徳川圀順の情報(とくがわくにゆき) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
徳川 圀順さんについて調べます
■名前・氏名 |
徳川圀順と関係のある人
田中角栄: 長野県軽井沢の洋館別荘は、徳川圀順公爵から購入したあめりか屋設計の建物(1920年築)で、国の登録有形文化財に登録されている。 |
徳川圀順の情報まとめ
徳川 圀順(とくがわ くにゆき)さんの誕生日は1886年12月13日です。東京出身の政治家のようです。
卒業、結婚、病気、再婚、現在、姉妹に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1969年に亡くなられているようです。
徳川圀順のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)徳川 圀順(とくがわ くにゆき、1886年(明治19年)12月13日 - 1969年(昭和44年)11月17日)は、日本の華族、政治家、陸軍軍人。水戸徳川家第13代当主。階級は陸軍歩兵少尉。位階・勲等・爵位は正二位勲一等公爵。字は子行。号は濤山。諡号は明公。 第12代貴族院議長、第7代日本赤十字社社長を務める。徳川光圀以来編纂を続けていた歴史書『大日本史』を完成させる。 東京市本所区新小梅町(現:東京都墨田区向島一丁目)の本邸で生まれる。父は侯爵徳川篤敬。母は伯爵松平頼聰の長女・聰子。圀順を取り上げた医師は、高松凌雲であった。1887年(明治20年)、父・篤敬がイタリア特命全権公使に任じられたため、生後10か月余りで母とともに渡欧、ローマで暮らした。帰国後の1894年(明治27年)、高等師範学校附属学校(現:筑波大学附属小学校)に入学。小梅邸から一ツ橋の学校まで、小馬に乗って通学した。 1898年(明治31年)7月12日に篤敬が死去し、翌日家督を相続する。同月30日、わずか11歳で侯爵となる。水戸徳川家では母・聰子と先々代当主の昭武が後見人となって家政を取り仕切ることになった。翌年、附属小学校を卒業、そのまま東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)に進学したが、中学2年で学習院に転入。学習院中等科卒業後、陸軍士官学校に進学した。 1906年(明治39年)、水戸藩の第2代藩主・徳川光圀以来編纂を行っていた『大日本史』が完成し、明治天皇に献上する。1910年(明治43年)陸軍士官学校(22期)を卒業、歩兵少尉に任官。1911年(明治44年)4月、公爵徳川慶喜の十一女・英子と結婚する。同年12月12日に満25歳となり、定めにより軍人ながら侯爵議員として貴族院議員に就任する。1914年(大正3年)12月11日、病気を理由に陸軍を依願予備役編入となる。軍を退いた後は日本赤十字社に入社。第一次世界大戦の海外戦争孤児の支援では功績を認められ、チェコスロバキアなどから勲章を贈られた。また1907年(明治40年)、水戸育英会が設立されると総裁に就いた。1924年(大正13年)、妻・英子が死去。1926年(大正15年)、子爵石野基道の四女・彰子と再婚した。 1929年(昭和4年)、『大日本史』編纂の功により公爵に陞爵する。 1935年(昭和10年)1月24日、歌会始の奉仕を行う。 1940年(昭和15年)6月25日、徳川家達の死去をうけて日本赤十字社の社長となり、1946年(昭和21年)まで務めた。また、1944年(昭和19年)10月11日から1946年(昭和21年)6月19日まで第12代貴族院議長を務めた。 第二次世界大戦が終わり、軍籍にあったことで進駐軍による制裁を受けることが予想されたため、1946年(昭和21年)に先んじてすべての公職を辞し、公職追放となった。茨城県常陸太田市と高萩市にある水戸徳川家所有の山林の管理会社を設立、東京の本邸を世田谷区に移し、また水戸空襲で焼失した彰考館文庫を水戸の緑岡別邸内に再建した。1967年(昭和42年)、西山荘をはじめとする土地建物と資金を寄付し、財団法人水府明徳会を設立、初代会長となった。 1969年(昭和44年)11月17日、82歳で死去。当主は長男の圀斉が継いだ。 長野県軽井沢町に1920年に建てたあめりか屋建築の洋館別荘は、のちに田中角栄の所有となり、現在は国の登録有形文化財に登録され現存している(非公開)。なおこの別荘のある同じ通り沿いには、かつて細川護立、徳川慶久の別荘も立ち並んでいた(いずれもあめりか屋建築の洋館。慶久の別荘は現存)。隣家であった細川とは、軽井沢で互いにステッキを投げて「ステッキから向こうは細川家、こっちは徳川家」と大らかな方法で別荘の土地を決めたという逸話が残っている。また、「軽井沢ゴルフ倶楽部」創設の際には、近衛文麿とともにその発起人を務めた。 1899年(明治32年)10月5日 - 木杯一組 1906年(明治39年)12月21日 - 従五位 1907年(明治40年)4月9日 - 木杯一組 1909年(明治42年)
12月27日 - 正五位 1910年(明治43年)3月16日 - 金杯一個 1911年(明治44年)2月22日 - 木杯一組 1912年(明治45年/大正元年)
8月1日 - 韓国併合記念章 1914年(大正3年)
11月18日 - 銀杯一個 1916年(大正5年)4月1日 - 勲四等瑞宝章 1919年(大正8年)1月30日 - 正四位 1920年(大正9年)
1月28日 - 銀杯一組 11月1日 - 銀杯一組 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章 1925年(大正14年)2月16日 - 従三位 1928年(昭和3年)11月10日 - 金杯一個 1929年(昭和4年)11月18日 - 公爵 1931年(昭和6年)
5月1日 - 帝都復興記念章 1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日中綬章 1936年(昭和11年)1月16日 - 勲二等瑞宝章 1938年(昭和13年)3月15日 - 従二位 1940年(昭和15年)
11月29日 - 木杯一個 1946年(昭和21年)1月30日 - 勲一等瑞宝章 1925年(大正14年)4月1日 - 中華民国:二等嘉禾章 1927年(昭和2年)4月19日 - ドイツ国:赤十字第一等名誉章 1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲帝国:建国功労章 1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国:満洲帝国皇帝訪日紀念章 1941年(昭和16年)12月9日 - 満洲帝国:建国神廟創建紀念章 妻:英子(公爵徳川慶喜の十一女、父の従姉妹にあたる)
長女:典子(伯爵香川敬男(香川敬三の孫)夫人) 次男:徳川圀禎(妻に北白川宮成久王の第3王女・多恵子) 三男:松平圀秀(子爵松平(宍戸)頼安の養子。子に上野秀治) 四男:松平圀弘(子爵松平(守山)秋雄の養子) 妻:彰子(子爵石野基道の四女) ^ 『官報』第5837号「帝国議会」1946年7月1日。 ^ 『官報』第8545号、明治44年12月13日。 ^ 『官報』第710号、大正3年12月12日。 ^ 「歌会始の奉仕者」『東京朝日新聞』昭和10年1月22日2面 ^ 貴族院公爵議員を1946年6月19日に辞職した。『官報』第5837号、昭和21年7月1日。 ^ 公職追放の該当事項は「正規陸軍将校」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、670頁。NDLJP:1276156。 ) ^ 『官報』第4929号「彙報 - 褒賞」1899年12月5日。 ^ 『官報』第7046号「叙任及辞令」1906年12月22日。 ^ 『官報』第8193号「彙報 - 褒賞」1910年10月11日。 ^ 『官報』第8300号「彙報 - 褒賞」1911年2月24日。 ^ 『官報』第7955号「叙任及辞令」1909年12月28日。 ^ 『官報』第8195号「彙報 - 褒賞」1910年10月13日。 ^ 『官報』第8607号「彙報 - 褒賞」1912年3月1日。 ^ 『官報』第265号「彙報 - 褒賞」1913年6月18日。 ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。 ^ 『官報』第442号「叙任及辞令」1914年1月21日。 ^ 『官報』第778号「彙報 - 褒賞」1915年3月9日。 ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。 ^ 『官報』第1947号「叙任及辞令」大正8年1月31日。 ^ 『官報』第2229号「叙任及辞令」1920年1月12日。 ^ 『官報』第2645号「彙報 - 褒賞」1921年5月27日。 ^ 『官報』第2712号「叙任及辞令」1921年8月15日。 ^ 『官報』第2859号・付録「辞令」1922年2月15日。 ^ 『官報』第3780号「叙任及辞令」1925年4月1日。 ^ 『官報』号外「授爵、叙任及辞令」1928年11月10日。 ^ 『官報』第868号「叙任及辞令」1929年11月19日。 ^ 『官報』第1253号「叙任及辞令」1931年3月6日。 ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。 ^ 『官報』第2696号「叙任及辞令二」1935年12月27日。 ^ 『官報』第2758号「叙任及辞令」1936年3月14日。 ^ 『官報』第3363号「叙任及辞令」1938年3月23日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 『官報』第4171号「彙報 - 褒賞」1940年11月30日。 ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧 (戦前の部), https://web.archive.org/web/20221206092011/https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/nakanolib/giten/zuiho2.html#勲一等瑞宝章受章者一覧 2023年1月2日閲覧。 ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1925年4月6日。 ^ 『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。 ^ 『官報』第2511号・付録「辞令二」1935年5月20日。 ^ 『官報』第2866号・付録「辞令二」1936年7月22日。 ^ 『官報』第5060号・付録「辞令二」1943年11月24日。 『水戸の先人たち』水戸市教育委員会、2010年。 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。 表 話 編 歴 頼房1609-1661 光圀1661-1690 綱條1690-1718 宗堯1718-1730 宗翰1730-1766 治保1766-1805 治紀1805-1816 斉脩1816-1829 斉昭1829-1844 慶篤1844-1868 昭武1868-1883 篤敬1883-1898 圀順1898-1969 圀斉1969-1986 斉正1986-現在 分家・支流 武定1892-1957 博武1957-1986 文武1986-現在 頼重 頼常 頼豊 頼桓 頼恭 頼真 頼起 頼儀 頼恕 頼胤 頼聰 頼寿 頼明 頼武 頼元 頼貞 頼寛 頼亮 頼慎 頼誠 頼升 頼之 喜徳 頼平 秋雄 圀弘 弘孝 頼隆 頼如 頼明 頼永 頼幸 頼済 頼前 頼説 頼縄 頼策 頼孝 頼則 頼暁 暁子 頼雄 頼道 頼慶 頼多 頼救 頼敬 頼筠 頼位 頼徳 頼位 (再襲) 頼安 圀秀 頼利 頼道 | 断絶 頼泰 頼福 頼匡 頼忠 頼脩 保福 頼紹 頼善 頼位 頼譲 頼功 頼遵 頼順 頼図 | 断絶 頼章 頼豊 | 断絶 頼芳 頼煕 頼珍 頼央 頼昌 頼格 頼覚 頼利 頼纉 表 話 編 歴 伊藤博文 - 蜂須賀茂韶 - 近衛篤麿 - 徳川家達 - 近衛文麿 - 松平頼寿 - 徳川圀順 - 徳川家正 議院 - 貴族院 - 参議院 - 衆議院 表 話 編 歴 細川潤次郎 近衛篤麿 西園寺公望 谷干城 由利公正 徳川家達 谷干城 二条基弘 徳川頼倫 蜂須賀正韶 二条厚基 近衛文麿 松平頼寿 徳川圀順 島津忠重 中御門経恭 廃止 表 話 編 歴 新設 黒田清綱 伊丹重賢 醍醐忠順 黒田清綱 黒田長成 大久保忠順 箕作麟祥 児島惟謙 鍋島直彬 本田親雄 大原重朝 板倉勝達 京極高典 細川護成 松平康荘 島津忠亮 松平康荘 二条基弘 大原重朝 島津忠亮 松木宗隆 松岡康毅 柳原義光 松浦厚 松岡康毅 柳原義光 寺島誠一郎 尾崎三良 柳原義光 林博太郎 山川健次郎 廣澤金次郎 徳川慶久 徳川圀順 松平頼寿 小笠原長幹 松平頼寿 小笠原長幹 細川護立 浅田徳則 柳原義光 松木宗隆 大久保利武 山内豊景 徳川家達 大久保利武 島津忠重 西郷従徳 大久保利武 樺山愛輔 柳原義光 高木喜寛 廃止 表 話 編 歴 有栖川宮幟仁親王1882年-1886年 竹田宮恒久王1908年 北白川宮成久王1908年-1924年 久邇宮邦彦王1925年-1930年 閑院宮載仁親王1930年-1945年 梨本宮守正王1945年-1946年 久我建通1882年 佐佐木高行1910年3月 鍋島直大1918年4月-1921年6月 江木千之1932年8月 平沼騏一郎1945年 山田顕義1889年-1895年 佐佐木高行1896年-1909年 芳川顕正1910年 鍋島直大1911年-1918年 土方久元1919年 小松原英太郎1919年-1920年 一木喜徳郎1920年-1925年 江木千之1926年-1933年 徳川圀順1933年 佐佐木行忠1933年-1946年 杉浦重剛1899年5月 山田新一郎1912年-1917年 桑原芳樹1917年 高山昇1902年 賀茂百樹1903年4月-1905年10月 石川岩吉1909年 桑原芳樹1917年 副島知一1926年 桑原芳樹1918年 岩元禧1924年 副島知一1933年 高山昇1937年 吉田茂 ? 年 今泉定助1918年3月 和田豊治1921年 河野省三1935年 植木直一郎1945年 ISNI VIAF アメリカ 日本 大日本帝国陸軍軍人 日本の貴族院議長 貴族院侯爵議員 貴族院公爵議員 明治時代の貴族院議員 大正時代の貴族院議員 昭和時代の貴族院議員 水戸徳川家 麝香間祗候 公職追放者 日本の赤十字の人物 陸軍士官学校 (日本)出身の人物 学習院中・高等科出身の人物 筑波大学附属高等学校出身の人物 1886年生 1969年没 プロジェクト人物伝項目 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 08:10更新
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