市川右太衛門の情報(いちかわうたえもん) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
市川 右太衛門さんについて調べます
■名前・氏名 |
市川右太衛門と関係のある人
御木本伸介: 市川右太衛門特別公演 ご存じ!旗本退屈男「謎のオランダ囃子」(1988年・中座、1990年・地方巡演)- 安藤帯刀 市川百々之助: 1961年(昭和36年)、工藤栄一監督の市川右太衛門・東千代之介のスター映画『八荒流騎隊』での茂兵ヱ役を最後に、映画界を去り事実上引退した。 長谷川一夫: 鴈治郎一座の関西青年歌舞伎には、後に映画界に移る市川百々之助、市川右一(市川右太衛門)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)らがいた。 長谷川一夫: 長谷川には門閥の背景がないため出世の見込みはなく、芝居畑から若い映画界へ飛び込んで行ったのは、阪東妻三郎や市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らとまったく同じ状況だった。 長谷川一夫: 市川右太衛門もこれと同じことを語っている。 近衛十四郎: 大映は既に剣戟四大スター(阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門)を抱えており、近衛の出番はなく、これに加え、フィルム統制により製作本数が激減したことにより多くの俳優が仕事を失うという状況下、近衛は妻・やゑ(女優・水川八重子)と大都映画の退職金2人分を投じ、一座を結成して国内各地を実演興行して回った。 高尾光子: 『明星峠』 : 監督吉野栄作、原作桂川竜三、脚本中川信夫、主演市川右太衛門、市川右太衛門プロダクション - 相手役 高尾光子: 子役から脱皮し、娘役を演じられるようになると、1933年(昭和8年)10月、松竹下加茂撮影所に異動し、時代劇に出演、高田浩吉や市川右太衛門の相手役を演じた。 木村恵吾: 1945年(昭和20年)前半には復員し、波多謙治こと西條照太郎との共同脚本、市川右太衛門主演の映画『紅顏鼓笛隊』で監督として復帰する。 阿部九州男: 大都では、師である市川右太衛門ばりの派手な雰囲気が評価され、海江田譲二、桂章太郎に比肩する人気を勝ち取り、杉山昌三九と並ぶ活躍をした。 田村邦男: すべて製作は「市川右太衛門プロダクション第二部」、配給は「松竹キネマ」である。 中川信夫: 1932年(昭和7年)に市川右太衛門が主宰する市川右太衛門プロダクション(右太プロ)に助監督の身分で移籍し、1934年(昭和9年)『弓矢八幡剣』で監督に昇進した。 月形龍之介: 1925年(大正14年)6月、牧野は東亜キネマから独立してマキノ・プロダクションを設立、月形もそこへ移り、『修羅八荒』『裁かるゝ者』『転落』などに主演、市川右太衛門と「マキノを担う両星」と謳われた。 高田稔: しかし1936年(昭和11年)11月、提携先の新興キネマの経営悪化により首脳陣が松竹系に一新されると同時にスター・プロダクションは解約され、同プロも阪東妻三郎プロダクション、市川右太衛門プロダクション、嵐寛寿郎プロダクションと共に、同年12月の牛原虚彦監督映画『暴風』で主演したのを最後に解散を余儀なくされた。 木俣尭喬: 『血斗水滸伝 怒涛の対決』 : 監督佐々木康、主演市川右太衛門、製作東映京都撮影所、配給東映、1959年8月9日公開 - 「木南兵介」名義で出演・「花会の客秩父の勘蔵」役 角田喜久雄: 『風雲将棋谷』(『講談倶楽部』1938年12月-1939年2月連載) 『風雲将棋谷』 1939年 講談社 - 1955年(「恋天狗」の市川右太衛門、「隠密若衆」の長谷川裕見子ほか出演)、1960年(勝新太郎主演)映画化。 土田早苗: ※市川右太衛門版 阪東妻三郎: 1929年(昭和4年)、松竹は阪妻、林長二郎、月形龍之介、市川右太衛門、阪東寿之助と時代劇ブロックを充実させ、芸術志向の阪妻プロとの時代劇制作方針の相克は溝をますます深める。 浪花千栄子: その後、市川右太衛門、市川百々之助に招かれて帝国キネマにはいり、芸名を浪花 千恵子に変えて、映画出演を続けたが、給与未払いなどもあり映画界から足を洗う。 近衛十四郎: 時代劇に関わる片岡千恵蔵や市川右太衛門、月形龍之介ら大物スターや、内田吐夢、伊藤大輔、田坂具隆、比佐芳武らが専属契約を解除され、松田定次や河野寿一、佐々木康らはテレビに移された。 片岡千恵蔵: 結局マキノに入った千恵蔵も市川右太衛門も嵐寛寿郎も、早くて一年後、遅くとも二年後には独立プロを作っているが、これについて千恵蔵は次のように語っている。 藤田進: 1929年(昭和4年)に南筑中学校(現・久留米市立南筑高等学校)を卒業後上京し大学を受験するも失敗、帰途京都に立ち寄り、市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で古海卓二の助監督を務めていた郷里の先輩を訪ねた際、俳優になるよう勧められる。 北大路欣也: 父の市川右太衛門は死去の1年前に千葉県の老人保健施設に夫妻で入居していた。1999年12月14日の北大路夫妻主催の「お別れ会」に兄夫妻、姉夫妻が参列しない、2001年3月3日に親族が主催した「市川右太衛門を偲ぶ会」では北大路夫妻が参列しないなど兄弟間の不仲が表面化した。 佐々木味津三: 佐々木の代名詞となった作品『旗本退屈男』は、1930年(昭和5年)にこれを読んだ市川右太衛門が気に入って映画化。 片岡千恵蔵: 当時、大映所属の阪東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門とともに「時代劇四大スタア」と呼ばれ、同社第1作の『維新の曲』やその2年後の『かくて神風は吹く』で共演した。 上岡龍太郎: 立川流での芸名は、上岡が大ファンでもある市川右太衛門に因んだ「立川右太衛門」。上方お笑い大賞の大賞を受賞したときの授賞式のプレゼンターとして市川右太衛門が登場した。 田村邦男: 『海内無双』 : 監督滝沢英輔、製作市川右太衛門プロダクション、配給松竹キネマ、1936年1月5日公開 - 岡ツ引壁六 柳さく子: 翌1933年には市川右太衛門プロダクションに招かれ、『いざよひ帳』で右太衛門の相手役小菊を演じるが、この頃から新人飯塚敏子の台頭などもあり、脇に回る機会が多くなる。 牧野省三: その後マキノ・プロダクションを設立し、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、高木新平、月形龍之介、市川右太衛門といったスター俳優や、監督の衣笠貞之助、二川文太郎、井上金太郎、内田吐夢ら、脚本家の寿々喜多呂九平、山上伊太郎らを育て上げた。 嵐寛寿郎: ここには市川寿之助のほか、のちに映画に移る市川百々之助、市川右一(のちの市川右太衛門)、林長丸(のちの長谷川一夫)など将来のライバルたちが同期生所属していて、百々之助、右太衛門、長丸、アラカンの四人が揃って腰元役で舞台を踏んだこともあったという。 |
市川右太衛門の情報まとめ
市川 右太衛門(いちかわ うたえもん)さんの誕生日は1907年2月25日です。香川出身の俳優のようです。
映画、子役、卒業、退社、現在、テレビ、ドラマ、兄弟、母親、脱退、父親に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1999年に亡くなられているようです。
市川右太衛門のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)市川 右太衛門(いちかわ うたえもん、1907年〈明治40年〉2月25日 - 1999年〈平成11年〉9月16日)は、日本の映画俳優。本名:淺井 善之助(あさい ぜんのすけ)。愛称は「右太さん」。次男は俳優の北大路欣也。 戦前・戦後期の時代劇スターとして活躍し、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。映画主演総数は300本を超える。 1907年(明治40年)2月25日、大阪府大阪市西区に生まれる(香川県丸亀市生まれの説もあるが、本人は後述の著書『旗本退屈男まかり通る』でこれを否定している)。祖父が坂出市の旧家の出で、生家は鉄工所を経営していた。 遊芸好きの両親の影響で、5歳のころから日本舞踊上方舞の山村流を習い始める。6歳の時、子役として初代中村扇雀一座に借り出され、『菅原伝授手習鑑』に菅秀才の役で出演して初舞台を踏む。 大阪市立九条東小学校卒業後、上方歌舞伎の第一人者・2代目市川右團次の弟子となり、市川 右一(いちかわ ういち)の名をもらう。のち中村扇雀(2代目鴈治郎)が座頭の関西青年歌舞伎の一員となる(座員はほかに市川百々之助、林長丸(長谷川一夫)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)らがいた)。屋号は「高島屋」で、主役を張って人気を集めた。やがて『勧進帳』の武蔵坊弁慶など大役も任せられるようになったが、門閥出身ではないため出世には限界があった。 1924年(大正13年)、帝国キネマから映画界入りの誘いを受けるが、このときは断っている。 1925年(大正14年)、歌舞伎界の若手俳優を、自ら主宰する映画会社マキノ・プロダクションに迎えようと考えていた牧野省三が右一の評判を聞き、「主演者」として映画入りを誘う。18歳の右一はこれを受け、阪東妻三郎が去った後のマキノ・プロダクション御室撮影所へ入社。名前も市川右太衛門と改名したが、これはそれまでの芸名・右一に五代目中村歌右衛門の名と、右一の師匠の右團次の名を合わせて、牧野が命名した。 同年12月25日に公開された『黒髪地獄』(沼田紅緑監督)の主演で映画デビュー。翌1926年(大正15年)にかけて、沼田監督の『快傑夜叉王』『孔雀の光』などに主演。阪東妻三郎に次ぐ人気俳優となり、月形龍之介と合わせて「マキノを担う両星」と謳われた。 1927年(昭和2年)2月、デビュー以来13本の作品でコンビを組んできた沼田紅緑監督の早世や、スターたちの独立プロ設立が連続したことなどもあって、マキノプロを退社し、4月に笹川良一の支援で市川右太衛門プロダクション(通称:右太プロ)を設立して独立。同時に奈良県生駒郡伏見村(現在の奈良市あやめ池北1丁目)にあるあやめ池遊園地内に撮影所を建設した。 1928年(昭和3年)からは東亜キネマから配給提携先を松竹キネマに変え、翌1929年(昭和4年)には伊藤大輔監督の『一殺多生剣』などを送り出す。華麗な衣装、颯爽とした美剣士を演じたこの『一殺多生剣』や『東海の顔役』は初期の代表作と呼ばれている。翌1930年(昭和5年)、『旗本退屈男』で初めて早乙女主水之介役を演じ、右太プロ内で7本の続編を製作した。後、このシリーズは30数年に及ぶ人気シリーズとなった。 1932年(昭和7年)、松竹のトーキー映画『忠臣蔵』に2役で出演。この頃は映画界がサイレントからトーキーに移行したときであり、多くのスターたちがトーキー発声に苦戦する中、「セリフとともの演技」を無事演じてみせ映画は成功、この転換期を乗り切った。 1936年(昭和11年)、製作規模が拡大していく本格的なトーキー時代に入って、独立プロでは製作困難となり、右太プロは松竹へ吸収合併、あやめ池の撮影所は閉鎖した。右太衛門は松竹太秦撮影所に入社し、『旗本退屈男』シリーズでは初のトーキー作品となる『富士に立つ退屈男』などに主演した。 1937年(昭和12年)、新興キネマ京都太秦撮影所に移籍、看板俳優として『国姓爺合戦』『大村益次郎』などの大作に主演したほか、同社でも『旗本退屈男』シリーズの一本『宝の山に入る退屈男』に主演した。しかし、この作品で一旦『旗本退屈男』シリーズが打ち止めとなる。軍当局から「非常時にふさわしくない」との横槍が入ったためだった。『退屈男』を禁じられた右太衛門は『無法松の一生』の映画化に執心していたが、この配役は当初から阪東妻三郎に決まっていたため、稲垣浩監督が説得して断念させた。稲垣は代わる主演作として、以前から右太衛門のためにと構想していた山本有三の『不惜身命』を会社側に推し、情報局からも協力を得た。ところが「原作者の山本が社会主義者である」との理由で、ここでも軍部から横槍が入り、企画は頓挫を余儀なくされた。稲垣は「製作していたら『無法松』以上の作品が作れたろう」と惜しんでいる。 1942年(昭和17年)、戦時統合により、新興キネマは日活、大都映画と合併して大映に改組した。右太衛門はこれにより大映に移籍し、終戦までに8本の時代劇映画に出演した。 戦後、GHQの占領政策によりチャンバラ映画の製作が規制されたため、他の時代劇スターと同様、現代劇にも出演するようになった。 1949年(昭和24年)秋、大映を退社し、東横映画に移籍する。翌1950年(昭和25年)、『旗本退屈男捕物控 毒殺魔殿』で、『旗本退屈男』シリーズが復活する。 1951年(昭和26年)、本格的な時代劇製作解禁の時代となり、東横が改組して東映が設立される。右太衛門は東映創立に参加し、片岡千恵蔵と共に重役(千恵蔵=植木取締役、右太衛門=浅井取締役)兼任のスターとなり、興行価値の高い主演映画を多数製作した。右太衛門は北大路に住んでいたことから「北大路の御大」と呼ばれた(一方の千恵蔵は山の手(嵯峨野、『旗本退屈男まかり通る』では「太秦の高台」と表現されている)に住んでいたことから「山の御大」と呼ばれていた)。 東映の2本立て興行体制もあって、東映入社以来1963年(昭和38年)までの12年間、年平均9作のペースで右太衛門主演の時代劇が作られた。東映でも『旗本退屈男』シリーズが18本製作され、主演300本記念映画も『旗本退屈男』だった。ほか、『大名』シリーズ、『赤穂浪士』(1956年)の大石内蔵助役などでも活躍した。この頃、同時代に活躍した時代劇スター達は、脇役に転身していったが、右太衛門はあくまでも主役にこだわり続けていた。 時代劇映画が斜陽化していった1960年代、東映も任侠映画路線に変更を図る中、右太衛門の映画出演も1964年(昭和39年)の『忍び大名』(『大名』シリーズの一作)を最後に途絶え、東映歌舞伎等の舞台に活路を見出すようになる。 同年、『徳川家康』(NET製作)でテレビドラマに初主演。ほか、1973年(昭和48年)の『旗本退屈男』で早乙女主水之介を演じたり、次男・北大路欣也主演の時代劇に特別出演したが、テレビドラマは「せわしない」とあまり好んでいなかったため、数本しか出演していない。 1966年(昭和41年)、東映から「取締役から相談役に退いて欲しい」という打診を受け、「時代も変わった。これ以上ここにいれば(北大路)欣也を縛り付ける事にもなりかねない」と考え、東映を退社。退社後は京都を引き払い、東京一番町のマンションに居を移し、舞台を中心に活躍。齢80を過ぎてもなお主役を張り続けた。 1972年(昭和47年)に紫綬褒章を、1979年(昭和54年)には勲四等旭日小綬章をそれぞれ受章。 1986年(昭和61年)の歌舞伎座俳優祭では、かねてから同音のよしみで親交のあった六代目中村歌右衛門が、たっての願いで女・旗本退屈男に扮し、右太衛門の扮する退屈男との競演を実現した。またこの年、息子の北大路欣也とも『旗本退屈男』で共演、欣也は若かりし退屈男、右太衛門は壮年の退屈男に扮した。 1999年(平成11年)9月16日、老衰のため死去。92歳没。死去の1年前に千葉県の老人保健施設に夫妻で入居していたが、その経緯や施設での生活が明るみに出るに従い、息子の北大路は自身の兄弟、マスメディア、俳優仲間などから批判を受けることとなった。なお、2001年の暮れにその北大路は女性誌の記事で、施設入所は足が不自由になった市川の妻とでは2人暮らしに無理が出て、高齢の家政婦には介護までは任せられない中で、兄や姉とも話し合って決めたことだと反論している。 東映を退社したあとは東京へ移ったが、京都に次男の北大路欣也を残してきたことについて訊かれた際には、目を細めて「可愛い子には旅をさせろですなあ」と笑っている。 「百歳になっても退屈男を演りたい」と公言、80歳を超えても一日1〜2時間の散歩は欠かさず、1か月に一度は皇居1周のジョギングを行うなど鍛錬を怠らず、歯も入れ歯は無くすべて自前であった。 主演のこだわりについて『雪之丞変化』のテレビドラマ企画が上がった際に、右太衛門に脇役を想定したオファーをかけたところ、本人は主役依頼と心得て「ああ、もう雪之丞は(年齢的に)無理です!」と答え、スタッフもそれ以上は無理押しできなかったというエピソードを、右太衛門の熱烈ファンである上岡龍太郎が語っている。 また、映画評論家の田山力哉は初老期の右太衛門に主演企画の相談を受けた際、ジャン・ギャバンの『ヘッドライト』を翻案するプランを示したが、「私は白塗りでバカ笑いしてないとサマにならない大根でしてね」とかわされたという。 右太衛門がマキノ省三の「マキノ・プロダクション」に誘われ、映画界入りしたのは1925年だが、前年の1924年にも帝国キネマから誘いを受けていて、これを断っている。このいきさつについて、次のように語っている。 主演を張っていても梨園の御曹司ではない右太衛門にしてみれば先を読んだところもあり、高額の出演料も魅力だった。が、母親は「舞台で主演させてもらってるのに、どうして活動写真なんか行くの」、「活動写真に行くと、みんな(照明で)眼を悪くして、中には眼をつぶす人もいるというではないの」と、最後までカツドウ入りを反対していたという。当時映画界に転じた役者は「板から泥に下りた」と軽んじられる風潮があった。しかしこの頃は、市川猿之助がマキノに誘われ『日輪』、『天一坊と伊賀亮』を撮り、澤田正二郎が新国劇一党を率いて『月形半平太』、『恩讐の彼方に』に出演するという時勢でもあった。19歳の右太衛門はこの時代の転換期にいち早く身を投じた一人だったのである。 右太衛門は尾上松之助以来の歌舞伎・所作の美しさを若々しく、流麗にテンポアップしてみせ、千恵蔵や嵐長三郎らとともに「マキノ黄金時代」を創った。マキノ雅弘は右太衛門の殺陣について、「初めからうまかった。踊りがうまかったんですね。狭い部屋の立ち回りなんか、彼が一番うまかったんじゃないかな」、「立ち回りがうまい、ちゅうよりカッコがよかったですね。その(華麗である)かわり、リアルさがない」と述べている。 右太衛門の編み出した「諸羽流青眼くずし」の型は、狭い室内での立ち回りも考慮したものだった。『旗本退屈男』の第一作は室内の立ち回りであり、右太衛門はその狭い空間を自由自在に踊ってみせる。隣の部屋に移っていくとき、わずかに膝を開くと切先は実に1センチの間合いで鴨居をすり抜けていくのである。目線そのまま、次の殺陣に備えて諸羽流青眼くずし、“所作事”の約束でいうなら「道行き」、「踊り地」、「ちらし」と“序破急”のテンポを踏んで、颯爽と闊達に立ち回った。 映画デビュー作である『黒髪地獄』の浪人役の立ち回りはかなり派手なものだった。この映画では、舞台時代の右太衛門を知っている人が殺陣師に付いて、右太衛門本人いわく「手数の多い立ち回り」を見せたのだという。当時の活動写真では普通、十手くらいだった動きを、これがデビューの右太衛門は同じ時間内にその倍の二十手動いてみせた。 1927年6月、右太衛門はマキノプロを脱退して右太プロを設立する。このマキノ脱退のいきさつについて、右太衛門は次のように語っている。 マキノ省三監督が右太衛門入社の際に口約束で「一万円のボーナスをやる」と言ったのは事実なのだが、「映画はスタア一人だけで出来るものではない」とのマキノの持論からすると、右太衛門だけでなく全従業員にも一万円のボーナスを弾まないわけにいかず、これでは個人経営のマキノプロは潰れてしまう。マキノ雅弘はこのことについて「言訳ではあるが」と前置きしながら、「その意味ではこれは失言であり、破約でもあった」と語っている。 また「三年契約すれば五万円無条件で前渡しする」との言は確かで、「映画は契約の世界だから、それは当然のことなのだ。『約束のボーナス』は契約ではなかったことも確認すべき事柄なのだ」とも語っている。 20歳で「右太プロ」を立ち上げた右太衛門だが、若い監督たちに思想色の強いものをかなり持ちこまれ、自身も若かったので、いささか押され気味だったという。「若い監督というのは、いつの時代でも同じですなあ」と語っている。 戦時中は『大村益次郎』(森一生監督)、戦後チャンバラが禁止された時代には『ジルバの鉄』(小杉勇監督)で、右太衛門は舶来のリズムを踊って見せている。 右太衛門の代表的キャラクターである早乙女主水之介が活躍する『旗本退屈男』シリーズは、1930年の『旗本退屈男』を皮切りに戦後まで通算30本製作された。日本映画で同じ俳優が同じ役を33年間主演した例は他にない。 右太衛門によると、右太プロを設立し、「映画というものは、結局は大衆娯楽である」というふうに考えがまとまって来た頃、佐々木味津三の『旗本退屈男』を読んだところ、「これは面白いと思ったですよ」と、思わず膝を打ったという。早速、これを映画化した右太衛門は、この天衣無縫の主人公について、次のように語っている。 「早乙女主水之介」の必殺技「諸羽流青眼くずし」は、右太衛門本人の考案したものである。様々な角度から見てもらえる舞台と違って、映画の場合はアングルが限られ、クローズ・アップになったときに刀が写っていなくてはしようがない。このため、左手前に構えるという、独特の構えを考えたのだという。大歌舞伎の大名代の芝居をたくさん見てきた、舞台出身の右太衛門ならではの強みだった。右太衛門はトーキーでの発声についても、次のように語っている。 退屈男の主人公、「早乙女主水之介」は額の三日月傷、派手派手の衣装が有名で、ことに衣装は作る毎にエスカレートしていった。 一本の映画で衣装が12、3着用意され、これらは東映映画村に保存されている。全て新品を誂え、同じものを着たことは一度もない。主人公一人の衣装代が全衣装代の8割を占めていたという。 1966年ごろ、柳家小さんが音頭取り(家老)となって、「三日月党」という右太衛門の後援会が結成された。これは稲垣浩によると、「右太衛門を『殿様』と祭り上げ、各界の著名人・芸人が集まって時間や新聞、テレビを忘れて飲んで歌い、新作芸や隠し芸を披露するという全く意味のない会」で、興津要が立てた党の規約は「いったん入党したものは死ぬまで脱党は許さず」というものだった。 会費は集まりごとに消化して、運営費などは無かったが、一度税務署が政治団体かネズミ講と間違えて党の内情を調べに来て、この規約を聞かされて呆れて帰ったという。この会は10年を超す定例となり、稲垣はその理由として「旗本退屈男を中心とした仕掛け人のうまさと、殿におさまる右太さんの人間的なおおらかさだったと思う」と語っている。大映で『不惜身命』を撮りそこねた稲垣は、のちにテレビで右太衛門の『旗本退屈男』を二話撮っているが、そのきっかけは「三日月党」党員だったことからだった。 1956年:ブルーリボン賞大衆賞 1961年:牧野省三賞 1972年:紫綬褒章 1979年:勲四等旭日小綬章 1994年:日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞 1995年:第18回日本アカデミー賞会長特別賞 2000年:エランドール賞特別賞(没後) 2000年:第23回日本アカデミー賞会長特別賞(没後) 黒髪地獄(1925年、マキノ) - 吾妻半三郎 快傑夜叉王(1926年、マキノ) - 木曽冠者夜叉王 孔雀の光(1926年、マキノ) - 藤島求馬、堺町中納言
第二篇(1926年) 第三篇(1926年) 赤城山颪(1926年、マキノ) 鳴門秘帖(マキノ) - 法月弦之丞
第二篇(1926年) 第三篇(1927年) 怒苦呂(1927年、右太プロ) 淨魂(1927年、右太プロ) - 関口春之亟 影法師捕物帖(1927年、右太プロ) 野良犬(1949年、右太プロ) 一殺多生剣(1929年、右太プロ) - 緒形十兵衛 股旅草鞋(1929年、右太プロ) 髪(1929年、右太プロ) 旗本退屈男シリーズ - 早乙女主水之介
京へ上がった退屈男(1930年) 仙台に現はれた退屈男(1931年) 江戸へ帰った退屈男(1931年) 爆走する退屈男(1933年) 中仙道を行く退屈男(1935年) 中仙道を行く退屈男 後篇十万石を裁く退屈男(1935年) 松竹太秦版
新興キネマ版
東横版
旗本退屈男捕物控 毒殺魔殿(1950年) 東映版
旗本退屈男 江戸城罷り通る(1952年、松竹) 旗本退屈男 八百八町罷り通る(1953年) 旗本退屈男 どくろ屋敷(1954年) 旗本退屈男 謎の百万両(1954年) 旗本退屈男 謎の怪人屋敷(1954年) 旗本退屈男 謎の伏魔殿(1955年) 旗本退屈男 謎の決闘状(1955年) 旗本退屈男 謎の幽霊船(1956年) 旗本退屈男 謎の紅蓮塔(1957年) 旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷(1957年) 旗本退屈男(1958年)※主演300本記念映画 旗本退屈男 謎の南蛮太鼓(1959年) 旗本退屈男 謎の大文字(1959年) 旗本退屈男 謎の幽霊島(1960年) 旗本退屈男 謎の暗殺隊(1960年) 旗本退屈男 謎の七色御殿(1961年) 旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷(1962年) 旗本退屈男 謎の龍神岬(1963年) 戦線街(1930年、右太プロ) 元禄女(1932年、右太プロ) 忠臣蔵(1932年、松竹) - 脇坂淡路守、垣見五郎兵衛 天一坊と伊賀亮(1933年、松竹) - 山内伊賀亮 千石鶉(1934年、右太プロ) 東海の顔役(1935年、右太プロ) - 清水次郎長 悪太郎獅子(1936年、右太プロ) - 伝吉 祐天吉松(1937年、新興キネマ) 薩摩飛脚(1938年、新興キネマ) - 神谷金三郎 錦絵江戸姿旗本と町奴(1939年、新興キネマ) 元禄忠臣蔵 前篇(1941年、松竹) - 徳川綱豊 大村益次郎(1942年、大映) - 大村益次郎 維新の曲(1942年、大映) - 桂小五郎 菊池千本槍(1944年、大映) お夏清十郎(1946年、大映) 槍をどり五十三次(1946年、大映) 大江戸七変化(1949年、大映) - 大岡越前守 にっぽんGメン 難船崎の血闘(1950年、東横) - 重藤亘 殺陣師段平(1950年、東横) - 沢田正二郎 千石纏(1950年、東横) - 不動山宗吉 大江戸五人男(1950年、松竹) - 水野十郎左衛門 お艶殺し(1951年、東横) 乞食大将(1952年〈製作は1945年〉、大映)- 後藤又兵衛 月形半平太(1952年、松竹) - 月形半平太 水戸黄門漫遊記シリーズ(東映) - 水戸黄門、立花甚左衛門
水戸黄門漫遊記 伏魔殿の妖賊(1952年) 花吹雪男祭り(1952年、東映) 決戦高田の馬場(1952年、東映) - 中山安兵衛 流賊黒馬隊シリーズ(東映) - 天龍左源太
流賊黒馬隊 月下の対決(1953年) 女難街道(1953年、東映) 素浪人奉行(1953年、東映) - 神尾左近、遠山左衛門尉 大名シリーズ(東映)
やくざ大名(1956年) - 松平五郎丸、大名五郎蔵 あばれ大名(1959年) - 前田慶次郎 あらくれ大名(1960年) - 松平直次郎忠康 鉄火大名(1961年) - 後藤又兵衛基次 忍び大名(1964年) - 石川寅次郎 阿修羅四天王(1955年、東映) 牢獄の花嫁(1955年、東映) 薩摩飛脚(1955年、東映) - 神谷金三郎 虚無僧系図(1955年、東映) 父子鷹(1956年、東映) 赤穂浪士 天の巻・地の巻(1956年、東映) - 大石内蔵助 新春オールスター映画(東映)
任侠東海道(1958年) - 吉良の仁吉 任侠中仙道(1960年) - 国定忠治 富士に立つ影(1957年、東映) 股旅男八景 殿さま鴉(1957年、東映) - 殿さま松五郎 水戸黄門(1957年、東映) - 関根弥次郎 千両獅子(1958年、東映) 修羅八荒(1958年、東映)- 浅香恵之介 忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻(1959年、東映) - 脇坂淡路守 血斗水滸伝_怒涛の対決(1959年、東映) - 笹川繁蔵 天下の伊賀越 暁の血戦(1959年、東映) - 荒木又右衛門 浪人市場 朝やけ天狗(1960年、東映)- 山川忠介 水戸黄門(1960年、東映) - 紀伊大納言光貞 大岡政談 魔像篇(1960年、東映) - 大岡越前守、魚心堂 赤穂浪士(1961年、東映) - 千坂兵部 権九郎旅日記(1961年、東映)- 杉本権九郎 きさらぎ無双剣(1962年、東映)- 竜胆月之介 新撰組血風録 近藤勇(1963年、東映) - 近藤勇 ちゃんばらグラフィティー 斬る!(1981年、東映) ※出演場面の抜粋 旗本退屈男(1973年、NET) - 早乙女主水之介 新春ワイド時代劇(TX)
宮本武蔵(1990年) - 池田輝政 風雲!真田幸村(1989年、TX) - 島津義弘(特別出演) 月曜ドラマスペシャル / 北大路欣也 芸能生活35周年記念「忠治旅日記 悪代官をたたっ斬り 無宿渡世の旅に出た 激烈!青年国定忠治」(1992年、TBS) - 大前田英五郎 ダイア建設(北大路欣也と共演) 『主水之介行状記 : 役者人生まっしぐら 天下御免の向こう傷』みみずくぷれす、1986年11月1日。 『旗本退屈男まかり通る』 「この道」シリーズ(東京新聞出版局、1992年) ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、116頁。 ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版) ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊) ^ 『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘伝』(マキノ雅弘、平凡社) ^ 同年5月、同撮影所の跡地で右太衛門の実兄・山口天龍が全勝キネマを設立、撮影所を復活、映画の量産を始めたが、右太衛門は全勝の作品には出演していない ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩著、毎日新聞社刊) ^ 日刊ゲンダイ「北大路欣也 父・右太衛門の老人ホーム入居騒動」2014年5月9日 ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』市川右太衛門インタビュー「“退屈”知らずの大らか人生」(サンケイ出版) ^ 『日本映画俳優全史』(現代教養文庫) ^ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より ^ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』市川右太衛門インタビュー「“退屈”知らずの大らか人生」(サンケイ出版)より ^ 当時三条で有名な侠客だった、京都千本組の荒虎三左衛門親分のこと。マキノ省三の妻知世子の父親虎之助とは兄弟分であり、マキノ・プロの後見人を務めていた。 ^ 『日本映画の父 マキノ省三傳』(桑野桃華、マキノ省三傳發行事務所) 市川右太衛門 - 日本映画データベース 市川右太衛門 - KINENOTE 市川右太衛門 - allcinema 市川右太衛門 - テレビドラマデータベース Utaemon Ichikawa - IMDb(英語) 市川右太衛門 - NHK人物録 ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data アメリカ 日本 歌舞伎役者 日本の男優 日本の映画プロデューサー 剣戟俳優 サイレント映画の俳優 紫綬褒章受章者 勲四等旭日小綬章受章者 市川右太衛門プロダクションの人物 マキノ・プロダクションの俳優 松竹の俳優 戦前の松竹の俳優 新興キネマの俳優 大映の俳優 東映の俳優 東映時代劇 私の履歴書の登場人物 大阪市出身の人物 1907年生 1999年没 Pages using the JsonConfig extension 外部リンクがリンク切れになっている記事/2023年9月 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにあるallcinema人物識別子 ウィキデータと異なるNHK人物録ID ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/21 14:47更新
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