島原幸雄の情報(しまばらゆきお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
島原 幸雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
島原幸雄と関係のある人
石本秀一: 島原幸雄はノーコンで、おまけに西鉄で一番気が弱く石本はしびれを切らし「わしが2年間教えてきたが、あんたは何も覚えとらん。 林安夫: ^ 日本記録としては1956年に島原幸雄が更新 石本秀一: 「足腰の強さは前代未聞」と獲得を進言した他、島原幸雄らを育てのちの西鉄黄金時代にも貢献。 寺田陽介: 入団に当たっては地元の西鉄ライオンズとの間で激しい争奪戦があり、西鉄が投手の島原幸雄を獲得の見返りに日鉄に譲渡するという噂まで流れたほどであった。 鈴木征夫: 初打点:1960年8月9日、対近鉄バファロー20回戦(日本生命球場)、8回表に島原幸雄の代打として出場、武智文雄から犠飛 川崎徳次: 1956年になると監督の三原脩は若手投手を積極的に起用するようになり、島原幸雄・稲尾和久・西村貞朗の20歳前後の投手3人が20勝、河村久文が18勝を記録する傍らで、川崎の登板機会は減り2勝に終わる。 |
島原幸雄の情報まとめ
島原 幸雄(しまばら ゆきお)さんの誕生日は1933年4月21日です。愛媛出身の野球選手のようです。
病気、引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1995年に亡くなられているようです。
島原幸雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 島原 幸雄(しまばら ゆきお、1933年4月21日 - 1995年1月6日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(投手)。 稲尾和久が台頭する前の西鉄ライオンズのエース投手として、1956年から1958年にかけての3年連続日本一に貢献した。 1952年に松山東高等学校を中退後、西鉄ライオンズの重松通雄二軍監督を通じて入団テストを受け合格。プロ野球選手としてデビューする。初年度より一軍戦で登板しているが、4年間は一軍に定着できなかった。初めは本格派のオーバースローで、球は速かったがコントロールに難があった。あとから入団した河村久文、西村貞朗らに追い抜かれ、一軍で起用されても「オレ、ダメなんだな」と劣等感に悩まされた。他のウエスタン・リーグチームの所在地の関係で西鉄の二軍合宿所は堺市浜寺に置かれ、その土蔵のような建物に島原は暮らしていた。 1953年は4勝6敗と負け越していたが、オフに高橋ユニオンズへ移籍した武末悉昌のエースナンバー18番を貰うと、島原は「恥ずかしい」を連発し、内気になっていた。4年目の1955年、石本秀一コーチの進言でサイドスローに変えた。この年通算9勝目を挙げたが、年末に球団がノンプロ日鉄二瀬の強打者・寺田陽介を獲得する見返りに島原を日鉄に譲渡するというトレードの噂が流れた。この屈辱的なニュースが弱気な島原を奮起させた。 オフに郷里に帰ると、社会人バスケットボールチームのコーチをしていた実兄に頼んで一緒に練習し、走り込んだ。1956年のキャンプでは、足腰が出来上がっていたことで初日から速い球を投げる島原に、三原脩監督が「すごいじゃないか」と目を留めた。これがきっかけでオープン戦から積極的に起用された。 公式戦に入ってから調子は上昇し、4月中に9勝とそれまで4年分の勝ち星を一月でクリア。相手は東映フライヤーズ、大映スターズ、高橋ユニオンズの下位球団ばかりだったが、島原に自信をつけさせるための三原の計算だった。 1956年5月2日、大阪スタヂアムでの対南海ホークス戦に先発し敗戦投手になったが「この打線に完投できた。オレも一人前の投手になった」と自信を持った。本来は器用な選手で、相手・球種によって腕の上げ方を変えると「一見バラバラな変則的フォームで打ちづらい」と打席に立つ打者たちは言った。 前半戦まで独走の16勝を記録し、6月には3試合連続(13日高橋戦、17日毎日戦、20日近鉄戦)完封勝利を記録。オールスターにも選ばれて第1戦に先発すると勝利投手となった。この試合で三塁へのカバーに走った時に足腰をひねってしまった。チームメイトの中西太が「無理するなよ」と声をかけると「いいですよ。ボクは今まで月給泥棒。恩返しをさせてもらっているのだから、1年で潰れても本望です」と返答した逸話がある。 その後、当時のプロ野球新記録となる公式戦の半数の74試合に登板。夏場にマウンドを守りきり、南海を僅差で破っての優勝に貢献した。最終的にリーグ最多の40試合に先発し、25勝11敗という従来からは大きく飛躍した成績でこのシーズンを終え、最優秀投手に選出された。巨人との日本シリーズでは全6試合中5試合に登板。第2戦では5回からルーキーの稲尾和久をリリーフし勝利投手となる。第3戦、第4戦で先発するが勝敗はつかなかった。 1957年の巨人との日本シリーズでも2試合に登板。第5戦では8回からリリーフし勝利を飾る。1958年の巨人との日本シリーズは3試合に登板。第2戦で先発するが、初回に打ち込まれ3自責点で降板、敗戦投手となった。この年からエースの座は稲尾に譲る格好になったが、その後も1959年まで二桁勝利を続けた。しかし、1960年以降は球威が衰え、登板数も減少していく。 1963年、彼を育てた石本秀一の勧めで広島カープに移籍したが、登板機会はなく、病気を理由に同年限りで現役を引退した。 1994年12月28日、島原のいとこが愛媛県立中央病院から呼び出され、行ってみると、ベッドの上で横たわっている島原幸雄がいた。「嫌な病気に取り付かれた。もう長いことはない」とつぶやいたという。1995年1月6日に死去。61歳没。 もっとも、島原の死を知ったのは西日本新聞だけで、時間経過もあって、ほとんど報じられていなかったため、前年に亡くなった稲尾和久の追悼で行われた2008年の「西鉄メモリアルデー」を報じた日刊スポーツの記事では存命扱いになっていた。 各年度の太字はリーグ最高 最優秀投手:1回 (1956年) 初勝利:1953年6月14日、対東急フライヤーズ8回戦(後楽園球場) 3試合連続完封勝利 (1956年6月13日 - 6月20日) オールスターゲーム出場:2回 (1956年、1959年) 39 (1952年) 22 (1953年) 18 (1954年 - 1958年) 21 (1959年 - 1962年) 16 (1963年) ^ 西日本新聞文化部編 『昭和の尋ね人 - アウトサイダー列伝』(不知火書房)、1999年、P130。 ^ 河村英文『西鉄ライオンズ-最強球団の内幕』、葦書房、1983年、P270-272 ^ 寺田は最終的に南海ホークスに入団。 ^ 週刊ベースボール、2011年6月27日号、P.95 ^ それまでの記録は朝日の林安夫が1942年に記録した71試合。 ^ ただし、西日本新聞文化部編 『昭和の尋ね人―アウトサイダー列伝』 不知火書房、1999年、P129では「オープン戦前の練習中、打球を顔面に受け、広島では登板することさえ叶わなかった」との記述がある ^ 西日本新聞文化部編 『昭和の尋ね人―アウトサイダー列伝』 不知火書房、1999年、P129-130。 ^ “【ソフトB】西鉄黄金期メンバーが始球式 - 野球ニュース”. nikkansports.com. 2021年11月15日閲覧。 愛媛県出身の人物一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 広島東洋カープの選手一覧 個人年度別成績 島原幸雄 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1953 川崎徳次 1954 西村貞朗 1955 中村大成 1956 島原幸雄 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 斉藤和巳 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉 2010 杉内俊哉 2011 田中将大 2012 攝津正 表 話 編 歴 1950 木下勇 1951 武末悉昌 1952 川崎徳次 1953 川崎徳次 1954 太田正男 1955 長坂衛 1956 河村久文 1957 島原幸雄 1958 河村久文 1959 島原幸雄 1960 稲尾和久 1961 稲尾和久 1962 稲尾和久 1963 稲尾和久 1964 田中勉 1965 田中勉 1966 田中勉 1967 田中勉 1968 池永正明 1969 与田順欣 1970 池永正明 1971 高橋明 1972 高橋明 1973 加藤初 1974 三浦清弘 1975 東尾修 1976 東尾修 1977 東尾修 1978 山下律夫 1979 東尾修 1980 東尾修 1981 東尾修 1982 森繁和 1983 高橋直樹 1984 東尾修 1985 東尾修 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 工藤公康 1989 工藤公康 1990 渡辺久信 1991 渡辺久信 1992 工藤公康 1993 渡辺久信 1994 郭泰源 1995 郭泰源 1996 新谷博 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 西口文也 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 松坂大輔 2003 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 松坂大輔 2006 西口文也 2007 西口文也 2008 涌井秀章 2009 涌井秀章 2010 涌井秀章 2011 涌井秀章 2012 涌井秀章 2013 岸孝之 2014 岸孝之 2015 牧田和久 2016 菊池雄星 2017 菊池雄星 2018 菊池雄星 2019 多和田真三郎 2020 Z.ニール 2021 髙橋光成 2022 髙橋光成 2023 髙橋光成 2024 今井達也 日本の野球選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 NPBオールスターゲーム選出選手 愛媛県出身のスポーツ選手 1933年生 1995年没 サイズに余分なpxが含まれる画像が指定されているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/20 04:39更新
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shimabara yukio
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