関口清治の情報(せきぐちせいじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
関口 清治さんについて調べます
■名前・氏名 |
関口清治と関係のある人
河野昭修: 西鉄黄金時代において、中西太・大下弘・関口清治のクリーンアップの後の六番打者を務めた。 稲尾和久: 監督就任に当たって、ヘッドコーチ・関口清治、バッテリーコーチ・和田博美を招聘。 内海哲也: なお、西武で27を投手が着用するのは、前身の西鉄~太平洋クラブ~クラウンライター(福岡本拠)時代を含めても初めてだった(福岡本拠時代は内野手及び外野手(関口清治・田中久寿男・竹之内雅史など)が、西武時代1981年に内野手の大原徹也が着用した後、1982年入団の伊東勤が着用して以降は正捕手の番号として定着し、2024年には炭谷も現役捕手として西武に復帰し、再度27を着用したことから、同年までの時点では唯一の投手による着用事例となった。 小淵泰輔: この二塁打と、このシリーズでは絶不調だった関口清治が意地で放ったセンター前へのタイムリーヒットでチームは同点に追いつき、10回裏の稲尾和久のサヨナラホームランで勝利、奇跡の逆転日本一につながる。 大下弘: 1955年は辛うじて三割をキープ(.301〔リーグ6位〕)するが、12本塁打、63打点は中西太・豊田泰光・関口清治・高倉照幸ら他の若手主力打者に劣る成績に終わる。 寺田陽介: 上記の落球事件が有名であるが、1956年8月14日の西鉄戦では、逆に寺田が打ち上げた凡フライを西鉄の関口清治が落球し、逆転打となった経験もある。 岩下光一: 東映は6回表無死に阪急先発の秋本祐作からスイッチした2番手の足立から岩下が左翼への本塁打で同点、西園寺昭夫の適時二塁打でまたまた逆転と慌ただしく、その裏から2番手の富永格郎へとスイッチし逃げ込みを図ったが、7回裏二死二塁から杉山光平の適時二塁打でまた追いつかれ、関口清治の適時二塁打で勝ち越された。 田部輝男: 翌1951年、西鉄クリッパースとの合併で西鉄ライオンズ創設時にも永利勇吉、関口清治とクリーンナップを組み、後半戦は欠場したが前半戦は4番を張った。 花井悠: 当時の西鉄の外野陣には関口清治、高倉照幸、玉造陽二が揃っており、なかなかレギュラーには届かなかったが、黄金時代を築いたチームの脇役として活躍した。 永利勇吉: 同年は開幕から5番・左翼手を務めたが、シーズン途中に関口清治と守備位置を交換し、3番・右翼手に定着した。シーズン終了後、西日本の解散に伴い、西鉄ライオンズへ移籍したが、西鉄では深見安博、関口清治、塚本悦郎らとの競争で準レギュラーに留まり、1955年に引退した。 田村満: 4番大下弘の適時打を挟んで、5番関口清治、6番河野昭修、代打に送られた7番松井清にも再び3連続四球を与えた。 高倉照幸: 1957年からは1番打者に定着し、豊田泰光・中西太・大下弘・関口清治らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれた。 荒巻淳: 1961年オフに星野組のチームメイトで前大毎監督であった西本が阪急のコーチに就任すると、同じくチームメイトであった西鉄の関口清治と共に阪急へ移籍。 豊田泰光: 一死三塁となったが、期待のかかった4番の中西がサードゴロに倒れ、二死となって5番の関口清治の場面では、豊田は「どんな神様でもいいです。 藤田元司: この年の第5戦では、1点差に迫られながらもあとアウト一つで日本一に輝く場面で二死三塁のピンチを迎え、シリーズ全体で不振だった関口清治の胸元へシュートを投げ込んだところ同点適時打となり、最終的に稲尾が本塁打を放って逆転負けを喫する(西鉄はそのまま逆転優勝を果たす)。 今久留主功: 関口清治、荒巻淳、西本幸雄、兄・淳と、後にプロ野球で活躍する選手と共に都市対抗野球にも出場し、全国制覇に貢献した。 山本一義: 近鉄は当初翌年のコーチ留任を前提としていたため、カレンダーには、このオフに西本の後任として監督に昇格したばかりの関口清治を囲む山本他一軍首脳陣の写真を掲載していたが、山本のロッテ監督就任要請を受けて「ごく最近ですがロッテから話がありました。 水原茂: しかしその裏西鉄の代打小淵泰輔の三塁線への打球を二出川延明塁審がフェアと判定したことに水原・三塁手長嶋茂雄がファウルだと抗議、結局判定は覆らずその後関口清治がセンターにタイムリーヒットを放って同点、延長10回に稲尾和久のサヨナラ本塁打(シリーズ史上初)で試合を落とした。 戸倉勝城: ^ 西鉄ライオンズから加入した関口清治外野手が、移籍前からの27番を着用するために変更。 大里昂生: 恩師関口清治監督の母校である東北福祉大学に進学。 中西太: 大下弘・豊田泰光・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年に球団初のリーグ優勝を飾る。 |
関口清治の情報まとめ
関口 清治(せきぐち せいじ)さんの誕生日は1925年10月9日です。旧 台湾出身の野球選手のようです。
選手としての特徴、詳細情報などについてまとめました。兄弟、卒業、現在、引退、テレビに関する情報もありますね。81歳で亡くなられているようです。
関口清治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 関口 清治(せきぐち せいじ、本名:きよはる〈名の読み〉、1925年10月9日 - 2007年6月9日)は、台湾台北州台北市出身のプロ野球選手(外野手)・プロ野球コーチ・監督、解説者。 台北で建築業を営む8人兄弟の一人として生まれた。台北工業では、1942年に甲子園球場で開かれた文部省主催の全国中等学校野球大会(別名・幻の甲子園)に出場したが、1回戦で海草中学に3-2で惜敗した。関口自身はこの試合で三塁打を放っている。卒業後は実家の建築業を継ぐために官立横浜工業専門学校(現在の横浜国立大学工学部)に進学する予定だったが、その頃日本の制海権は完全に敵の手に抑えられていたため、受験することが出来なかった。そのため、卒業後はそのまま台湾の軍隊に入隊。終戦後は社会人野球の全武生→信州化学を経て、1948年に読売ジャイアンツへ入団。 巨人では肩の故障で11試合の出場に留まり、三原修監督の助言で1949年に巨人の制限選手のまま、社会人野球の星野組へ入部。巨人の制限選手のまま星野組へ入部したことについて、三原の「温泉で療養するようにしなさい」という配慮とも言われている。一方で、当時巨人は星野組のエース・荒巻淳の獲得を狙っていたが、星野組の社長は都市対抗で優勝するまでは荒巻を手放さないという情報を入手、星野組は打力が弱かったため三原が関口を星野組に貸し出すことにした、との話も伝わっている。 関口は星野組では4番を打ち、荒巻淳・西本幸雄・今久留主淳・今久留主功らといった、後にプロ野球で大活躍する選手らとともに第20回都市対抗野球大会でチームを全国制覇に導いた。 1950年に2リーグに分裂すると、西本や荒巻が入団した毎日オリオンズに関口も入ろうとする。しかし、巨人の制限選手だったことからこれは叶わず、一方で当時の巨人の外野は層が厚く復帰しても入り込めそうにもないことから、結局はセ・リーグの西日本パイレーツの結成に参加し、プロ野球に復帰した。ここで関口は左翼手の定位置を掴み、18本塁打73打点といずれもチーム2位の記録を挙げる。 翌年には西日本パイレーツとパ・リーグの西鉄クリッパースが合併して出来た西鉄ライオンズに籍を置き、後に迎える西鉄黄金時代の5番打者を務めた。三原の西鉄監督時代は2番豊田泰光と常に不動のオーダーだった。 シーズンでは初のリーグ優勝を決めた1954年に自分の背番号と同じ27本塁打を、1956年にはシーズン最多となる13三塁打を放ってチームに貢献した。 また日本シリーズでも1956年の巨人戦で史上初となるシリーズ4本塁打を放つなど大活躍したが、その最たるものは1958年の日本シリーズ、西鉄の1勝3敗で迎えた第5戦、2対3とリードされた9回裏2アウト3塁、凡退なら巨人の日本一が決まる場面で藤田元司からセンターに同点タイムリーを放ち、0勝3敗からの逆転日本一につなげた1打は“一千万円安打”(この年関口は10年選手の特権を得たため、多額のボーナスが入ることにかけられたものである)としてあまりにも有名(試合はその後10回裏にエースの稲尾和久が藤田のリリーフとして登板した大友工からサヨナラのソロホームランを放って勝利した)。 引退後は阪急で二軍打撃コーチ(1964年 - 1966年)・一軍打撃コーチ(1967年 - 1969年)を務め、リーグ3連覇に貢献。 1970年に稲尾が西鉄の監督に就任すると、関口も西鉄にヘッドコーチとして復帰。 1972年からは一軍打撃コーチとなり、球団が「太平洋クラブ」となった1973年退任。 1974年から1981年まで近鉄一軍打撃コーチを務め、阪急に続いて近鉄でも盟友・西本の名懐刀として手腕を発揮し、リーグ2連覇に貢献。西本の「真面目にやってきたのだから一度くらい陽のあたるポジションに」という推薦もあり、1982年から1983年まで後任の監督を務めた。1982年は大石大二郎ら若手を抜擢し、前期3位・後期2位の通算3位、大石は同年新人王を獲得。1シーズン制に戻った1983年は4位に終わる。在任中は「伸び伸び野球」をモットーにし、一度も選手を怒らなかった温厚な性格で誰からも好かれたが、地味な内容であったとも評された。指導者引退後はラジオ大阪(1984年 - 1986年)・KBS京都・テレビ西日本解説者も務め、プロ野球ニュースにも度々出演していた。 2007年6月9日、慢性閉塞性肺疾患のため福岡市内の病院で死去。81歳没。 選手としての特徴巨人時代はカーブが打てず「目ぇ開いとんのかっ!」とよく怒鳴られていたが、のちにカーブ打ちをマスターして「カーブ打ちの名手」といわれるようになった。西鉄入団間もない豊田泰光(彼はカーブ打ちがとても苦手だった)が教えを乞うたところ、「ゼニもってこい」と言ったとされる。しかし、関口本人は「自分も偶然でカーブを打つコツを掴んだものだから、教えることが出来ない」と述べており、自身も巨人での新人時代に川上哲治に教えを乞うたところ、叱咤激励の意味で「そんなこと簡単に教えられるか」と言われ、それと同様の意味で「ゼニもってこい」と表現したとされる。 詳細情報年度別打撃成績
各年度の太字はリーグ最高 年度別監督成績
表彰ベストナイン:2回 (1954年、1958年) 日本シリーズ技能賞:1回 (1956年) 記録1000試合出場:1958年4月14日 ※史上44人目 オールスターゲーム出場:5回 (1954年、1955年、1957年、1958年、1960年) 背番号24 (1948年) 25 (1950年) 27 (1951年 - 1963年) 63 (1964年 - 1969年) 50 (1970年 - 1983年) 2024/06/16 07:29更新
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