寺田陽介の情報(てらだようすけ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
寺田 陽介さんについて調べます
■名前・氏名 |
寺田陽介と関係のある人
長谷川繁雄: 同年は開幕直後から一塁手、五番打者に抜擢され、寺田陽介とレギュラーを争う。1961年までレギュラーの座を守るが、1962年に寺田陽介とカールトン半田(半田春夫)と共に、井上登との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。 加藤翔平: また、チーム移籍後初打席での本塁打は寺田陽介以来2人目である。 濃人渉: 1954年から監督専任、江藤愼一、古葉竹識、寺田陽介、吉田勝豊らを育て「濃人学校」と呼ばれ教祖的な人気を得て九州の野球のレベルアップにも貢献。 島原幸雄: この年通算9勝目を挙げたが、年末に球団がノンプロ日鉄二瀬の強打者・寺田陽介を獲得する見返りに島原を日鉄に譲渡するというトレードの噂が流れた。 権藤正利: 次に、東映フライヤーズの山本久夫との交換を狙うが、先に中日ドラゴンズの寺田陽介とのトレードが先に決まってしまう。 ジョー=スタンカ: 2死までこぎ着けるが、藤尾茂のフライを一塁手の寺田陽介が落球、長嶋茂雄のゴロを三塁手の小池兼司がファンブルするというエラーが重なり、満塁となる。 カールトン半田: 1962年には寺田陽介と長谷川繁雄と共に、井上登との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。 広瀬叔功: この本塁打は9回裏のドラマ(寺田陽介の落球、スタンカの宮本敏雄への一投のボール判定とその直後のサヨナラ打)の序幕となっている。 |
寺田陽介の情報まとめ
寺田 陽介(てらだ ようすけ)さんの誕生日は1934年11月19日です。福岡出身の野球選手のようです。
引退、テレビ、事件、現在に関する情報もありますね。寺田陽介の現在の年齢は90歳のようです。
寺田陽介のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(一塁手)。右投右打。 博多工業から濃人渉が監督を務める日鉄二瀬に進む。1954年から2年連続で都市対抗野球大会に出場。1955年の大会では東洋高圧大牟田に補強され、日立製作所との1回戦で決勝本塁打を放つなど活躍。準々決勝で全鐘紡に敗退するが好打者として注目を集める。この時のチームメートに小淵泰輔がいた。 1956年に南海ホークスに入団。入団に当たっては地元の西鉄ライオンズとの間で激しい争奪戦があり、西鉄が投手の島原幸雄を獲得の見返りに日鉄に譲渡するという噂まで流れたほどであった。当時、南海の監督であった鶴岡一人は、守備はよい一方で、「穴が多く、いい投手にかかると打てないという欠点」があり、期待ほどの実績はあげられなかったと評しているものの、南海が400フィート打線と称していた打線の担い手の一人と位置づけられていた。 1年目の1956年には開幕から一塁手として出場、同じく新人の長谷川繁雄との併用ながら41試合に先発出場を果たす。翌1957年は長谷川が外野手に回り、八番打者、一塁手に定着、初の規定打席(24位、打率.234)にも達した。1959年には自己最多タイの本塁打13本を記録しオールスターゲームに初出場、第1戦で二塁打を記録。同年のリーグ優勝に貢献し、読売ジャイアンツとの日本シリーズでは全4試合に先発、15打数7安打4打点の活躍で首位打者賞を獲得、チーム日本一を支える。 1961年は五番打者として起用される試合も多く、打線の中軸として自身2回目のリーグ優勝を経験。読売との日本シリーズでも第1戦で堀内庄から本塁打を放つなど活躍。第4戦、9回裏二死の場面で、この打者を抑えれば勝利だったが、代打藤尾茂の打ち上げた飛球を一塁手の寺田が落球。このあと二死満塁となって迎えた宮本敏雄の打席で球審・円城寺満の判定をめぐるトラブルの後、宮本に適時打を打たれサヨナラ負けとなった。寺田は第5戦で伊藤芳明、最終第6戦でも堀本律雄から本塁打を放ち気を吐くが、結果的に第4戦の失策がシリーズの流れを変えてしまい巨人が優勝、まさに南海にとっても寺田にとっても痛恨の失策だった。 1962年に、半田春夫、長谷川繁雄と共に、井上登との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍(南海監督であった鶴岡一人は、「このまま南海にいたら、ヤジなどで苦しむ」と思ってトレードに出したと言っている)。開幕直後は四番打者としても起用され、移籍後初打席ではホームランを放つ活躍をする。なお、チーム移籍後の初打席でのホームランは2021年に加藤翔平が打つまでは寺田だけが持つ唯一の記録であった。 同年のシーズン前半はレギュラーとして出場するが、打撃不振が続きドン・ニューカム、ラリー・ドビーに定位置を譲る。1964年に山本久夫との交換トレードで、東映フライヤーズに移籍するが、あまり活躍の場はなく同年限りで引退した。 鶴岡によると、中日で1シーズンだけプレーしたあとに鶴岡のところにやってきて、「フライを捕るたびに、あのことを思い出します」と言って、選手を続ける自信を失っていたという。 引退後は完全に球界と絶縁同然の状態にあったが、1989年にテレビ朝日で放送されたセ・パ両リーグ発足40年を記念したドキュメンタリー番組に落球事件の証言者として出演、久々に公の場に姿を見せた(当時石材加工業を営んでおり、仕事場で取材に答えていた)。また、南海OBを中心に運営されている少年野球チーム『ジュニアホークス』の選手がTBS「筋肉番付」の「ストラックアウト」に挑戦した際も、同チームの関係者として登場していた。現在も同業(平尾石材店)を続けている。 上記の落球事件が有名であるが、1956年8月14日の西鉄戦では、逆に寺田が打ち上げた凡フライを西鉄の関口清治が落球し、逆転打となった経験もある。 日本シリーズ首位打者賞:1回 (1959年) 1000試合出場:1964年7月5日 ※史上86人目 オールスターゲーム出場:1回 (1959年) 3(1956年 - 1961年) 23(1962年 - 1963年) 14(1964年) ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ 鶴岡一人『御堂筋の凱歌―栄光と血涙のプロ野球史』ベースボール・マガジン社、1983年。ISBN 978-4583023465。 p.p.236~237 ^ 福岡ソフトバンクホークス公式サイト[1]2015年7月17日閲覧 ^ “ホークスの歩み(1959年)”. 福岡ソフトバンクホークス. https://www.softbankhawks.co.jp/ocms/pc/team/history/vol06.html 2020年4月2日閲覧。 ^ 鶴岡、他『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』日本経済新聞出版社、2007年。ISBN 978-4-532-19386-7。 p.p.102~103 ^ “【中日】移籍初球デビュー弾の加藤翔平 選手同士のトレード加入後初打席アーチは1962年の寺田陽介以来チーム2人目”. 東京中日スポーツ. (2021年6月19日). https://www.chunichi.co.jp/article/275226 2021年9月8日閲覧。 ^ あのころ僕らは若かった(豊田泰光)スポニチアネックス2009年9月17日 福岡市出身の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 個人年度別成績 寺田陽介 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1952 与那嶺要 1953 川上哲治 1954 日比野武 1955 飯田徳治 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 豊田泰光 1959 寺田陽介 1960 金光秀憲 1961 宮本敏雄 1962 吉田義男 1963 城戸則文 1964 山内一弘 1965 森昌彦 1966 柴田勲 1967 森本潔 1968 D.スペンサー 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 王貞治 1973 末次民夫 1974 有藤通世 1975 大橋穣 1976 福本豊, 柴田勲 1977 張本勲 1978 島谷金二 1979 高橋慶彦 日本の野球選手 日鉄二瀬硬式野球部の選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 福岡市出身の人物 1934年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/20 13:49更新
|
terada yousuke
寺田陽介と同じ誕生日11月19日生まれ、同じ福岡出身の人
TOPニュース
寺田陽介と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「寺田陽介」を素材として二次利用しています。