アトムが原曲の応援歌が流された。息子が2人おり、1990年生まれの長男が競輪選手を目指していた。 次男の大石崇晴は2012年に四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスに内野手として入団し、2013年まで2年間在籍した。その後プロ野球選手を引退し競輪選手へと転向を図り、2014年12月24日、日本競輪学校(当時)第109回入学試験に合格。2016年3月に同校を卒業。同年7月に競輪選手としてデビューし、2戦目で初勝利を挙げた。 甘いマスクの持ち主とも言われた。 各年度の太字はリーグ最高 2008年は5月23日からテリー・コリンズに代わり指揮を執る。 表中の斜体字はシーズン通年での成績 盗塁王:4回 (1983年、1984年、1987年、1993年) 新人王 (1982年) ベストナイン:3回 (1983年、1984年、1990年) ダイヤモンドグラブ賞:3回 (1982年 - 1984年) 初出場:1981年4月8日、対南海ホークス前期2回戦(日生球場)、7回裏に有田修三の代走で出場 初盗塁:1981年4月11日、対西武ライオンズ前期1回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に二盗(投手:松沼雅之、捕手:大石友好) 初安打:1981年4月26日、対日本ハムファイターズ前期4回戦(後楽園球場)、8回表に岡部憲章から単打 初先発出場:1981年7月22日、対ロッテオリオンズ後期5回戦(石川県立野球場)、9番・二塁手で先発出場 初打点:1982年4月12日、対ロッテオリオンズ前期3回戦(日生球場)、2回裏に奥江英幸から適時打 初本塁打:1982年5月5日、対西武ライオンズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に永射保からソロ 1000安打:1989年6月7日、対福岡ダイエーホークス10回戦(平和台球場)、8回表に村田勝喜から ※史上155人目 1000試合出場:1989年7月16日、対オリックス・ブレーブス12回戦(阪急西宮球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上287人目 100本塁打:1990年4月22日、対西武ライオンズ5回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に渡辺久信から先制ソロ ※史上158人目 300盗塁:1991年5月19日、対ロッテオリオンズ8回戦(秋田市営八橋球場)、9回表に二盗(投手:園川一美、捕手:青柳進) ※史上19人目 350盗塁:1993年4月11日、対日本ハムファイターズ2回戦(藤井寺球場)、延長11回裏に二盗(投手:山原和敏、捕手:田村藤夫) ※史上13人目 1500安打:1993年6月4日、対福岡ダイエーホークス8回戦(日生球場)、8回裏に木村恵二から左前安打 ※史上67人目 1500試合出場:1993年8月1日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)、1番・二塁手で先発出場 ※史上108人目 200犠打:1994年4月9日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に郭泰源から ※史上12人目 1000得点:1994年7月16日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(グリーンスタジアム神戸)、6回表にラルフ・ブライアントの適時打で記録 ※史上26人目 400盗塁:1995年8月30日、対日本ハムファイターズ22回戦(東京ドーム)、9回表に二盗(投手:西村基史、捕手:山下和彦) ※史上7人目、大卒選手としては2023年現在唯一 オールスターゲーム出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年、1987年、1989年、1990年、1992年、1993年) 43 (1981年 - 1982年) 4 (1983年 - 1997年) 81 (2003年 - 2009年、2016年 - ) 80 (2010年 - 2013年) 大石 大二郎 (おおいし だいじろう、1981年 - 1987年9月14日、1991年 - ) 大石 第二朗 (おおいし だいじろう、1987年9月15日 - 1990年) 熱チュー!プロ野球(ローカル中継のタイトルは「プロ野球中継」) プロ野球ニュース すぽると! ^ 1987年の春季リーグ戦で野村謙二郎(駒沢大学)が18盗塁し、記録を更新している。 ^ 日本シリーズで初回先頭打者本塁打は1988年の西武球場での中日対西武第3戦で中日の彦野利勝が放って以来、史上10本目。表、裏の内訳は各5本。日本シリーズで初打席が初回先頭打者本塁打なのは1985年の阪神の嶋田宗彦以来、史上8人目。 ^ NPBで逆転サヨナラ満塁本塁打は1988年7月30日の福良淳一(阪急)以来で、史上19本目(18人目)。パ・リーグでは11本目。 ^ それまでの記録は1978年の柴田勲と1982年の福本豊。 ^ 2010年に監督就任した岡田彰布も旧ブルーウェーブ選手時代のOBとして初のオリックス・バファローズ監督となる。 ^ 大石より上位の6人のうち、福本・木塚は高卒社会人から、他の4人は高卒からプロ入りしている。 ^ 朝日新聞、1998年06月14日付朝刊、静岡地方面 ^ 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.115 ^ 週刊ベースボール、1988年1月10日号、P.36 ^ 「指名選手一覧表」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)11月27日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「プロ野球情報 亜大の大石が入団」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)12月14日付朝刊、14面(スポーツ面)。 ^ 「新人王は大石(近鉄)津田(広島)」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)11月2日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「プロ野球情報 満足と新人王大石」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)12月13日付朝刊、14面(スポーツ面)。 ^ 「"ブチ"抜きなら負け」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)7月15日付朝刊、13面(スポーツ面)。 ^ 「セ・パ公式戦 全日程を終了 山本浩、大島 セ 本塁打王 パ 単独で門田 原、打点とV打の"二冠" 首位打者に真弓 落合は3年連続 最多勝利は東尾、山内和」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)10月25日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「山本浩最多の8度目 ベストナイン」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)11月10日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「福本が12年連続 ダイヤモンド・グラブ賞 東尾ら4人、初受賞」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)11月17日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「二千万で一発更改 盗塁王の近鉄・大石」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)12月12日付朝刊、14面(スポーツ面)。 ^ 「ブーマー、外人初の三冠王 「パ」公式戦日程終了 最多V打も制す 投は今井二冠 防御率、最多勝」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)10月1日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「高沢(ロッテ)初の栄誉 若松最多九度目 ベストナイン」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)10月25日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「簑田、7度目の栄冠 ダイヤモンド・グラブ賞 高沢(ロッテ)初の受賞」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)11月17日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「"快投乱麻"江川ひとり舞台 8連続奪三振 MVP 掛布V打 中畑とどめの一発」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)7月25日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「大石は一発サイン」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)12月6日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「大石、サヨナラ2号」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)4月26日付朝刊、16面。 ^ 「近鉄・大石、ケガで休養」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)7月9日付朝刊、17面。 ^ 「近鉄・大石が球宴を辞退」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)7月16日付朝刊、17面。 ^ 「球界ルポ 梨田、捕手のNO1に」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)12月7日付朝刊、17面。 ^ 「球界ルポ 18日 近鉄・大石5000万乗せ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1986年(昭和61年)12月19日付朝刊、17面(スポーツ面)。 ^ 「大石、苦手・荘カモに」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1986年(昭和61年)4月16日付朝刊、17面。 ^ 「ロッテ "ああ"初勝利 乱戦25安打 投手も10人 大石の3発実らず」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1986年(昭和61年)4月16日付朝刊、17面。 ^ 「球界ルポ 15日 近鉄・大石、現状維持でサイン」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1987年(昭和62年)12月16日付朝刊、17面(スポーツ面)。 ^ 「大石、心機一転 婚約と改名」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1987年(昭和62年)9月15日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 「首位打者・新井 本塁打王・秋山 パリーグの全日程終了」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)10月22日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 週刊ベースボール、1989年5月1日号、P.53 ^ 「近鉄・大石第二朗内野手(三〇)が肉離れ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)8月5日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.185 ^ 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.116 ^ “近鉄・加藤哲郎が明かした「巨人はロッテより弱い」発言の真相”. 文春オンライン. (2020年11月25日). https://bunshun.jp/articles/-/41791?page=1 2020年12月1日閲覧。 ^ 「シリーズ記録 第1戦 大石の先頭打者本塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)10月22日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 「史上19本目の逆転サヨナラ満塁弾」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)6月27日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 「大石逆転サヨナラ満塁10号」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)6月27日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 「野茂50年ぶり新人新 11度目2ケタ奪三振 大石祝砲、逆転サヨナラ 近鉄8連勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)7月14日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 「ボクらも来年「一億」狙う 大石は8千万、高木は7千万円超す」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)12月26日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 「西武サヨナラ負け 大石逆転2ラン 野茂3勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1991年(平成3年)5月17日付朝刊、18面(スポーツ面)。 ^ 読売新聞、1992年12月20日付朝刊、P.14 ^ 「辻10年目、初の首位打者 本塁打 打点 ブライアント二冠 パの全日程終了」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1993年(平成5年)10月20日付朝刊、21面(スポーツ面)。 ^ 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.114 ^ 「大石 38歳 サヨナラ2ラン エラー帳消し「夢みたい」 再浮上へ「のろし」」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1997年(平成9年)5月16日付朝刊、20面(スポーツ面)。 ^ 「大石が引退」『北海道新聞』(縮刷版) 1997年(平成9年)9月21日付朝刊、17面(スポーツ面)。 ^ “大石大二郎が引退試合でライトへ鮮やかに快打(1998年3月14日) | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年10月10日閲覧。 ^ 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.117 ^ 週刊ベースボール、2003年6月3日号、P.22 ^ 週刊ベースボール、2006年3月27日号、P.88 ^ Number、2008年11月27日号、P.82 ^ Number、2008年11月27日号、P.83 ^ 大石大二郎ヘッドコーチ入団のお知らせソフトバンク球団公式サイト2009年11月25日配信 ^ 中川充四郎 パ・リーグびいきデスヘッドコーチは監督とは違ったチームの「重し」スポーツニッポン ^ HAWKS 2010―今年はやったばい、西日本新聞社、58頁、2010年 ^ コーチの退団についてソフトバンク球団公式サイト2013年10月11日配信 ^ “ピンク色のキッチンカーでカレー販売 元近鉄・大石大二郎氏が歩む第2の人生”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― (2021年12月23日). 2021年12月22日閲覧。 ^ “ジェイプロジェクト監督就任の大石氏が会見「やる以上は日本一を」”. スポニチ (2016年12月7日). 2017年1月23日閲覧。 ^ “大石大二郎氏、ジェイプロジェクト監督退任”. 日刊スポーツ (2020年7月1日). 2020年7月1日閲覧。 ^ 週刊ベースボール、1996年6月18日号、P.116 ^ 週刊ベースボール、2000年6月12日号、P.20 ^ 週刊ベースボール、1990年6月18日号、P.114 ^ 山田が貫く盗塁スタイル - スポニチ ^ 玉木正之『プロ野球大辞典』新潮社<新潮文庫>、1990年、p.93 ^ 週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ ^ ベースボールマガジン 2023年12月号(福本豊と阪急ブレーブス)、13年連続盗塁王を止めた男、 大石大二郎[元近鉄]の告白 数字で超えても巨大な壁、49頁、ベースボールマガジン社 ^ 週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.183 ^ 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.20 ^ 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.23 ^ 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.22 ^ “引退覚悟の90年は開幕2発で「いける」大石大二郎 - プロ野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2021年10月10日閲覧。 ^ 週刊ベースボール、「2009年プロ野球選手名鑑」 ^ 【競輪】元近鉄・大石氏の息子が合格 - デイリースポーツ 2014年12月24日付 ^ 日本競輪学校第109回入学試験合格者名簿 (PDF) - JKA ^ 新登録選手(男子第109期) 成績上位選手あっせん一覧 (PDF) ^ 元オリ監督息子 大石崇晴 2戦目でデビュー初勝利「迷わず行けるとこから仕掛けた」 - スポーツニッポン、2016年7月23日 ^ “中西太に関するトピックス”. 朝日新聞デジタル (2013年10月9日). 2019年11月27日閲覧。 ^ 「近鉄・大石(三〇)が通算1000本安打」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)6月8日付朝刊、23面(スポーツ面)。 ^ 「大石通算1000試合出場」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)7月17日付朝刊、21面(スポーツ面)。 ^ 「近鉄・大石第二朗内野手が通算100号本塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)4月23日付朝刊、18面(スポーツ面)。 ^ 「大石が300盗塁」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1991年(平成3年)5月20日付朝刊、18面(スポーツ面)。 ^ 「近鉄・大石が350盗塁」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1993年(平成5年)4月12日付夕刊、17面。 ^ 「近鉄・大石内野手が1500安打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1993年(平成5年)6月5日付朝刊、19面(スポーツ面)。 ^ 「記録メモ 大石(近鉄)1500試合出場」『北海道新聞』(縮刷版) 1993年(平成5年)8月2日付朝刊、16面(スポーツ面)。 ^ 「近鉄・大石が1000得点」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)7月17日付朝刊、17面(スポーツ面)。 ^ 「大石 史上7人目 400盗塁」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1995年(平成7年)8月31日付朝刊、27面(スポーツ面)。 静岡県出身の人物一覧 亜細亜大学の人物一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 10.19 個人年度別成績 大石大二郎 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 三宅大輔 1936 - 1937 村上実 1937 山下実 1938 - 1939 村上実 1939 山下実 1940 井野川利春 1940 - 1942 西村正夫 1943 - 1944, 1946 - 1947 浜崎真二 1947 - 1953 西村正夫 1954 - 1956 藤本定義 1957 - 1959 戸倉勝城 1959 - 1962 西本幸雄 1963 - 1973 上田利治 1974 - 1978 梶本隆夫 1979 - 1980 上田利治 1981 - 1990 土井正三 1991 - 1993 仰木彬 1994 - 2001 石毛宏典 2002 - 2003 レオン・リー 2003 伊原春樹 2004 仰木彬 2005 中村勝広 2006 テリー・コリンズ 2007 - 2008 大石大二郎 2008 - 2009 岡田彰布 2010 - 2012 森脇浩司 2013 - 2015 福良淳一 2016 - 2018 西村徳文 2019 - 2020 中嶋聡 2021 - 2024 岸田護 2025 - 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 表 話 編 歴 1950 木塚忠助 1951 木塚忠助 1952 木塚忠助 1953 L.レインズ 1954 鈴木武 1955 森下正夫 1956 河野旭輝 1957 河野旭輝 1958 R.バルボン 1959 R.バルボン 1960 R.バルボン 1961 広瀬叔功 1962 広瀬叔功 1963 広瀬叔功 1964 広瀬叔功 1965 広瀬叔功 1966 山本公士 1967 西田孝之 1968 安井智規 1969 阪本敏三 1970 福本豊 1971 福本豊 1972 福本豊 1973 福本豊 1974 福本豊 1975 福本豊 1976 福本豊 1977 福本豊 1978 福本豊 1979 福本豊 1980 福本豊 1981 福本豊 1982 福本豊 1983 大石大二郎 1984 大石大二郎 1985 松永浩美 1986 西村徳文 1987 西村徳文, 大石第二朗 1988 西村徳文 1989 西村徳文 1990 秋山幸二 1991 大野久 1992 佐々木誠 1993 大石大二郎 1994 佐々木誠 1995 イチロー 1996 村松有人 1997 松井稼頭央 1998 松井稼頭央, 小坂誠 1999 松井稼頭央 2000 小坂誠 2001 井口資仁 2002 谷佳知 2003 井口資仁 2004 川﨑宗則 2005 西岡剛 2006 西岡剛 2007 片岡易之 2008 片岡易之 2009 片岡易之 2010 本多雄一, 片岡易之 2011 本多雄一 2012 聖澤諒 2013 陽岱鋼 2014 西川遥輝 2015 中島卓也 2016 金子侑司, 糸井嘉男 2017 西川遥輝 2018 西川遥輝 2019 金子侑司 2020 周東佑京 2021 源田壮亮, 荻野貴司, 和田康士朗, 西川遥輝 2022 髙部瑛斗 2023 周東佑京, 小深田大翔 2024 周東佑京 表 話 編 歴 投 東尾修 捕 香川伸行 一 落合博満 二 大石大二郎 三 スティーブ.O 遊 石毛宏典 外 島田誠 / テリー.W / 簑田浩二 指 門田博光 表 話 編 歴 投 今井雄太郎 捕 藤田浩雅 一 ブーマー.W 二 大石大二郎 三 落合博満 遊 弓岡敬二郎 外 簑田浩二 / 高沢秀昭 / T.クルーズ 指 L.リー 表 話 編 歴 投 野茂英雄 捕 伊東勤 一 清原和博 二 大石第二朗 三 松永浩美 遊 田中幸雄 外 秋山幸二 / 石嶺和彦 / 西村徳文 指 O.デストラーデ 表 話 編 歴 1972 大下剛史 1973 桜井輝秀 1974 桜井輝秀 1975 B.マルカーノ 1976 B.マルカーノ 1977 山崎裕之 1978 B.マルカーノ 1979 B.マルカーノ 1980 山崎裕之 1981 山崎裕之 1982 大石大二郎 1983 大石大二郎 1984 大石大二郎 1985 西村徳文 1986 辻発彦 1987 白井一幸 1988 辻発彦 1989 辻発彦 1990 辻発彦 1991 辻発彦 1992 辻発彦 1993 辻発彦 1994 辻発彦 1995 小久保裕紀 1996 大島公一 1997 大島公一 1998 金子誠 1999 金子誠 2000 大島公一 2001 井口資仁 2002 高木浩之 2003 井口資仁 2004 井口資仁 2005 西岡剛 2006 田中賢介 2007 田中賢介 2008 田中賢介 2009 田中賢介 2010 田中賢介 2011 本多雄一 2012 本多雄一 2013 藤田一也 2014 藤田一也 2015 L.クルーズ 2016 藤田一也 2017 鈴木大地 2018 中村奨吾 2019 浅村栄斗 2020 外崎修汰 2021 中村奨吾 2022 外崎修汰 2023 中村奨吾 2024 小深田大翔 表 話 編 歴 1位:石本貴昭 2位:大石大二郎 3位:花房健 4位:依田栄二 表 話 編 歴 宮井勝成 内田俊雄 宮崎康之 木下智裕 香坂英典 中本茂樹 二保茂則 向田佳元 井辺康二 三谷志郎 有賀佳弘 長井研介 市川和正 岡田彰布 小川淳司 谷真一 大石大二郎 高木豊 原辰徳 植村忠 熊野輝光 島貫省一 西川公紹 表 話 編 歴 島岡吉郎 福島敦彦 松本吉啓 森岡真一 藤川正博 加治太 野口裕美 高久孝 松井智幸 長村裕之 渋谷卓也 西弘顕 大久保盛義 平田勝男 大石大二郎 高木豊 原辰徳 堀添弘和 豊田和泰 栗山和行 西田真二 武藤一邦 日本の野球選手 静岡県立静岡商業高等学校出身の野球選手 亜細亜大学硬式野球部の選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 盗塁王 (NPB) パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 野球解説者 日本の野球監督 オリックス・バファローズ及びその前身球団の監督 福岡ソフトバンクホークス関連人物 社会人野球指導者 競輪に関連する人物 静岡県出身のスポーツ選手 静岡市出身の人物 1958年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/17 19:24更新
|
ooishi daijirou
大石大二郎と同じ誕生日10月20日生まれ、同じ静岡出身の人
TOPニュース
大石大二郎と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「大石大二郎」を素材として二次利用しています。