岡田史子の情報(おかだふみこ) 漫画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
岡田 史子さんについて調べます
■名前・氏名 |
岡田史子と関係のある人
萩尾望都: また原田と岡田史子を訪ねた。 西谷祥子: アシスタントの中には、西谷のファンであったデビュー前の岡田史子がいた。 高野文子: メンバーに教えられ『COM』や岡田史子、永島慎二などの作品を知る。 飯田耕一郎: 1969年2月、「奇人クラブ」(村岡栄一、岡田史子、つか絵夢子らを輩出した同人会)に入会。 松久由宇: 会員には青池保子、岡田史子らがいた。 高野文子: 初期には、作品の整然としたコマ割りを大島弓子の不安定なコマ割りと対置し、高野を矢代まさこや岡田史子らに通じる「様式」の作家と論じた荒俣宏の評などがある。 村岡栄一: 中学に入り「奇人クラブ」という同人誌を創刊、当時の仲間に岡田史子や和田あきのぶ等がいた。 |
岡田史子の情報まとめ
岡田 史子(おかだ ふみこ)さんの誕生日は1949年7月23日です。北海道出身の漫画家のようです。
結婚、離婚、卒業、姉妹、映画に関する情報もありますね。2005年に亡くなられているようです。
岡田史子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)岡田 史子(おかだ ふみこ、本名・高田富美子、1949年7月23日 - 2005年4月3日)は、北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身の漫画家。詩的な作風の漫画を多く発表した。 永島慎二、西谷祥子の元で一時アシスタントをした後、 1967年に手塚治虫主宰の月刊漫画雑誌「COM」2月号で「太陽と骸骨のような少年」を発表し、商業誌デビュー。 1960年代後半「COM」を中心に活躍したが、1972年、漫画家としての活動をやめ北海道に帰郷、地元の会社に勤めるようになり、1976年に結婚する。しかし彼女の熱狂的なファンである萩尾望都の熱望により再度筆を取り、1978年に復帰する。しかし、「もうあの頃のような作品は描けない」と自ら再び作家活動を断念。 離婚後、病弱のため仕事に困って再び再起を目指して1994年に「COMICアレ!」(マガジンハウス)に作品を投稿したものの落選。この落選について岡田は、「選者のひとり、竹宮惠子さんから手紙をいただきまして。作品自体の出来が良くない。あなたはマンガ界の現状を知らなすぎるようですと書いてあった。それでマンガ家への道はあきらめたんです。私のマンガ家生活は、それで終ったんだと思い」、「今(1996年or1997年当時)は、・・・保険外交員の仕事」に就いていると語っている。 その後は筆を取ることなく、2005年に55歳で永眠。東京の自宅で入浴中の死去で、心不全と言われているが詳細は不明。 1949年に一男三女の次女として北海道静内町に生まれる。12歳で母を亡くし、そのことが自身の精神面に強い影響を与えたという。母を失ったことに対する喪失感がその後の漫画作品を生んだという。成績がよく、高専に合格したが、親から下宿代が払えないと言われて地元の高校に進学し、手描き漫画の同人誌に参加。1966年に当該同人誌「奇人クラブ」会長から永島慎二の『漫画家残酷物語』を教えられ、その漫画表現の自由さにショックを受ける。「漫画でこんなことをしていいのか」と思い、それまで描き溜めていた漫画(自称「少女マンガ」)をすべて燃やしてしまった。 同年1966年に「太陽と骸骨のような少年」7ページを「ガロ」に送ったが、雑誌に合わないと送り返されたため、「COM」に送ってデビューした。投稿作品は2ページのみの掲載という決まりだったが、編集者が首をかけて全ページ掲載を強く主張し、7ページ全てが掲載された。その後4作品が掲載されたのち、1968年には、自身を投影したという「ガラス玉」で同誌の新人賞を獲得した。高校卒業後上京し、洋紙店の事務員をしながら「COM」でほぼ毎月短編作を発表、姉妹誌「ファニー」では8か月の連載もしたが、20歳で実家に戻って漫画制作を続け、翌年には週刊誌でヌードを披露した。 ルムンバ大学への留学を希望し再度上京したが、無料の留学制度がなくなったと知り、洋紙問屋や喫茶店などで働きながら食いつなぎ、アニメ『あしたのジョー』の彩色バイト中に虫プロのアニメーター養成所に入るもアニメに向いていないことを痛感し、退所。頭痛薬を大量に飲むようになり、「COM」デビュー時に全ページ掲載を叶えてくれた担当編集者に「死にたい」と漏らしたところ、一緒に死のうということになり、睡眠薬などを買って北海道の雪山に向かったが死にきれず、その編集者と結婚した。しばらく筆を断ったのち、1978年に再開したが、1990年の「エリム」が最後の作品となった。 学生時代から詩や小説、ギリシア神話などに興味を持ち、クラブ活動で詩を発表していた。小説では『チボー家のジャック』(マルタン・デュ・ガール)が愛読書で、17歳の時にそれを含む全5巻を読破している。北杜夫のファンでもあり、特に『楡家の人びと』を好んで読んだ。ファンレターを送った際、その中で「私は将来漫画家になりたい」と書いたが、文体が北の文体にそっくりだったことや高校生という年齢を考えてか「あなたの年齢では何になると考えるよりも前に、自分自身になろうとすべきです。」という返事が返ってきた。以来、岡田は自分自身になろうと努力するようになったという。 絵や漫画も描いていたが、特に高校教師に「おまえの絵に似ている」として紹介されたムンクの絵を非常に気に入った。後年、「好きな画家は山ほどいますがムンクのように私生活にまで興味を持ってしまった人は他にいません」と述懐している。 音楽面ではビートルズに非常に関心があり、生前に行われたインタビューにおいて話題が音楽に移ると必ずビートルズのことを語っている。作中で直接ビートルズについて触れているのは、「夢の中の宮殿」(1979年)でトリヴィアを披露した程度だが、幾つかの作品で歌詞を引用している。また、青島広志によると「トッコ・さみしい心」の描線に『イエロー・サブマリン』の影響が現れているという。 晩年に至るまでほとんどの自作に対しては出来映えに満足せず、あまり執着しなかった。「COM」に連載していた頃、出版社から掲載誌が送られてきても、手塚治虫や矢代まさこなど気に入っていた他作家の作品を読むだけだったという(生前のインタビューでは気に入っている漫画家として他に水野英子、西谷祥子、大島弓子らを挙げている)。 手塚治虫、萩尾望都、吉本隆明、四方田犬彦といった漫画家、評論家から熱く支持された。 1966年、同人会「奇人クラブ」の肉筆回覧誌「墨汁一滴」(又は「けむり」)で漫画を発表。 1967年1月(高校2年時)、月刊漫画雑誌「COM」2月号で商業誌デビュー。 1968年、「ガラス玉」で、「COM」新人賞を受賞。 1972年頃、静内に戻り、漫画家としての活動を中断。 1976年、最初の作品集『ガラス玉』刊行。 1978年、「少女コミック増刊」に「ダンス・パーティ」を発表し、漫画雑誌に復帰。 1990年、最後の作品「エリム」を発表。 2005年4月3日、永眠。55歳没。 火陥 ひがもえる(「墨汁一滴」2号(奇人クラブ))
火焔(「墨汁一滴」3号)
黄色のジャン エピソード・シリーズI 川辺のポエム(「墨汁一滴」4号)
Kaen(「墨汁一滴」6号) みず色の人形(『岡田史子未発表作品集〜』(まんだらけ)) 太陽と骸骨のような少年(「COM」1967年2月号(虫プロ商事)) 耳なしホッホ(「けむり」8号) ブランコ(「けむり」10号)
フライハイトと白い骨(「COM」1967年6月号)
夏(「COM」1967年8月号) ポーヴレド(「COM」1967年9月号) 天国の花(「COM」1967年12月号) ガラス玉(「COM」1968年1月号)
シンディ
赤と青(「COM」別冊ぐら・こん 1968年5月号) サンルームのひるさがり(「COM」1968年3月号) 春のふしぎ(「COM」1968年4月号) いずみよいずみ(「COM」1968年6月号) 胸をだき 首をかしげるヘルマプロディトス(「COM」別冊ぐら・こん 1968年7月号) ホリデイ(「アイ」No.1、1968年(東考社)) 赤い蔓草 PART1(「COM」1968年11月号) 赤い蔓草 PART2(「COM」1968年12月号)
ワーレンカ(「アイ」No.2、1969年) 夢の中の宮殿(「COM」1969年1月号) ピグマリオン(「COM」1969年4月号) 死んでしまった手首 - 阿修羅王 前編(「COM」1969年5月号) 死んでしまった手首 - 阿修羅王 後編(「COM」1969年6月号)
愛の神話(「ファニー」1969年5月号 - 12月号(虫プロ商事))
私の絵本(「COM」1969年7月号) イマジネイション(「ファニー」1969年7月号) 邪悪のジャック(「COM」1969年8月号) 死んでしまったルシィ(「ファニー」1969年8月号) ほんのすこしの水 PART1 気のどくな乞食(「COM」1969年10・11月号) ほんのすこしの水 PART2 月の女(「COM」1970年1月号)
海の底の日よう日(ミニコミ誌「DO-YOUNG」1970年7月号(日本出版社))
墓地へゆく道(「COM」1970年8月号) トッコ・さみしい心(「COM」1970年9月号) いとしのアンジェリカ(「COM」1970年10月号) 黒猫 1500匹にゃんちゃん大行進(「COM」1970年11月号) 無題(「COM」1970年12月号) オルペとユリデ(『岡田史子未発表作品集〜』) 家出前夜(「マンガ少年」1979年4月号) レクエム(『岡田史子未発表作品集〜』) 雲の中(「劇画セレクト」1972年11月号)
薔薇の反逆者(「微笑」1972年12月23日号(祥伝社))
テリー(「アサヒグラフ」1982年1月1/8日合併号(朝日新聞社)) ダンス・パーティー(「少女コミック増刊 フラワーコミック」1978年6月号(小学館)) 柳の木の下で(「マンガ少年」1978年9月号(朝日ソノラマ)) アンニーおばさんの砂金ちゃん(「少女コミック増刊」1978年12月号) 報告・ある片恋物語(「増刊週刊少女コミック」1979年4月28日号)
夢の中の宮殿(「月刊コミックアゲイン」1979年7月号(みのり書房))
タンタ・リンドの場所(「マンガ少年」1979年9月号)
百合ちゃんの冒険旅行(「増刊週刊少女コミック」1980年1月27日号)
球状ガラス(「少年/少女SFマンガ競作大全集PART7」(東京三世社))
ゾンネン ぱるたい(「少年/少女SFマンガ競作大全集PART14」)
コリドー(「SFマンガ競作大全集PART21」1983年9月号)
輝うつばめ(「アメージングコミックス」1号、1988年(笠倉出版社)) 静和荘の話(「アメージングコミックス」2号、1988年) エリム(『漫画夢の博物誌 1』、1990年(東京三世社))
「漫画の手帖」3号 - 7号(漫画の手帖事務局、1981年 - 1982年)
大泉実成『消えたマンガ家3』(太田出版、1997年)
「岡田史子を忘れるな 特別インタビュー」「クイック・ジャパン」Vol.17、137頁(太田出版、1997年)
「まんだらけZENBU」No.4(まんだらけ、1999年)
また、各ページに渡って青島、山口、村岡栄一(奇人クラブ同人)の三名が所蔵する岡田が描いたイラストや新宿の喫茶店「コボタン」で行われた「岡田史子作品展」の作品の写真、岡田からのイラスト付き手紙など貴重な資料が掲載されている。 『ODESSEY 1966〜2003 岡田史子作品集 episode1 ガラス玉』(2003年) - 青島広志による作品解説(1)を収録。 『ODESSEY 1966〜2003 岡田史子作品集 episode2 ピグマリオン』(2004年) - 青島広志による作品解説(2)を収録。 ^ 元々姓は「高田」であったが、2度結婚・離婚を経験し、「高田」→「野口」→「中村」を経て、再び「高田」と姓を改めた。 ^ 四方田犬彦「岡田史子論(2)」『岡田史子作品集 vol.2 ほんのすこしの水』(NTT出版、1992年、320頁)によれば帰郷したのは1973年。 ^ Ibid.。1978年、旧知の編集者である山本順也の勧めによりカムバックしたとある。 ^ 「クイック・ジャパン 」vol.17(太田出版、1997年)から。それによると、当該インタビューは、まず紙上企画「消えたマンガ家」終了後のボーナストラックとして『消えたマンガ家3』に著者大泉実成が書き下ろした岡田へのインタビューがあり、その大泉インタビュー翌日の1996年10月11日に当該編集部として行われたものである、と記載されている。当該インタビューの別バージョンは後掲「まんだらけZENBU」No.4に掲載されており、これら一連のインタビューを企画してきた赤田祐一編集長は、当該インタビューは1997年10月11日に行われた、と記載している。 ^ ビートルズの曲の歌詞を漫画の作中で引用する傾向は、萩尾望都や竹宮惠子ら24年組のように思春期にビートルズの活躍を体感した世代に共通している。 ^ 『週刊話題NEWS』(日本文華社)。隔週木曜日発行。初期のコピーは「新しい評判の話題・実益百科週刊誌」であった、いわゆる男性週刊誌。 ^ 岡田は「モスクワ大学」と記しているが、関川(関川op.cit.、84頁)は「ルムンバ友好大学」としている。 ^ 強調加筆者。掲載時期は、関川(関川op.cit.、84頁)によると69年秋20歳で静内に帰った翌年、70年とされる。巻号等不明。 ^ おそらくは、「女としての存在感」等の誤字かと思われる。 ^ 彼が関川(関川op.cit.、85頁)のいう「丸出だめ夫」であれば、撮影は70年頃になる。また鈴木いずみは73年に結婚し一女をもうけていることからも、74-75年頃の撮影は???。あるいは、もともと「週刊話題」とは別の撮影か。 ^ 【マンガ探偵局がゆく】幻の女性マンガ家を探せ 手塚治虫に認められ55歳で亡くなった岡田史子(2020年5月20日閲覧) ^ 関川夏央『人間晩年図巻 2004-07年』(岩波書店、2021年)81-89頁「岡田史子(心不全(?)・55歳)………六〇年代的、あまりに六〇年代的」 ^ 岡田史子インタビュー 伝説の漫画家が残した余韻が、今ガーリーに甦る!エキサイトブックス、2003 ^ 竹宮恵子、萩尾望都篇『少女マンガ家になれる本』(二見書房、1980年)207頁ほか ^ 「人に歴史あり(1)」『ODESSEY〜 episode1 ガラス玉』254頁ほか ^ 『ODESSEY〜 episode1 ガラス玉』243頁ほか ^ MANGA-DB アナ・バナナ ^ 『ODESSEY 1966~2003 岡田史子作品集 episode2 ピグマリオン』、自分史を語る2、257頁(飛鳥新社、2004年)、『ODESSEY 1966~2005 岡田史子作品集 episode2 ピグマリオン 増補新装版』、自分史を語る2、273頁(復刊ドットコム、2018年)。掲載誌名のない前者に、構成者が『週刊話題』との注釈を付記した ^ 荒木経惟『荒木経惟写真全集 第19巻 Aの愛人』(平凡社、1997年)14-15頁。57-73頁。一部、鈴木いづみの写真も ^ Ibid. 、235-237頁 【マンガ探偵局がゆく】幻の女性マンガ家を探せ 手塚治虫に認められ55歳で亡くなった岡田史子 岡田史子インタビュー - ウェイバックマシン(2004年2月4日アーカイブ分) VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の漫画家 北海道出身の人物 1949年生 2005年没 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/23 16:45更新
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okada fumiko
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