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平沢進の情報 (ひらさわすすむ)
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【6月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

平沢進の情報(ひらさわすすむ) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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平沢 進さんについて調べます

■名前・氏名
平沢 進
(読み:ひらさわ すすむ)
■職業
ミュージシャン
■平沢進の誕生日・生年月日
1954年4月2日 (年齢70歳)
午年(うま年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和29年)1954年生まれの人の年齢早見表

平沢進と同じ1954年生まれの有名人・芸能人

平沢進と同じ4月2日生まれの有名人・芸能人

平沢進と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


平沢進と関係のある人

布袋寅泰: 高校1年の頃はキャプテン・ビーフハートや平沢進を狂ったように聴いていたとしている。


泉朝樹: 血液型はO型、平沢進のファンでありファンアートをTwitterに投稿している。


上領亘: ニュー・ウェイヴバンドグラスバレーよりメジャーデビュー後、SOFT BALLET、平沢進ソロのサポートドラマーに参加。


ことぶき光: P-MODEL、平沢進、スピッツ、三橋美香子、村井研次郎、あがた森魚、黒色すみれ、冨田勲、Andrew Sharpley Stock, Hausen & Walkman、酒井法子、梅津和時、泉谷しげる、知久寿焼、ダイアモンド☆ユカイ、戸川純、ヤプーズ


今敏: 平沢進の音楽と同様にデジタル特有の無機質さやロジカルな部分と今の感性や作品は合っていたようで、早い時期からデジタル技術に可能性を感じてそれができる人間を好んで使っていた。


砂原良徳: 1991年には平沢進のコンサートツアー「ヴァーチュアル・ラビット・ツアー」でのサポートメンバーを経て平沢から解凍後のP-MODELへの加入を願われたが、1991年春、かねてから交流のあった石野卓球に渡したデモテープがきっかけとなり石野から電気グルーブへの加入希望を先に言われていた事もあり、CMJK脱退後の電気グルーヴのメンバーとして同年夏に加入。


ことぶき光: 1988年のP-MODEL氷河期入り後は、バックバンドとして平沢進のソロツアーにも参加する。


ことぶき光: 平沢進


斎藤環: 2019年、P-MODEL時代からのファンで、2000年からの付き合いであるミュージシャンの平沢進と『平沢進+斎藤環「平沢進・徹底解剖!」at ゲンロンカフェ』で対談。


金子飛鳥: 平沢進


黒木渚: 大学に進学して自由に音楽やカラオケを楽しめる環境になってからは、アリシア・キーズや平沢進を良く聴いている。


秋山勝彦: 80年のP-MODELの脱退について、平沢進は「ステージに向かう姿勢に大きな隔たりが出てきた」と話しており、本人も「調子に乗っていたらクビになった」と話している。


上野洋子: ZABADAK時代の上野の作品と『VOICES』収録曲の一部を平沢進ら数名がリミックスしたもの。


コンスタンチン=ツィオルコフスキー: ミュージシャンの平沢進が2003年に発表したアルバム『BLUE LIMBO』には『ツオルコフスキー・クレーターの無口な門』という楽曲が収録されている。


忌野清志郎: また、同年の一橋大学の学園祭ライブでは平沢進が率いたニューウェイブ・テクノポップバンド「P-MODEL」と対バンを行った。


秋元きつね: 1980年代後半、ミュージシャン平沢進の下でAmigaを学ぶ。


上坂すみれ: 2014年、ラジオ番組内の「すみぺ的 音楽談議◆黙示録」1周年記念としてゲスト応募をしたところ、年間通して番組内でミュージシャンの平沢進についての音楽談義を多く語り、熱烈なファンであると上坂のファンに知られていたため、平沢をゲストにと応募が殺到した。平沢が運営する会社にスタッフが要望したところ実現し、ラジオ内で平沢進と共演を果たす。


戸川純: 同年、平沢進がこの年から開始した『インタラクティブ・ライブ』の初ゲストミュージシャンとして、『AURORA TOUR 1994 INTERACTIVE LIVE オーロラ伝説』に"マザー・オブ・ナバホ"役として参加した。


上領亘: 平沢進 - 平沢三幕三時間 HIRASAWA error ENGINE 下(1994年11月)


戸川純: 1990年、平沢進のソロ2作目のアルバム「サイエンスの幽霊」発売記念のライブツアー「世界タービン・ツアー」にことぶき光、秋山勝彦、秋元一秀(秋元きつね)、梅津和時らと共に参加。


生井秀樹: 2021年6月15日、3か月の闘病の末、胃癌により死去し、長年の友人である平沢進がツイッターで<生井さんには常にライブや新譜に対して励みになる感想を頂き、「生井さんにさえウケていれば道を外していない」という確信を与えて下さいました。


の子: 影響を受けたアーティストとしてオアシス、ピクシーズ、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、エイフェックス・ツイン、戸川純、じゃがたら、筋肉少女帯、P-MODEL、平沢進、フィッシュマンズ、久石譲、他にマジック:ザ ギャザリングの世界観やファイナルファンタジー、聖剣伝説などのゲーム音楽を挙げている。平沢進のアルバムは「白虎野」までのアルバムを複数枚所持している。


上領亘: 1991年 - 平沢進のサポートドラマーとして参加。


ようなぴ: 好きなアイドルはPerfume、夢眠ねむ(元でんぱ組.inc)、ももいろクローバーZ、苺りなはむ(CY8ER)、恋汐りんご(バンドじゃないもん!MAXX NAKAYOSHI)、好きな音楽にSUPERCAR、ART-SCHOOL、アーバンギャルド、ASIAN KUNG-FU GENERATION、Plastic Tree、平沢進などを挙げている。


佐久間正英: プラスチックスのライブ後に屋根裏で平沢進からサウンド面のプロデュースを紹介され、ニュー・ウェイヴ・テクノ・ポップバンドP-MODELにて初のプロデュースを行う。


中野テルヲ: 1984年頃に平沢進にデモテープを渡したことからP-MODELにローディーとして出入りするようになり、旬や『SCUBA』などに参加。


デビッド=ボウイ: また、ボウイは1979年から活動を開始した平沢進が率いたテクノポップバンド「P-MODEL」の京都で行われたライブコンサートに観客の一人として訪れ、ライブ終了後にバンドメンバー達に会いに行き、語り合った。


戸川純: 1989年、ヤプーズのサポートとしてP-MODEL凍結中の平沢進が参加。TV番組『夢で逢えたら』のコーナー「バッハスタジオⅡ」に出演し、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、平沢進らと共にセッションを行った。


秋山勝彦: 1979年1月1日、大学浪人中に平沢進らとP-MODELを結成。


上坂すみれ: ミュージシャンの平沢進平沢進がリーダーを務めたテクノポップバンド、P-modelの大ファンである。P-MODELの歴代アルバムから平沢進のソロアルバムに核-MODELのアルバムまで精通しており、アルバム全般が好きであるが、特に「電子悲劇/〜ENOLA」が好みである。ラジオ番組「上坂すみれの乙女*ムジカ」の放送1周年記念としてゲストに呼んでほしいアーティストを募集し、リスナーから平沢進の出演希望が大量に送られた結果、2014年にラジオ番組内の「すみぺ的 音楽談議◆黙示録」にて一度共演している。また、Animelo Summer Live 2019にて同じ声優の楠木ともりと会話した際に、お互いが平沢進およびP-modelのファンであることがわかり、楽曲やエピソードなどの話題で盛り上がっている。


平沢進の情報まとめ

もしもしロボ

平沢 進(ひらさわ すすむ)さんの誕生日は1954年4月2日です。東京出身のミュージシャンのようです。

もしもしロボ

来歴、評価・音楽性などについてまとめました。テレビ、ドラマ、事故、解散、退社、映画、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。平沢進の現在の年齢は70歳のようです。

平沢進のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

平沢 進(ひらさわ すすむ、1954年〈昭和29年〉4月1日 - )は、日本のミュージシャン・音楽プロデューサー・著作家。有限会社ケイオスユニオン所属(代表取締役)。1994年よりデジタル・マルチメディアコンサート「インタラクティブ・ライブ」を主宰。第79回アカデミー賞歌曲賞部門ノミネート候補。愛称は「師匠」。

1973年にプログレッシブ・ロックバンド『MANDRAKE』を結成、音楽活動を開始する。

1979年にテクノポップバンド『P-MODEL』を結成し、ボーカル・ギターとしてシングル『美術館で会った人だろ (ART MANIA)』でメジャーデビュー。テクノ御三家の一角として、テクノポップブームの火付け役となり、テクノ・ニューウェイブシーンにおける中心的存在となる。

1984年にはバンドと並行し、自作サンプリングマシン「ヘヴナイザー」などを使用した実験音楽サンプリングユニット『旬』を結成。また、1987年からは4-Dの小西健司とフロッピーディスクの往復書簡による遠距離での楽曲制作を開始し、1996年に『不幸のプロジェクト』としてアルバム「不幸はいかが?」をリリースした。

1989年にソロアルバム「時空の水」をリリースし、バンド・ユニットと並行してソロ活動を開始。

2000年にP-MODELは活動休止をし、2004年からは平沢がP-MODELの音楽性を継承したプロジェクト『核P-MODEL』としても不定期に活動している。

また、2017年からはサポートメンバーである「会人」を加えたユニット『平沢進+会人』としても活動している。

来歴

P-MODEL結成まで

幼少期は機械いじりが好きであったが、知り合いの牛乳配達員がジミ・ヘンドリックスやクリームのレコードなどを実家への配達時に教えてくれる機会があり、10歳頃から音楽へと傾倒していった。小学生の頃にテレビや兄の持っていた雑誌に写っていたエレキギターに惹かれ、赤色のエレキギターを購入する。しかし、メディアによく出演していたザ・ベンチャーズよりもTHE SPOTNICKS(スウェーデン語版)やThe Atlantics(英語版)に影響を受けたと語っている。中学生になると「おまえと似たやつがいる」と同級生に紹介され、別の中学校の年上のドラマーと初めてバンドを結成する。

その後、一旦音楽を離れモトクロスに転向。しかし、高校生のときにトラックとの事故を起こしたことがきっかけでギター演奏を再開する。この頃に安部文泰と出会い、安部と共に本格的な音楽活動を開始する。メンバー募集の貼り紙を見た田中靖美・田井中貞利が応じ、1973年にHR/HMバンド『マンドレイク』を結成した。結成当初、平沢はギタリストとして参加していたが、ボーカリスト・作詞担当だった安部が失踪してしまい、急遽ボーカルおよび作詞を始めた。この頃のマンドレイクはHR/HMからプログレッシブ・ロックへと転向していたが、1970年代後半になると平沢はパンクブームによるパンク・ロックバンドの台頭を知り、ニューウェーブバンドへの模索を始める。

マンドレイクのメンバーであった田中靖美と共に、電子音楽を演奏するバンド『バッハ・リヴォリューション』に参加し、同バンド内で神尾明朗と出会う。神尾とは後にP-MODELで「FISH SONG」を共作し、P-MODELや平沢ソロのプロデューサーを務める事となる。1978年には神尾の勧めで週刊プレイボーイ誌上で行われたシンセサイザーの多重録音コンテストに参加。作品「いりよう蜂の誘惑」が入賞し、入賞作品を集めたコンピレーション・アルバム『驚異の頭脳集団』に収められメジャーリリースされた。平沢は「バッハ・リヴォリューション」のサポートメンバーとして、当時同じく結成して間もなくだったYMOらが参加するライブイベントに参加したこともあった。

同時期に田中と共にモーグ・シンセサイザーを用いてバロック音楽などをアレンジしたものを製作した。ウェンディ・カルロス「スウィッチト・オン・バッハ」やクラフトワークを参考に、KORG 800DVによるノイズが混ざった音色 を制作し、「アクリル・ポップ(ミュージカル・ホッチキス)」と名付けた。

マンドレイクは最終的にはレコード会社数社に声を掛けられるほど成長したが、1978年年末に解散する。

P-MODEL結成~活動凍結

1979年元日、平沢の実家にて、実兄でありマンドレイクの演出担当だった平沢裕一とマンドレイクのメンバーだった田中・田井中が集まり、P-MODEL結成へのミーティングが行われる。「アクリル・ポップ」を活用した楽曲制作とヴィジュアルイメージとして機材や服装はカラフルな配色などのコンセプトが決まっていった。同年3月にP-MODEL初のライブを行い、同年7月にメジャーデビューを果たす。

1978年から1981年頃まで『バッハ・リヴォリューション』のメンバーが運営する会社「エレクトロサウンド」に所属し、ヤマハのシンセサイザー教室の講師やマニピュレータ、CMソング制作などの仕事を行うようになる。バンド活動と並行してペンネームでの楽曲制作を行い、プロレスラー長州力の入場テーマ曲「パワー・ホール」を異母犯抄として作曲。ストロング・マシーンの入場曲「ハリケーンズ・バム」も福来良夫名義で作曲している。仕事の一環として1979年には三遊亭圓丈と共にシンセサイザー落語を行った。これは圓丈の新作落語「無類麺類好き男」の要所でシンセサイザーによる効果音を鳴らすという物だった。また、CMソング制作は90年代前半まで行っており、テクノポップからカントリー風な物まで様々な作風の物を作曲した。これが平沢ソロでのバラエティに富んだ音楽性に繋がっている。

1982年には平沢が講師を務めていたシンセ教室の生徒だった折茂昌美と足立眞理を「Shampoo」としてプロデュースを行い、メジャーデビューをさせている。以降、折茂とは長らく交流が続き、1990年には島崎和歌子に提供した楽曲「アフリカのクリスマス」を共作し、2005年に行われたイベント『反射の集いは氷の9』、2013年と2022年のインタラクティブライブにはゲストとして参加している。

1984年にはP-MODELと並行して実験音楽サンプリングユニット『旬』を結成し、1996年までにシングル・アルバム含め6作品を発表している。なお、当時のサンプリングマシンは非常に高価で個人が気軽に所有出来る物ではなかった為、平沢はラジオカセットレコーダー2台を改造して自作サンプリングマシン「ヘヴナイザー」を制作した。

また、1987年頃から関西のテクノユニット『4-D』の小西健司と共に「不幸を退治する」との名目でフロッピーの往復書簡で遠距離での楽曲制作を始める。この時に制作された楽曲は1996年に「不幸のプロジェクト」名義でアルバム『不幸はいかが?』として発売された。

ソロデビュー

1988年12月、P-MODELは活動「凍結」を宣言し、活動休止となる。

1989年1月に所属事務所をMODEL HOUSEからアイスリープロモーションへ移籍。レーベルをポリドールと契約する。同年、アルバム『時空の水』でソロデビューした。

1991年にはロボットSFアニメ「デトネイター・オーガン」の音楽を担当する。以降は劇伴製作にも進出し、HTB『人間ビジョンスペシャル カムイ・ミンタラ 神々の遊びの庭・阿寒』や志摩スペイン村にて上演されたライブショー『ロストレジェンド〜失われた大陸の伝説〜』の音楽を担当した。また、1992年には長野県茅野市のからくり時計台のオルゴールを作曲した。

なお、「カムイ・ミンタラ」のサウンドトラックは当時発売されず、その中で使用された楽曲である「カムイ・ミンタラ」のみが、1992年に発売したベストアルバム『魂のふる里』に収録された。完全収録されるのは2012年発売のボックスセット『HALDYN DOME』まで待つこととなる。

1994年にはディスクユニオン内に独自レーベル「DIW/SYUN」を設立。主に『旬』や『P-MODEL』関係のアルバムが発売された。また、同年にストーリー仕立ての観客参加型マルチメディア・コンサートとして「インタラクティブ・ライブ」を開始する。

また、1994年7月8日から翌年の1995年3月31日まで初の冠番組である『平沢進のテクノ実験工房』がFM群馬にて放送され、平沢と共に上野洋子(元ZABADAK)がパーソナリティを務めた。同年10月28日、女子美術短期大学にてAMIGAによるコンピューターグラフィックス(CG)制作方法とインタラクティブ・ライブの解説を主題とした「平沢進講演会」が開催。

1996年には当時の所属していたレコード会社である日本コロムビア内に独自レーベル「TESLAKITE」を設立。第一弾としてシングル『サイレン*SIREN*』とアルバム『SIREN』を発売する。

同年、P-MODELのメンバーがそれぞれソロに別れて活動を行うプロジェクト「Unfix」が開始。その一環であるオールナイト・イヴェント『Unfix #3 コミュノ・ハイブリディア』が同年11月に新宿リキッドルームにて開催された。平沢を含むP-MODELのメンバー4人がそれぞれソロステージを行うというものだったが、平沢は当日になり急遽欠席。翌年の1997年にアイスリープロモーションを退社し、個人事務所であるケイオス・ユニオンを設立。この際に送付された新事務所・ファンクラブ発足告知によると、前年の欠席の理由は「殺人的なスケジュール」による平沢の心身の不調だったものと書かれている。

個人事務所設立後の活動

1999年、P-MODELはMP3を使用してインターネット上で新曲を配信すると発表した。この楽曲配信の弊害となる為、日本コロムビアとの専属契約を解除し、日経BP社の協力により配信サイト「P-PLANT」を立ち上げた。このMP3による楽曲配信は、メジャーレーベルで活躍してきたプロアーティストとして日本で初めての試みであった。

2000年12月、P-MODELが『培養』を宣言。平沢に活動再開の意思は無く、事実上の解散である。同年には通算8枚目となるソロアルバム『賢者のプロペラ』をケイオスユニオンより発売。CD版とMP3版がそれぞれ制作・販売されており、アレンジが互いに異なっている。本作以降は原則的にケイオスユニオン内レーベル「TESLAKITE」にて作品が販売される。

2000年代に入ってからは再びアニメやゲームの劇伴制作を行うようになり、2000年にはゲーム『ラグナキュールレジェンド』のテーマ曲として「星を知る者」を提供。また、同年に今敏によるアニメ映画『千年女優』の劇伴を担当する。以降、同監督作品『パプリカ』とTVシリーズ『妄想代理人』の劇伴を手掛ける。2006年公開の『パプリカ』の音楽は「東京アニメアワード 2007」にて個人部門・音楽賞を受賞し、米国での第79回アカデミー賞のオリジナル歌曲部門に『パプリカ』のエンディングテーマである「白虎野の娘」がノミネートされた。その他、三浦建太郎原作のアニメ・ゲーム『ベルセルク』シリーズの劇中歌や楽曲を制作した。

2001年7月2日、プロジェクト『Hirasawa Energy Works』がスタート。これは必要な電気エネルギーの全てを太陽発電に委ねて音楽製作を試みるプロジェクトであった。プロジェクト第一弾としてアルバム『SOLAR RAY』が製作される。その後、太陽発電及びこのプロジェクトに賛同するファンの協力による自然からの蓄電(エナジーハンティング)のみを利用したライブ『SOLAR LIVE』 を敢行した。このプロジェクトはNHK BS2やTBSで特集された。翌年の2002年には『Hirasawa Energy Works』の第二弾として、P-MODELのほぼ全ての音源を網羅したボックスセット『太陽系亞種音』 を発売。太陽発電を用いたスタジオである「Solar Studio(studio WIRE SELF 2002)」でリマスタリング された。

2008年6月、イタリアのデス・メタル系ヴォーカリストのリッカルド・ブレット(InhVmaN)との共作でマキシ・シングル『Tetragrammaton (テトラグラマトン)』をリリース。同年11月、タイ王国の第2の女性で平沢の友人らである23人のSP-2 との1994年からの交流から生まれたエピソードを彼女たちの写真と共に綴ったエッセイ集、『SP-2: タイのニューハーフ? いいえ「第2の女性」です』を出版した。

2009年にはXアカウントを開設。同年より放送されたかきふらい原作のアニメ作品「けいおん!」に自身の名前が由来とされる主人公「平沢唯」が登場し、自身の楽曲をリスペクトしたブログタイトルがけいおんスタッフブログに掲載される事もあった ことが原因で、「元ネタ」としてフォロワー数が増えてしまっていると感じたことから、間違っていないか確認を促すツイートをしたところ、さらにフォロワー数が(1日で1万3180人まで)急増してしまう事となった。この出来事が自身のXの方向性を決める事に繋がったとしている。以降、毎週水曜日以外の連日、21時から22時までツイートを行うようになる。投稿はPC上からTweetDeckより行っている。

2011年、東日本大震災が発生し自宅にて被災する。被災時は自身のウェブ番組である『亜種音TV』の撮影中であった。その後、同年3月21日にタイ王国のWat Raikching寺院にて、被災された人達に祈りを捧げる映像をインターネット上に公開した。また、同年にはフォロワー数5万人突破記念として平沢の作業風景 を合計5万秒配信する『Hirasawa監視50000秒』がUSTREAMにて不定期配信された。

2012年2月、1st~7thまでのオリジナルアルバムとシングルカップリング曲や発掘音源などを網羅したボックスセット『HALDYN DOME』発売。上述した「地球ネコ」も収録されており、平沢自身がボーカルを務めるリアレンジ版が収録されている。2017年には『HALDYN DOME』のブックレットに掲載されている文章を朗読したものと楽曲を交えて構成された初のナレーション作品『第6フォルマント』を配信した。

2014年、Xのフォロワー数7万人突破記念として、平沢が合計7万歩散歩をする『HIRASAWA追跡70000歩』がUSTREAMにて不定期配信される。

2017年10月にはXのフォロワーが9万人を超した事から、溶接マスクを付けた正体不明の二人組「黒会人」と、P-MODELメンバーの一人であったドラマーの上領亘を迎えライブ『第9曼荼羅』を開催した。

なお、「会人」は以降のライブでもサポートメンバーとして参加し、2018年の核P-MODELのライブ「回=回」の他、2019年7月にはペストマスクを装着した「白会人」とのユニット『平沢進+会人(EJIN)』としてフジロックフェスティバル'19にてフジロック初出演した。同年11月のバトルスの来日ツアーには同ユニットにサポートドラマーとしてユージ・レルレ・カワグチを迎え、オープニングアクトとしてツアーに帯同した。2021年にはXフォロワーが24万人を超した事から、ルベドマスクを装着した正体不明の二人組「ルベダリアン会人」とサポートドラムに再びユージ・レルレ・カワグチを迎え、『平沢進+会人(EJIN)』名義でライブ『24曼荼羅(不死MANDALA)』を開催。同ユニットで同年8月のフジロックフェスティバル'21の最終日の大トリとしてWHITE STAGEに出演した。

2023年2月3日、フジロックフェスティバルにて新規にアレンジされて披露された楽曲群をスタジオ収録したアルバム『RUBEDO/ALBEDO -Songs for FUJI ROCK FESTIVAL 2019, 2021-』をBandcampにてリリースした。

評価・音楽性

評価

2000年に行われた「インタラクティブ・ライブ・ショウ 2000 賢者のプロペラ」が平成14年度、デジタルコンテンツグランプリ2001において「作品表彰の部」の最高賞である経済産業大臣賞、並びにエンターテイメント部門最優秀賞を受賞している。

2006年にアニメ映画『パプリカ』の劇伴を担当し、主題歌である「白虎野の娘」が米国で行われる第79回アカデミー賞歌曲賞のノミネート候補に選定された。その他、『パプリカ』の音楽は「東京アニメアワード 2007」にて個人部門・音楽賞を受賞している。

アメリカ最大の音楽レビューサイト「Rate Your Music(RYM)」の『史上最高の日本の音楽アルバム』では、ソロアルバム『救済の技法』が名邦盤ランキングにて第8位の評価を得ている他、RYMの世界ジャンル別評価では『救済の技法』がプログレッシブ・ポップランキング5位、平沢のソロユニット核P-MODELの「回=回」がエレクトロ・インダストリアルランキング10位、また、2021年発売のソロアルバム『BEACON』が同年のRYM世界年間アルバム評価チャートにて、プログレッシブ・ポップ・アルバムで4位と高い評価を得ている。

デジタル技術やインターネットには黎明期から注目し、90年代には「インタラクティブ・ライブ」やライブ配信、バーチャル・アバターによる演奏、インターネット上でのやり取りによる遠距離間での共同作曲、メジャー出身アーティストでは初のダウンロード配信を行うなど、未開の地を切り開いたとされる。

ミュージシャンの米津玄師は、平沢の楽曲「MOTHER」を人生を変えた一曲として挙げ、「全く聴いた事の無い新しい音楽なのだけど、どこか懐かしさ、郷愁感を宿している。そこには普遍的な何かがある。」、「凄いバランス感覚で成立している音楽だなと、初めて聴いた時に思ったんです。」と評し、強い影響を受けていると語っている。

福間創は、「年配の人たちが当時のニューウェイヴサウンドでいるのは構わない。その人たちにいつまでも新しい物 を作り続けろというのも酷な話。ただ若い人達が昔のニューウェイヴに囚われすぎているのが気になる。あくまで「ニュー」 ウェイヴなのだから、何十年も前のニューウェイヴサウンドを固持するのはにニューウェイヴでは無い。コピバンとかで各自で楽しむ分は良いけれど、表現として昔の音を踏襲するだけでは余りにもつまらない。日本で1番、新しいことに挑戦し続けている人は平沢さんだと思ってる。」としている。

平沢の世界観に影響を受けたとしているラップシンガーのDAOKOは、「テクノの要素もあり、民族音楽に通ずるような独特な音楽。」、「唯一無二の世界観と音で幅広い世代を魅了し続けている、日本一COOLなコンピューターおにいさん。」などと語っている。

平沢を長年リスペクトしているとしている神聖かまってちゃんのの子は、「俺は平沢さんを本当のロックの精神を持ったバンドマンだと思ってる。世の為人の為だとか、ファンの為だとか、文化貢献の為じゃなくて、ただただ自分が作りたい音楽を作ってる。戸川純と二大巨頭で、エベレストの天辺に居る。唯一無二。」と語っている。

過去のライブイベントやファンクラブ旅行などに協力してきた、 レコードショップ『ショップメカノ』店長である中野泰博は、平沢の音楽性を「現代のプログレ」と評している。

劇伴でもタッグを組んだアニメーション監督の今敏は、平沢の世界観を敢えて単純化すると「相反するものの同居」と評しており、今敏自身の表現に最も影響を受けていると語っている。

精神科医の斎藤環は、「『音楽が直接世界を変えられるわけではない』『その当時の定義の仕方と距離感をおきたかった』と考えていた平沢は、その後も一貫して時流と対峙し、距離を測り続けてきた。」とし、「(10年周期で)定期的にファンを裏切り、常にすべてと距離を保っている」と評している。また、「音楽業界では最も初期からデジタル・テクノロジーの可能性を追求し続けてきたアーティスト」とも評している。

楽曲

ソロ作品のほとんどは、アルバム全体を通して聴く事で世界観が完成するコンセプト・アルバムである。特に1994年からインタラクティブ・ライブを開始して以降はその傾向が強まり、7th『救済の技法』ではインタラクティブ・ライブ『WORLD CELL』のストーリーに沿ってアルバムが制作されている。ただし11th『点呼する惑星』では最初からアルバム中でストーリーが組まれ、それを解体、再構築する形でインタラクティブ・ライブのストーリーが作られている。

P-MODEL時代の音楽性の変遷と同等、あるいはそれ以上に、P-MODELからソロへの移行はかなり異質なものへの転換が意図されていた。その変化の大きさは、ソロ活動初期に寄せられた「こんな平沢に誰がした」という反応に大きく現れている。これに対し平沢は、「結果それでこそヒラサワ、あるいは完全に裏切られたという反応を期待しており、それなりに成功したおかげで今日までソロ活動を続けることができた」と述懐している。

P-MODELとの主な差別化はストリングス・セクションの大々的な導入と、アコースティック・ギターの使用と述べている。ストリングスの音についてはメロトロンのような本人いわく暗い音を好んでおり、現在はEast West社のHollywood Stringsを使用している。12th『現象の花の秘密』ではこの音源を大々的にフィーチャーしている。かつてはソロでシャウトを使わないという制約も設けていたが、11th『点呼する惑星』の「Mirror Gate」で解禁した。

1994年、4作目となるソロ・アルバム『AURORA』からはゲスト・ミュージシャンを入れず、コンピューターAmigaを駆使し、一人でのソロアルバム製作を開始した。インタビューで個人でのコンピューターとインターネットを利用を開始した事について、「過去の経験全てが点と点が繋がる感覚で、想像が止まらない」と答えている。

歌唱において、軍人のような低い声にシャウトからオペラのようなファルセットまで様々な声色を使い分ける。平沢の独特なヨーデルのような唱法を質問された際、「江戸時代の消防士である火消しが歌う、木遣りというものなんですけど、そこからアイデアを得たんです。」と答えている。

ソロデビュー前にはKORG M1を用いて、習作としてマンドレイク時代の楽曲『飾り窓の出来事』のエディットが行われており、長らく離れていたプログレにも接近している。このことから、中野泰博は平沢の音楽性を「現代のプログレ」と評している。バンドにおける制約を排したなんでもありの音楽性が意識されている。

5thは当初90年代版ピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon』を意識したコンセプト・アルバムを制作する予定だったが、その途中でタイへと渡航し、そこで出会ったSP-2の影響を受け作風が大幅に変化した。同時期に活動を再開したP-MODELでの活動においても平沢ソロとの融合が図られ、民族音楽とテクノポップを融合したアジアン・テクノを打ち出した。

歌詞

先に楽曲を作成し、その音の制限内でテーマ上の歌詞を想像していくという手法を用いている。活動初期に歌詞を捻出するのが難しかった頃は、先に歌詞を書き楽曲を作成していたが、楽曲を先に作り「制限を重ねる」事で寧ろ想像の幅が一気に広がったとしている。

80年代、平沢が精神的に不安定だった時期にユング心理学に傾倒するようになる。以後、作品の中に錬金術や神話的・仏教的用語が使われていること や、平沢作品のテーマである「全き人格の回復」などユング心理学(及び河合隼雄、エーリッヒ・ノイマンの著書)の影響が強くなっていく。しかし、神道や仏教、その他のアジアの宗教や哲学の概念を繰り返し音楽のテーマに取り入れながらも自分の思想とはしておらず、「これは音楽のプロセスの為ですから、私の立場を既存的なカテゴリーや集団主義的な話と一緒にしないでください」としている。

歌詞作りにおいては宮沢賢治の作品が大きく影響しており、平沢の歌詞の特徴である「専門用語の多様」「言葉が描き出す世界観」など宮沢賢治の作品の構成と類似する点が多く存在する。マンドレイク時代に平沢が歌詞作りに困っていた際、じょうじマョンのボーカリストから「ぜひとも、宮沢賢治を参考にしろ。」と言う助言を受けた事がきっかけである。

音楽のリズム・パターンについては、「わたしは世の中で一番好きな音楽が『君が代』なんですけども。ああいう、先に日本語のノリがあった上で成立する音楽は素晴らしい。それはもうリズム・パターンにも影響してきますね。そういう意味で昭和初期の歌謡曲なんかほんとに歌詞の乗せ方からなにからお見事と言うしか言いようがない。」と語っている。

ライブパフォーマンス

ライブ活動においても当初はサポートミュージシャンを迎え、バンド編成でのライブを行っており、1990年の『世界タービン・ツアー』最終公演では『オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ナース』と名付けられた看護婦姿のオーケストラ隊が登場した。その後、1992年に行われたライブ『Hi-Res』ではコンピューターの同期を用いて完全に一人で演奏を行い、これが起点となり、1995年以降は基本的に平沢のみでライブを行うようになる。

レーザーハープ等の自作楽器の利用には「音楽の身体性をデジタル世界で実現する」という共通テーマがあるとしており、「デジタル世界では、身体性が無くても音楽が成立してしまう。とすれば、ライブやショーの意味はどこにあるのか?人間がそこにいる意味は何があるのか?」、「打ち込みで完成する音楽を構成する音楽家にとって、ステージ準備段階で仕事は完了してしまう。それでも「ヒラサワという人間」が見たいのだとすれば、自分がステージ上で動くという前提を作らなければならない。そこで「体が動くテクノロジー」を楽器に組み込むようにしているんです。」と語っている。

平沢は元々生演奏におけるミュージシャン固有のニュアンスを排したかったと述べており、以降はP-MODELの再結成やソロ活動初期のようなバンド形式での活動には後ろ向きの態度をとるようになり、2004年に活動を開始した核P-MODELも、基本的には平沢のソロプロジェクトである。一方で、2012年のライブ『PHONON2555』にPEVO1号や元P-MODELメンバーの荒木康弘がサポートメンバーとして参加して以降は、サポートパフォーマーとしてゲストを迎えることも増え、バンド形式での活動も再び増加している。2017年に行われた『第9曼荼羅』より、正体不明のメンバー「会人(EJIN)」がサポートとして参加するようになり、2019年からは「平沢進+会人(EJIN)」というユニットとしても活動を行っている。

なお、この「会人(EJIN)」は公演毎に容姿が変化しており、『第9曼荼羅』では熔鉱炉マスクを装着した「黒会人」、核P-MODELのライブ『回=回』と『フジロックフェスティバル'19』ではペストマスクを装着した「白会人」、『24曼荼羅(不死MANDALA)』・「フジロックフェスティバル'21」ではルベドマスクを装着した「ルベダリアン会人」となっている。

2024/06/12 10:58更新

hirasawa susumu


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