井上円了の情報(いのうええんりょう) 哲学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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井上円了の情報まとめ
井上 円了(いのうえ えんりょう)さんの誕生日は1858年3月18日です。新潟出身の哲学者のようです。
卒業、現在、事件、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。1919年に亡くなられているようです。
井上円了のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)井上 円了(井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の仏教哲学者、教育者。 多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学館(現、東洋大学)を設立した。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。 1885年(明治18年)に同大学を卒業した後、文部省への出仕を断り、東本願寺にも戻らなかった。そして、著述活動を通じて国家主義の立場からの仏教改革、護国愛理の思想などを唱え、啓蒙活動を行った。 また、哲学普及を目指し、哲学館(本郷区龍岡町の麟祥院内。その後哲学館大学を経て現在は東洋大学として現存)を設立する。 哲学館事件によって活動方針を見直し、1905年(明治38年)に哲学館大学学長・京北中学校校長の職を辞し、学校の運営からは一歩遠ざかる。その後は豊多摩郡野方村にみずからが建設した哲学堂を、生涯を通じておこなわれた巡回講演活動の拠点とした。 1919年(大正8年)遊説先の満州・大連において、脳溢血のため 61歳で急死するまで、哲学や宗教についての正統的(Orthodox)な知識を伝えるために活動した。 1887年(明治20年)に麟祥院にて哲学館を創立し、これは哲学館大学を経て東洋大学となった。円了が生涯を通しておこなった全国巡回講演は、哲学館に専門科を設け高等教育機関とするための寄付を募る活動として始められたものでもあった。哲学館初代館主、哲学館大学初代学長を歴任。
東洋大学京北中学・高等学校
中等教育機関としては、1899年(明治32年)に京北中学校を創立した。これは現在の東洋大学京北中学高等学校の前身である。 1908年(明治41年)に京北実業学校を創立した。これは現在の京北学園白山高等学校の前身である。 1905年に京北幼稚園を創設した。井上円了は、人格形成の基礎作りとして幼稚園教育の必要性を重視し、自ら園長として教育にあたった。 哲学研究の目的で1884年(明治17年)に発足した学会(この種の研究組織としては世界最古の伝統を持つものの一つ)。東京大学の哲学科のなかで生まれた組織で、発足から現在まで東大の哲学研究室が中心となって運営。ただし東京大学の機構に直接属する組織ではない。 『真理金針』『仏教活論序論』などの著作を通じてキリスト教を批判し、仏教を改良してこれを開明世界の宗教とすることを目指した。このとき円了が唱えた「護国愛理」(国を護り、真理を愛する)はのちに東洋大学の建学精神と見なされるようになった。 キリスト教や迷信を批判する一方で、仏教に対する批判には反駁を行い、護教的態度を取った。そのため井上の言説には、今日の科学的知見とは相いれない意見も見られる。 1888年(明治21年)、東京にできた政治評論団体。機関誌『日本人』、『亜細亜』、続いて『日本及日本人』を発行し、単行本も出版した。結成期の主張は、西欧化に盲進せず、西欧文化は消化した上で取り入れるべしとの、国粋主義だった。性格を変えながら、1945年(昭和20年)まで存続した。 哲学館の創設者である井上円了が、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を建設したのが、この公園のはじまりである。この四聖堂を当初哲学堂と称し、それがそのまま公園の名になった。 当初は当地に大学を造成する案もあったが、精神修養のための公園にすることになり、1909年-1912年の間に哲理門、六賢台、三学亭などの建築物が逐次整備された。当時の建築物は現在も公園内に現存しており、普段は外観しか見られないものの、毎年4月と10月に限り建築物の内部も一般に公開される。内部には、哲学者の像が祀られている。この他にも園内には到る所に哲学に由来するユニークな名前の坂や橋などが点在する。 1876年、長岡洋学校(現在の新潟県立長岡高等学校)和同会を創設。寄宿寮舎生の演説会から、後に生徒会へと発展。 哲学者として著名な円了であるが、いわゆる妖怪研究を批判的(critical)に行った人物としても知られる。 円了は『妖怪学』『妖怪学講義』などでそれぞれの妖怪についての考察を深め、当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類し、例えば仮怪を研究することは自然科学を解明することであると考え、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至った。いわゆる「こっくりさん」が、テーブル・ターニング(Table-turning)が由来であると究明し記したと共に、仕組みを科学的に説明した。 小松和彦は、当時の人々が妖怪の合理的説明を求めていたとする。こうした研究から、円了は「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれた。彼の後の体系的な妖怪研究は、江馬務、柳田國男の登場を待つこととなる。円了のいう「妖怪」とは本来の意味であった不可思議な超自然的現象を広く含むものであったが、小松和彦によれば、彼の研究の副産物として、江戸時代の「化け物」に替わる言葉として現代人が使う意味での「妖怪」という言葉が最新語彙として広まっていったとする。 円了によれば、妖怪は (1) 実怪と (2) 虚怪に、 (1) 実怪はさらに (A) 真怪と (B) 仮怪に、 (2) 虚怪はさらに (C) 偽怪と (D) 誤怪にそれぞれ分けられるという。すなわち、 (A) 真怪は超理的妖怪であり、宇宙の万物で妖怪でないものは無く、水も小石も火も水も妖怪である。 (B) 仮怪は自然的妖怪であり、(ア)物理的妖怪(人魂や狐火など)と(イ)心理的妖怪(幽霊や憑霊など)とがある。 (C) 偽怪は人為的妖怪であり、利欲その他のために人間が作り上げた妖怪である。 (D) 誤怪は偶然的妖怪であり、たとえば暗夜に見る石地蔵(鬼)、枯尾花(幽霊)を妖怪と見るものである。世間でいう妖怪の5割は (C) 偽怪、3割が (D) 誤怪、2割が (B) 仮怪である。この3種は科学的説明ができ、 (A) 真怪の研究によって宇宙絶対の秘密が悟得できる、という。 哲学による文明開化を志向していた円了は、様々な理由で大学教育を受けられない「余資なく、優暇なき者」でも学べる場を作るべきであるという考え方から1888年(明治21年)には「館外員制度」を設け、「哲学館講義録」を発行していた。これは日本における大学通信教育の先駆けである。また、哲学館事件を経て、円了は西洋のように学校教育が終了した後も自由に学問を学ぶことが重要であるとの考え方から日本全国を行脚し、各地で哲学と妖怪学の講演会を行うようになった。これは生涯教育の提唱であり、波多野完治の提唱よりも早い段階での実践であった。円了の提唱した生涯教育は「哲学館講義録」と連携して、日本各地のみならず中国大陸などにも「館外員」を増やすこととなった。 井上円了の著書は単行本だけで160冊に及び、そのうちの主要著書は『井上円了選集』(学校法人東洋大学、全25巻)に収録されている。 第1巻 - 『哲学一夕話』(第1・2・3編)、『哲学要領』(前・後編) 、『純正哲学講義』(哲学総論) 、『哲学一朝話』、『哲学新案』 第2巻 - 『哲学早わかり』、『哲界一瞥』、『哲窓茶話』、『奮闘哲学』 第3巻 - 『真理金針』(初・続・続々編)、『仏教活論序論』 第4巻 - 『仏教活論本論』 第1編 破邪活論、『仏教活論本論』 第2編 顕正活論、『活仏教』 第5巻 - 『仏教通観』、『仏教大意』、『大乗哲学』 第6巻 - 『日本仏教』、『真宗哲学序論』、『禅宗哲学序論』、『日宗哲学序論』 第7巻 - 『純正哲学講義』、『仏教哲学』、『印度哲学綱要』、『仏教理科』、『破唯物論』 第8巻 - 『宗教新論』、『日本政教論』、『比較宗教学』、『宗教学講義 宗教制度』、『宗教哲学』 第9巻 - 『心理摘要』、『通信教授 心理学』、『東洋心理学』 第10巻 - 『仏教心理学』、『心理療法』、『活用自在 新記憶術』 第11巻 - 『倫理通論』、『倫理摘要』、『日本倫理学案』、『忠孝活論』、『勅語玄義』、『教育総論』、『教育宗教関係論』 第12巻 - 「館主巡回日記」(『哲学館講義録』等) 、『南船北馬集』(第1・2・3編) 第13巻 - 『南船北馬集』(第4・5・6・7・8編) 第14巻 - 『南船北馬集』(第9・10・11・12編) 第15巻 - 『南船北馬集』(第13・14・15・16編) 第16巻 - 『妖怪学講義』(第1・2分冊) 第17巻 - 『妖怪学講義』(第3・4分冊) 第18巻 - 『妖怪学講義』(第5・6分冊) 第19巻 - 『妖怪玄談』、『妖怪百談』、『続妖怪百談』、『霊魂不滅論』、『哲学うらない』、『改良新案の夢』、『天狗論』、『迷信解』 第20巻 - 『おばけの正体』、『迷信と宗教』、『真怪』 第21巻 - 『外道哲学』、『妖怪学』、『妖怪学講義録』、『妖怪学雑誌』、『妖怪学関係論文等』 第22巻 - 『外道哲学』 第23巻 - 『欧米各国政教日記』(上編)、『欧米各国政教日記』(下編) 、『西航日録』、『南半球五万哩』 第24巻 - 『星界想遊記』、『円了随筆』、『円了茶話』、『円了漫録』、『日本周遊奇談』 第25巻 - 『甫水論集』、『円了講話集』、初期論文 『妖怪学とは何か 井上円了精選』菊地章太編、講談社学術文庫、2023年6月 ^ 例えば「四」は「死」に通じ不吉であるという通俗観念を反駁するために、東洋大学の前身である哲学館の電話番号を余っていた444にするなどした。 ^ キリスト教界からの批判者に柏木義円がいる。 ^ 東京山手ぶらり散歩 著者: 山本鉱太郎 - GoogleBooks ^ “東洋大学設立者 井上円了の足跡”. 読売新聞. 2020年8月29日閲覧。 ^ 服部敏良 『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)32頁 ^ 『井上円了 迷信と宗教』 青空文庫 ^ 東洋大学 『東洋大学創立五十年史』 1937年、1頁 ^ 沖田行司編 『新編 同志社の思想家たち 下』 晃洋書房、2019年、50-51頁 ^ 井上円了 『通俗講義 霊魂不滅論 』 (青空文庫) ^ 小松和彦『妖怪学の基礎知識』(株)角川学芸出版、2011年4月25日、39-41頁。 日本主義 政教社:同人として参加 哲学会:設立メンバー 哲学飛将碁:考案したボードゲーム 東洋大学井上円了記念博物館 東洋大学白山キャンパス 中山通幽:井上円了の弟子。宗教家。福田海を創始
東洋大学創立五十年史 歴代学長|東洋大学 井上円了選集|東洋大学 井上 円了:作家別作品リスト - 青空文庫 “井上円了”で検索 - 国立国会図書館デジタル化資料 颯爽(さっそう)登場! 明治ゴーストバスター 〜“妖怪博士”井上円了の不思議な世界〜 - NHK総合テレビジョン歴史秘話ヒストリア 第86回 2011年(平成23年)10月12日放送 井上円了頌徳碑 表 話 編 歴 文学研究科 | 経済学研究科 | 経営学研究科 | 法学研究科 | 社会学研究科 | 国際学研究科 | 国際観光学研究科 | 情報連携学研究科 | 社会福祉学研究科 | ライフデザイン学研究科 | 健康スポーツ学研究科 | 理工学研究科 | 総合情報学研究科 | 生命科学研究科 | 食環境科学研究科 文学部 | 経済学部 | 経営学部 | 法学部 | 社会学部 | 国際学部 | 国際観光学部 | 情報連携学部 | 福祉社会デザイン学部 | 健康スポーツ科学部 | 理工学部 | 総合情報学部 | 生命科学部 | 食環境科学部 東洋大学 東洋大学京北中学高等学校 東洋大学附属姫路中学校・高等学校 東洋大学附属牛久中学校・高等学校 京北幼稚園 白山キャンパス 赤羽台キャンパス 川越キャンパス 朝霞キャンパス 板倉キャンパス 東洋大学短期大学 東洋大学附属南部高等学校 東洋大学第三高等学校 京北学園白山高等学校 学校法人京北学園 現代学生百人一首 本源氏物語 白山史学会 硬式野球部 陸上競技部 ラグビー部 ボクシング部 サッカー部 女子サッカー部 麟祥院仮教場 蓬莱町校舎 哲学堂公園 大倉精神文化研究所 井上円了記念博物館 日本主義 新仏教同志会 哲学館事件 境野事件 獅子吼会事件 板倉東洋大前駅 東洋大学の人物一覧 井上円了 表 話 編 歴 井上円了 1887-1903 初代 井上円了 1904-1906 第2代 前田慧雲 1906 第2代 前田慧雲 1906-1914 第3代 大内青巒 1914-1918 第4代 境野哲 1918-1923 事務取扱 湯本武比古 1923 第5代 岡田良平 1923-1924 事務取扱/第6代 中島徳蔵 1924-1926/1926-1928 事務取扱/第7代 中島徳蔵 1928-1929/1929-1931 第8代 高楠順次郎 1931-1934 第9代 藤村作 1934-1937 第10-11代 大倉邦彦 1937-1943 第12代 高嶋米峰 1943-1944 第13代 高島平三郎 1944-1945 第14代 橋本増吉 1945-1946 第15代 藤原猶雪 1946-1948 第16代 加藤虎之亮 1948-1949 第17代 小林啓善 1949-1952 第18-19代 加藤精神 1952-1956 第20代 川西正鑑 1957 第21代 大嶋豊 1958-1960 第22代 佐久間鼎 1960-1964 第23-24代 矢野禾積 1964-1967 第25代 三野昌治 1967-1969 第26代 磯村英一 1969-1972 第27-28代 堀秀彦 1972-1974 第29-31代 磯村英一 1975-1982 第32代 西忠雄 1982-1985 第33-34代 神作光一 1985-1991 第35代 菅沼晃 1991-1994 第36-37代 菅野卓雄 1994-2000 第38代 神田道子 2000-2003 第39-40代 松尾友矩 2003-2009 第41-43代 竹村牧男 2009-2020 第44- 矢口悦子 2020- カテゴリ メディア 東洋大学 学校法人 人物 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research IdRef 長岡市の画像提供依頼 19世紀日本の哲学者 20世紀日本の哲学者 19世紀日本の哲学教育者 20世紀日本の哲学教育者 19世紀日本の僧 20世紀日本の僧 19世紀日本の仏教学者 20世紀日本の仏教学者 戦前日本の学者 浄土真宗の僧 日本の学校法人の理事長 東洋大学学長 東洋大学の教員 妖怪研究家 政教社の人物 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 新潟県立長岡高等学校出身の人物 越後国の人物 新潟県出身の人物 1858年生 1919年没 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/24 19:15更新
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inoue enryou
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