佐賀ノ花勝巳の情報(さがのはなかつみ) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐賀ノ花 勝巳さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐賀ノ花勝巳と関係のある人
東富士欽壹: 東富士はこの場所を羽黒山政司・佐賀ノ花勝巳の1横綱1大関はじめ対戦のあった三役力士はすべて破って6勝1敗の好成績を残した。 玉錦三右衛門: 玉ノ海梅吉が双葉山を破ったのが玉錦の四十九日の日、佐賀ノ花勝巳が大関に推薦された日は玉錦の七回忌の当日であった。 五ツ海義雄: それでも新入幕の場所では8勝2敗で大きく勝ち越し、1945年11月場所では大関の佐賀ノ花勝巳を切り返しで破る殊勲の星を挙げるなど、上位に対しても十分通用するほどの力量を身に付けた。 栃錦清隆: 後に彼が独占する技能賞を初めて受賞する1949年1月場所では、優勝候補の一人だった大関・佐賀ノ花勝巳に立ち合いで思い切り当たり、前褌を引いて右から強烈な出し投げを打って勝利したことが評価され、これが受賞理由となった。 玉ノ海梅吉: この時の協会の対応に冷遇を感じたことや、6代出羽海との軋轢を理由に部屋を佐賀ノ花勝巳に譲り、1951年に廃業した。 |
佐賀ノ花勝巳の情報まとめ
佐賀ノ花 勝巳(さがのはな かつみ)さんの誕生日は1917年12月5日です。佐賀出身の相撲のようです。
引退、結婚に関する情報もありますね。1975年に亡くなられているようです。
佐賀ノ花勝巳のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐賀ノ花 勝巳(さがのはな かつみ、1917年12月5日 - 1975年3月28日)は、佐賀県佐賀市出身で二所ノ関部屋(入門時は粂川部屋)に所属した大相撲力士。本名は北村 勝巳(きたむら かつみ)。師匠の玉錦譲りの鋭い出足から「飛燕の出足」「サッと寄り切る佐賀ノ花」などと呼ばれていた。最高位は東大関。 1934年に九州へ巡業に来た玉錦三右エ門を頼って粂川部屋へ入門し、同年5月場所に初土俵を踏んだ。翌年から玉錦三右エ門が二所ノ関部屋を創立したことで移籍した。 1939年5月場所で新入幕を果たすと、横綱の男女ノ川登三から2つの金星を奪うなど活躍した。前頭筆頭で迎えた1941年1月場所は8勝7敗で三役昇進を決めたかと思われたが、同年5月場所も同じ前頭筆頭に据え置かれた。この場所を9勝6敗として今度こそ三役昇進かと思われたが、1942年1月場所も再々度前頭筆頭に据え置かれるなど、入幕直後は番付運が悪かった。それでも男女ノ川登三から再び金星を奪って9勝6敗とすると、ようやく同年5月場所に念願の小結昇進を果たした。翌1943年1月場所は関脇で8勝7敗と勝ち越し、多くのファンから前途を期待されたが、翌5月場所は13日目に7勝5敗と勝ち越しまであと一歩の所で急性盲腸炎による途中休場を喫し、翌1944年1月場所は小結に逆戻りとなった。 1944年1月場所は横綱の照國を激しく突き合った末に押し切る殊勲の星を挙げるなどして13勝2敗の好成績で幕内最高優勝を遂げ、5月場所も好成績をあげて場所後に大関昇進を決定させたが、巡業の都合で玉錦三右エ門の法要を繰り上げて行う際に昇進を伝えられたことから、玉錦の霊前に向かって涙を流しながら報告した。同年2月に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収されて風船爆弾の工場として使用された関係上長年、佐賀ノ花の優勝額は掲額されなかったと一般に伝わっていたが、後年になって同年5月場所中である同月17日に優勝額の掲額作業が行われていたことが明らかになった。その優勝額も翌1945年3月10日の東京大空襲により焼失してしまったことから、一般の好角家にはこの額をまず目にしなかったとされる。 戦中〜戦後にかけて混乱期の大相撲を屋台骨となって支え続け、1949年5月場所には史上初めて1場所で4横綱を倒したが、この場所を7勝8敗と負け越すと1951年1月場所を最後に大関を陥落した。さらに師匠二所ノ関(玉ノ海梅吉)の廃業を受けて年寄・二所ノ関を二枚鑑札によって襲名したあと、1952年1月場所で現役を引退して部屋経営に専念した。継承当時、部屋は借金や食糧難などに苦しみ、家財が差押え寸前という経営状態であったという。出羽海一門と同じ巡業地になるとそちらに客を取られてしまうため、そうなると次の巡業地への移動資金を稼ぐために2日、3日と同じ場所で興行しなければならなかった。新築の部屋施設を建築した時も、目黒にあった仮宿舎から両国までの長い距離を部屋一同がリヤカーを引いて荷物を運んで歩いたという。 1975年3月28日急性骨髄性白血病のため死去した。57歳没。二所ノ関部屋は湊川が一時的に引き継いだ後、佐賀ノ花の次女と結婚した金剛が28歳で引退して継承した。 「片男波騒動」や「押尾川の乱」などに表れるように他者との衝突が絶えない性格であったとされ、当時平幕だった弟子の麒麟児(のち大麒麟)を指して「あいつは佐賀県人特有のひねくれた性格だから大成しない」と平気で貶すことがあったという。これは自身と同じ佐賀県佐賀市出身者(厳密に言うと大麒麟は旧・佐賀郡東川副村出身)であっただけに理不尽さが一際目立つと言える。ノンフィクション作家の塩沢実信は、自身の著書で「名力士にありがちの偏執狂」と評している。 予てより特に確執の深かった大麒麟が部屋を継承することを望まなかった上に他の弟子とも協議が進まず、自身の死後に夫人の後押しで金剛が後継に指名されたことで「押尾川の乱」は起こってしまった。神風正一は終戦直後の二所ノ関部屋が玉ノ海派、佐賀ノ花派、その他の派閥に分裂していたという事情を説明した上で、部屋の師匠であった玉ノ海の懐刀として働いていた自身を尻目に分派行動を取る佐賀ノ花に対して批判的な見解を示していた。一方でマスコミ対策には定評があり、人気絶頂期の大鵬に取材陣が殺到して大鵬が稽古をする時間を確保できるかどうかで困っていた際に、特にその腕前を発揮したという。これに関しては女将が代わりに取材を引き受けるよう命じ、女将一人が泥を被ることで所属力士本人達が悪印象を持たれる余地を作らなかったのだと伝わっている。大鵬が不調だと判断した際には報道を通じて大鵬を誘導したともいい、結果として大鵬は休場を重ねながらも幕内優勝回数を32まで伸ばすことができた。 元来漢書を中心として読書を好み、四股名命名にも大いにこの影響が出ていた。「大鵬」「麒麟児」等の漢書に由来した四股名を命名した人物で知られており、実在・架空問わず漢書から動物の名称を引用した四股名を冠した幕内力士が続々輩出されたことで部屋が「二所ノ関動物園」の異名を与えられたこともある。自身が師匠を務めていた頃の二所ノ関部屋から音読み四股名の力士が多く世に出されており、こうしたことから佐賀ノ花が音読み四股名の走りともいえる。 天龍源一郎の証言によると、当時14歳か15歳程度で既に年寄り専任であった自身の付け人であった天龍に「空間には三次元、四次元があるのを知っているか」と聞いてきて、理路整然と答えるような博学さを見せた。稽古場では、座って腕組みすると一言も発せずじっと見る一面もあった一方、横綱に上がりたての頃までは大鵬を竹刀で殴っていたといい、ある時大鵬が「私も横綱になったし、稽古を見に来るファンもいる。もう竹刀で殴るのはやめてもらえませんか」と頼んだ時からようやく大鵬に対しては一切竹刀を使わなくなったという。 通算成績:263勝189敗30休1分 勝率.582 幕内成績:200勝160敗1分30休 勝率.556 大関成績:101勝77敗1分7休 勝率.567 通算在位:39場所 幕内在位:29場所 大関在位:15場所 三役在位:6場所(関脇4場所、小結2場所) 各段優勝
金星:2個(男女ノ川2個) ===幕内対戦成績=== ※他に千代ノ山と引分が1つある。 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p20 ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)30ページから31ページ ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p48 ^ この場所は後楽園球場での開催であった ^ 『相撲』2009年8月号 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p10-11 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p44 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p39 ^ 神風正一『神風一代―わたしの昭和相撲小史』日本放送出版協会 ^ 急性盲腸炎により13日目から途中休場 ^ 虫垂炎により3日目から途中休場 ^ 心臓脚気により9日目から途中休場 大関一覧 片男波部屋 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 佐賀県出身の大相撲力士 粂川部屋 二所ノ関部屋 1917年生 1975年没 日本相撲協会の役員 白血病で亡くなった人物
2024/11/20 11:57更新
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saganohana katsumi
佐賀ノ花勝巳と同じ誕生日12月5日生まれ、同じ佐賀出身の人
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