徳川頼宣のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、紀伊国和歌山藩の初代藩主。紀州(紀伊)徳川家の祖。
慶長7年(1602年)3月7日、徳川家康の十男として伏見城で生まれる。母は、於万の方(養珠院)。童名は長福(長福丸)といい、叔父・松平定勝の幼名を与えられた。徳川頼房の同母兄。
慶長8年(1603年)9月11日、異母兄・武田信吉が死去。同年11月7日、2歳にして、信吉の遺領である常陸国水戸20万石を継いだ。同年、幕臣で、伯父にあたる三浦為春が頼宣の傅()となった。同9年(1604年)12月、5万石加増。頼宣は水戸には入らず、伏見城や江戸城の家康のもとで育てられた。
慶長11年(1606年)8月11日、元服する。従四位下侍従に任じられ、徳川常陸介頼将と名乗る。同12年(1607年)、幕府大番頭・水野重仲も頼宣の傅となる。同13年(1608年)、父・家康が駿府で大御所政治を始めると、頼宣も同所に移った。
慶長14年(1609年)、家康の命を受けた傅役・三浦為春が加藤清正のもとに赴き、清正の息女・八十姫(瑤林院)を頼宣の室に迎える旨を伝えた(翌年9月、為春は、清正の領国・肥後国に下って婚礼の吉儀を納めた)。
慶長14年12月、頼宣は駿河国・遠江国および東三河、計50万石に転封された。同15年(1610年)、安藤直次も傅となった。
慶長16年(1611年)3月、参議となる(左中将如元)。同月28日、豊臣秀頼が家康と会見するため二条城に来た際には、兄・義直とともに鳥羽まで出迎えた。同年4月2日には、家康の名代として、義直とともに大坂城の秀頼を訪問した。
『和歌山県史』では、この頃、安藤直次と水野重仲が、頼宣の傅から年寄の最高位である付家老(執政)に転じたと論じている。このことの第一の目的は、当時、譜代大名だった直次と、以前譜代大名だった重仲を付家老=家臣にすることで、頼宣に高い格を与えることだった。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。
元和2年(1616年)4月、15歳のとき、父・家康が死去。同3年(1617年)1月、婚約中だった八十姫を御簾中(正室)に迎えた。同年7月20日、従三位権中納言となる(翌21日、辞退)。
元和5年(1619年)7月19日、18歳のとき、紀伊国・伊勢国のうちで計55万5千石への転封を命じられた(紀伊国は、高野山寺領を除く37万4千石余り。伊勢国は、松坂・田丸・白子領の18万石弱。その他、大和国1000石余り)。この国替えは、西国の監視や、江戸と京および大坂を結ぶ海路を確保することなどを目的として行われたとされる。
元和5年8月18日、紀州に入国した。頼宣は、自身の入国前に戸田隆重を派遣して、以前の領主・浅野氏の代官を務めていた旧土豪から浅野氏の支配の方法について聞き取りを行わせた。
入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、和歌山藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。さらに、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出した。
寛永3年(1626年)8月19日、従二位大納言に敘任された。
同時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また義直が死去し、格上の将軍家綱が幼少であることから徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格からも、幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。
慶安4年(1651年)7月の慶安の変において、由比正雪が頼宣の判物を偽造していた。幕府は、将軍・家綱が幼年の間は江戸に在府するよう命じ、帰国を許されたのは事件から8年後の万治2年(1659年)になってからだった。
寛文7年(1667年)5月、66歳のとき、嫡男・光貞に跡を譲って隠居した。
寛文11年(1671年)1月10日、紀州で死去した。70歳。法号は、南竜院殿前二品亜相顗永天晃大居士。遺言により、慶徳山長保寺(紀伊国海士郡浜中荘上村)に葬られた。
和歌山藩主としての治世は47年9か月であり、この間の江戸参府19回、和歌山帰国18回、和歌山在国の通算は21年10か月であった。さらに隠居期間が3年7か月あり、この間の江戸参府1回、和歌山帰国2回であった。覇気に富む人柄であったと伝えられている。
明治8年(1875年)、県有志により南龍(南竜)神社が創建された。
大正4年(1915年)11月、正二位を追贈された。
諱の変遷について
はじめ頼将()と名乗る(「よりまさ」と読む文献もある)。元和年中に頼信、さらに頼宣に改める(頼宣と名乗るのは紀州入国後のことである)。
諱の一文字目については徳川家が源氏の末裔であることを示すために、その通字の一つである「頼」の字を用いたものとみられる。
施策
入部後、ただちに牢屋普請を命じている。
入国後、和歌山城を格式に相応しい城郭に改修しようとした。元和7年(1621年)には将軍秀忠から費用として銀2000貫を与えられている。
城下南部の外堀は、現在の神明神社付近まで掘り進んだところで幕府から中止を命じられ、和歌道以西(現・国道42号)を埋め戻したという。「掘留(堀止)」という地名はこのことに由来する。
万治3年(1660年)1月、59歳のとき、儒者・李梅渓に「父母状」の作成を命じ、領内に頒布した。