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何礼之の情報 (がのりゆき)
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【6月29日】今日誕生日の芸能人・有名人

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何 礼之さんについて調べます

■名前・氏名
何 礼之
(読み:が のりゆき)
■職業
翻訳家、官僚
■何礼之の誕生日・生年月日
1840年8月10日
子年(ねずみ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
長崎出身

何礼之と同じ1840年生まれの有名人・芸能人

何礼之と同じ8月10日生まれの有名人・芸能人

何礼之と同じ出身地長崎県生まれの有名人・芸能人


何礼之と関係のある人

陸奥宗光: 何礼之から英語教師として星亨を紹介される。


星亨: 明治元年(1868年)、開成所同窓生らの縁で若狭国小浜藩英学校教師、さらに大阪に移った何礼之の瓊江塾助教となり、明治2年9月(1869年10月)には何が設立に尽力した大阪洋学校訓導、翌年同校が大学南校分校(大阪開成所)となると小助教となった。


チャニング=ウィリアムズ: 最初の8人の生徒の中には、唐通詞の英語教育の率先者で吉田松陰も学んだ鄭幹輔(昌平坂学問所《東京大学の源流》教授)、後に岩倉使節団の一員となり大阪洋学校(現・京都大学)創設者の何礼之と幕府の済美館学頭を務める平井希昌(義十郎)がいた。


陸奥宗光: その後亀山社中に加わるが、この時期は錦戸広樹の変名で薩摩の小松帯刀に抱えられており、長崎の何礼之の英語塾の門人となる。


前島密: 1863年(文久3年) - 遣欧使節の通訳となった何礼之の従者として洋行する機会を得て江戸に向かう。


前島密: 1864年(元治元年) - 何礼之が長崎に開いた私塾の塾長となる。


星亨: さらに同所教授何礼之の私塾に移り、同年10月に何が海軍所へ転出する際、その推薦で同所英語世話役となったが、戊辰戦争勃発により3か月で失職。


芳川顕正: 翌年には養生所(小島養生所)にて医学修業をする傍ら、何礼之に師事して英学を学び、瓜生寅と前島密が元治元年(1864年9月)に開設した倍社でも英学を学んだ。


何礼之の情報まとめ

もしもしロボ

何 礼之(が のりゆき)さんの誕生日は1840年8月10日です。長崎出身の翻訳家、官僚のようです。

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家族、栄典・授章・授賞などについてまとめました。引退、兄弟、事件、家族に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

何礼之のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

何 礼之(が のりゆき(れいし)、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、教育者。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。幕末の長崎で創設した私塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの人材を育てた。開成所(現・東京大学)教授を務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。岩倉使節団の一員としても活躍し、自由民権運動に大きな影響を与えるなど、教育者、外交官、翻訳者として、様々な立場で日本の近代化に多大な貢献をした。翻訳局長、元老院議官、貴族院議員も務めた。

天保11年(1840年)肥前国長崎西上町に生まれる。父は唐通事で住宅唐人の子孫である何静谷(栄三郎)。天保15年(1845年)父の引退に伴い、5歳で家督を継ぐ。幼い頃から唐通事界の先輩である鄭幹輔や呉泰蔵に従って唐話(中国語)を学んだ。15歳の頃中国語を修めた。

この頃、外国艦が日本近海に迫り、開国を求める動きが加速していたため、西欧語の習得が必要性を増していた。礼之助は在長崎の唐人から華英辞典を求め、当初は独学で英語を学んだという。安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結されると、長崎も開港地となり通商が開始されたため、幕府から税関業務の従事を命ぜられた。また、幕府が設立した長崎英語伝習所で英語を学び、後には教師も務めた。

1859年に鄭幹輔に率いられて、長崎に停泊中のアメリカ船に赴き、宣教師で医師でもあるアメリカ人のマクゴーワン(マガウアン、マゴオン、D.J.Macgowan、瑪高温)に英語を学んだ。その後引き続き、チャニング・ウィリアムズ(立教大学創立者)、ジョン・リギンズ、ウォルシュ(ウオルス、ワルシ、Richard James Walsh、ウォルシュ兄弟の3番目の弟)、グイド・フルベッキより、通詞の同僚の平井希昌(義十郎)らとともに本式の英語を学び、次第に通訳・読書が上達し英語の達人となっていった。文久元年(1861年)にロシアによって対馬が占拠される事件(ロシア軍艦対馬占領事件)が起きると、長崎奉行の退去交渉に通訳として随行した。

英語通訳の功績により、文久3年(1863年)7月に長崎奉行所支配定役格に任ぜられ、幕臣となった。ついで英語稽古所学頭に任じられた。同年孝明天皇に攘夷を約束した幕府は12月に不可能を承知の上で横浜港の再封鎖を交渉するため、フランスへ外国奉行池田長発を全権とする交渉団を派遣することになったが、礼之助も通訳として随行を命ぜられる。この時、前島密も礼之助の従者として仕えた。しかし江戸へ向かう便船が途中で故障して遅延したため、随行は叶わなかった。

翌元治元年(1864年)には長崎の自邸で英語の私塾を開き、巻退蔵(のち前島密)、林謙三(のち安保清康)、中村某(のち青江秀)、瓜生雷吉(のち瓜生震)、その他数十名が塾生として学び、多くの弟子を育てる。翌年には長崎奉行の支援で塾舎を新設。塾生は百数十名を数えた。この時期に何礼之の教えを受けた者には前島密(内務省駅逓局長、逓信次官)、高橋新吉(英学者、日本勧業銀行総裁)、前田正名(農商務省大書記官、東京農林学校長)、芳川顕正(東京府知事、文部大臣、内務大臣など)、高峰譲吉(工学博士、薬学博士)、白峰駿馬(海援隊士、白峯造船所長)、陸奥宗光(海援隊士、外務大臣)などがいる。東洋のルソーといわれる中江兆民に蘭学を教えた萩原三圭(日本初のベルリン大学医学生)も塾生であった。また、兆民は蘭学の師匠である細川潤次郎の推薦で土佐藩留学生として来崎するが、何礼之の同僚の平井希昌(義十郎)に長崎でフランス語を学び、同郷の坂本龍馬とも親交を持った。

何礼之は、英語稽古所の後身である幕府の洋学所や済美館でも平井希昌(義十郎)とともに学頭を務めた。

その後、慶応3年(1867年)7月、幕府開成所(現・東京大学)教授並となり、江戸へ赴く。江戸でも私塾を開き、星亨(衆議院議長、逓信大臣)、中村六三郎(三菱商船学校初代校長)、土取忠良などに英語を教えた。王政復古の後は、幕府陸軍総裁・勝海舟の通訳を務めた。

明治維新後は明治元年(1868年)6月に新政府の開成所(現・東京大学)御用掛、訳官となる。続いて大阪行きを命ぜられ、外国事務局で小松清廉を補佐する一等訳官。また大阪中之島の高松藩邸でも開塾し、堂島川に架かる玉江橋に因んで「瓊江塾」と称した。ここでは濱尾新(帝国大学総長、文部大臣)、奥山政敬(大阪英語学校長)などに教えている。また、同明治元年(1868年)には長谷川芳之助(工学博士、官営八幡製鐵所創設者の一人)が学んだ。この間、大阪洋学校(現・京都大学、岡山大学医学部)設立に奔走し、明治2年9月に設立、12月に開校すると自ら教鞭を執るかたわら『経済便蒙』『西洋法制』などを訳出。明治4年には新政府による欧米派遣使節(岩倉使節団)に外務省六等出仕として随行した。使節団副使の木戸孝允に附属し、憲法の調査を行い、モンテスキューの『法の精神』を翻訳。のちに『万法精理』として刊行され、自由民権運動に大きな影響を与えた。

明治6年(1873年)7月帰朝。翌年には内務省出仕翻訳事務局御用掛となり、洋書の翻訳・調査にあたった。明治9年(1876年)2月内務権大丞、10年(1877年)1月内務大書記官に進む。明治17年(1884年)12月元老院議官となり、同23年(1890年)帝国議会の発足に伴い元老院が廃止されるまで在職した。同年10月20日、錦鶏間祗候となる。明治24年(1891年)12月22日貴族院勅選議員となり、大和倶楽部、懇話会、庚子会、土曜会、同成会に属した。大正12年(1923年)、死去。享年84。墓は東京都港区の青山墓地にある。

著書はすべて訳書で、上記の『万法精理』のほか、ベンサムの『民法論綱』をはじめ、『政治略原』『英国賦税要覧』『世渡の杖』『開知叢書人事進歩編』『開知叢書人事退歩編』『法律類鑑』など。

家族

父・何静谷は唐年行司(長崎奉行下の役人)。寛永年間に先祖が明より長崎に渡来して帰化し、代々唐年行司を務めてきた。静谷で10代目。

養子の武は林洞海の子。

孫の須磨子(娘・婦美の娘)は男爵赤松則良三男・何盛三の妻。子に何初彦。

栄典・授章・授賞

1885年(明治18年)2月6日 - 従四位

1894年(明治27年)5月21日 - 正四位

1886年(明治19年)11月30日 - 勲三等旭日中綬章

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章

1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章

2024/06/28 22:41更新

ga noriyuki


何礼之と同じ誕生日8月10日生まれ、同じ長崎出身の人

渡邉 千真(わたなべ かずま)
1986年8月10日生まれの有名人 長崎出身

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