徳川義直の情報(とくがわよしなお) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
徳川 義直さんについて調べます
■名前・氏名 |
徳川義直と関係のある人
徳川宗春: 通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ、主祭神は宗春、相伝には徳川家康、徳川義直であった。 加藤清正: 福島正則が家康の子・徳川義直が入る尾張名古屋城の普請を命じられたとき、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対して、清正は「嫌なら領国に帰って戦の準備をせよ」と告げたという。 小笠原弘: 12時間超ワイドドラマ / 天下の副将軍水戸光圀 徳川御三家の激闘(1992年、TX) - 徳川義直 花ノ本寿: 春の坂道(1971年、NHK) - 徳川義直 ユキリョウイチ: 天下騒乱〜徳川三代の陰謀(徳川義直 2006年1月2日) 赤羽秀之: 葵 徳川三代 (2000年) - 徳川義直 役 徳川家康: さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。 徳川秀忠: なお狩りを終えた後、江戸への帰国時に駿府を訪れた秀忠は、家康から自身が亡くなった際には子の徳川義直・徳川頼宣を特に引き立てることを頼まれており、帰国の途上で秀忠は涙を流したとある。 三津田健: 柳生連也斎 秘伝月影抄(1956年、大映) - 徳川義直 小池朝雄: 子連れ狼 親の心 子の心(1972年、東宝 / 勝プロ) - 徳川義直 川野太郎: 女たちの名古屋城 ああ、子が欲しい! 尾張徳川家世継ぎをめぐり激しく生き激しく愛した女たち!!(1994年11月15日) - 徳川義直 役 徳川宗春: 5月5日、徳川家康から藩祖・徳川義直が拝領した幟旗並びに嫡男・萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。 徳川忠長: 徳川姓が許されていた叔父の徳川義直・徳川頼宣には宗家に後継が絶えた際には将軍職を継承することが定められていたが、この時点の忠長にはまだそれがなかった。 |
徳川義直の情報まとめ
徳川 義直(とくがわ よしなお)さんの誕生日は1601年1月2日です。京都出身の政治家のようです。
現在、ドラマに関する情報もありますね。1650年に亡くなられているようです。
徳川義直のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)徳川 義直(とくがわ よしなお)は、尾張国名古屋藩の初代藩主。御三家のひとつ、尾張徳川家の祖。諱は、はじめ義知・義利と名乗った後、元和7年(1621年)に義直に改名している。字は子敬。極位極官は従二位・権大納言。 柳生利厳より剣術を学び、新陰流第四世を継承した。 慶長5年(1600年)11月28日、徳川家康の九男として大坂で産まれる。母は志水宗清の娘・於亀(相応院)。童名は五郎太丸。 慶長8年(1603年)1月28日、4歳のとき、甲斐国において25万石(24万石とも)を拝領する(甲府藩)。甲府城城代・平岩親吉は、このとき傅役を命じられた。五郎太丸自身は甲斐に入国せず、家康や生母・於亀とともに駿府城に居住した。親吉は、近臣の佐枝種長らを五郎太丸に近侍させている。実際の領国経営は、親吉と甲斐国奉行・大久保長安によって行われた。 慶長9年(1604年)1月、正五位下に叙せられる。同11年(1606年)8月11日、7歳で元服し、従四位下右兵衛督に叙任され、徳川右兵衛督義利と称する。 慶長12年(1607年)閏4月26日、兄・松平忠吉の遺領を継いで、甲斐国から尾張国清洲城47万2344石に転封する(清洲藩)。このとき、平岩親吉も尾張国犬山城城主12万3000石となり、後見役を続けることになった。 慶長15年(1610年)2月、家康は、甲斐・信濃国および東海道の要として重要な名古屋に、天下普請として名古屋城を築き清洲から移した。義直自身は家康死後の元和2年(1616年)に尾張へ入国する。 慶長16年(1611年)3月20日、参議、従三位右近衛権中将を兼ねる(『公卿補任』では、従四位下・左中将如元。ただし、慶長17年(1612年)には前参議となっている)。このとき、義直と改名した。 慶長17年(1612年)、尾張国、美濃国のうち4郡を合わせて、48万1587石となる。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣し、天王寺付近に布陣した。 元和元年(1615年)4月、浅野幸長の娘・春姫を正室に迎える。同年8月、家康が名古屋に滞在した際、信濃国、美濃国のうちで領地を与えられる。 翌年の大坂夏の陣では後詰として布陣した(天王寺・岡山の戦い)。 元和3年(1617年)7月19日、従三位(『公卿補任』)権中納言に叙任される。同月20日、権中納言を辞退。同5年(1619年)5月、尾張国、信濃国、美濃国、三河国、近江国、摂津国のうちで61万9500石となる。 寛永元年(1624年)11月26日、将軍・家光の病状が重いと聞き(あるいは臨終の噂)、江戸に向かった。義直が小田原に着いた頃、家光の病が癒えたと聞き、そのまま江戸屋敷に入った。家光は酒井忠勝を派遣し、命令を待たずに勝手に東上したことについてけん責した。 寛永3年(1626年)8月、従二位権大納言となる。同年9月、後水尾天皇が二条城に行幸した際、家光とともに歌会に出て、一首を詠じた。 同8年(1631年)7月、兄・秀忠が病を得たと聞き、尾張を出発し、大磯まで至る。秀忠は書状を送り、義直を労りつつ、国に帰らせた。 慶安3年(1650年)5月6日、江戸で死去した。享年51。墓は応夢山定光寺(現・愛知県瀬戸市定光寺町)にある。諡号は源敬公(二品前亜相尾陽侯源敬公)。 長男の光義が光友に改名して跡を継いだ。 長じてからは藩政を自ら行ない、灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行なって米の増産に努めた。そのほかにも検地による税制改革などで年貢収納を確立した。 領内では儒教を奨励し、孔子堂の建立や城内の名古屋東照宮の建築を進めた。また、家康の形見分けで受け継いだ「駿河御譲本」に自身で収集した書誌を合わせ蓬左文庫を創設し、「決して門外不出にすべからず」と現在の図書館の走りとなる文庫とした。歴史書『類聚日本紀』も著している。 武術も好み、柳生利厳から新陰流兵法の相伝を受けている。義直は朝宮御殿を拠点に、よく春日井原へ鷹狩りに行ったという。また、いつ襲われても対処できるようにするためか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差の位置を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足をばたばたと動かして寝ていたとも伝えられている。 日本各地の主要な神社を国郡別に列挙し、その祭神を、六国史ほか諸文献によって考証した『神祇宝典』を編さんした。正保3年(1646年)、成立。 附家老・成瀬正虎は初代・成瀬正成の長男、同じく附家老・竹腰正信は義直の異父兄である。 慶長16年(1611年)9月18日、駿府城内で感冒にかかった時、侍医たちが集結して服薬評議を行った際に、家康は他の処方にこだわる医師の意見を退けて漢方薬の紫雪を服用させている。侍医の片山宗哲に調合させたものだったが、熱気が鎮まり快癒した。11月15日頃、家康が於亀と側室の阿茶局に出した消息は疱瘡を患った義直の症状が軽かったことを祝ったもので、わずかな字数のなかに「めでたく」とか「嬉しい」という言葉が頻出している。「めでたく」の言葉は本文で三度使われ、返し書きでも一度使われていることから家康自身もよほど嬉しかったといえる。 徳川義直は東海道を往来する大名らを招待し供応するため、寛永元年(1624年)熱田の神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島を造り、そこに東浜御殿を造営した。「厚覧草」によれば寛永11年(1634年)には、第3代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した。その敷地は1万平方メートル以上、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であったと考えられている。鯱をいただいた小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものという。これを桑名楼と呼び、東側の楼閣を寝覚(ねざめ)楼といった。 慶長8年(1603年)、甲斐甲府藩主25万石知行。 慶長9年(1604年)1月5日、正五位下。 慶長11年(1606年)8月11日、元服。義利を名乗る。従四位下右兵衛督。 慶長12年(1607年)閏4月26日、尾張清洲藩主53万石余に転封。 慶長15年(1610年)閏2月6日、尾張名古屋藩主53万石余に移封。 慶長16年(1611年)3月20日、従三位参議左近衛権中将。その後、年月不詳にて参議辞職。 元和3年(1617年)
7月20日、権中納言辞任。 元和5年(1619年)、61万石余となる。 元和7年(1621年)6月18日、名を義直と改める。 寛永3年(1626年)8月19日、従二位、権大納言。 明治33年(1900年)5月4日 - 贈正二位。 正室:春姫(高原院) - 浅野幸長娘 側室:於尉(歓喜院)
側室:於佐井 - 津田信益娘
『柳生一族の陰謀』(東映、1978年)、演:三船敏郎 『徳川家康』(NHK大河ドラマ、1983年)、演:高野浩和 ^ 京都伏見城(現在の清涼院)とも ^ 『甲府市史』では、侍従とも記述している ^ 『甲府市史』では7日としている ^ 名古屋市役所 1981, p. 33. ^ 新井 1977, p. 64. ^ 甲府市市史編さん委員会 1992, p. 82. ^ 甲府市市史編さん委員会 1992, p. 83. ^ 甲府市市史編さん委員会 1992, p. 84. ^ 名古屋市役所 1981, p. 34. ^ 新井 1977, p. 65. ^ 甲府市市史編さん委員会 1992, p. 85. ^ 黒板 1936, p. 533. ^ 黒板 1936, p. 537. ^ 黒板 1936, p. 547. ^ 名古屋市役所 1981, p. 35. ^ 東京大学史料編纂所 1963, pp. 29–30. ^ 名古屋市役所 1981, p. 36. ^ 東京大学史料編纂所 1963, p. 30. ^ 名古屋市役所 1981, pp. 35–36. ^ “大名の編著書|故実考証|27. 神祇宝典”. 国立公文書館所蔵資料特別展「大名」. 国立公文書館. 2023年8月20日閲覧。 ^ “神祇宝典”. 貴重和本デジタルライブラリー. 愛知芸術文化センター愛知県図書館. 2023年8月20日閲覧。 ^ 宮本義己「徳川家康公と医学」『大日光』66号、1995年。 ^ 宮本義己「家康が与えた子供たちへの手紙」『歴史読本』38巻19号、1993年。 ^ 『官報』第5050号「叙任及辞令」1900年5月5日。 黒板勝美 編『国史大系』 第五十五巻《公卿補任 第三篇》(新訂増補)、国史大系刊行会、1936年8月30日。NDLJP:3431668。 (要登録) 東京大学史料編纂所 編『史料綜覧』 巻十七、東京大学出版会、1963年3月25日。NDLJP:2966192。 新井白石『藩翰譜』 第一巻(新編)、新人物往来社、1977年6月15日。NDLJP:12212485。 (要登録) 名古屋市役所 編『名古屋市史人物編』 上巻、国書刊行会、1981年10月20日。NDLJP:12253459。 (要登録) 甲府市市史編さん委員会 編『甲府市史』 通史編 第二巻《近世》、甲府市役所、1992年3月25日。NDLJP:9540889。 (要登録) 宮本義己「家康が与えた子供たちへの手紙」(『歴史読本』38巻19号、1993年) 宮本義己「徳川家康公と医学」(『大日光』66号、1995年) 小牧御殿 『徳川義直』 - コトバンク 源敬公(徳川義直)廟 - 文化財ナビ愛知(愛知県) 銀溜白糸威具足 - 徳川美術館 神祇宝典 - 貴重和本デジタルライブラリー(愛知芸術文化センター愛知県図書館) 神祇宝典 - 国立公文書館デジタルアーカイブ 表 話 編 歴 義直1610-1650 光友1650-1693 綱誠1693-1699 吉通1699-1713 五郎太1713 継友1713-1730 宗春1730-1739 宗勝1739-1761 宗睦1761-1799 斉朝1800-1827 斉温1827-1839 斉荘1839-1845 慶臧1845-1849 慶恕1849-1858 茂徳1858-1863 義宜1864-1875 慶勝1875-1880 義礼1880-1908 義親1908-1976 義知1976-1992 義宣1992-2005 義崇2005-現在 分家・支流 義恕1888-1946 義寛1946-1996 義真1996-現在 義行 義孝 義淳 義敏 義柄 義裕 義当 義居 義和 義建 義比 義端 義勇 義生 義為 義明 義昌 義方 義真 通春 | 断絶 友著 友淳 | 断絶 表 話 編 歴 徳川義直1603-1607 尾張清洲藩に転封 1607年から1618年まで幕府直轄領 徳川忠長1618-1624 駿河駿府藩に転封 1624年から1678年まで幕府直轄領 徳川綱重1661-1678 徳川綱豊1678-1704 徳川綱吉の後継者として江戸城へ 柳沢吉保1704-1709 柳沢吉里1709-1724 大和郡山藩に転封され廃藩。旧甲府藩領のうち甲府町方は甲府勤番支配、在方は代官支配に。 表 話 編 歴 松平忠吉1592-1607 無継嗣 徳川義直1607-1610 清洲城が廃城となり、それに伴い尾張藩を立藩。清洲藩は廃藩。 表 話 編 歴 徳川義直1610-1650 徳川光友1650-1693 徳川綱誠1693-1699 徳川吉通1699-1713 徳川五郎太1713 徳川継友1713-1730 徳川宗春1730-1739 徳川宗勝1739-1761 徳川宗睦1761-1799 徳川斉朝1800-1827 徳川斉温1827-1839 徳川斉荘1839-1845 徳川慶臧1845-1849 徳川慶恕1849-1858 徳川茂徳1858-1863 徳川義宜1864-1871 廃藩置県 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research IdRef 尾張藩主 甲府藩主 親藩 尾張徳川家 徳川家康の子女 大坂の役の人物 名古屋市の歴史 江戸時代の剣客 正二位受位者 日本の神 (人物神 江戸時代大名) 1601年生 1650年没 2025/01/24 09:27更新
|
tokugawa yoshinao
徳川義直と同じ誕生日1月2日生まれ、同じ京都出身の人
TOPニュース
徳川義直と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「徳川義直」を素材として二次利用しています。