大受久晃の情報(だいじゅひさてる) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大受 久晃さんについて調べます
■名前・氏名 |
大受久晃と関係のある人
三根山隆司: 育成は弟子に付きっ切りで指導するほど熱心で、大受久晃を大関に、高望山大造を前頭まで育てたが、1982年に体調不良から部屋を閉鎖して熊ヶ谷部屋(高島部屋時代の後輩の芳野嶺元志が創設)へ弟子を移籍させ、1985年には日本相撲協会に廃業届を提出した。 北の富士勝昭: 3場所連続休場後に迎えた1974年7月場所で初日に旭國斗雄、2日目に大受久晃と連敗し、大受に敗れた1時間後に「体力の限界」を理由にして現役引退を発表した。 雅山哲士: 翌9月場所は1977年(昭和52年)の大受久晃以来史上2人目となる「元大関の十両陥落」となった。 高望山大造: 大受久晃以来、高嶋部屋からの久し振りの幕内力士として期待された。 若獅子茂憲: そして同年7月場所では東前頭6枚目で三重ノ海剛司や大受久晃を破るなど11勝4敗の好成績を挙げ、生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞。 雅山哲士: 大関在位は僅か8場所となり、短命大関としての順位は年6場所制となった1958年(昭和33年)以降、大受久晃(5場所)・増位山太志郎(7場所)に次いで当時ワースト3位の不名誉記録となった。 玉ノ海梅吉: 「貴ノ花の足腰にはもう一つの生命がある」と評し、押し相撲一本に徹した大受久晃のことを「土の匂いのする力士」と言った名台詞や、大内山平吉の大きな体格を見て「猫が靴の中に子供を産んでも誰も気がつかないんだから」など、ユーモアに富んだ台詞を残した。 |
大受久晃の情報まとめ
大受 久晃(だいじゅ ひさてる)さんの誕生日は1950年3月19日です。北海道出身の相撲のようです。
現在、引退に関する情報もありますね。大受久晃の現在の年齢は74歳のようです。
大受久晃のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大受 久晃(だいじゅ ひさてる、1950年3月19日 - )は、北海道瀬棚郡瀬棚町(現:久遠郡せたな町)出身で高嶋部屋に所属した元大相撲力士。本名は堺谷 利秋(さかいや としあき)。現役時代の体格は身長177cm、 体重148kg。最高位は東大関。年寄・朝日山利秋として、朝日山部屋の経営にも携わった。 小学校6年生の時の修学旅行で泊まった函館の駅前の江差屋旅館が高島部屋の勧誘を担当していたため、太った体を見込まれて入門を誘われた。中学に入ると間もなく高島親方(元大関・三根山)が北海道の実家まで訪ねたため、他の部屋からも1件勧誘があったがわざわざ家まで来てくれた高島親方のために高島部屋への入門を決意。北海道の7男3女の10きょうだいの六男であったため、入門は自然に決まった(悪く言えば口減らし)という。部屋に入門した13歳の当時身長が158cmしかなく、背がなかなか伸びずに当時設けられていた「身長170cm以上」という基準を満たせず2年近く苦労した。見習い当時正式な力士ではなかったため稽古に参加させてもらえず、部屋内の掃除が終わった午前4時になると部屋の近くの公園で身長を伸ばそうと鉄棒にぶら下がった。最終的にはシリコーンを頭に入れ新弟子検査を受けて合格し、1965年3月場所に初土俵を踏んだ。新弟子検査を受けた1964年年9月場所前を皮切りに、計3回シリコーンを少しずつ注入した。師匠からマンツーマンの厳しい指導を受け、体格に似合った押し相撲を体得。その後は順調に番付を上げていき、わずか4年半で1969年9月場所に十両に昇進した。 「大受」の四股名は、論語衛霊公の「君子は小知すべからず、大受すべし」(君子は小事にとらわれず、大事を任せられる)という一節からとられたもの。 なお、あれほど伸びなかった身長は新弟子検査合格から半年も経過しないうちに4、5cm伸び、この時ばかりは当の大受も複雑な思いであった。 1970年3月場所に西十両筆頭で14勝1敗の好成績で十両優勝。翌5月場所に新入幕(東前頭6枚目)を果たすと徹底した押し相撲で9勝6敗と勝ち越し、早くも技能賞を受賞し幕内に定着した。1971年3月場所5日目、初日から4連敗だった新関脇の大受は初めて横綱大鵬を一気の押しで破り、この場所を8勝7敗と勝ち越し見事殊勲賞を受賞し、上位キラーとして三賞の常連になった。1971年3月場所、5月場所は貴ノ花も共に三賞を受賞したが、満年齢で言って最年少の幕内力士2人が揃って三賞を受賞した例としてはそれぞれ史上1例目と2例目である。 この年7月場所まで関脇を保守したがその場所で4勝11敗と大敗し一時平幕に甘んじていたが、1973年3月場所に関脇に復帰すると3大関に勝ち10勝5敗、2横綱2大関に勝ち11勝4敗と2場所連続で二桁勝利を挙げ、7月場所には1横綱2大関に勝ち13勝2敗の成績を挙げて史上初めて三賞を独占。7月場所後、大関に昇進した。 新大関の1973年9月場所は腰痛の影響もあり8日目から途中休場。2場所目の翌11月場所でいきなり大関角番となったが9勝6敗と勝ち越し角番脱出。しかしそれ以降も首・右膝の故障にも悩まされ、1974年3月場所で9日目から再び途中休場。2度目の角番で迎えた同年5月場所で6勝9敗と負け越し、大関の地位で2場所連続負け越したため関脇への陥落が決まってしまう。 大関在位はたった5場所に終わり、最高位が大関の力士で年6場所制になってからは、当時歴代1位の短命記録だった(現在の短命大関1位は、御嶽海の4場所)。さらに24歳3ヶ月での陥落は、雅山と並んで最年少記録である。 関脇に陥落した翌7月場所は、10勝以上の成績を挙げれば1場所で大関特例復帰を果たせたが、12日目に前頭5枚目長谷川戦で6敗目を喫し、ここで大関再昇進が絶たれる。その後千秋楽まで3連勝したが9勝6敗と惜しくも1勝足りなかった。なお関脇陥落場所で勝ち越しながら大関復活が絶たれた力士は、1969年7月場所に「大関で2場所連続負け越しにより関脇降下、但し転落場所で10勝以上すれば大関特例復帰」の規定に改められて以降、大受が初めてであった。 1974年7月場所から同年11月場所まで、関脇の地位で3場所連続で勝ち越した。戦後、大関陥落後に3場所連続で三役を維持したのは史上2人目。11月場所14日目の北の湖戦はNHK大相撲中継の視聴率が37.1%を記録しており、これは九州場所のものとしては2017年9月場所終了時点で6位タイである(ビデオリサーチ調べ)。だが、翌1975年1月場所は4勝11敗と大敗、4場所続いた関脇から平幕の地位に下がり、以降三役への返り咲きはならなかった。その後は満身創痍の土俵が続いていたが左膝も故障し、同年9月場所で新入幕を果たした前頭12枚目千代の富士に幕内初白星を献上するなどして幕内下位でも成績を残すことが出来なくなり、1977年5月場所には大関経験者で初めて十両に陥落した。当時大受は年寄名跡を取得しておらず、かつ「年寄名跡を持っていなくても、引退後3年間は四股名のまま年寄として残れる」という現在の大関の特権もなかったため、やむなく出場することとなったが、初日から3連敗を喫し、4日目から途中休場に追い込まれ、場所後に現役を引退し偶々空き名跡になっていた年寄・楯山を襲名した。 取り口は広い肩幅を生かし徹底した押し相撲で、「まわしを取ったら三段目の実力しかない」と言われるほどだったが、当時相撲解説者の玉の海梅吉が「土の匂いのする力士」と評するほど押し一徹を貫き通した。押し相撲のみで大関になった力士の出現は大受以降となると後に貴景勝が現れるまで45年余りを要した。 なお、1973年11月場所の12日目、横綱琴櫻との一番で、お互いが頭を鉢合わせするような形でぶちかましたところ、琴櫻は脳震盪を起こして倒れてしまった(決まり手は突き落とし)。取組後、琴櫻は「あんな石頭は初めてだ」とコメントしている。頭に入れたシリコーンが凶器となった可能性があるが、当時はそのことがあまり知られていなかったらしく、特に問題とはされなかった。 引退後は現役末期から不仲だった師匠の下を離れ、楯山の株を譲られた清國の伊勢ヶ濱部屋で後進の指導に当たっていたが、1997年5月場所中に同じ一門の朝日山親方(元小結・若二瀬)が急逝。師匠代理の後に年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を急遽継承した(楯山の株は2008年に玉春日に売却するまで引き続き所有)。暫く関取が不在で低迷していた時期もあったが、先代からの弟子である大真鶴が幕内まで昇進した。子飼いの関取としては鬼嵐を育てた。 年寄としては1980年から審判委員に就任し、2009年1月場所まで務めた。その後、2011年4月から再び審判委員となった。元大関でありながら、師匠と同様に出世欲があまりないためか、長らく役員や役員待遇の経験がなく、役員ではない親方が組織する年寄会の会長を務めていたが、2012年1月場所後の役員改選で役員待遇に抜擢され、審判部副部長に就任。2014年3月場所後の改選でも、停年(2015年3月場所限り)まで1年しか残っていないながら引き続き審判部副部長を務めた(2015年1月場所まで)。2015年1月場所後に、自身が停年間際となったことと後継者が不在であることを理由に同場所限りで朝日山部屋を閉鎖し、桐山親方(元小結・黒瀬川)や三段目以下の力士ら計8人が伊勢ヶ濱部屋へ転籍となった。2015年3月場所千秋楽をもって日本相撲協会の停年となったが、前年秋に導入された年寄再雇用制度は辞退する意向を示し、そのまま退職した。朝日山の名跡については、退職前の2014年8月には既に元関脇の琴錦(当時は借株で中村を襲名していた)へ譲渡する話になっており、その後実際に元琴錦が襲名して二所ノ関一門で朝日山部屋が再興されると、元琴錦に対して自身と同じ伊勢ヶ濱一門への移籍を勧めて、2017年1月13日付で新・朝日山部屋は伊勢ヶ濱一門の所属になった。 大受の現役時代の技術では一旦入れたシリコーンは除去不能であったため、全体的に頭の形状自体が変形し頭頂部が突き出ていた。引退後は長く務めていた勝負審判時に、特に隠しもしなかったため、頭頂部が尖った楯山の姿は平成20年代始め頃までは毎場所幕内取組時に土俵下で見ることができた。その後頭痛に悩まされるようになったため、2009年春に除去手術を受けた。杉山邦博によると、頭の中でシリコーンがグチャグチャになっていたらしく全てを綺麗に取り除くことはできなかったようだという(同年5月に出演したTBSラジオの番組にて発言)。見習時代になかなか新弟子検査を通過できないことを指して「ただ飯食い」と馬鹿にされて泣いたこともあった大受としてはシリコンによって尖った頭は誇りであるようであり、後年「あの瞬間が人生で一番うれしかった。新十両のときより、史上初の三賞を独占した時より何よりもうれしかった」と本人が明かしたこともある。 九重部屋に足しげく出稽古に通っていて、「カラスの鳴かない日はあっても、大受が北の富士のところへ来ない日はない」と言われるほどであり、北の富士は「シリコンが入っていると、ぼくら稽古しても痛かったですよ。とんがってるから、刺さってくるんだ。あれがドーンと来るんだから、たまったもんじゃないですよ」と述べている。 非常に脇が固かったため脇毛がすり減ることが無く、付いた異名は「脇毛の大関」。 現役時代の交友関係としては教師などの真面目な職業に就いている常識人が常に集まり、当時角界で当たり前であった黒い交際とは無縁であった。そのようなことから周囲の力士からは「つまらない」と堅物扱いされることもあった。 通算成績:462勝388敗31休 勝率.544 幕内成績:308勝296敗26休 勝率.510 大関成績:30勝32敗13休 勝率.484 現役在位:74場所 幕内在位:42場所 大関在位:5場所(年6場所制定着以降では歴代ワースト2位) 三役在位:10場所 (関脇9場所、小結1場所) 三賞:11回
敢闘賞:1回 (1973年7月場所) 技能賞:6回 (1970年5月場所,1971年1月場所,1971年5月場所,1973年1月場所,1973年5月場所,1973年7月場所) 金星:なし 各段優勝
堺谷 利秋(さかいや としあき)1965年3月場所-1967年1月場所 大受 久典(だいじゅ ひさのり)1967年3月場所-1969年5月場所 大受 久晃(- ひさてる)1969年7月場所-1977年5月場所 楯山 利秋(たてやま)1977年5月17日-1997年5月29日 朝日山 利秋(あさひやま)1997年5月29日-2015年3月18日 ^ 厳密には大受が24歳3ヶ月1週、雅山は24歳3ヶ月0週となっている。 ^ 同じく関脇陥落場所で勝越すも大関特例復帰を逃した力士は、39年後に2013年1月場所の把瑠都、40年後に2014年1月場所の琴欧洲、43年後に2017年3月場所の琴奨菊の三人がいる(把瑠都と琴欧洲の成績は8勝7敗、琴奨菊の成績は大受と同じ9勝6敗。なお3人とも大関復活ならず現役を引退している)。 ^ 十両が番付に登場した1888年(明治21年)春場所以降では史上初であるが、ただそれ以前の十両と幕下が区別されていない「番付表の上から二段目」で見ると、江戸時代の江戸相撲初期の看板大関が二段目に陥落した例はある。 ^ 後に舞の海も頭部にシリコーンを入れて新弟子検査を通過したが、大受と異なり、除去可能になっていた。 ^ 一般的に、脇を締める稽古(脇の下に藁を挟んで、それを地面に落とさないようにするなど)をすると脇毛がすり減る。「脇が甘い」と評される力士は脇毛が残る例もあるが、大受の場合は稽古する必要がないほど脇が生来固かったと考えられる。 ^ 右膝関節捻挫により11日目から途中休場 ^ 自律神経不安定腰痛・頸椎捻挫により8日目から途中休場 ^ 角番 (全2回) ^ 右膝関節捻挫により9日目から途中休場 ^ 関脇陥落 ^ 左膝関節挫傷により6日目から途中休場 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p28 ^ 「胸毛の横綱」再来か 高安=力士と「毛」あれこれ 時事通信 ^ 【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・大受久晃編 「牛若丸」を追いまくって生まれた押しへの信念――[その1] BBM Sports 2019-02-08 (2021年1月1日閲覧) ^ 朝日新聞 2015年3月22日19面 ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p.89. ^ 『大相撲中継』2017年8月12日号 p86(参考) ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p.83 ^ 常識打ち破る!! 貴景勝、「押し相撲」で大関取りに自信 (1/2ページ) ZAKZAK 2019.3.20(産経デジタル、2019年3月30日閲覧) ^ 朝日山勢の転籍を承認 2015年1月29日17時8分 スポーツ報知 ^ ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2016年12月号(九州場所総決算号) 113頁 ^ ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2017年2月号(初場所総決算号) 91頁 ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p45-46 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p109-110 大関一覧 関取在位後に4階級以上陥落した力士一覧 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 北海道出身の大相撲力士 高島部屋 朝日山部屋 1950年生 存命人物 北海道出身の人物 日本相撲協会の役員
2024/11/18 19:00更新
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daiju hisateru
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