徳川家康の情報(とくがわいえやす) 戦国武将 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
徳川 家康さんについて調べます
■名前・氏名 |
徳川家康と関係のある人
山内明: 徳川家康(1983年) - 島井宗室 小沢征悦: 新・信長公記〜クラスメイトは戦国武将〜(2022年7月24日 - 9月25日、読売テレビ・日本テレビ) - 徳川家康 役 徳川頼宣: 慶長7年(1602年)3月7日、徳川家康の十男として伏見城で生まれる。 水純なな歩: 戦極姫〜戦乱の世に焔立つ〜(最上義守、明智光秀、徳川家康、大友F宗麟、北信愛) 朝尾直弘: その後、岩波講座日本歴史に寄せた「豊富政権論」をきっかけに近世初期の研究を進め、「幕藩制と天皇」、「鎖国制の成立」などを併せて『将軍権力の創出』を著し、織豊政権から徳川家康の江戸幕府創設、幕藩体制の完成に至るまでの基礎的な研究を行った。 中田譲治: 戦国無双4(上杉謙信、徳川家康) 緒方敏也: 徳川家康(1964年、NET) 大友康平: 康平の「康」は徳川家康から、「平」は在原業平からとられている。 加賀谷純一: 徳川家康(1983年1月9日 - 12月18日) - 上原能登守 役 二木てるみ: 徳川家康(1983年、NHK) - 徳姫の小侍従 役 神山繁: 徳川家康と三人の女(2008年、EX)- 本多重次 若林豪: 徳川家康(1983年) - 真田幸村 坂西良太: 徳川家康(1983年) - 大久保忠隣 役 徳南晴一郎: 『徳川家康』 曙出版、1962年 中井啓輔: 徳川家康(1983年) - 蜂須賀小六 川津祐介: 徳川家康(1983年) - 島左近 下塚誠: 徳川家康(1983年) - 板倉重昌 杉田智和: 戦国幻武〜本格軍勢バトル〜(徳川家康) 市川右太衛門: 同年、『徳川家康』(NET製作)でテレビドラマに初主演。 浜田賢二: 戦国大戦 -1570 魔王 上洛す-(R蒲生氏郷、R徳川家康、R土橋守重、陸奥辰巳) 高須克弥: 本能寺の変により、明智光秀から逃れるため、徳川家康は自らの居城がある三河の岡崎を目指した。 大沼啓延: 2014年の「静岡まつり」では徳川家康役を務めた。 上妻成吾: 戦国★男士 第19・20話(2012年2月4日・11日、テレビ神奈川) - 徳川家康(幼少期) 役 福田勝洋: 徳川家康 - 茶屋又四郎(1983年) 童門冬二: 『小説徳川家康』光栄 1995 「覇者の条件」徳間文庫 峰蘭太郎: 徳川家康と三人の女(2008年) - 鳥居元忠 辻親八: SAMURAI DEEPER KYO(徳川家康) 石原真理: 徳川家康(1983年1月9日 - 12月18日、NHK総合) - 千姫 役 若山騎一郎: 株式会社徳川家康(1991年) 国広富之: おんな風林火山(1986年 - 1987年、TBS) - 徳川家康 |
徳川家康の情報まとめ
徳川 家康(とくがわ いえやす)さんの誕生日は1543年1月31日です。愛知出身の戦国武将のようです。
結婚、事件、兄弟、現在、引退、家族、趣味、テレビ、ドラマ、映画、姉妹、母親、再婚、父親、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1616年に亡くなられているようです。
徳川家康のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名、江戸幕府初代将軍。徳川氏(将軍家、御三家など)の祖。三英傑の1人に数えられる。 家系は三河国の国人土豪・松平氏の内、安祥松平家5代当主。幼名は竹千代。幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごし、諱は元服時に今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と改め、通称は当初次郎三郎、元康に改名した際に蔵人佐を用いている。 当初は今川氏の配下として活動するが、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死したのを機に今川氏から独立して家康に改諱し、織田信長に接近して永禄5年(1562年)に清洲同盟を結ぶ。永禄9年12月29日(1567年2月18日)には徳川氏に改姓した。本拠の三河国を平定後は信長に協調、従属しながら今川氏や武田氏など周辺大名と抗争を展開、勝利して版図を遠江国・駿河国にまで広げていく。天正10年(1582年)には本能寺の変での信長死亡後に発生した天正壬午の乱も制して甲斐国・信濃国を手中に収め、5か国を領有する大大名となった。 信長没後に織田政権で勢力を伸張した豊臣秀吉とは天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで対峙するが、後に秀吉に臣従し、天正18年(1590年)の小田原征伐後は後北条氏の旧領関東8か国への転封を命ぜられ、豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる。 秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍を率いて西軍に勝利し天下人の地位を獲得、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ、江戸幕府が中心となって日本を統治する幕藩体制の礎を築いた。 没後は東照大権現の神号を後水尾天皇から贈られ、東照宮に祀られるなどして神格化され、江戸時代を通じて崇拝された。 ※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。 天文11年(1542年)12月26日、岡崎城主松平広忠の嫡男として岡崎城において生まれる。生母は緒川城主水野忠政の娘・大子(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。胞刀の役は酒井政家、蟇目の役は石川清兼が務めた。 3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(大子の兄)が尾張国の織田氏と同盟する。織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は大子を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。 天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない。また、近年の研究では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。 2年後に広忠が死去する。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。 なお、安城松平家の家督は、広忠が亡くなった時点で竹千代が継承していたと考えられている。そのことが今川家中において、既に領主となっていた竹千代に対する人質として扱いが領主の子に対する通常の人質の例とは異なった理由として考えられる。また、今川氏が家臣の集住政策を進めており、傘下の国衆に対しても例外ではなかったとする説もある。その場合、竹千代(元信・元康)の人質期間と家臣としての駿府滞在期間が混在していたことになる。 天文24年(1555年)3月、14歳のとき、駿府の今川義元の下で元服し、次郎三郎元信と名乗った。義元の偏諱「元」の字を与えられており、これは改めて今川氏の配下になったことを意味した。 弘治3年(1557年)もしくは2年(1556年)、今川義元の姪とされる関口親永(氏純)の娘(築山殿)を娶る。これにより、今川一門に準じる立場となった。 弘治4年(1558年)頃に、祖父・松平清康の名の一字をとり、元康と改め、仮名も蔵人佐と改めている。 なお、松平元康(徳川家康)の今川氏との関係については吉良氏との関係を考慮する必要があるとする指摘もある。吉良氏は三河国幡豆郡を根拠とした足利氏御一家の一つで、今川氏の宗家筋であった。吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与え、松平信忠は吉良義信、松平清康は吉良持清、松平広忠は吉良持広の偏諱を得たと推定されている。今川義元は吉良氏に代わって安祥松平氏当主に対して自らの偏諱を与えるとともに自らの一門に組み込むことによって吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられる。 当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きており(三河忩劇)、永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた。これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた(寺部城の戦い)。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈った。永禄2年(1559年)5月16日に駿府の元康は7か条からなる定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしている。これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていた。また、家臣団に対しては家康が諫言を聞かなければ、義父である御一門衆関口親永と今川氏家老朝比奈親徳に訴え出るようにとも記されており、引き続き松平家への関与が継続することも明記されていた。 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。5月19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰朝は鷲津の砦を攻め落とした。 5月19日昼頃、今川義元は織田信長に討たれた。織田方の武将の水野信元は、甥の元康のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺の大樹寺に入った。ほどなくして今川軍は岡崎城を退去。23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した。岡崎城に入る際、大樹寺住職の登誉天室と相談の上、独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとしたとされる。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある。さらに近年の新説として、桶狭間での勝利に乗じた織田軍の三河侵攻を警戒した今川氏真がこれに備えるために元康の岡崎城帰還を許したとする説も出されている。 永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとしている。4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした。 折しも今川氏の盟友であった武田信玄、北条氏康は、関東管領・上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵(小田原城の戦い)への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる。また、桶狭間の戦い直後は三河の今川方をまとめて織田方の侵攻と対峙していた元康が三河への軍事的支援を後回しにして同盟国の武田・北条支援に動く氏真に失望して、援軍を得られないまま織田氏に抵抗を続けるよりも織田氏と結んで独立を図った方が領国維持の上で得策と判断したとする見方もある。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている。その後も元康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。 永禄4年(1561年)先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)(『史料総覧』巻10)。同年4月西三河で今川氏との戦いが開始された。 永禄5年(1562年)には、元康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている。一方、今川氏真の要請を受けた将軍・足利義輝は松平・今川両氏の和睦を図り、義輝から北条氏康らに対しても和睦の仲介を指示しているが、和睦は実現しなかった。 永禄6年(1563年)7月6日、元康は、家康と名を改めた(「徳川幕府家譜」)。「元」の字は今川義元の偏諱を与えられたものであるため、この改名により、今川氏からの自立を明確にした。 「家」の字を選んだ理由は明確ではない。ほぼ同じ時期に今川義元に倣った花押の形を変更している。改名以前の花押が「元」の字を変形させたものである以上、花押の変更は当然のことであったとも言えるが、これも今川氏からの決別を示したことと言える。こうした動きが桜井・大草の両松平家をはじめとする親今川派を刺激して、翌年の一斉蜂起につながったとする見方がある。同年3月には、同盟の証として嫡男・竹千代(信康)と信長の娘・五徳との婚約が結ばれる。 永禄7年(1564年)、今川氏真が家康討伐の意向を示すと、酒井忠尚や吉良義昭ら三河国内の反家康勢力の国衆が挙兵し、続いて三河一向一揆が勃発するも、これを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。遠江国で発生した国衆の反乱(遠州忩劇)の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。 永禄9年(1566年)12月29日、家康は、正親町天皇の勅許により、松平を改めて徳川を姓とした。また、従五位下三河守に叙任された。 この改姓を朝廷に願い出る際にはいくらかの工夫を要した。松平家は少なくとも清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏であると自称していたが、当初、正親町天皇が清和源氏の世良田氏が三河守に任官した先例がないことを理由にこの叙任を認めなかった。そこで家康は三河国出身で京誓願寺住持だった泰翁を介して近衛前久に相談した。 前久の対処により、吉田兼右が万里小路家で先例に当たる系譜文書「徳川(根元は得川)は源氏だがもう一つの流れに藤原氏になった例がある」を発見し写しが譲渡され申請に使用した。この得川の末だと藤原氏を名乗る特例ともいえる措置を得て、家康は従五位下三河守に叙任された(近衛家文書)。この先例とされたのは松平氏の祖とされる新田氏庶流の世良田三河守頼氏で、藤原氏となったのは嫡男有氏とその弟教氏で、松平清康の世良田改姓とつなげたとの説がある。この勅許に関連した改姓で当面は徳川姓を名乗るのは家康一人であり、松平氏一族や家臣団統制に役立った。この改姓に伴い家康は「本姓」を「藤原氏」としているが、後に源氏に復している(#源氏への「復姓」時期について)。 永禄10年(1567年)5月、長男の竹千代と信長の娘である徳姫を結婚させ、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らさせる。竹千代は、7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る事になった。 永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長への援軍として松平信一を派遣した。同年1月11日、家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)。左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた。 同年12月6日、甲斐国の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。 武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。しかし永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった。 5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。 元亀元年(1570年)、岡崎城から遠江国の曳馬城に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。なお、岡崎城は長男の信康に譲った。また信長を助け、金ヶ崎の戦いに参戦したほか、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いでは活躍を見せた。 家康は北条氏康・氏政父子と協調して武田領を攻撃していたが、武田信玄は氏康没後の元亀2年(1571年)末に北条氏政との甲相同盟を回復し駿河国を確保する。信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景・浅井長政・石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。 元亀3年(1572年)10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始した。これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍はほぼ単独という形で武田軍と戦うこととなる。 徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために内藤信成・本多忠勝らを偵察隊として遣わせるも武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。 ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広・成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照・青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信に代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。(三方ヶ原の戦い)武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してから家康は「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされているが、信憑性に疑問も呈されている。 浜名湖畔の堀江城攻略を断念して一旦浜名湖北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって三河国設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、武田信玄の死去(享年51歳)により撤兵した。 武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。 武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。同年、家康は犬居城を攻めるが、城主天野景貫の奇襲により敗退する。同時期、武田に内通していたとして、家臣の大岡弥四郎らを捕え、鋸挽きで処刑した。この大岡弥四郎事件については、築山殿も参画しており武田氏への内通の中心人物だったとの説も唱えられている。 信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせた。一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。 なお、家康は長篠城主の奥平信昌(信昌の諱「信」は従来は信長の「信」をこの時に拝領したものとされていたが、近年は信玄に従属した時に一字拝領を受けた説もある)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室として嫁がせている。だが、このころから、信長との関係が対等ではなくなり、信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場になる。軍事行動でもこれ以前は将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式だったが、以後は信長臣下としての参軍となる。 天正3年(1575年)、家康は唐人五官(五官は通称か)に浜松城下の屋敷と諸役免除を認める朱印状を発行しており、懸塚湊や上流の馬込川に中国商船が来航して浜松城下にて貿易を行っていたことが知られている。五官の名は『慶長見聞録』にも登場しており、五官の名を持つ唐人はその後家康に従って江戸に移住したとみられている。天正5年(1577年)2月以降、遅くても翌年4月までに花押を改めている。家康は元服以来、永禄6年の家康改名に伴う全面的な変更(前述)を含めて度々花押の変更を行ってきたが、この時変更された花押が最晩年まで用いられることになる。 天正6年(1578年)、越後上杉氏で急死した上杉謙信の後継者を争う御館の乱が発生し、武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入する。謙信の養子である上杉景勝(謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し、同じく養子の上杉景虎(謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻した。翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。 岩村城の戦い以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をしておらず、後北条氏との対立をも抱えることにもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・勝長を返還するなど織田氏との和睦(甲江和与)を模索している。しかし、信長はこれを黙殺し、天正9年(1581年)、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する(高天神城の戦い)。高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田氏の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した。木曾義昌の調略成功をきっかけに、天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。勝頼一行は同年3月に天目山で自害して武田氏は滅亡した。最後まで抵抗した武田方の蘆田信蕃(依田信蕃)が守る田中城は成瀬正一らの説得により大久保忠世に引き渡された。 家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還を通過して帰還している(甲州征伐)。 家康はこの戦功により駿河国(庵原郡江尻は穴山信君領)を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜んだ。 また遅くともこのころには、三河一向一揆の折に出奔した本多正信が、徳川家に正式に帰参している(正式な帰参時期は不明で、姉川の戦いのころに既に帰参していたとも)。 天正10年(1582年)5月21日、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れ、大接待を受けた。この際、秀吉より援軍要請があった信長は自ら出陣することを決めたが、家康もこれに従い帰国後に軍勢を整えて西国へ出陣する予定だった。 6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしたが、鳴海で秀吉が光秀を討った報を受けて引き返した。穴山信君が帰国途中で戦死したため、駿河国江尻を併呑した。 一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領国のうち上野一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3か月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走した。また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担った河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。 一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺・一条信龍屋敷に本陣を置いていたが、新府城(韮崎市中田町中條)に本陣を移すと七里岩台上の城砦群に布陣し、若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙した。 ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河(碧海郡(矢作川以西)を除く)の5か国を領有する大大名へとのし上がった。 信長死後の織田政権においては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、勝家と手を結んだ信長三男・織田信孝を自害させることで、さらに影響力を強めた。家康は賤ヶ岳の戦いで勝った秀吉に、戦勝祝いとして松平親宅が入手した茶器の初花を贈った。また本能寺の変で光秀に加担した疑いで京都から逃れてきた元関白の近衛前久を家康は保護していたが、秀吉と交渉して近衛を無事帰洛させることができた。 しかし天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁した織田信雄が、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信長嫡孫・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立するようになると、信雄は家康に接近して秀吉に対抗することとなった(『岩田氏覚書』)。 天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3月13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は28日に尾張国小牧(小牧山)に着陣した。 秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、4月初めには森長可・池田恒興らが三河国に出兵した。4月9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した(小牧・長久手の戦い)。「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」といわれた。 小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子(徳川家・本願寺の認識、秀吉側の認識は人質)とした。 戦後の和議は秀吉優位であったとされる。越中国の佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかった。天正13年(1585年)に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属している。さらに秀吉は7月11日に関白に補任され、豊臣政権を確立する。 これに対して家康は、東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5か国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(第一次上田合戦)。 勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に天正11年5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」に見舞われた。その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる。 家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対してさらなる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。 天正14年(1586年)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『当代記』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。ただし、天正14年正月に織田信雄が岡崎城に訪問した際に家康は秀吉に臣従する内意を表明し(『貝塚御座所日記』)、2月には秀吉から一柳直末に対して家康を赦免することにしたので家康討伐命令が中止になったことを伝える朱印状が送付されている(『一柳家文書』)。このため、朝日姫との婚姻は家康の臣従を受けた対応とも考えられる。なお、家康の臣従から上洛までの間隔が開いた背景として、家康から秀吉に離反した信濃国の国衆3名(木曽義昌・小笠原貞慶・真田昌幸)の取り扱いを巡る調整を必要としたことも考えられる。実際に7月に家康に従わない真田昌幸討伐の動きがあり、翌8月に上杉景勝の嘆願で家康が昌幸を赦免して昌幸が家康の与力大名となることが確定している。柴裕之は大政所の岡崎訪問は家康の上洛中に秀吉方に危害を加えられることを恐れる家康や徳川家中に対する配慮であったとしている。また、同年9月11日に家康が本拠地を浜松城から駿府城に移しているのも、秀吉が臣従と引き換えに5か国安堵を認めたことをきっかけにしているとしている。 家康は10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)。 天正14年(1586年)11月1日、京へ上り、11月5日に正三位に叙される。このとき、多くの家康家臣も叙任された。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。5か国支配の安定と今後の「関東総無事」のための拠点として駿府は重要な場所であった。 これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。 天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により、朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜された。 同年12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託された。12月28日、秀吉の推挙により、朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に任ぜられる。このことにより、このころの家康は駿府左大将と呼ばれた。 家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛ての5月21日付起請文で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。 家康が北条親子のことを讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない 今月中に兄弟衆を京都に派遣する 豊臣家への出仕を拒否する場合、娘(氏直に嫁いだ督姫)を離別させる 家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもある北条氏規を上洛させるなど、ある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じなかった。天正18年(1590年)1月、家康は嫡男とみなされていた三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせることで改めて秀吉への臣従の意思を明確にして北条氏と事実上断交し、これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供し、4月には吉川広家が豊臣家の城番として岡崎城に入城している(小田原征伐)。 なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得た知識と経験は新領地の関東統治に生かされた。 天正18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。石高は約240万石で、さらに上洛の際の費用(在京賄領)として、近江国・伊勢国・遠江国・駿河国のうちで約11万石が与えられた。家康の関東移封の噂は戦前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが、結局北条氏の旧領国に移されることになった。 秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したと考えられている。一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった。ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が徳川家中に流れている(『家忠日記』天正20年2月6日条)。 この移封によって三遠駿と甲信(上杉の北信を除く)119万石(徳川家内の「五ヶ国総検地」では実高150万石とも)から関東250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと考察している。この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城とした。なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していた。 天正18年(1590年)8月1日、家康は江戸へ入城した(江戸御打入)。この日は正式に入城した日であり、これ以前にも、視察のため江戸に入っている。 家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。 家康によって配された有力家臣たちは以下の通りである。 なお、小田原攻め直前の天正18年1月14日、前年より京都の聚楽第で病に臥せっていた朝日姫が病死した。朝日姫の死で徳川家との婚姻関係が亡くなることを憂慮した秀吉は同月に自分の養女である小姫(実父は織田信雄)を長丸(秀忠)と婚姻させている(一説には婚約とも)。しかし、小姫も天正19年(1591年)7月に早世している。後に豊臣秀勝と死別した別の養女達子(実父は浅井長政)を秀忠に嫁がせたのも、秀吉が家康および徳川家を親族として引き留めたいという考えがあったと推測される。 天正19年(1591年)6月20日、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけて豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍を編成した。家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの鎮圧に貢献した。 文禄元年(1592年)から秀次に関白を譲り太閤となった秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった。『家忠日記』にはこの時に伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣が家康の指揮下にあったと記してある。このころの家康は武蔵大納言とよばれた。 文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛した。これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなっている。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治制度を直接学ぶことになった。 慶長元年(1596年)5月8日、秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。 慶長2年(1597年)、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力した。このときも家康は渡海しなかった。 慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた。しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。 豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を行う。婚約した娘は、全て家康の養女とし、その内容は次の通りである。 伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。 松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。 蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外曽孫で養女)。 水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。 保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。 このころより家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は後述する伏見城治部少丸の直下にある自身の屋敷から、対岸の向島城へ移ることでこの一件は和解となった。 3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた(石田三成襲撃事件)。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内治部少丸にある自身の屋敷に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退任を承諾して佐和山城に蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正当性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価され、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。もっとも、家康と三成は対立一辺倒ではなく協調を模索する時期もあり、家康は中立的な立場からの解決を図り双方の均衡を保とうとしたが、それが却って政争を悪化させたとする見方もある。 9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。 9月13日付毛利秀元宛輝元書状には、家康が大坂入りした理由として次の3つを挙げている。 秀忠が江戸へ下向したため正室お江と離れるので、彼女以外の女性が秀忠の子を生む可能性があり両者の仲が悪くなるのを避けるため、お江も下向させようとしたが淀殿周辺から反対されたこと。 後陽成天皇が譲位の意向を示したが、秀吉の遺言とは異なる子を指名したため、家康が譲位の断念を申し入れざる得なかったこと。 秀吉遺言で東国の大名は大坂、西国の大名は伏見にいることが求められたが、宇喜多秀家は大坂に留まったため家康の抗議で伏見に移ることを承諾したが、同様の者がまだ複数いること。 9月9日に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院を江戸に人質として差し出し、出兵は取りやめとなる。これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。 またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。 対馬国の宗義智に1万石を加増。その家臣の柳川智永を従五位下豊前守に叙任(豊臣姓)。 遠江国・浜松12万石の堀尾吉晴に越前国・府中5万石を加増。 美濃国・金山7万石の森忠政を信濃国・川中島13万7,000石に加増移封。 丹後国・宮津の細川忠興に豊後国・杵築6万石を加増。 薩摩国・大隅の島津義久に5万石を加増。 慶長5年(1600年)3月、豊後国に南蛮船(オランダ船)のリーフデ号が漂着した。家康はリーフデ号を大阪へ移し、航海長のウィリアム・アダムス(後の三浦安針)や船員のヤン・ヨーステンは家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。特にウィリアム・アダムスは航海や水先案内の技術だけでなく、数学と天文学も得意としていたことから家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作ったりして、家康から寵愛された。 慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治から会津の上杉景勝の重臣・直江兼続に越後にあった年貢の下半期分まで持ち出された訴えを、出羽国の最上義光らからは会津の軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。さらに上杉氏の家臣で津川城城代を務め家康とも懇意にあった避戦派の藤田信吉、栗田国時の二人が、会津から江戸の徳川秀忠の元へ上杉の行動に関する釈明をしようとする途中で、兼続の仕向けた使者達に襲撃され、国時が殺害される事件まで起きた。 6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。 この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占拠されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13か条におよぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。 さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍が結成されていった(小山評定)。 東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし榊原康政、大久保忠隣、本多正信らを付けて宇都宮城から中山道を進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。それでも家康は動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1か月ほど留まり、7月24日から9月14日までの間に、関ヶ原合戦に関する内容の文書だけでも外様の諸将82名に155通、家康の近臣に20通ほどの文書を送っている。 正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。 9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には美濃赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲し、それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い)。 家康は自らの軍師で臨済宗の禅僧である閑室元佶(関ヶ原の戦いに従軍していた)に易による 9月15日午前8時ごろ、美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午ごろかねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。 9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名のほとんどを処刑・流罪・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めなかったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の全国に散在していた直轄地)は東軍の諸将に恩賞として分配された。また太閤蔵入地のうち、堺、長崎、生野銀山の管理には家康の家臣が派遣され、家康の直轄領となっていくことになる。 その結果、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3か国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。だが、まだ西国大名は新年の挨拶に大坂城に伺候し豊臣家が西国を支配する二重公儀体制との説がある。 鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。その目的はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法であるアマルガム法の導入であり、スペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し、西洋事情に詳しいウィリアム・アダムスを外交顧問としたという。 家康はフィリピン(スペイン領)近海における私貿易船を絶滅させるため、慶長6年(1601年)正月、フィリピン総督に宛てて公貿易船の証として日本からフィリピンへ渡海する朱印状を交付することを伝えた。日本では古来から難破船の漂着は龍神の祟りとして積荷を没収し、その売り上げをもってその土地の寺社の修復に充てる習わしであったが、家康はこの仕来りを破り、慶長7年(1602年)8月に漂着船の積荷を保証することを伝え、安心して浦賀湊に商船を派遣するようフィリピン総督に通告した。つまり家康の朱印船制度創設は浦賀ースペイン外交にあったのである。浦賀にはウィリアム・アダムスの尽力により慶長9年にスペイン商船が初めて入港し、以後、毎年入港している。 メキシコ側の思慮によりアマルガム法の導入の実現には至らなかったが、慶長6年秋に上総大多喜浦に漂着した司令官ジュアン・エスケラや、慶長14年(1610年)9月に上総国岩和田沖に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロをアダムスが建造した船で帰国させたが、その返礼大使としてセバスチャン・ビスカイノが浦賀湊に入港している。このときのビスカイノは日本の東西の港の測量および金銀島探検の使命を帯びて来航したのであるが、金銀島の発見には至らず、そのうえ船は破船してしまう。ビスカイノは帰国のための船の建造を家康に請うたが断られた。そこでビスカイノは奥州の港の測量の際、伊達政宗がメキシコとの貿易を希望していたことを思い起こし、宣教師ルイス・ソテロを介して政宗に帰国の大型帆船の建造を依頼し、これが実現してサン・ファン・バウティスタ号の遣欧に至るのである。このとき将軍・秀忠は向井忠勝に政宗遣欧船の随行船として船を造船させている。この船は江戸内海の口で座礁してしまったが、このように秀忠が遣欧船を造船していた事実や、向井忠勝が公儀大工を伊達政宗のもとに派遣している事実、また幕府は禁教令によりビスカイノ一行を本国に帰国させなければならなかったことを考えれば、政宗遣欧船は幕府の知るところであったことは疑う余地もない。 元和元年(1615年)6月、サン・ファン・バウティスタ号がビスカイノの返礼大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ浦賀湊に帰帆した。この船には政宗の家臣・横沢将監吉久や日本商人らが同船していた。しかし、家康が死去するとサンタ・カタリナに国外退去令が出され、彼らは元和2年(1616年)8月に浦賀を発航した。これがメキシコへ向かう最後の貿易船となった。こうして浦賀湊は国際貿易港としての生命を絶たれ、スペイン人鉱夫の招聘は実現することなく訣別を迎えたのである。 長崎や平戸は貿易港としてよく知られるが、江戸初期に家康によって浦賀がスペイン商船の寄港地として開港され、貿易が行われていたことは教科書にも記されていない。この史実を伝えようと、地元の住民によって市民団体が結成され賛助金が集められ、平成31年(2019年)4月、神奈川県横須賀市東浦賀の東叶神社境内に「日西墨比貿易港之碑」が建てられ除幕式が行われた。 慶長5年(1600年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻る。 関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行った。 慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まっていなかった常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国久保田に減転封。代わりに佐竹氏と同じく源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸に入れた。これによって確定した徳川氏の領域は一門・譜代大名の所領も含めると、東は岩城領から関東一円、北は南信濃から美濃国・越前国、西は近江国・山城国・大和国と北伊勢の桑名領をほぼ一円支配しつつ、西国では長崎や堺、石見銀山、生野銀山の直轄領が点在する内容であった(秋田氏や里見氏などの小規模な外様大名の支配地は除く)。 慶長8年(1603年)2月12日、右大臣に任じられる。同日、征夷大将軍、源氏長者、奨学淳和院等別当、牛車兵仗等の宣下があった。 同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応した。 なお家康の将軍宣下の数ヵ月前の、慶長7年12月4日(新暦では1603年1月15日)に、秀吉の造立した方広寺大仏殿が失火のため全焼し、京中を騒然とさせた。この火事について、豊臣氏の権威を失墜させるために徳川方が故意に放火したのではないかという風説も流れたという。 慶長8年10月16日、右大臣を辞任した。 慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。なお、このとき次世代の家臣である井伊直孝と板倉重昌も叙任された。同7月23日、近衛信尹を関白に推挙する。 慶長12年(1607年)には駿府城に移って、東国大名や幕府の制度整備を進める「江戸の将軍」秀忠(御所)に対して、前将軍の家康は「駿府の大御所」として主に朝廷・寺社・西国大名・外交を担当した(大御所政治)。ただ明確に線引きされていたわけではなく、越後福嶋騒動では当事者たちが秀忠が駿府に出向いた際に訴えたため、家康と秀忠の前で弁論させ、越後高田藩堀氏の改易を命じた。 同年、朝鮮通信使が来日し秀忠と謁見して国書・贈物を交換、その後に家康とも謁見し文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復した。 慶長13年(1608年)、大坂方が朝廷に働きかけ秀頼を左大臣にする兆候を事前に捉え、これを阻止する(しばらく左大臣は空位)。同年、右大臣九条忠栄を関白に推挙する。 慶長14年(1609年)、オランダ使節と会見。オランダ総督(使節は国王を自称)マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可した。 慶長15年(1610年)、足尾銅山を開山。1600年に天領にした石見銀山等の銀、1601年に天領にした佐渡金山等の金と併せ、銅もその後の江戸幕府の主要な財源となる。 慶長16年(1611年)3月、家康は後水尾天皇即位に合わせて上洛、同月20日に九男・徳川義利(義直)、十男・頼将(頼宣)を参議中将に、十一男・鶴松(頼房)を少将に叙任させた。「御三家」体制への布石といえよう。3月22日には、自らの祖先と称する新田義重に鎮守府将軍を、実父・松平広忠には権大納言を贈官した。 同月28日、二条城にて秀頼と会見した(二条城会見)。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は織田有楽を仲介として上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解がある。翌4月12日に挙行された後水尾天皇の即位式を、家康は裹頭(僧兵が被る目出しの覆面)でお忍びとして見物、式後に義直・頼宣と共に改めて参内して即位を賀した。同日、西国大名らに対して三カ条の法令を示して誓紙を取っており、これにより徳川公儀の天下支配が概ね成ったともいわれる。 同年、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコの使者セバスティアン・ビスカイノと会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、スペイン側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない。 慶長17年(1612年)、九条忠栄を左大臣に、鷹司信尚を関白に推挙する。 慶長18年(1613年)、イギリス東インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可した。 慶長19年(1614年)3月8日、勅使が駿府に下向して家康に孫和子入内の許可と共に、太政大臣か准三后への昇進を勧めるが、家康は太政大臣の贈官を希望して辞退した。翌9日、秀忠は右大臣に就任し、豊臣秀頼に官位が追いつく。 晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は脅威であり続けた。なお特別の地位を保持していて実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、関ヶ原の戦い後に西国に配置した東軍の大名はほとんど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、同時に秀頼が関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られていた。秀忠の将軍宣下時の官位は内大臣であったが、秀頼は家康の引退で空いた右大臣を譲られており、秀忠を上回っていた。 家康は大坂の周囲にある伏見、堺や大和郡山を直轄領にしつつも、当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、秀吉の遺言を受けて孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして一層幕府の警戒を強めた。 そのような中、慶長12年(1607年)には結城秀康、慶長16年(1611年)に加藤清正・堀尾吉晴・浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長・池田輝政など、豊臣恩顧の大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。 そして、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、動き始める。 大坂の陣の契機となった方広寺鐘銘事件は、秀吉の発願した方広寺大仏(京の大仏)の再建にあたり発生したものだが、方広寺大仏・大仏殿が何故滅失していたかは以下の通りである。 秀吉は焼損した東大寺に代わる新たな大仏として、京都に大仏・大仏殿を造立した(京の大仏)。「国土安全万民快楽」をスローガンに、刀狩で民衆から奪取した刀剣類を大仏造立のための釘・鎹(かすがい)に利用した。この大仏は一応完成したが、開眼供養前に文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)の慶長伏見地震で大破し、その後秀吉の命で破却された。大仏殿は地震での倒壊を免れたので、慶長2年(1597)には当時甲斐国にあった善光寺如来が、大仏に代わる新たな本尊とするため方広寺大仏殿に遷座させられ、大仏殿は「善光寺如来堂」と称されるようになったが、翌慶長3年には善光寺如来が本国(信濃善光寺)に還された。豊臣政権は秀吉没後に大仏の再建に取り掛かったが、慶長7年(1602年)12月に大仏鋳造中の失火で火災が発生し、大仏のみならず大仏殿も滅失してしまった。 大仏の再建工事については史料に乏しく、いつ行われたか詳細は不明である。大仏殿再建工事については史料が多く残っており、それらによれば、大仏殿の立柱工事は慶長15年(1610年)8月22日から行われ、慶長17年(1612年)1月29日から大仏殿に屋根瓦を葺く作業が始まった。慶長17年(1612年)中に大仏殿はほぼ完成し、工事着工から2年足らずという異例の速さで大仏殿の再建が完了したことが分かる。 方広寺大仏・大仏殿の再建が完了したため、落慶供養の段取りを進めることになった。段取りは片桐且元が進め、武家間では京都所司代の板倉勝重や、家康との協議がなされた。しかし落慶供養は武家側だけで決定できるものではなく、朝廷や公家・寺社勢力との協議も必要であった。方広寺は、正式な寺号を持たず(「方広寺」という寺号は江戸時代中期以降に自然発生的に生じたもので、当時は単に「大仏」もしくは「東山大仏」「京大仏」などと呼称されていた)、朝儀を経て創立された寺院ではなかったため(悪く言えば豊臣氏の私的な建造物であった)、正式な寺院となるよう、朝廷との協議がなされた。寺号については「東大寺」とするか、もしくは新たに定めるかなどが候補として挙がっていたが、方広寺の寺号を「東大寺」と定め、方広寺を東大寺の継承寺院とする案も検討されていた。 方広寺再建落慶供養の出席者について、各種史料の記述から、家康が落慶供養に出席するため、上洛する計画であったことが窺える。また『本光国師日記』には、「秀頼公供養に御上洛」については「いかようにも心次第と」と家康が仰せ出したとあり(慶長19年7月18日条)、秀頼と家康の双方が落慶供養に参加する可能性もあった。 慶長19年(1614年)には梵鐘も完成し、片桐且元は梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に作成させ、梵鐘に銘文を入れた。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」で、大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したとする説もあるが(「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である)、これは後世の俗説である>。 さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。 これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。 この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするために家康が以心崇伝らと画策して問題化させたものであると考えられているが、当時の諱の常識からすれば不敬と考えられるものであり、また近年研究では問題化に崇伝の関与はなかったとされている。なお歴史学者の河内将芳は、以心崇伝が著した『本光国師日記』に、以下のような通説とは逆の記述があることを指摘している。 以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状(8月22日条)には「文言以下の善悪、市(片桐且元)存ぜられざることも、もっともとの御諚」「鐘をば銘をすりつぶしそうらえとの御内証」とあり、鐘銘文は重大な問題だが、片桐且元に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったとしている。
慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲したが、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。徳川軍は木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは敗戦を喫した。とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を放たせ、これがきっかけとなり和睦交渉が行われた。 和睦の締結後、慶長20年(1615年)1月中旬までに大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。 従来の説では、「豊臣方は二の丸、三の丸の破壊を形式的なもので済ませ、時間稼ぎを狙っていたが、徳川方が惣構を全ての廓と曲解することで強引に工事に参加して、豊臣側が行うとされた二の丸の破却作業も勝手に始め、さらに和議の条件に反して内堀までも埋め立てたため、豊臣側は抗議したが、最初から和議を守るつもりの無い家康はこれを黙殺した」とされていたが、当時の記録には和議の条件は大坂城の「惣構と内堀を含む二の丸、三の丸の破壊」であることが記されており、誤りと言える。二の丸・内堀の破壊を行わないという記述は後世の書でのみ確認できる。また惣構を徳川方が、二の丸・三の丸を豊臣方が破壊する予定だったが、後者の作業も徳川方が行ったことは当時の記録にも記されている。しかし、これに対して豊臣方が抗議を行ったこと、時間稼ぎが目的だったこと、家康が騙すことを目的としたこと等も、後世の書でしか確認はできない。この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる。 このころ、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立。主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す仕儀に出た。そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めている」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。そして、豊臣氏に要求が拒否されると、再度侵攻を開始した。 これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、幕府方は各戦闘で勝利を収めた。最終戦の天王寺・岡山の戦いにおいても徳川軍は大軍ゆえに混乱が起きて一時は本陣を下げたが、結果は大勝を収め、豊臣方は大坂城に退却・内部の裏切りにより放火もあり落城した。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは自害、ここに豊臣宗家は滅亡した。 その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。 慶長20年(1615年)6月28日、後陽成天皇の第八皇子である八宮良純親王を猶子とする。元和元年(1615年)7月17日、禁中並公家諸法度17条を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。 同年12月、自らの本格的な隠居の城として駿河沼津の柿田川の湧水にある古城泉頭城の縄張り・再整備を命じたが、翌年の病に倒れる直前1月12日に諸人が迷惑するとの理由で中止し、駿府城二の丸にある元竹腰正信屋敷の改築に方針転換したが、これも体調悪化・死去により立ち消えになっている。 元和2年(1616年)の年始より、幕府による各種儀礼整備の一環として武家諸法度の条文に従い、江戸城・駿府城共に登城する者には烏帽子・装束(狩衣・大紋・素襖)の着用が命じられた。1月9日、前年12月の段階では京で行う意向だった孫家光の元服を、吾妻鏡に倣い勅使の下向と共に自身も江戸に向かい同地で行うことを秀忠に伝えた。 同月21日、鷹狩に出た田中で病に倒れ、小康状態となった25日に駿府へ帰還した。その後、療養生活に入るが、病状は一進一退をたどりつつも徐々に悪化していった。 3月27日、朝廷から太政大臣に任ぜられ、病を押して任官の勅使と対面した。先述のように家康はかねてより太政大臣の贈位を希望していた。武家出身者の太政大臣としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。これ以後は駿府の相国様と呼ばれる。同月29日、勅使饗応後に駿府に集まった大名・公家衆へ江戸下向・帰洛を命じた。任官後、家康の病状はいよいよ悪化し、4月1日には後述する遺言を遺した。 元和2年(1616年)4月17日巳の刻(現在の午前10時ごろ)、家康は駿府城において75歳(満73歳4か月)で死去した。即夜、久能山に遺体は移された。死去に際して幕府は、大名・旗本に対して家康弔問のための下向は無用と伝え、寺院に対しても後述する遺言で法事を行う増上寺以外の法要は不要である旨を伝達している。 『東照宮御実記』が伝えるところでは、以下の2首を辞世として詠んでいる。
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」 死因については、鯛を榧の油で揚げ、その上にすった韮をふりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日の夕食で、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。替わって主流となっているのは胃癌説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている。 後代、江戸城内にては天ぷらを料理することが禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれた禁忌であるという説明がなされることもあるが、実際には、大奥の侍女の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである。 当時、殉死は彼の子忠吉や秀康の死去時にも行われたように、既に流行の兆しが見えていたが、家康自身は殉死を嫌い禁じていた。このため名のある者の殉死はなかったが、古くから仕えた老齢の小者2人が殉死したという逸話がある。 『本光国師日記』によると、家康は「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」と遺言したとされる。この遺言に従い、葬儀は5月17日に増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗の戒名がつけられた。この葬儀は神として祀られたため内々で行われ、諸大名の参列・香典は無用、僧も近国からのみの参集であった。遺体は駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、遺言通り、一周忌を経て関東平野の最北部にある日光の東照社に分霊された。 神号は側近の天海と崇伝、神龍院梵舜の間で、権現と明神のいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされた。この後、壬生孝亮が二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つを示し、また一説によると菊亭晴季も「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進した。日本大権現が有力候補であったが、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られた。 また、東照社は今川直房と酒井忠勝の尽力により正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下を受け、東照宮となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られた。 以上のように神格化された家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様、神祖、烈祖などとも呼ばれ、諸大名が東照宮を勧請したことにより全国各地に祀られ、江戸時代を通して崇拝された。徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた。 徳川家康の埋葬地としての「墓所」は一般に、久能山東照宮の廟所宝塔(神廟)と、日光東照宮の奥社宝塔の2つとされる。徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は、「徳川家康公顕彰四百年記念事業」に際して静岡商工会議所の広報誌に連載したコラムで、「日本各地で開催された家康公の四百忌の大祭は、駿府で築かれた公の御墓所である久能山東照宮の大祭からスタートし」と書き記した。徳川将軍15人中寛永寺か増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光と徳川慶喜がいる。
久能山東照宮の神廟
日光東照宮の奥社宝塔
徳川家霊台の家康霊屋
大樹寺の家康公墓碑
※天正15年(1587年)8月8日付の「従二位権大納言昇叙転任」の宣旨では豊臣家康の名義でなされた可能性がある。同日付で息子・徳川秀忠も侍従に任官しているが、これは豊臣秀忠名義となっている(「秀忠公任官位記宣旨宣命下書留」(宮内庁書陵部蔵本))。同様に、同年12月28日付の「左近衛大将左馬寮御監両官職兼帯」の宣旨、慶長元年(1595年)5月8日付の正二位内大臣の昇叙転任の宣旨についても豊臣家康の名義であったと考えられる。現存の日光東照宮所蔵の徳川家康の任官叙位の宣旨は、元の宣旨が遺失したため(徳川実紀正保2年5月8日条)、正保2年(1645年)に将軍・徳川家光の要請により朝廷が再発行した文書として伝わっており、この再発行手続きの段階で豊臣から源に変更した可能性がある。 ※天正15年(1587年)12月某日、従一位行左大臣近衛信輔、左近衛大将兼帯を辞す(公卿補任)。同月28日、従二位行権大納言徳川家康、左近衛大将・左馬寮御監を兼帯(日光東照宮文書)。天正16年(1588年)正月13日、従二位行権大納言鷹司信房、左近衛大将兼帯(公卿補任)。これにより、同日までに徳川家康、左近衛大将および左馬寮御監の兼帯を辞すと想定出来る。なお、文禄5年(1596年)5月8日付、家康に対する内大臣宣旨(日光東照宮文書)においては、家康の官位は、正二位行権大納言兼左近衛大将源朝臣家康となっているが、公卿補任では、家康の左近衛大将の兼任記事は無く、権大納言鷹司信房が左近衛大将を兼任している記事となっている。 ※文禄3年(1594年)9月21日付、「文禄三年徳川家康宛豊臣秀吉知行方目録」(三重県関町の関地蔵院文書:四日市市史第8巻史料編近世Ⅰ 四日市市編・発行所収)によれば、宛名(家康)は、「羽柴江戸大納言殿」となっており、この時点では、羽柴の苗字を賜わっていたと考えられる。 さらに、その前年、文禄2年(1593年)5月20日に羽柴姓を使用している。東京国立博物館所蔵文書。 人物2024/11/22 06:58更新
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tokugawa ieyasu
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