光格天皇の情報(こうかくてんのう) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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高山彦九郎: 寛政3年(1791年)3月、志水喜間多(南涯)が琵琶湖で捕獲された緑毛亀を得たとの手紙を彦九郎に寄越したことから、『淵鑑類函』に「亀有毛者文治之兆、緑毛黄甲皆祥瑞」とあるのを見いだし、3月30日、この亀を御所に持参し光格天皇に御覧頂いた。 ニコライ=レザノフ: 襲撃直後に江戸をはじめ各地に被害が大袈裟に伝えられたこともあり、やむなく幕府は京都の朝廷(光格天皇)に事件の経緯を報告せざるを得なくなった(『伊光記』文化4年6月29日条)。 中御門天皇: 中御門天皇の皇統は玄孫にあたる欣子内親王(曾孫にあたる後桃園天皇の唯一の子女)が、傍系(弟の閑院宮直仁親王の孫)にあたる光格天皇の中宮となって、温仁親王と悦仁親王(何も中御門天皇の来孫)を産んだことにより、欣子内親王を介して女系の血も受け継ぐものと思われていたが、2親王とも嗣子なく、寛政12年(1800年)と 文政4年(1821年)にそれぞれ薨去したことにより途絶えてしまう(欣子内親王は二度と子を産むことなく、弘化3年(1846年)に崩御)。現在の皇室まで続く皇統は、光格天皇の典侍である勧修寺婧子が産んだ仁孝天皇(温仁親王の異母弟かつ悦仁親王の異母兄)が継いだ。 明治天皇: また、有栖川宮幟仁親王(男系で霊元天皇の4世孫)は、光格天皇の猶子(養子)として仁孝天皇から親王宣下を受け、有栖川宮熾仁親王(男系で霊元天皇の5世孫)・伏見宮貞教親王(男系で崇光天皇の15世孫、女系で霊元天皇の6世孫)は、仁孝天皇の猶子として、孝明天皇から親王宣下を受けていた。以上のような事情があったものの、孝明天皇は、自身の祖父・光格天皇の幼名を与えるほど、唯一の皇子である祐宮に大きな期待を抱いていた。 後桜町天皇: 上皇はたびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会している。ことに寛政元年(1789年)の尊号一件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。 松平定信: 大政委任論では朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対し、この尊号一件を契機に、父である治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。 高山彦九郎: 芝山持豊が光格天皇の側近であったことから天皇とも彦九郎は間接的に関わることとなった。 明治天皇: これは明治天皇の曽祖父である119代天皇光格天皇と同じ幼名であり、『周易』の「自天祐之、吉无不利」(「天佑があって、吉であり万事に有利」)に由来し、孝明天皇が深慮あって選んだものである。というのも、光格天皇は、在位中は諸朝儀・神事の再興復古による朝廷再興に邁進し、そのためには江戸幕府に強い姿勢をとり、時に軋轢を起こしながらも奮闘し、また宮廷文化の振興にも務め、譲位後も朝廷の政務処理や意思決定に重要な役割を果たし、天皇・朝廷の権威を高めた天皇だったからである。孝明天皇にとって光格天皇は理想の天皇の一人だったのである。 後桜町天皇: ちなみに、その後に崩御した光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後の女帝であるとともに崩御後に「院」と称された最後の天皇でもある。 明治天皇: 明治17年(1884年)は、『明治天皇紀』において記録される天皇の活動は、前年の反復が多く、目新しい活動が少ない年だが、恐らくこの年に天皇にとってもっとも重要だったのは、3月14日に曽祖父光格天皇の実父にあたる閑院宮典仁親王に90年忌を期して慶光天皇の諡を追号したことだった。この件をめぐっては、寛政元年(1789年)に光格天皇が実父に太上天皇の尊号を宣下しようとした時、江戸幕府の妨害で阻止された事件が起きていた(尊号一件)。 後桜町天皇: 後桜町上皇は廷臣の長老で前関白の近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとしたが、結局現関白九条尚実の推す典仁親王六男、9歳の祐宮(師仁、兼仁、光格天皇)に決まった。 明治天皇: 光格天皇の童形践祚の先例にならって、髪型は総角(みずら)、衣装は御引直衣、衵、単、張袴、横目扇という童型践祚を行った。 皇太后良子: 裕仁親王妃良子女王は第119代天皇・光格天皇の皇后(中宮)である欣子内親王(在位:1794年 - 1820年)以来の「皇族出身の皇后」となった。 |
光格天皇の情報まとめ
光格天皇(こうかくてんのう)さんの誕生日は1771年9月23日です。京都出身の皇族のようです。
兄弟、現在、事件に関する情報もありますね。1840年に亡くなられているようです。
光格天皇のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)光格天皇(こうかくてんのう、1771年9月23日〈明和8年8月15日〉 - 1840年12月11日〈天保11年11月18日〉)は、日本の第119代天皇(在位: 1780年1月1日〈安永8年11月25日〉 - 1817年5月7日〈文化14年3月22日〉)。御称号は祐宮(さちのみや)。諱は師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)。 父は閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。東山天皇は曽祖父、桃園天皇(先代、後桃園天皇の父)と後桜町天皇(先代、後桃園天皇の伯母)は再従姉弟にあたる。践祚前の安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。光格天皇の兄弟には閑院宮美仁親王や真仁法親王がいる。 一世一元の詔発布(一世一元の制導入)以前に譲位した最後の天皇であり、以降、平成31年(2019年)4月30日に第125代天皇明仁が譲位するまでの202年間、天皇が譲位する例はなかった。 天皇の男系の子孫(曽孫)ではあるが、東山天皇崩御後60年経ち、皇統は祖父の兄の子孫に5代にわたって受け継がれており、皇位とは無縁に思われた。しかし桃園天皇、そしてその子の後桃園天皇もともに22歳の若さで崩御してしまい、跡継ぎがいなくなった。そこで彼に白羽の矢が立った。 今上天皇・徳仁および現在の男系皇族(后妃以外の皇族)は全員、光格天皇の子孫である。 明和8年8月15日(1771年9月23日)、閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)の第6王子として生まれる。誕生の翌年、聖護院宮忠誉入道親王の附弟となり、聖護院に入寺。将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であった。 安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。後継候補者としての伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)の3人があげられた。先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前と後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近く、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。 安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。 天明2年(1782年)、天明の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、聖護院を仮御所とした。 天明7年(1787年)6月、天明の大飢饉の際に御所千度参りが行われると、後桜町上皇はりんご3万個を民衆に配布。光格天皇は事態を憂慮し、朝廷が幕府の方針に口出しをしないという禁中並公家諸法度の定めを破り、幕府に民衆救済を申し入れた。そのため、天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。 ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に努める。また、朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。ただし、尊号の件以外は江戸幕府は天皇の意向を前向きに受け入れる姿勢を取っており、天皇自身も譲位の直前に将軍・徳川家斉に対して御衣とともに感謝の書状を送る など、在位中は大きな対立は発生せず、朝幕関係はむしろ安定していたとする指摘もある。 寛政6年3月7日(1794年4月6日)、欣子内親王を中宮に冊立した。 寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。 寛政12年1月22日(1800年2月15日)、欣子内親王との間に生まれたばかりの温仁親王を、早くも同年3月7日(3月31日)に儲君に治定するも、翌月4月4日(4月27日)に薨去。これを受け、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を文化4年7月18日(1807年8月21日)に儲君に治定し、文化6年3月24日(1809年5月8日)に皇太子とした。 文化14年3月22日(1817年5月7日)、恵仁親王に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる。なお、202年後の平成31年(2019年)4月30日に退位した第125代天皇明仁は太上天皇ではなく天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく「上皇」の地位でこれが正式な称号であるため、現在でも光格天皇が最後の太上天皇である。 天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。宝算70。 光格天皇は博学多才で、学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜み、父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。 寛政9年11月7日(1797年12月24日)には善光寺の等順より、三帰戒及び十念を授け奉られている。 令和元年(2019年)5月1日現在、先帝とは2親等以上離れた続柄かつ傍系の宮家より践祚した最後の天皇でもある。次代・仁孝天皇以後は皇太子(天皇の直系子孫)によって皇位が継承され、この皇統が現在の皇室に至っている。光格天皇から見て徳仁は仍孫にあたる。 中宮:欣子内親王(新清和院、1779年 - 1846年) - 後桃園天皇皇女
第七皇子:悦仁親王(高貴宮、1816年 - 1821年) 典侍:葉室頼子(民部卿典侍、1773年 - 1846年) - 葉室頼熙女
第一皇女:能布宮(1792年 - 1793年) 第二皇子:俊宮(1793年 - 1794年) 典侍:勧修寺婧子(東京極院、1780年 - 1843年) - 勧修寺経逸女
第二皇女:多祉宮(1808年) 第四皇女:娍宮(1817年 - 1819年) - 「娍」は女偏に成 典侍:高野正子(督典侍、1774年 - 1846年) - 高野保香女、園基理養女
典侍:姉小路聡子(新典侍、1794年 - 1888年) - 姉小路公聡女
第八皇女:聖清女王(媛宮、1826年 - 1827年) 第八皇子:嘉糯宮(1833年 - 1835年) 掌侍:東坊城和子(新内侍、1782年 - 1811年) - 東坊城益長女
第三皇女:霊妙心院宮(1811年) 掌侍:富小路明子(右衛門掌侍、? - 1828年) - 富小路貞直女
第七皇女:蓁子(理欽)内親王(欽宮、1824年 - 1842年) - 宝鏡寺 第九皇女:勝宮(1826年 - 1827年) 掌侍:某氏(長橋局) - 父不詳
生母未詳
安永 1772年12月10日 - 1781年4月25日 天明 1781年4月25日 - 1789年2月19日 寛政 1789年2月19日 - 1801年3月19日 享和 1801年3月19日 - 1804年3月22日 文化 1804年3月22日 - 1818年5月26日 天保12年1月27日(1841年2月18日)、第58代光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号選定(ただし、崇徳・安徳・順徳の各天皇を除く)及び第62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(ただし、安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。以後、仁孝天皇・孝明天皇の2代にも諡号が用いられた。 天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事の再興少なからず、……質素を尊ばれて修飾を好まれず、御仁愛くの聖慮を専らにし、ついに衆庶におよぶ」という功績を称え謐号をおくる意見が出た。そこで朝廷から幕府へ強く要望が出され、特例を以て許可された。さらに朝廷は「御斟酌ながら、帝位の御ことゆえ、以後は天皇と称したてまつられるべき」と天皇の名称も幕府に認めさせたのである。 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。先代までの月輪陵と同じ寺域に所在する。 天保11年11月25日(1840年12月18日)に御槽(おふね)に奉納され、12月4日(12月27日)に入棺、12月20日(1月12日)に奉葬された。倹約のため、御槽には蓋がなかったという。翌年1月19日(2月10日)に石塔が完成し、即日供養が修された。同月27日(2月18日)には陵前において諡号の奉告が行われ、この時の記録に初めて「後月輪山陵」の陵号が見える。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 18世紀末から19世紀初めにかけての随筆『耳嚢』(平凡社東洋文庫全2巻、岩波文庫全3巻)の記述によると、天明元年(1781年)に、ある大名に飼われていた狆の主人に対する態度が噂となり、それを知った光格天皇がその狆の忠節を認めて六位を賜えたという話が伝えられている。 宮内省図書寮 編『光格天皇実録』全5巻(ゆまに書房、2006年) ISBN 4-8433-2038-2 藤田覚『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年) ISBN 4-06-258026-8 藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 4-642-03353-X 長坂良宏『近世の摂家と朝幕関係』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-03485-2 藤田覚『幕末の天皇』 講談社学術文庫、2013年。上記の新版 飯倉洋一・盛田帝子編 『文化史のなかの光格天皇 朝儀復興を支えた文芸ネットワーク』 勉誠出版、2018年 藤田覚『光格天皇 自身を後にし天下万民を先とし』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2018年 所功編著『光格天皇関係絵図集成』 国書刊行会、2020年 ^ 光格天皇自身は、「神武第百二十代兼仁」「神武百二十世兼仁」「百二十代兼仁」(120代)と自署していた。この差異は、『本朝皇胤紹運録』にて、現在は歴代天皇に数えられていない北朝の天皇を歴代天皇として数えていることから来る。 ^ 初め師仁と称したが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁に改めた。 ^ 恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院(粟田御所)にそれぞれ移った。後桜町上皇の生母青綺門院の仮御所となった知恩院と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。 ^ 産経新聞によると、天皇明仁が2010年に宮内庁幹部に譲位の意向を示した際、光格天皇譲位の先例を調べるよう依頼したという。“陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前”. 産経新聞. (2017年1月24日). オリジナルの2017年1月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170126071502/http://www.sankei.com/life/news/170124/lif1701240001-n1.html ^ 長子相続(代々の長男)による践祚は昭和・明仁・徳仁の3天皇のみで、仁孝から大正までの歴代天皇はいずれも父帝たる天皇から見て次男以後の続柄にあたる。 ^ 『宸翰栄華』 ^ 「書陵部所蔵目録・画像公開システム,ギャラリーバックナンバー,『光格天皇宸翰南無阿弥陀仏』」 ^ 『山科忠言卿伝奏記 四』文化14年3月15日条 ^ 長坂、2018年、P165-182. ^ “200年前の光格上皇が「令和」の2019年に伝えた遺産”. 日経Biz Gate (2019年4月26日). 2019年5月21日閲覧。 ^ 善光寺本坊大勧進「大勧進の名僧・等順大僧正」 ^ 宮島潤子『信濃の聖と木食行者』(角川書店、1983年) 御所千度参り 皇統文庫 - 国文学研究資料館蔵書印データベース 2021年5月2日閲覧。 1771年9月23日 - 1840年12月11日 表 話 編 歴 1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝霊天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇 11 垂仁天皇 12 景行天皇 13 成務天皇 14 仲哀天皇 15 応神天皇 16 仁徳天皇 17 履中天皇 18 反正天皇 19 允恭天皇 20 安康天皇 21 雄略天皇 22 清寧天皇 23 顕宗天皇 24 仁賢天皇 25 武烈天皇 26 継体天皇 507?-531? 27 安閑天皇 531?-535? 28 宣化天皇 535?-539? 29 欽明天皇 539?-571? 30 敏達天皇 572?-585? 31 用明天皇 585?-587? 32 崇峻天皇 587?-592? 33 推古天皇 592-628 34 舒明天皇 629-641 35 皇極天皇 642-645 36 孝徳天皇 645-654 37 斉明天皇 655-661 38 天智天皇 661-671 39 弘文天皇 671-672 40 天武天皇 673-686 41 持統天皇 686-697 42 文武天皇 697-707 43 元明天皇 707-715 44 元正天皇 715-724 45 聖武天皇 724-749 46 孝謙天皇 749-758 47 淳仁天皇 758-764 48 称徳天皇 764-770 49 光仁天皇 770-781 50 桓武天皇 781-806 51 平城天皇 806-809 52 嵯峨天皇 809-823 53 淳和天皇 823-833 54 仁明天皇 833-850 55 文徳天皇 850-858 56 清和天皇 858-876 57 陽成天皇 876-884 58 光孝天皇 884-887 59 宇多天皇 887-897 60 醍醐天皇 897-930 61 朱雀天皇 930-946 62 村上天皇 946-967 63 冷泉天皇 967-969 64 円融天皇 969-984 65 花山天皇 984-986 66 一条天皇 986-1011 67 三条天皇 1011-1016 68 後一条天皇 1016-1036 69 後朱雀天皇 1036-1045 70 後冷泉天皇 1045-1068 71 後三条天皇 1068-1072 72 白河天皇 1072-1086 73 堀河天皇 1086-1107 74 鳥羽天皇 1107-1123 75 崇徳天皇 1123-1141 76 近衛天皇 1141-1155 77 後白河天皇 1155-1158 78 二条天皇 1158-1165 79 六条天皇 1165-1168 80 高倉天皇 1168-1180 81 安徳天皇 1180-1185 82 後鳥羽天皇 1183-1198 83 土御門天皇 1198-1210 84 順徳天皇 1210-1221 85 仲恭天皇 1221 86 後堀河天皇 1221-1232 87 四条天皇 1232-1242 88 後嵯峨天皇 1242-1246 89 後深草天皇 1246-1259 90 亀山天皇 1259-1274 91 後宇多天皇 1274-1287 92 伏見天皇 1287-1298 93 後伏見天皇 1298-1301 94 後二条天皇 1301-1308 95 花園天皇 1308-1318 96 後醍醐天皇 1318-1339 97 後村上天皇 1339-1368 98 長慶天皇 1368-1383 99 後亀山天皇 1383-1392 北1 光厳天皇 1331-1333 北2 光明天皇 1336-1348 北3 崇光天皇 1348-1351 北4 後光厳天皇 1352-1371 北5 後円融天皇 1371-1382 100 後小松天皇 1382-1412 101 称光天皇 1412-1428 102 後花園天皇 1428-1464 103 後土御門天皇 1464-1500 104 後柏原天皇 1500-1526 105 後奈良天皇 1526-1557 106 正親町天皇 1557-1586 107 後陽成天皇 1586-1611 108 後水尾天皇 1611-1629 109 明正天皇 1629-1643 110 後光明天皇 1643-1654 111 後西天皇 1654-1663 112 霊元天皇 1663-1687 113 東山天皇 1687-1709 114 中御門天皇 1709-1735 115 桜町天皇 1735-1747 116 桃園天皇 1747-1762 117 後桜町天皇 1762-1770 118 後桃園天皇 1770-1779 119 光格天皇 1779-1817 120 仁孝天皇 1817-1846 121 孝明天皇 1846-1866 122 明治天皇 1867-1912 123 大正天皇 1912-1926 124 昭和天皇 1926-1989 125 明仁 1989-2019 126 徳仁 2019- 前の数字は代数。南朝を正統とする。 名前の赤背景は女性天皇。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。 表 話 編 歴 天皇の一覧 皇后の一覧 皇室系図の一覧 元号の一覧 宮家一覧 男性皇族一覧 天皇 今上天皇 后位 皇后 皇太后 太皇太后 上皇后 皇太子 皇太子妃 親王 親王妃 内親王 王 王妃 女王 大妃 摂政 摂政宮 入道親王 法親王 太上天皇 上皇 太上法皇 准太上天皇 大行天皇 後宮 妃位 妃 皇太妃 太皇太妃 夫人位 夫人 皇太夫人 太皇太夫人 准三宮 中宮 女御 更衣 御息所 御匣殿別当 大兄 国母 皇族 旧皇族 内廷皇族 宮家 直宮家 女性天皇 女系天皇 女性宮家 院宮王臣家 伯家 華族 王公族 朝鮮貴族 即位 践祚 譲位 崩御 薨去 皇籍 臣籍降下(皇籍離脱) 降嫁 親王宣下 皇別 皇位 皇嗣 皇別摂家 皇位継承 皇位継承順位 陛下 殿下 御称号 宮号 尊号 全名 諡 諱 お印 宮中三殿 賢所 皇霊殿 神殿 天照大神 皇祖神 伊勢神宮 神 日本神話 神道 神社本庁 日本の元首 日本国憲法第1章 国事行為 国事行為臨時代行 国事行為の臨時代行に関する法律 天皇の退位等に関する皇室典範特例法 行幸・行啓 園遊会 皇室典範(旧皇室典範) 皇室経済法 皇室経済会議 皇室経済法施行法 皇室会議 皇室財産 皇室費用(宮廷費・内廷費・皇族費) 皇室令 皇室服喪令 皇統譜 宮内庁法 宮内庁御用達 最高敬語 永世皇族制 象徴天皇制 天皇制 皇室裁判所 皇族軍人 名誉総裁 神武天皇即位紀元(皇紀) 即位の礼 大喪の礼 退位の礼 立太子の礼 立皇嗣の礼 講書始 歌会始 雅楽 蹴鞠 鴨場 古式馬術 打毬 大祓 信任状捧呈式 認証官任命式 一般参賀 新年祝賀の儀 納采の儀 命名の儀 賜剣の儀 深曽木の儀 斂葬の儀 四方拝 先帝祭 大嘗祭 大饗の儀 天皇誕生日(天長節) 皇后誕生日(地久節) 鎮魂祭 招魂祭 紀元節祭 神嘗祭 元始祭 皇霊祭 歳旦祭 新嘗祭 神武天皇祭 皇妣たる皇后の例祭 紀元二千六百年記念行事 三種の神器
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2024/11/20 03:32更新
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koukakutennou
光格天皇と同じ誕生日9月23日生まれ、同じ京都出身の人
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