坂本九の情報(さかもときゅう) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
坂本 九さんについて調べます
■名前・氏名 |
坂本九と関係のある人
黒沢年雄: その後、同じ高校の2年先輩で高校生時代からすでに歌手活動をしていた坂本九、同じ野球部の2年先輩で後に歌手になった飯田久彦に影響されて、自分も歌手になりたいと思い、家出して数日後、ジャズ喫茶の銀座ACBでオーディションの告知を偶然目にして参加、合格するも「自分には才能がある」と思い込んで給料8千円のバンドボーイの条件を断り、大阪のナンバ一番や京都のベラミなどのジャズ喫茶、クラブなどのオーディションも受けたが条件がみんな似通っていたようなこともあって、結局横浜に帰って来る。 永六輔: 1961年7月に坂本九により初演され、その後世界中でヒットしたポップソング『上を向いて歩こう』の作詞者として知られる。 関口宏: 1979年(昭和54年)4月、『クイズ100人に聞きました』が放送開始したことを契機に、8年間担当した『スター千一夜』の司会を坂本九に譲って降板。 荒木とよひさ: 坂本九「懐しきlove-song」、「心の瞳」 国広富之: 上を向いて歩こう〜坂本九物語〜(2005年、TX) - 坂本明 ダニー飯田: 歌唱、スティール・ギター演奏の他、パラダイス・キングの殆どの楽曲の編曲を担い、坂本九のデビュー曲『題名のない歌だけど』では作詞・作曲・編曲を担当している。 杜澤たいぶん: 上を向いて歩こう〜坂本九物語〜(2005年、TX) 青島幸男: 作詞家としても才能を発揮し、番組で関わったハナ肇とクレージーキャッツや坂本九らの作詞をする。 長谷部宏: 上原謙や原節子、美空ひばりや坂本九といった日本映画界、音楽界を代表するスターたちや、1954年2月に訪日したマリリン・モンローを撮影する。 水野良樹: 「誰でも知っている曲でありながら作り手の姿がほとんど見えておらず、曲が曲として存在し続けている部分がすごいと思う」という理由から、憧れている曲に「上を向いて歩こう」(坂本九)を挙げている。 山口達也: 上を向いて歩こう〜坂本九物語〜(2005年、テレビ東京) - 坂本九 役 浜口庫之助: エンピツが一本(歌:坂本九、葉村エツコ)(1967年) ダニー飯田: ジェリー藤尾、坂本九、石川進、九重佑三子らを育て上げた。 せんだみつお: 菅原進がボイストレーニングに通っていた浜口庫之助のつてで、世志凡太の運転手や世志が加わっていたフランキー堺のバンドの巡業に加わるなどの仕事を経て、ビリーバンバンのコンサートに出演していたせんだを見ていた上野修にスカウトされる形で、上野がディレクターを務めていた、坂本九がメインパーソナリティーを務めるラジオ番組『東芝ワイドワイドサンデー』(ニッポン放送)のレポーターの仕事を得ることとなった。 久松静児: 喜劇 駅前団地(1961年) 東京映画/出演:森繁久彌、フランキー堺、伴淳三郎、淡島千景、坂本九 岸田今日子: テレビドラマでは、1963年の『男嫌い』で、男をむしる独身四姉妹・越路吹雪、淡路恵子、岸田今日子、横山道代(現・横山通乃)の三女役で出演したことで、お茶の間での岸田の認知度が上がった(四姉妹の末弟役は坂本九)。 露木茂: このニュースの音源は2005年8月21日放送のテレビ東京『上を向いて歩こう・坂本九物語』の台詞として使われ、2005年8月12日にフジテレビで放送された、日本航空123便墜落事故関連の再現ドラマ内で、当時の映像に露木本人が速報と報道特番で登場した姿がある。 山下規介: ★上を向いて歩こう〜坂本九物語〜(2005年8月21日 テレビ東京) 林部智史: トットちゃん! 第45話(2017年12月1日、テレビ朝日) - 坂本九 役 加藤清史郎: 上を向いて歩こう〜坂本九物語〜(2005年8月21日、テレビ東京) 真夏竜: 幼少のころより役者にあこがれ、高校の先輩である坂本九のように歌から入れば役者になれると思い、横浜市内のクラブで専属シンガーとなった。 エリアンナ=シルヴァ: SUKIYAKI(坂本九のカバー) 橋口恵莉奈: 上を向いて歩こう〜坂本九物語〜(2005年8月21日、テレビ東京) - 大島花子 役 越智静香: 上を向いて歩こう〜坂本九物語〜(2005年、テレビ東京系) 中西圭三: V.A.『坂本九トリビュートアルバム』(1997年12月10日 / 東芝EMI / TOCT-10013) 麻見和也: また、テレビのオールディーズ番組にパラダイス・キングが出演した際にも坂本九がボーカルを取った曲は麻見が歌うこともあった。 北原遥子: 同じ便には坂本九も乗り合わせていた。 浦上郁夫: 同事故を共にした歌手の坂本九とは旧知の間柄で、同便への搭乗直前にも羽田空港のロビーで互いに会釈を交わしている。 浜口庫之助: 涙くんさよなら(歌:坂本九、ジャニーズ、和田弘とマヒナスターズ、ジョニー・ティロットソンの競作)(1965年) 長田庄平: 坂本九 |
坂本九の情報まとめ
坂本 九(さかもと きゅう)さんの誕生日は1941年12月10日です。神奈川出身の歌手のようです。
映画、テレビ、現在、事故、結婚、離婚、家族、兄弟、母親、引退、脱退、ドラマ、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1985年に亡くなられているようです。
坂本九のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)坂本 九(さかもと きゅう、出生名:さかもと ひさし、本名:大島 九(おおしま ひさし)、1941年(昭和16年)12月10日 - 1985年(昭和60年)8月12日)は、日本の歌手・俳優・タレント・司会者。神奈川県川崎市川崎区南町出身。愛称は九ちゃん。 妻は女優の柏木由紀子。柏木との間に娘が2人おり、長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子。実祖父は茨城県新治郡田伏村(のち佐賀村→出島村→霞ヶ浦町、現:かすみがうら市)出身の漁師坂本金吉。またサックス奏者の阿部薫は甥(姉の息子)。 「上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」等数多くのヒット曲を出し、全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達した。また、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など多岐に渡り活動していた。 川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛(ゆたか)と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生。9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきたことから、「九」と命名されたという説がある。また、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われている。 第二次世界大戦中に幼少期を送り、戦争中は母の実家のある現在の茨城県笠間市に疎開した。また川崎在住時代、松あきら一家が坂本家の近所に転居・在住していた時期があり、坂本は松とよく遊んでいたという。 戦争中の1943年10月26日(火曜日)に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる。そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった。 高校生の時に両親が離婚。といっても家は近所で家族の交流は変わらなかった。九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島になる。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり、右に出る物が他にいなかったと言われるほど、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となった。 高校に上がると、当時不良の音楽で、一部の最も流行に敏感な若者たちに流行り始めていたロックン・ロール(当時は総じてロカビリーと言われていた)にさらに熱を上げ、立川の米軍基地で初めて人前で歌う。その時に歌ったのがエルヴィス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」リトル・リチャードの「Send me Some Lovin'」だった。 1958年5月、日本大学高等学校在学中にバンド・ボーイを経て、当時ロカビリーバンドとして活動していた井上ひろしとザ・ドリフターズ(後の桜井輝夫とザ・ドリフターズ、のちのザ・ドリフターズ)に加入し、ボーカル兼ギターを担当。8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞する。 半年後(11月)芸能界の苦しさも経験し、母親の反対を押し切って入った芸能界が、どうも間違いだったと思い始めていた坂本は、学校を休学して芸能活動をしていたので、「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退してしまった。しかし渡辺美佐の妹である曲直瀬信子は、坂本家まで通い、坂本と母親とを強く説得。そして初代ドリフターズのリーダー岸部清をも説得し、事実上の引き抜きという形で坂本はドリフターズを脱退。 12月に水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員としてビクターレコードと契約。1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたが、ヒットしなかった。 無名時代、平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した、日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、当初は知られることがなかったがのちに上記の新人賞を受賞している。 ダニー飯田とパラダイス・キング加入でヒットしてテレビに出る以前のライブ時代の九は、新品のギターを叩き壊すなどのパフォーマンスもする、パワフルでワイルドなロックン・ロールスタイルだった。また、当時はギターを後年のパンクロックミュージシャン顔負けの低い位置で構えていた。 1960年7月に、東芝音楽工業(後の東芝EMI。東芝レコードレーベル)に移籍。同年8月に、移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき六十才」が10万枚を売り上げ、初ヒットとなった。 1961年10月15日リリースの「上を向いて歩こう」は日本国外でも大ヒットし、作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれた。中でも1963年には、SUKIYAKIと題してアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得、キャッシュボックス(Cash Box)誌でも4週連続1位を獲得。 Billboard Hot 100で1位を獲得した日本出身者は2020年9月現在、坂本だけである。この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは坂本の歌う日本語版であり、その点でもこれまで唯一の例である。 この曲のヒットに伴い、1963年、坂本はスティーブ・アレン・ショーに招かれ渡米する。エド・サリヴァン・ショーにも招かれたが、自身が主役の映画「刀を抜いて」の撮影スケジュールと合わず、エドのほうは出演は叶わなかった。渡米の際、キャピトル社長一家、当時のニューヨーク市長、クインシー・ジョーンズ、ディズニーランド副社長や多くのアーティストや著名人と対面しており、空港には1万人のファンが集まるなど、非常に歓迎された日本人だった。妻の柏木によると、結婚後、柏木と坂本がプライベートでロサンゼルスに行ってアーティストのショーを観客席で見ていたとき、「SUKIYAKIのキュー・サカモトが来ている」と司会者に紹介されたという。1963年海外遠征を行い、この時ドイツにおいてはナチス式敬礼をしながらドイツ語で歌唱する姿が記録に残っている。 また、この「上を向いて歩こう」は1964年に米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞した。 「上を向いて歩こう」の世界でのヒットにより世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。1964年の第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、「サヨナラ東京」と「君が好き」を歌った。 資金難だった東京パラリンピックをチャリティコンサートで寄付金支援した。 1970年の日本万国博覧会で若手芸能人の万国博委員に起用される。さらに、読売テレビ『クイズEXPO'70』の司会にも起用された。 タレントとして、テレビの司会や映画、舞台でも活躍した。役者としては晩年の榎本健一(1970年1月没)には特に気に入られ、自宅に呼ばれて様々な指導を受け「俺を踏み台にして、俺を超える役者になれ」と口癖のように言われたという。 また、「あゆみの箱」運動、手話を広げる運動、障碍者福祉関係の慈善活動に積極的に参加していた。 1971年12月8日(水曜日)に女優の柏木由紀子と結婚。 「上を向いて歩こう」がヒットする最中、夕張市を中心に当時流行していた小児麻痺の為の「チャリティーショー」が1962年から札幌テレビ放送主催の下、札幌市で開かれ、坂本は無報酬で出演した。以来、毎年10年間北海道でチャリティーショーを続け、それをきっかけに1976年札幌テレビ放送制作の福祉番組「ふれあい広場・サンデー九」に取り組む。月に2回北海道の施設を取材し番組は作られた。この番組は急逝まで9年間、日曜朝9時から30分間放送された。番組の中、コンサートでも披露されたが、日本初の手話の歌「そして想い出」を1979年発表。全国ろうあ者大会で披露した。 当時、坂本はヒットについて岡本太郎に声をかけられると、周囲からの重圧についての葛藤を泣きながら語っていたという。 坂本は、幼少時から兄弟や花街という土地柄や稼業などの影響で、邦楽はもとより、洋楽の影響も多分に受けて育っていた。小学生の頃から「ハリー・ジェイムスのトランペットは色っぽい」「歌舞伎の所作がいいね」などというほど、自然に芸事や洋楽に触れていて当時としてもとてもハイカラな環境で育った。 家族兄弟でいうと、ジャズ、シャンソン、芝居、日舞、三味線、邦楽など、一通りの影響を強く受けた。 また、兄弟の影響でヨーデルにも手を出して、のちにそれを生かしたファルセットボイスを「恋のホームタウン」や「ステキなタイミング」などで生かしている。 三味線片手にさのさも歌えば、小学生の頃からナット・キング・コールも歌い、中学生になると三味線をギターに持ち替えて当時最も新しい音楽のロックンロールに感化されていく。 「う〜えをむ〜いて」を「ウフエヘヲホムフイテ」というように言葉の裏の音「ウフ」「エヘ」「オホ」と、邦楽の素養も、洋楽の要素も持ちながら表現した独特の歌い方は、だれもやっていない当時最も斬新な歌い方であったと九重佑三子がのちに回想している。 また、斬新で新しい歌唱法と同時に、当時はまだまだロックン・ロール(ロカビリー)は音楽的な市民権を得てなかったこともあり、坂本の歌はとても個性的で注目されたが、保守的な大人からはそれほど評価は高くなかった。 デビュー当時は、本人も大好きなアメリカンポップス、ロックをカバーして歌っていたこともあり、カバー歌手はほかにもいたが、体の芯から理解して日本語を英語のようなグルーヴで歌うのも初めての歌手だった。 また、キーが高めで軽いハスキーな声質も個性的であった。 1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた。8月9日には、中村八大のコンサートにて「もう一度、六・八・九としてやり直したい、歌手としてやり直したい」という意志を伝え、中村と再度の意気投合を誓っていたという。 坂本は8月11日夜に『クイズクロス5』(テレビ新広島)の収録のため広島入りし、翌12日に同番組の収録(同年8月16日放送分)を行った。当初の予定では、『クイズクロス5』の収録後に、岡山から車で直接大阪入りする予定だったが、夏休み休暇中のうつみ宮土理の代役として急遽『歌謡スペシャル』(NHK-FM放送)の司会を務めることになったため、一旦帰京した。このため、この『歌謡スペシャル 秋一番!坂本九』の収録が、坂本の生前最後の仕事となった。この番組の中で坂本は、「ステキなタイミング」・「上を向いて歩こう(欧陽菲菲とデュエット)」・「For The Good Times」・「We are the world」・「心の瞳」・「親父」・「見上げてごらん夜の星を」・「懐しきlove-song」を披露したほか、同年6月8日に「古賀政男記念音楽大賞」で入賞したことに触れ、「とても嬉しかった。これからも皆さんと一緒に、いつまでも歌い続けていきたい」と、将来への抱負を語っていた。 その後、大阪府在住で自身の元マネージャーの香川弘行が立候補した、同年9月9日実施予定の羽曳野市議会議員選挙に応援として、翌13日に行われる事務所開きに駆けつける途中、日本航空123便墜落事故に巻き込まれ死去。43歳没。 坂本は本来、国内移動には日本航空 (JAL) ではなく、基本的に全日空 (ANA) を使っており、所属プロダクションや妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった。坂本と親交があったプロボウラーの矢島純一は事故の1週間前に坂本の家でこの件を知らされ、全日空に変えることを勧めたが、坂本は「せっかく送ってもらったから」と言って変えなかったという。 事故の数日前、「日航の切符を事務所に送る」という電話が入っていたが、当時電話を受け取った由紀子は事故が起こるまで特に気に留めていなかった。そのため、家族も事故当日のうちに乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていた。 しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝廣、坂本が所属するマナセプロダクションのマネージャー)の名が記載されていたことが日本航空側より発表されたことで、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命を共にした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、盆という時節柄、それが叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。 坂本と小宮は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747SR-100の2階席、右列の前方から4番目(64列)に搭乗していた。坂本は、ハンティングワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。その中に録音機能付きのウォークマン(ソニー製WM-F85)が入っていたため、家族は遺言が残されていないかと気に掛けていたが、テープには当時頻繁に聞いていた楽曲「We are the world」が入っていただけで、遺言らしきものは何も録音されていなかった。 事故翌日の8月13日には、事前収録の坂本本人が出演する、フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』200回記念が放送された。この時点では安否不明の状態であったため敢えて放送され、番組の最後ではブラックバックに「坂本九さんの無事をお祈りします」というコメントが寄せられた。墜落から99時間後の16日深夜、家族らによって遺体が確認された(遺体が発見されたのは14日頃)。遺体は損傷が激しかったが、普段から身に着けていた笠間稲荷のペンダントが胸に突き刺さっていたことと、首の太さが確認の決め手となった。また、墜落現場では両手で足首を掴み頭を膝の中に入れる「安全姿勢」をとった状態で発見されており、即死状態であったという。遺体は翌8月17日5時前に東京都目黒区柿の木坂の自宅に帰宅した。 1985年8月17日放送のTBS『キッチンパトロール』では、遺体が確認された翌日であったため、番組冒頭に坂本の死去を伝え哀悼の意を示すテロップ、収録日を示すテロップが番組の前半と後半に表示されつつ、元気な姿が放送された。また、同じく遺体が確認されてから最初の放送となった8月21日放送のフジテレビ系「夜のヒットスタジオDELUXE」では、森進一が当初予定していたオリジナル曲「うさぎ」の歌唱を急遽取り止めて坂本へ哀悼の意をこめて坂本の持ち歌である「見上げてごらん夜の星を」を涙ながらに熱唱し、スタジオにいた出演者とスタッフのみならず多くの視聴者の涙を誘った。 密葬は8月18日11時より東京都目黒区柿の木坂の自宅で行われ、本葬は9月9日に港区芝の増上寺で執り行われた。そして、札幌テレビ放送で福祉番組『ふれあい広場・サンデー九』を担当していたこともあり、坂本の遺族と一緒に亡くなった小宮の遺族を札幌市内のSTVホールに招き、障害者とその家族だけを対象にした「偲ぶ会」として一般葬儀も執り行われた。 戒名は「天真院九心玄聲居士(てんしんいんきゅうしんげんせいこじ)」。墓所は東京都港区西麻布二丁目の長谷寺。墓には「見上げてごらん夜の星を」の歌詞の一部が刻まれている。 親交があった石倉三郎夫妻の媒酌人を由紀子と務めることになっていたが、結婚式直前に坂本が亡くなったため実現しなかった。 この事故の影響で元マネージャーの香川は一旦立候補を取り下げようとしたが、周囲の励ましがあり出馬し当選した。 坂本の不慮の死は、日本音楽界・歌手界、そして芸能界にとって大きな損失と言われたほか、福祉界においても大きな損失と言われた。 坂本は前述の「サンデー九」の一環で北海道夕張郡栗山町と交流があったことから、逝去後栗山町に「坂本九思い出記念館」が設立され、関連の展示がなされている。 坂本が主題歌(作詞:山川啓介、作曲:福田和禾子)を歌唱していたNHK教育テレビジョン『たんけんぼくのまち』については、坂本の没後にチョーさん役で番組に出演していた長島雄一が引き継いで歌唱した。なお、坂本の生前は1番のみだったが、長島が2番と3番の歌詞を書き下ろしている。 坂本を記念して命名された、(6980) Kyusakamoto という小惑星がある(発見は1993年、命名は1998年)。小惑星番号の6980を「六八九トリオ」にかけたものである。 坂本が最後に歌った「心の瞳」は、結果的に遺作となってしまったが、横山潤子などによって編曲され、現在では混声3部合唱として主に中学生に歌われている。また、「明日があるさ」は2000年8月より約1年半間にわたりジョージアのコマーシャルに起用され、CMソングを歌ったウルフルズによる『明日があるさ』はオリコン4位を獲得し、出演する吉本興業所属タレント達によるRe:Japanが結成されるといった現象が起き、坂本の楽曲が再び注目されるようになった。 2007年3月4日より、ゆかりの地茨城県笠間市の中心駅である東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線友部駅で「明日があるさ」・「上を向いて歩こう」・「幸せなら手をたたこう」のアレンジが発車メロディとして使用されている。これは、笠間市(旧:友部町)が、坂本が戦時中の学童疎開で滞在し育った街であるということと、駅舎を橋上駅舎に改築したことの記念という意味を込めたものである。さらに2012年7月24日には、常磐線岩間駅の橋上駅舎完成に合わせ、「幸せなら手をたたこう」・「レットキス」の発車メロディを導入している。2014年4月29日には、水戸線笠間駅でも岩間駅と同じ発車メロディが導入された。 2008年12月20日からは、坂本の出生地である神奈川県川崎市の京浜急行電鉄京急川崎駅にて、「上を向いて歩こう」が接近メロディとして使用されているほか、2016年12月10日からは、JR東日本川崎駅1・2番線(東海道線ホーム)にて、同曲が発車メロディとして使用されているメロディの制作はいずれの駅もスイッチで、編曲は京急側が塩塚博、JR東日本側は福嶋尚哉が担当した。また、日本のサッカーチームの川崎フロンターレのホームゲーム後に「心の瞳」が流れている。 山口達也 - 『上を向いて歩こう 坂本九物語』(テレビ東京系列、2005年8月21日放送)
錦戸亮 - 『トットてれび』(2016年、NHK) 林部智史 - 『トットちゃん!』(2017年、テレビ朝日系列) NHK「夢であいましょう」昭和36年10月と11月の歌 A面は日本国内外で爆発的ヒットを記録した代表曲の一つ。 A面は森山加代子とのデュエット。 B面は森山加代子のソロ。 A面はリトル・リチャード、B面はデル・シャノンの曲をカバー。 A面は、松竹映画「九ちゃん音頭」主題歌。 A面は日活映画「一人ぼっちの二人だが」主題歌。 A面は作曲者不詳の伝承歌のメロディに坂本が作詞。 B面はアルマ・コーガンの楽曲をカバー。 A面は創作ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」主題歌 B面は創作ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」挿入歌 再プレス盤。 A面はNHK「夢であいましょう」昭和38年4月の歌。発表当時の曲名は、「ぼく帰りたい」。 B面は、東映映画「九ちゃん刀を抜いて」主題歌。 2曲とも青島幸男が作詞、中村八大が作曲した。 A面は 1999年、ダウンタウンらが出演した「ジョージア」(日本コカ・コーラ)のCMソング(Re:Japanによるカバー)で脚光を浴びる。 A面は東京映画「ミスタージャイアンツ勝利の旗」主題歌。 B面は柴田勲による歌唱。 原曲はアメリカ民謡だが、発売当時では作詞・作曲者不詳(編曲者は有田怜)となっていた。 原曲とはメロディが一部異なっている。 東京オリンピックのウェルカムパーティーで坂本が、各国選手団・外交使節団の前で2曲を歌唱した。 B面は、NHK「夢であいましょう」昭和39年4月の歌。 規格品番のTPナンバーはステレオ盤。 A面は、NTV連続ドラマ「ぼうや」挿入歌。 宮城県立西多賀養護学校(現在の宮城県立西多賀支援学校)の応援歌として制作された曲。また、『あゆみの箱』のテーマソングとなった。 カップリング替えで2曲とも再発。 再発盤。ジャケット写真は一新している。 A面はジャニーズ・和田弘とマヒナスターズ・ジョニー・ティロットソンとの競作。 B面は海汀による歌唱。 2曲とも九重佑三子とのデュエット。 B面はNHK「夢であいましょう」昭和40年5月の歌。 A面はNHK「今日のうた」より、B面はテレビ映画「おーい雲」主題歌。 A面はNTV「九ちゃん」より、B面はNET今井正アワー「下町の青春」主題歌。 作詞は永六輔。フィンランドのラウノ・レティネン (Rauno Lehtinen) 作曲だが、発売当時は作曲者不詳となっている。 9月15日発売時のA面の曲名は「ジェンカ」だったが、11月に曲名を改めて発売。東芝レコード月報(MONTHLY SUPPLEMENT)1966年11月号では、タイトルは「ジェンカ」となっている。 鹿児島県「家庭の日」の歌。 2曲とも松竹映画「九ちゃんのでっかい夢」主題歌。 A面は日本万国博のテーマソングで各社競作。坂本のバージョンは、作曲者の中村八大が編曲も手がけ、第19回NHK紅白歌合戦では坂本による歌唱で披露した。 B面はNHKテレビ「音楽の花ひらく」テーマ・ソング。 B面はフジテレビ「うちの大物」主題歌。 A面はテレビ映画「若者たち」主題歌。B面は坂本九自身の作詩・作曲による。 A面はクリフ・リチャードの楽曲をカバー。B面は坂本九自身の作詩・作曲による。 2曲とも再発。 前々作「蝶々」(1969年6月。なるせ・みよことの競作)が理不尽な放送禁止(それ以前に、他の人が歌った卑猥な替え歌が広まっていたという理由であった)を受けたために、急遽、坂本がかねてから作っていた曲に歌詞をつけて発売された。坂本が歌いたいと願っていた「母の歌」でもある。 2曲とも再発。 B面はNHK総合TV「歌はともだち」より。 A面は世界歌謡祭・日本歌謡祭・ポピュラーソングコンテストテーマ曲。 A面はTBS系列ドラマ「まんまる四角」オープニングテーマ。 NHK総合TV連続人形劇「新八犬伝」のエンディングテーマ。 「新八犬伝」で使われる夕やけの空は、レコード音源とは別の音源である。 「夕焼けの空」とも表記されていることがある。 北海道限定で発売されたシングル。 A面は札幌テレビ『ふれあい広場・サンデー九』主題歌。 再発盤。ジャケット写真も新発売時のものと同一。 ベスト・カップル・シリーズでの再発盤。このレコードよりB面の作詞者と原曲がクレジットされた。 B面曲の「そして思い出」は、当時まだ手話が聾学校でも使用が認められておらず、聴覚障害者の間で独自に発展していたことや、そのために健常者との本音でのコミュニケーションが取れないことに悩む子供が多かったことを憂いた坂本が「手話の歌を作りたい」と永六輔に持ちかけて、手話通訳者の丸山浩路が協力、中村八大が作曲した、世界で初めての「手話で歌うことを前提とした歌」である。 A面は亡き父に捧げた曲で、坂本自ら作詞・作曲を担当した。 A面はデューク・エイセスによる歌唱。 2曲ともNHK「こどものうた」作詞作曲コンクール優秀曲。 覆面歌手「XQS(エクスキューズ)」として発売。目と口だけ穴を空けた紙袋を被りスーツに黒タイツに革靴という出で立ちで踊りながら歌うプロモーション映像が「おはようスタジオ」や「歌う天気予報」などのテレビ番組に登場し、視聴者に強烈なインパクトを与えた。 ファンハウス(現在のアリオラジャパン)移籍後第1弾シングルとして発売されたが、3ヶ月後に逝去したため遺作となった。 B面は、後に合唱曲として知られるようになる。 東芝EMIから発売。 幸せなら手をたたこう レット・キス(ジェンカ) 上を向いて歩こう 見上げてごらん夜の星を 上を向いて歩こう あの娘の名前はなんてんかな 上を向いて歩こう(カラオケ) 上を向いて歩こう2000 SUKIYAKI 2000 Angel OnYour Shoulder~ 上を向いて歩こう2000 ~Special Instrumental~ 明日があるさ 幸せなら手をたたこう 上を向いて歩こう 一人ぼっちの二人 見上げてごらん夜の星を ともだち 上を向いて歩こう(カラオケ) アニメ映画『コクリコ坂から』の挿入歌として起用された時期に発売された。 心の瞳(コーラス入り) 心の瞳(合唱ヴァージョン) 心の瞳(カラオケ) 坂本がメインボーカルの楽曲は、「九ちゃんのズンタタッタ」「月夜に歩けば」「カレンダー・ガール」「おんぼろ汽車ポッポ」の4曲。 坂本がメインボーカルの楽曲は、「九ちゃん音頭」「モデル・ガール」「上を向いて歩こう」「何処かでだれかが」「あの娘の名前はなんてんかな」の5曲。 第19回文部省(当時)芸術祭参加作品。 作・構成:永六輔、音楽:いずみたく 出演者:坂本九、九重佑三子、越路吹雪、ダニー飯田とパラダイスキング、大貫ゆみ子 1992年7月29日にCD化された。 1966年4月3日、東京厚生年金会館大ホールにて収録。演奏:小俣尚也とドライビングメン 構成:永六輔 カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 坂本は、ナレーターとして参加。 1967年、11月5日渋谷公会堂にて収録。 演奏に東芝レコーディング・オーケストラが参加。 演奏に東芝レコーディング・オーケストラが参加。 2枚組。 東芝EMIとファンハウスから、追悼盤として急遽発売された。 六八九トリオによるコンテンポラリー楽曲で構成。坂本九唯一のコンテンポラリー・オリジナルアルバムでもある。 坂本、九重佑三子がメインボーカルを担当する楽曲も収録されている。 1960年代の楽曲を中心に収録。 全てのシングルス(カップリング含む)作品と、1960年代後半以降のアルバム楽曲の大半と、未発売楽曲を収録。近年まではEMI直営通販の「EMIミュージック・ジャパンショップ」にて販売していたが現在は廃盤。なお、アルバム楽曲についてはマスターテープを発掘できず、レコード盤の再生から収録したと断り書きがある。 「坂本九 メモリアル・ボックス 1941-1985」と同時発売された。 「悲しき60歳」から「懐しきLove-Song」までを選り抜いた25曲を収録。1970年代以降の収録楽曲は初CD化となる。 「悲しき60歳」から「そして思い出」まで選り抜いたシングルス作品を収録。ライナーノーツの代わりとして、オリジナルのレコードジャケット(裏面の歌詞などを含む)を1枚ずつCDライナーサイズに縮小したものを封入。後年のシングル全集ではカットされた「新八犬伝のテーマ」もシングルレコード盤のままで収録されている。 レコードで発売されたものをCD化。ナレーションに坂本が担当。 『ゴールデン☆ベスト』シリーズ。1960年代の楽曲を収録。 『音得-OTOKU-』シリーズ。「悲しき六十才」から1966年までの楽曲を選り抜いた30曲を収録。紙ジャケット仕様。 シングルス全てをリマスタリングの上収録。6枚組で9999円と、九にちなんだ価格となっている。 シングル全集との連続企画で同作から選り抜いた19曲を収録。 ボーナストラックとして、1963年にキャピトル・レコードで録音されて全米向けに発売された「CHINA NIGHTS」を日本向けとして初収録。 レコードで発売されたものをCD化。 1960年代から1970年代までの楽曲を選り抜いたベスト盤でDVDを同封。ボーナストラックとして、1984年頃に録音された坂本のボーカルをミキシングして編曲された、柏木由紀子とのデュエット「あの日の約束(坂本九作詞曲・三木たかし編曲)」が収録されている。なおこの楽曲は2004年9月に開催された「坂本九音楽祭」で初披露された。 DVDには、いわゆる蔵出しとして、1983年頃に撮影され事務所で保管されていた歌謡ショーの秘蔵映像から4曲分が収録されている。 ロカビリー系のリサイタル作品(メモリアルボックスと大半が重複)や、未商品・未CD化のテレビ番組やコンサートにまつわる音源を中心にリマスタリング処理のうえ収録。CD4枚組。EMIミュージック・ジャパンへと社名が変わってから坂本九としての初作品である。ライナーノーツによればまだ商品化されていない楽曲が存在しているとのこと。 日本映画の挿入歌と劇中音楽を新たに編集してCD化するシリーズ「Hotwax trax」の作品。舛田利雄の監督作品「上を向いて歩こう」と「ひとりぼっちの二人だが」からの音源を収録。 「上を向いて歩こう」のレコード未発売ヴァージョンを収録。 レコードで発売されたものをCD化。紙ジャケット仕様で、使用上の注意の内容がレコードのままになっている。 アニバーサリー・ベスト。オリジナルアルバム「689」(メモリアルボックスにてCD化)と、「上を向いて歩こう」「久しぶりのあなた」など六八九トリオによる楽曲全29曲を新たにリマスタリングのうえ収録。2枚組。 『ゴールデン☆ベスト』シリーズ。坂本がメインボーカルを担当した楽曲も収録。 「上を向いて歩こう」ビルボード・チャート1位50周年記念CD。国内外の著名アーティストに日本語詞・英語詞・インストゥルメンタルでカヴァーされたものを収録。 同曲を生み出した永六輔と中村八大の“68コンビ”によるヒット曲も合わせて選りすぐりで収録。 坂本による歌唱音源は、「上を向いて歩こう ~beyond the time~」と題したステレオ・ヴァージョン。 シングル「心の瞳」と同時発売。 「上を向いて歩こう」(ベスト盤初収録となるステレオ・ヴァージョン)、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」などの代表曲に加え、現在は教科書にも掲載され合唱曲としても浸透している重要曲「心の瞳」を、新たにダビング・リミックスを施したニュー・ヴァージョンで収録。 トリビュート・アルバム。「悲しき六十才」から制作担当していた東芝レコードのプロデューサー草野浩二が担当。 参加アーティスト:長渕剛・THE ALFEE・西田ひかる・ダニー飯田とパラダイスキング・森山加代子・一路真輝・DICK LEE・坂本冬美・大江千里・中西圭三・JAYWALK・南こうせつ・中山秀征&THE 虎舞竜 それぞれのアーティストが坂本の代表曲を個性的に歌唱あるいは演奏している。終曲の「そして想い出(歌唱:大島花子&大島舞子)」の冒頭には、吉永小百合のナレーションによるメッセージが収録されている。 ソニー・ミュージックレコーズから発売。 リバイバルヒットを受けて柏木由紀子と2人の娘、更に坂本の歌唱も加えられた家族4人の仮想ユニット「虹の合唱団」によるシングル。秋元康が6番まで新しい歌詞を書き、7番に坂本が歌うオリジナルの6番を加えたもので、ラストは4人全員で歌っている。谷啓らがコーラスで参加している。 mora(旧Bitmusic)でダウンロード販売中。 オーマガトキから発売。 柏木由紀子と2人の娘で結成されたユニット「maman et ses filles(ママン・エ・セフィーユ)」によるミニアルバム。自宅内で8トラックテープに録音された坂本の楽曲を所々織りこみ、インスパイアしている。 表題曲を品川女子学院生徒の女声合唱によるアレンジで収録している。 農林中央金庫CMソング。 作詞:山上路夫、作曲:いずみたく ソノシート・楽譜を各2万枚作成し、全国の農協・信連本支所に配布した。 1959年 - 上役・下役・ご同役(東宝) 1960年 - 山のかなたに 第1部リンゴの頬 (東宝) 1960年 - 山のかなたに 第2部魚の接吻 (東宝) 1961年 - 悲しき60才 (大映東京) 1961年 - アワモリ君売出す (東宝) 1961年 - 喜劇 駅前団地 (東京映画) 1961年 - アワモリ君乾杯! (東宝) 1961年 - 喜劇 駅前弁当 (東京映画) 1961年 - アワモリ君西へ行く (宝塚映画) 1962年 - 上を向いて歩こう (日活) 1962年 - 九ちゃん音頭 (松竹大船) 1962年 - 若い季節 (東宝) 1962年 - ひとりぼっちの二人だが (日活) 1962年 - バラキンと九ちゃん 申し訳ない野郎たち (松竹大船) 1963年 - 九ちゃんの大当りさかさま仁義 (東映東京) 1963年 - クレージー作戦 先手必勝 (東宝) 1963年 - 九ちゃん刀を抜いて (東映京都) 1963年 - ジェリーの森の石松 (東映京都) 1963年 - 見上げてごらん夜の星を (松竹大船) 1964年 - 男嫌い(東宝) 1964年 - 喜劇 陽気な未亡人 (東京映画) 1964年 - 万事お金(東宝) 1964年 - 幸せなら手をたたこう (大映東京) 1965年 - ガリバーの宇宙旅行 (東映動画)※ 劇場用アニメーション作品の声優(主人公テッド)。また劇中での歌唱。 1965年 - 調子のいい奴 いたずらの天才 (マナセ・プロ) 1965年 - ハイウェイの王様 (マナセ・プロ) 1966年 - 坊っちゃん (松竹大船) 1967年 - 九ちゃんのでっかい夢 (松竹大船) 1967年 - 君は恋人 (日活) 1975年 - 吶喊 (喜八プロ=ATG) 1975年 - 新八犬伝 第一部 芳流閣の決斗 (芸苑社) 1976年 - 泣きながら笑う日 努力しないで出世する方法(1964年、新宿コマ劇場) - 主演:フィンチ 役 君はいい人、チャーリーブラウン(1977年) - 主演:チャーリー・ブラウン 役 明治屋 マイジュース ハウス食品 ククレカレー(CMソングのみ)、ハンバーグヘルパー(妻・柏木と共演) 日立製作所 ククレット(電子レンジ、妻・柏木と共演) ニチイ(現・イオン) ほか、多数 夢であいましょう(NHK総合) 若い季節(NHK総合、1961年 - 1964年) 教授と次男坊(日本テレビ、1961年) 東芝日曜劇場「すりかえ」(TBS、1961年) 男嫌い(1963年) ぼうや(日本テレビ、1963年) - 坂口一 役 7時にあいまショー(TBS、1963年6月8日放送分がビデオおよびDVD化されている。) 明日があるさ(日本テレビ、1964年) ブラザー劇場「水戸黄門」(TBS、1964年 - 1965年) 九ちゃん! → イチ・ニのキュー!(日本テレビ、1966年 - 1969年まで司会) フジ三太郎(TBS、1968年) 銀河ドラマ「わが歌声の高ければ」(NHK総合、1969年) - 榎本健一 役 マイホーム'70!(1970年、TBS) 天下御免(NHK総合、1971年 - 1972年まで出演) - 杉田玄白 役 キイハンター(TBS)
第262話「また逢う日までキイハンター」(1973年) まんまる四角(TBS、1973年) 連続人形劇・新八犬伝(NHK総合、1973年 - 1975年、黒衣のナレーターで出演) 特捜記者(関西テレビ、1973年)
九ちゃんのハッティタウン物語(東京12チャンネル(現・テレビ東京)) 日曜家族スタジオ(NHK総合、1976年 - 1977年、司会) こども面白館(NHK総合、1977年) 火曜劇場「名もなく貧しく美しく」(日本テレビ、1980年) 壬生の恋歌(NHK総合、1983年)- 坂本龍馬 役 ふれあい広場・サンデー九(札幌テレビ、1976年 - 1985年まで司会) クイズクロス5(テレビ新広島、司会) キッチンパトロール(TBS、1975年 - 1985年まで司会) スター千一夜(フジテレビ、1979年 - 1981年まで司会) スター誕生!(日本テレビ、1981年 - 1982年まで3代目司会) なるほど!ザ・ワールド(フジテレビ) クイズEXPO'70(読売テレビ、1969年10月 - 1970年3月、司会) 買ッテ来ルゾト勇マシク(読売テレビ、1973年、司会) ジャンボクイズ100対100(フジテレビ、1974年、司会) たんけんぼくのまち(NHK教育、1984年、テーマ曲を担当) 水曜ドラマスペシャル「早すぎた結婚 遅すぎた恋」(TBS、1985年) 必勝ホームランワイド 有楽町で逢いましょう(ニッポン放送)水曜日 (注意点) 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す 坂本の死後も、多くの歌手によって坂本の持ち歌が歌い継がれている。 ▲はラジオのみでの再放送。△はNHK衛星第2テレビ(現:BSプレミアム)番組『なつかしのみんなのうた』での再放送。 ^ 金吉は秋田県山本郡芦崎(現三種町)に止宿したとき、霞ケ浦でワカサギ・シラウオ・エビ等が乱獲のため水揚げが減少しているのに八郎潟では豊富であることから打瀬船(うたせぶね)の漁法を地域に伝授し、また、家族を呼び寄せて佃煮原料に加工して東京に送って利益を得た。子供たちは芦崎の小学校を出たが、坂本家は大正年代に川崎に移り住んだ。1970年、父・寛の母校体育館で九は歌い、その後、豪華な舞台用の幕一式を寄贈している。『秋田県の不思議事典』(2002)pp.164-165 ^ 事故機は反転して高天原山の斜面に墜落したため、坂本が搭乗していた2階席部分は最も強い圧力がかかった。このため、坂本の遺体は胴体部分しか発見されず、DNA型鑑定が確立されていなかった当時は遺留品などで遺体の識別をするしかなかった。 ^ 同期に飯田久彦、石橋蓮司がいる。 ^ 坂本の出演は死亡確認当日である16日の放送が最後であった。なお、同番組の司会は翌1986年1月24日放送分までは代理司会を置いて対処したが、31日放送分より妻の柏木が夫の坂本の遺志を継ぐ形で就任した。 ^ 死去後の同年9月1日に放送され、冒頭で坂本の死去を伝えるアナウンスが流れた。ゲストは欧陽菲菲、生ピアノ伴奏は羽田健太郎。 ^ 坂本が尊敬していたペリー・コモのヒット曲。 ^ オンエアされなかったが、アンコールでは「明日があるさ」を披露している。 ^ 柏木由紀子は著書の中で「夫は日本航空の体質を常日頃から非難しており、それだからいつも全日空を利用していた」と記述している。また、ドラマ『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜』で坂本の父・寛を演じた古谷一行によると、生前の坂本本人から「飛行機で怖い思いをした」という話を聞かされたことがあったという。 ^ 事故当日のダイヤでは、日本航空123便と同時刻・同区間で全日空35便も飛んでいた。なお、この当時は日本航空や全日空のほか、東亜国内航空(後の日本エアシステム。現在は日本航空に統合)も羽田 - 大阪線を運航していたが、坂本がこの路線以外を含めて同社を利用したことがあったのかまでは不明である。 ^ 後に、永六輔は滞在していた北海道から坂本の法事に向かおうとしたところ、偶然となりに座った女性に「夫が医師で坂本の検死をした」と打ち明けられ、坂本の法事に出席するまで鳥肌が止まらなかったと語っている。 ^ ジャケット写真は1968年4月1日に発売された、規格品番「TP-1625」のものと同一。 ^ 曲の流れはオリジナルを忠実に再現しているため、編曲は「中村八大・上柴はじめ」とクレジットされている。 ^ 同時発売されたシングル「心の瞳」と同じバージョン。 ^ テレビでは『おしゃべりあひる』・『ドラキュラのうた』・『森の熊さん』とまとめて放送(本曲のみフルコーラス、他3曲はメドレー)。ラジオでは『森のくまさん』と放送(双方ともフルコーラス)。 ^ 『みんなのうたスペシャル 1960'sセレクション』(Vol1)で放送。 ^ "坂本九 Official Web Site プロフィール". マナセプロダクション. 2019年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月20日閲覧。 ^ 『坂本九 トリビュートアルバム』ライナーノーツより。 ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 168-172頁 ^ “没後30年の坂本九、輝きを失わない歌の魅力とは”. ORICON NEWS. 2022年12月1日閲覧。 ^ 『上を向いて歩こう』(坂本九著) 33頁 ^ 『上を向いて歩こう』(坂本九著) 35頁 ^ 『文藝春秋 レクイエム昭和 輝ける53人最期の時』文藝春秋、2017年、30頁。ISBN 978-4-16-008651-7。 ^ 「坂本九 海外遠征でドイツ語 1963年」『懐かし動画と世界の言語』2022-12-29 ^ 朝日新聞 1964年(昭和39年)5月13日記事 ^ 泣き笑いの人生に幕 榎本健一さん死ぬ『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月7日夕刊 3版 9面 ^ 『自分の中に毒を持て』(岡本太郎著) ^ “【日航機墜落事故から28年】 坂本九さんの死とともに〜元マネージャーの静かな夏〜”. 日本webリポート&ニュース. (2013年8月26日). オリジナルの2014年8月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140826161303/http://www.webreport.jp/9898.html 2017年8月21日閲覧。 ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存 ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 13頁 ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 184-185頁 ^ “坂本九没後20年ドラマスペシャル「上を向いて歩こう 坂本九物語」|制作ニュース”. テレビ東京. 2015年2月23日閲覧。 ^ 「Sports Graphic Number PLUS 桑田佳祐編集長就任!ボウリング場でカッコつけて」 文藝春秋、p38より。 ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 14-15頁 ^ フジテレビ『8.12日航機墜落30回目の夏 生存者が明かす"32分間の闘い"〜ボイスレコーダーの"新たな声"』(2014年8月12日放送)より。 ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 157-159頁 ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 158-161頁 ^ 『北日本新聞』1985年8月18日付朝刊18面『九ちゃん無言の帰宅 ひつぎに悲しい泣き声』より。 ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 155-157頁 ^ 『上を向いて歩こう』(柏木由紀子著) 162-172頁 ^ 『北日本新聞』1985年8月19日付朝刊15面『身元確認大幅ダウン 坂本九さん宅など告別式』より。 ^ “~駅と地域の活性化を目指して~ 川崎駅 東海道線ホーム発車メロディに「上を向いて歩こう」を導入します” (PDF). 川崎市、JR東日本 横浜支社 (2016年12月6日). 2017年4月11日閲覧。 ^ 株式会社スイッチ. “株式会社スイッチオフィシャルサイト”. 株式会社スイッチオフィシャルサイト. 2019年9月23日閲覧。 ^ 東芝レコード月報1968年4月発売号 3ページ ^ 『農業協同組合』1963年5月号、13頁。NDLJP:1789400/10 ^ 銀河ドラマ わが歌声の高ければ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス ^ 原曲:ロック・マイ・ソウル(Rock my soul) ^ 原曲:Jänta å ja(スウェーデン民謡) 柏木由紀子『上を向いて歩こう』扶桑社(フジテレビ出版)、1986年4月。ISBN 978-4-89353-079-0。ISBN 4-89353-079-8。 岡本太郎『自分の中に毒を持て あなたは“常識人間”を捨てられるか』青春出版社(青春文庫)、1988年1月。ISBN 978-4-413-01456-4。ISBN 4-413-01456-1。 坂本九(著) 著、マナセプロダクション 編『人間の記録 141巻 坂本九 上を向いて歩こう』日本図書センター、2001年9月、33-35頁。ISBN 978-4-8205-5972-6。ISBN 4-8205-5972-9。 1959年の音楽#デビュー - (ダニー飯田とパラダイス・キングの1員)同じ年にデビューした歌手
坂本九 - NHK人物録 坂本九 Official Web Site(マナセプロダクション) 九ちゃんが亡くなった日航機墜落事故の記録 Kyu Sakamoto(biography,chart) (英語) - ビルボード 坂本九音楽事務所 (@kyusakamoto9) - X(旧Twitter) 坂本九 (sakamotokyu) - Facebook 表 話 編 歴 悲しき六十才 ビキニスタイルのお嬢さん 遙かなるアラモF 砂漠の恋の物語 九ちゃんのズンタタッタ 月夜に歩けば カレンダーガール 九ちゃん音頭~それが浮世と云うものさ 上を向いて歩こう モデル・ガール 九ちゃんのジングルベル 戦場に陽は落ちて もう一人のボク ボクの星 レッツ・ゴー物語 一人ぼっちの二人 九ちゃんのツンツン節 見上げてごらん夜の星を 東京五輪音頭 上を向いて歩こう スキヤキ 帰りたい僕 九ちゃんの炭坑節 明日があるさ 勝利の旗 困っちゃうよ 幸せなら手をたたこう サヨナラ東京 夜明けの唄 ともだち 九ちゃん音頭 上を向いて歩こう 涙くんさよなら ミーケとマライケ 幸せのうた 僕が君なら あした天気になーれ 口笛だけが 結構だね音頭 哀しみのバイパス レットキス(ジェンカ) まあるくなった 夢はどこにある 世界の国からこんにちは さよなら さよなら エンピツが一本 少女 ラブ・ラブ・ラブ 窓を開けはなしてみよう 太陽はさんさん 若者たち コングラチュレーションズ おねがいです 蝶々 ともだち 遠い昔の母の胸に 自動車コブーブーブー 誰かと誰かが みんなでつくろう/マイ・マイ・マイ わかるだろう この世のある限り 銀座の夜 太陽と土と水を ぼくにまかせておくれ クラップ・ユア・ハンド 夜も昼も 夕やけの空 泣きたくなったら空を見よう WHY(若者たち) うちのお父さん 何かいいことありそうな レットキス(ジェンカ) 上を向いて歩こう 自由への旅立ち あの時の約束/そして想い出 結婚通知 マイタウン・マイハート 親父 馬のシッポ ぶたのシッポ ぶっちぎりNO文句 懐しきlove-song/心の瞳 九ちゃんとパラキン 九ちゃんとパラキン 第2集 九ちゃんとパラキン 第3集 ボクの星 坂本九ヒット・ソング 九ちゃんの歌 九ちゃんの歌 第2集 ミュージカル 見上げてごらん夜の星を 坂本九リサイタル 九ちゃん明治を歌う 九ちゃんのベスト・ヒット・パレード 坂本九オン・ステージ 九ちゃんと歌おう 坂本九 プレスリーを歌う ターニング・ポイント 689 Sukiyaki and Other Japanese Hits 九・メモリアル BIG ARTIST BEST COLLECTION 坂本九 VERY BEST OF KYU SAKAMOTO 坂本九メモリアルボックス 坂本九シングルス 坂本九ゴールデン☆ベスト 坂本九シングル全集 坂本九メモリアルベスト ベスト30 坂本九 CD&DVD THE BEST ベスト坂本九99 坂本九アニバーサリー・ベスト 689コンプリート 空をみあげて(おお!みんなで) 四人目の王さま エンピツが一本 トットトコ あしたに賭ける数え歌 馬のシッポ ぶたのシッポ 夢であいましょう 笑えば天国 7時にあいまショー 夢をそだてよう 明日があるさ (音楽バラエティ番組) 踊るウィーク・エンド 九ちゃん! イチ・ニのキュー! NHK紅白歌合戦(第19回・第20回) 夜のゴールデンショー 3000万円クイズ クイズEXPO'70 結婚しまショー 買ッテ来ルゾト勇マシク 生きものばんざい ジャンボクイズ100対100 こども面白館 日曜家族スタジオ スター千一夜 ふれあい広場・サンデー九 クイズクロス5 キッチンパトロール スター誕生! 銀座音楽祭 なるほど!ザ・ワールド たんけんぼくのまち 世界歌謡祭 若い季節 教授と次男坊 東芝日曜劇場「すりかえ」 男嫌い ぼうや 水戸黄門 (ブラザー劇場) 今井正アワー うちの大物 フジ三太郎 銀河ドラマ「わが歌声の高ければ」 天下御免 まんまる四角 名もなく貧しく美しく 壬生の恋歌 水曜ドラマスペシャル「早すぎた結婚 遅すぎた恋」 連続人形劇・新八犬伝 九ちゃんのハッティタウン物語 上役・下役・ご同役 山のかなたに 第1部リンゴの頬 山のかなたに 第2部魚の接吻 悲しき60才 アワモリ君売出す 喜劇 駅前団地 アワモリ君乾杯! 喜劇 駅前弁当 アワモリ君西へ行く 上を向いて歩こう 九ちゃん音頭 若い季節 ひとりぼっちの二人だが バラキンと九ちゃん 申し訳ない野郎たち 九ちゃんの大当りさかさま仁義 クレージー作戦 先手必勝 九ちゃん刀を抜いて ジェリーの森の石松 見上げてごらん夜の星を 男嫌い 喜劇 陽気な未亡人 万事お金 幸せなら手をたたこう ガリバーの宇宙旅行 調子のいい奴 いたずらの天才 ハイウェイの王様 坊ちゃん 九ちゃんのでっかい夢 君は恋人 吶喊 新八犬伝 第一部 芳流閣の決斗 泣きながら笑う日 努力しないで出世する方法 君はいい人、チャーリーブラウン 柏木由紀子 大島花子 舞坂ゆき子 阿部薫 永六輔 中村八大 ザ・ドリフターズ ダニー飯田とパラダイス・キング ダニー飯田 草野浩二 石田智 松あきら いずみたく 青島幸男 ジェリー藤尾 マナセプロダクション 東芝EMI(現ユニバーサルミュージック・EMI RECORDSおよびVirgin Music) ビクターエンタテインメント ファンハウス(現アリオラジャパン) 六八九トリオ 坂本九 (小惑星) 上を向いて歩こう〜坂本九物語〜 きゅうりのキューちゃん 日本万国博覧会 Billboard Hot 100 東芝ワイドワイドサンデー 笠間市 笠間稲荷神社 桜川橋梁列車三重衝突事件 日本航空123便墜落事故 表 話 編 歴 1951 藤倉修一 1952 藤倉修一 1953(年初)宮田輝 1953(年末)高橋圭三 1954 高橋圭三 1955 高橋圭三 1956 高橋圭三 1957 高橋圭三 1958 高橋圭三 1959 高橋圭三 1960 高橋圭三 1961 高橋圭三 1962 宮田輝 1963 宮田輝 1964 宮田輝 1965 宮田輝 1966 宮田輝 1967 宮田輝 1968 坂本九 1969 坂本九 1970 宮田輝 1971 宮田輝 1972 宮田輝 1973 宮田輝 1974 山川静夫 1975 山川静夫 1976 山川静夫 1977 山川静夫 1978 山川静夫 1979 山川静夫 1980 山川静夫 1981 山川静夫 1982 山川静夫 1983 鈴木健二 1984 鈴木健二 1985 鈴木健二 1986 加山雄三、千田正穂 1987 加山雄三 1988 加山雄三 1989 武田鉄矢 1990 西田敏行 1991 堺正章 1992 堺正章 1993 堺正章 1994 古舘伊知郎 1995 古舘伊知郎 1996 古舘伊知郎 1997 中居正広 1998 中居正広 1999 五代目 中村勘九郎 2000 和泉元彌 2001 阿部渉 2002 阿部渉 2003 阿部渉、高山哲哉 2004 阿部渉 2005 山本耕史 2006 中居正広 2007 笑福亭鶴瓶 2008 中居正広 2009 中居正広 2010 嵐 2011 嵐 2012 嵐 2013 嵐 2014 嵐 2015 井ノ原快彦 2016 相葉雅紀 2017 二宮和也 2018 櫻井翔 2019 櫻井翔 2020 大泉洋 2021 大泉洋 2022 大泉洋 2023 有吉弘行 2024 有吉弘行 ISNI VIAF WorldCat ノルウェー フランス BnF data アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research MusicBrainz IdRef 坂本九 日本の男性ロック歌手 日本の男優 日本のミュージカル俳優 日本のタレント 日本の司会者 日本の慈善家 大阪万博に関係した人物 NHK紅白歌合戦出演者 NHK紅白歌合戦司会者 過去の渡辺プロ系列所属者 ザ・ドリフターズ EMIミュージック・ジャパンのアーティスト ビクターエンタテインメントのアーティスト アリオラジャパンのアーティスト 20世紀日本の人物 日本大学高等学校出身の人物 川崎市出身の人物 日本航空123便墜落事故で死亡した人物 1941年生 1985年没 2024/11/21 04:53更新
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sakamoto kyuu
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