倉持隆夫アナウンサーの情報(くらもちたかお ) アナウンサー/日本テレビ 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
倉持 隆夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
倉持隆夫と関係のある人
三沢光晴: 三沢のタイガーマスク時代に全日本プロレス中継の実況アナウンサーを務めていた倉持隆夫によると、三沢にはアメリカのプロレス界ではマスクマンは負け役で地位が低いという意識があり、そのため取材の際には本名で呼びかけないとまともな受け答えをしてもらえなかったと回顧している。 アニマル浜口: ジャイアント馬場は、パートナーや対戦相手を引き立てる浜口の力量を高く評価し、ジャンボ鶴田VS浜口のシングルマッチのTV解説時「鶴田に負ける要素はありません!」などと実況したアナウンサーの倉持隆夫に対して、これだけのファイトがあるのだから油断は出来ないとたしなめ、試合終了後も浜口を絶賛した。 若林健治: 移籍直後から倉持隆夫に次ぐ二番手のプロレス実況アナウンサーとなり、1990年の倉持異動後はメインの実況担当となる。 芦沢俊美: あさま山荘事件報道(1972年)中継要員として久能靖、倉持隆夫、小早川正昭らと共に担当 舛方勝宏: タイムス30Kロードレース(1980年、日本テレビ初のロードレース中継として放送) - 倉持隆夫とともに担当 阿修羅・原: 5月29日に天龍とともに『11PM』に出演し(原はマイスタジオから、天龍は倉持隆夫とともにKスタジオから出演)、天龍に対してメッセージを送った。 スタン=ハンセン: 当日の実況を務めた倉持隆夫は、「第2回MSGタッグ・リーグ戦」に参戦していたハンセンの名前をいきなり出すのはまずいと考え、控室を出た際は「これは誰でしょうか?ウエスタンハットをかぶった大型の男」と実況していたが、花道に登場した際に「あっ!スタン・ハンセンだ!スタン・ハンセンがセコンドですね」と実況した他、山田隆も「ハンセンですよ!」と声を上ずらせた。 松永二三男: 1980年5月2日、倉持隆夫がアブドーラ・ザ・ブッチャーVSザ・シークにおいて、シークに額を切り裂かれ実況不能となるという前代未聞のアクシデントが起こった際、リングサイドリポーターであった松永がインタビュー用のマイクを使用して実況を引き継いだ。 ケンドーコバヤシ: 小学生時代は『全日本プロレス中継』(日本テレビ)のメイン実況を務めていた倉持隆夫のものまねをやっていた他、倉持の息子から倉持の著書である「マイクは死んでも離さない 「全日本プロレス」実況、黄金期の18年」を倉持直筆の手紙付きでプレゼントされた事もある。 |
倉持隆夫の情報まとめ
倉持 隆夫(くらもち たかお )さんの誕生日は1941年1月2日です。東京出身のアナウンサーのようです。
テレビ、卒業、現在、事件に関する情報もありますね。去年の情報もありました。倉持隆夫の現在の年齢は83歳のようです。
倉持隆夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)倉持 隆夫(くらもち たかお 1941年1月2日 - )は、日本テレビ放送網の元アナウンサー。 東京都三鷹市出身。東京都立豊多摩高等学校、早稲田大学法学部卒業。早大在籍時には笹沢左保の書生を務めている。1964年4月、アナウンサーとして日本テレビに入社。徳光和夫の薦めで『全日本プロレス中継』の実況アナウンサーの一員となる。特に1976年頃からは清水一郎、徳光の後を受けたメインアナウンサーとなる。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ミル・マスカラス、ザ・ファンクスらの数々の名勝負を18年間にわたり実況。独特の「倉持節」でプロレスファンを熱狂させ、1990年の実況最後の日には試合会場でウェーブが沸き起こるほどの支持を得た。 1990年から若林健治にメイン実況を譲って事業部へ異動。その間、日本テレビ在籍のまま東京ケーブルネットワーク製作(日テレと資本関係にある)のジャパン女子プロレス実況や、NWAやWWFのビデオ実況も行っている。1995年、日本テレビの親会社である読売新聞北陸支社・金沢総局へ出向して、系列局テレビ金沢のワイド番組『2時間ワイドじゃんけんぽん』のニュースキャスターを務める。その後報道部勤務を経て、2001年3月に定年退職。 日本テレビ所属として全日本プロレスの中継に関わり続けた関係上、全日本にとって「不倶戴天の敵」にあたるアントニオ猪木の試合の実況を担当したのは1979年8月26日に行われたプロレス夢のオールスター戦メインイベント、馬場・猪木組対アブドーラ・ザ・ブッチャー・タイガー・ジェット・シン戦のみだったが、退職後、『紙のプロレス』誌のインタビューや自らの著書で、自らが猪木に心酔していることをたびたび明かしており、金沢での勤務時代、同地を訪れた猪木と会う機会を得、人柄に魅せられたのがきっかけであるという。 夫人と共にスペイン・セビリアに移住していたが、現在は帰国して日本に住んでいる。 1977年「世界オープンタッグ選手権」最終戦・蔵前国技館でのザ・ファンクスVSザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャー戦、1981年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦におけるスタン・ハンセンの突然の乱入(試合後の乱闘騒ぎで「これは全日本プロレスのリング上だ!!」とコメントしている)、その翌年の馬場・ハンセンの初一騎討ちなど、全日本プロレスの歴史的瞬間に数多く立ち会う。また1980年5月2日、後楽園ホールでのアブドーラ・ザ・ブッチャー対ザ・シーク戦で、倉持自身がザ・シークに襲撃され額を割られ救急車送りにされるという前代未聞のアクシデントにも遭遇した(ブッチャーVSシークは局の判断で未放送となったが、後年の懐古番組(日テレジータス・プロレスクラシックなど)で放送されることになる)。 ある大会において馬場の試合の実況を担当した際、倉持は「動きが限界に近いですね」と実況した。試合終了後に倉持は、原プロデューサーに呼び出されて「俺は日プロ時代から馬場を見ているんだ。かつてのビデオを見てみろ。あの16文キックの迫力はすさまじかったんだ。視聴者の夢を壊すようなこと言うんじゃない」と注意されたという。以降、倉持は馬場に感情を傾けて実況するようになった。倉持は馬場の衰えを感じる気持ちは変わらなかったという。 ハンセンの試合も数多く実況しており、1981年の世界最強タック決定リーグ戦の乱入劇では、倉持は直前まで新日本プロレス「MSGタッグ・リーグ戦」に参戦していたハンセンの名前を出すのはまずいと考え、控室から出る際には「これは誰でしょうか?ウエスタンハットをかぶった大型の男」と実況していたが、カメラが切り替わった瞬間に「あっ!スタン・ハンセンだ!スタン・ハンセンがセコンドですね」と実況した他、日本テレビのアナウンサーでは初めてウエスタン・ラリアットの名前を出したアナウンサーとなった。1988年3月5日に秋田市立体育館で行われた天龍源一郎&阿修羅・原組(龍原砲)VSハンセン&テリー・ゴディの実況も担当し、ハンセンが失神後に大暴れした一部始終も実況した。 全日本プロレス中継レギュラー枠最後の実況は日本武道館におけるテリー・ゴディ・スティーブ・ウィリアムス組対ハンセン・天龍源一郎組の世界タッグ選手権。ヒザを痛めていた天龍の不甲斐なさにハンセンと天龍が仲間割れしたシーンを「何だー! 何だー! 何が起こっている!」と実況。リング上での挨拶では「会場の皆さん! 視聴率が欲しいんです!」と述べている。 また、東京ドームで行われた「日米レスリングサミット」ではメインイベントのスタン・ハンセン対ハルク・ホーガン戦を実況。フィニッシュが近づいたことを感じた倉持はレポートする徳光和夫を制し、「ちょっと待ってください! 実況を続けます!」と述べ、「ハルク・ホーガンのアックスボンバー! これがアックスボンバーだ!」と実況。これが全日本プロレス最後の実況となった。 同時期に新日本プロレス中継で一世を風靡した古舘伊知郎の実況スタイルについては「作り物のアナウンサー」「次から次へでたらめを本物っぽく言うんです」と切り捨てている。 『マイクは死んでも離さない 「全日本プロレス」実況、黄金期の18年』(2010年1月1日、新潮社)ISBN 978-4103221210 ^ この時期、「ジャンボ鶴田がマニラで客死した」との情報を得、プロレス実況時代の人脈を活用していち早く裏取りに成功。スクープをものにしている。その一方、鶴田夫人の依頼で鶴田の死に顔ができるだけ映らないように奔走していた。 ^ ニュース映像扱いであり、『全日本プロレス中継』では放送されていない。 ^ 全日本の控室からブロディ、スヌーカ・・・「あっ!ハンセンだ!」。サプライズ登場の瞬間、実況の倉持隆夫アナは嘘をついたWeb Sportiva 2022年10月12日 ^ 「死ぬんじゃないか」と心配されたジャイアント馬場がハンセン相手に躍動。実況アナも「やれ! 馬場」と叫んだWeb Sportiva 2022年10月13日 ^ 『日本プロレス事件史 Vol.2』P62 - P65(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 9784583621876) ^ 後日、ジャイアント馬場と元子夫人にクリーニング代として「たしか20万円頂いた」。 倉持がシークのお膝元、デトロイトに行った時には、シークの手厚いもてなしを受け、宝石も貰っている。このアングルは「おそらく当時のプロデューサー・原章(後に日テレ系列局の福岡放送社長)とジャイアント馬場の2人のみが事前に知っていた。(シークが自分を襲ったのは)からかってやろうという感じだったのではないか」と倉持は回想している。 ^ ブッチャーとは来日毎に食事をする間柄であった。楽曲『ブッチャー・ザ・グレイテスト』においては、歌唱の他、作詞も担当している。(『kamipro』No.143より) ^ 「プロレスは男の詩」全日本プロレスの実況アナが天龍源一郎に重ねた「反骨」の心 ハンセン失神事件の秘話も明かしたweb Sportiva 2023年4月26日 ^ 福留崇広『テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち』(2022年 イースト・プレス ISBN 978-4-7816-2128-9)pp203-204 東京都出身の人物一覧 正力松太郎(倉持入社時の日本テレビ会長) Jスパ!コレクション - スペイン&フラメンコの総合サイト。倉持元アナの現地情報エッセイ「セビージャのパテオにて」が連載されている。 倉持隆夫bot (@takao_kuramochi) - X(旧Twitter) VIAF 日本 日本テレビのアナウンサー プロレス実況者 全日本プロレスの元関係者 ジャパン女子プロレス テレビ金沢 ローカルニュースキャスター 早稲田大学出身の人物 東京都立豊多摩高等学校出身の人物 東京都出身の人物 在スペイン日本人 1941年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 22:15更新
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kuramochi takao
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