二木謙三の情報(ふたきけんぞう) 医学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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二木 謙三さんについて調べます
■名前・氏名 |
二木謙三と関係のある人
荒井献: 2001年(平成13年)日本学士院会員となる(帝国学士院会員の二木謙三を別とすれば、秋田県出身者では初)。 増本量: ^ 『秋晴れ 文化の日 文化勲章授与式』「天皇陛下から励ましのお言葉」、前列左から平沼亮三、二木謙三、大谷竹次郎、後列左から増本量、前田青邨、和辻哲郎。 平塚らいてう: 1951年に、アーネスト・スウィフトが世界の菜食主義者の目録を作る際に、らいてうに問い合わせがあり目録に追加されたが、らいてうが36、37歳の頃、頭痛と嘔吐で生きた心地もせず、治せる医者も薬もなく困っていたところに、石塚左玄の食養や二木謙三の玄米食について読み、そして会って話を聞き、食生活の誤りを悟り、以来30年近く実践してきた。 植芝盛平: 初代会長・竹下勇、副会長・陸軍中将林桂、理事に公爵・近衛文麿、陸軍中将前田利為、東京帝国大学医学部教授二木謙三ら。 植芝盛平: この頃盛平は岩間で大病を患い一時重篤な状態となって二木謙三の往診を受けており、惣角の葬儀には参列しなかった。 |
二木謙三の情報まとめ
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二木 謙三(ふたき けんぞう)さんの誕生日は1873年1月10日です。秋田出身の医学者のようです。
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健康法、逸話などについてまとめました。現在、卒業、兄弟、病気、母親に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
二木謙三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)二木 謙三(ふたき けんぞう、1873年(明治6年)1月10日 - 1966年(昭和41年)4月27日)は、秋田県秋田市生まれの医学博士で文化勲章受章者。北里柴三郎に比肩する世界的な細菌学者で、鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータの発見、天然免疫学理の証明などの実績を遺した。また、玄米食の提唱、実践運動や教育者としても多くの功績がある。日本の医学界の重鎮であったと同時に、民間療法一般に理解があった。ノーベル生理学・医学賞の候補になったとも言われる。歴史学者で國學院大學名誉教授、日本中世史(戦国史)が専門で有職故実研究の第一人者として知られる二木謙一の祖父。 1873年(明治6年)1月、秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町、秋田警察署の辺り、旧小野岡邸隣)で生れた。父樋口順泰、母ヱイの子供、男4人、女3人の二男であった。父は「倹蔵」と命名したが、いつのことか戸籍係が「謙三」と誤記、それがそのままになったーと、後年、本人が語っている。 1901年(明治34年)、東京帝国大学医学部卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力した。その間ドイツに留学し、3年間ミュンヘン大学にて自然免疫性に関する研究を遂げた。尚、駒込ピペットの考案者でもある。 1915年(大正4年)、赤痢菌の新種二種(駒込A菌、駒込B菌)を発見して赤痢病原多元説を確立。 1914年〜1920年(大正3年~大正9年)、伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)、第4代病院長。 1919年〜1931年(大正8年~昭和6年)、駒込病院、第5代院長。 1921年(大正10年)、東京帝国大学教授を兼任。 1926年(大正15年)、日本伝染病学会を創立。(1974年(昭和49年)に日本感染症学会に改称) 1955年(昭和30年)、「鼠こう症の研究」にて文化勲章受章。 1966年(昭和41年)、老衰にて死去。94歳 友人の岡田道一らと日本心霊医学会を主宰したり、日本催眠学会 (田宮馨会長) の顧問、豊島岡女子学園中学校・高等学校第4代校長・理事長、勇退後は初代学園長、蓮沼門三によって結成された修養団の第3代団長を務めるなど多くの要職を兼ねた。 健康法二木は秋田佐竹藩の藩医、樋口家の出身で、元の姓は樋口であった。8人兄弟の3番目に生まれた。3歳の頃、同じ秋田藩の藩医、二木家に養子縁組して、二木姓を名乗る。生まれた時には1年ももたないと言われる程の虚弱であった。20歳まで心身ともに数多くの病気に悩まされたが、徴兵検査のときに検査官から虚弱な病身を指摘され、軍隊の黒い麦飯を食えと一喝され、その翌日から麦飯食を始めた。これにより、虚弱な病身から開放された。このように二木は、藩医の家の生まれであること、そして、また、自らの深刻な病弱を日本の伝統的な食養生により救われたという原体験により西洋医学の道に進路をとり、そして、それと矛盾することなく東洋的な健康法の普及活動に志向した。 食事法としては玄米菜食による完全食、塩は用いず、動物は少なくし、二分間煮で食べることを提唱していた。二木自身は48歳より、1日1食、玄米、塩なし、油なし、火食なし、動物不要の食事となった。 正心調息法の創始者である塩谷信男は二木の健康法を実践して病弱体質を克服した。二木は晩年も元気に活動し、亡くなる前には全国の弟子たちを電報で呼び集め、全員が揃ったところで「それじゃあ、君たち、最後の息をするから、さようなら」と言って世を去ったという。 食事乳児 母乳、果汁、おかゆ 1~6歳 玄米、野菜、豆、芋 7~15-6歳 上記植物類に加えてえび、あさり等の小動物 15-6歳から上は男女が分かれてくる
女性 大きな動物は食べないほうがよい 40~60歳(初老) 男性でも大きな動物を食べるのはやめ、15歳以前の子供と同じく野菜類と小動物にする 60~80歳(中老) 5歳以前の子供と同じく穀菜食にする 80~(大老) ものをよく噛んで汁だけをしゃぶって食べる 二木式腹式呼吸法胸と腹が一緒に出て一緒に引っ込んでゆく胸腹式呼吸法を推奨。肺の呼吸面をまんべんなく広くし、肺全体が自由に呼吸することになる。息を吸うときは腹が膨れるように硬くなるように吸い、あまりいきまないように少しとらえてから静かに吐き出す。胸の方から先に空気を出し、次に上腹にある空気が胸を通って外へ出るように、下腹には少し空気が残るように出す。 逸話二木家に養子縁組されてまもなく、母親のところへ帰りたいがために、魚屋の行商の後へついて10キロ以上に及ぶ道を一人で歩くという、小さい頃から非常に強固な意志の持ち主だったことを物語るエピソードがある。 体が元来弱かったことは先述したが、大学進学後、本人が「俺は一切ものを忘れてしまった。分らないと言ったら分らない。何も分らなくなってしまった。」と語るほど、文字も読めなくなってしまうようなひどい神経衰弱を患ったが、持ち前の根性で回復。その経験が、ドイツ留学以降の偉業を生む下地となっている。 元々謙虚な性格で、新型病原菌を発見しても、自分の名前を使用する事は一切考えなかった。コレラ竹内菌という名前も患者の名前を使用し、駒込A菌・B菌も実験道具で有名な駒込ピペットも勤めていた駒込病院から取ったものである。 神道についても造詣が深く、古事記や祝詞の講義を行ったり明治期の神道家・川面凡児(かわつら ぼんじ)の確立した行法に基づき禊の練成会を行っていた。 60代のとき、皇武館(合気会本部道場の前身)に入門し合気道開祖植芝盛平に師事した。早朝に道場を訪れ、寝ている内弟子を叩き起こしては投げ飛ばし、すぐに帰っていくのが常だったという。また上記の練成会の参加者にも合気道を紹介しており、その一人である阿部醒石はのちに植芝の弟子になった。 2024/06/20 08:05更新
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futaki kenzou
二木謙三と同じ誕生日1月10日生まれ、同じ秋田出身の人
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