中川信夫の情報(なかがわのぶお) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
中川 信夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
中川信夫と関係のある人
萩原章: 第二次世界大戦後は、東宝の反組合派の新東宝に参加、佐伯清、中川信夫の助監督をする。その後1950年(昭和25年)、京都の高村正次の「新光映画」で、中川信夫監督の『当り矢金八捕物帖 千里の虎』の脚本を佐伯清と共同で執筆した。 本郷秀雄: 『旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷』 : 監督中川信夫、1962年1月23日公開 - 清兵衛 浅野進治郎: 『女左膳 第二篇魔剣の巻』 : 監督中川信夫・マキノ正博、1937年2月28日公開 - 迷々亭迷雪 古川卓巳: 西本正、山田宏一、山根貞男『香港への道 中川信夫からブルース・リーへ』筑摩書房、2004年、159頁。 蔵忠芳: コメットさん 1967年 - 1968年 脚本佐々木守、市川森一、宮内婦貴子ほか、監督山際永三、中川信夫、香月敏郎ほか、主演九重佑三子 ※国際放映・TBS、TBS系(ブラザー劇場) 市川小文治: 『金さん捕物帖 謎の人形師』 : 監督中川信夫、1953年 林寛: 『東海道四谷怪談』 : 監督中川信夫 - 伊藤喜兵衛 舛田利雄: 中川信夫、井上梅次といった監督の下で助監督として働きながら、自分でもシナリオを書く。 本郷秀雄: 『稲妻峠の決闘』 : 監督中川信夫、1962年10月27日公開 - 売らずの権次 今井正: 石田民三監督の『花火の街』でチーフ助監督につき、中川信夫監督の『日本一の岡ッ引』ではスクリプターを担当、ほか志波西果、並木鏡太郎、渡辺邦男監督に1作ずつ助監督についた。 林寛: 『阿修羅三剣士』 : 監督中川信夫 - 大丸屋嘉平 林寛: 『「粘土のお面」より かあちゃん』 : 監督中川信夫 - 池戸さん 大倉千代子: 『恥を知る者』 : 監督中川信夫、製作市川右太衛門プロダクション、配給松竹キネマ、1935年6月6日公開 - 雪姫 松浦総三: KCIAの対日マスコミ工作 その実態と実例 中川信夫共編 晩聲社 1978.8 如月寛多: 『金さん捕物帖 謎の人形師』 : 東宝、中川信夫監督 林寛: 『地獄』 : 監督中川信夫 - 清水剛造 土屋啓之助: 『天下の副将軍 水戸漫遊記』(中川信夫監督)の脚本を担当。 森山周一郎: 舞台出身であったことからNGを出すことはほとんどなく、中川信夫などの監督らに気に入られていた。 丘さとみ: 紀州の暴れん坊(監督:中川信夫) 山田宏一: 『香港への道 中川信夫からブルース・リーへ』 西本正、山根貞男と聞き手、筑摩書房 リュミエール叢書 2004 浅野進治郎: 『旗本八萬騎』 : 監督中川信夫、1937年1月31日公開 - 松平帯刀 小森白: 1962年(昭和37年)、富士映画の後身、大蔵映画で『太平洋戦争と姫ゆり部隊』を監督、翌1963年(昭和38年)には、グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』をヒントに、アーカイヴ・フッテージで構成した『日本残酷物語』を中川信夫らと共同監督し、新東宝興業(現在の新東宝映画)が配給した。 如月寛多: 『エノケンの誉れの土俵入』 : 東宝、中川信夫監督 - 雨の音 浅野進治郎: 『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』 : 監督中川信夫、製作・配給新東宝、1955年11月29日公開 - 民之助 佐伯秀男: 『続 雷電』 : 総指揮大蔵貢、監督中川信夫、原作尾崎士郎、脚本杉本彰・中川信夫、主演宇津井健、製作・配給新東宝、1959年11月28日公開(映倫番号 不明) - 出演・「小野川」役、81分の上映用プリントをNFCが所蔵 神波史男: 怪談 蛇女 (1968年)※中川信夫との共作 原駒子: 『女左膳』 : 監督中川信夫・マキノ正博、マキノトーキー製作所、1937年 近藤正臣: 妖艶毒婦伝・人斬りお勝(監督:中川信夫、1969年) 萩原章: 『当り矢金八捕物帖 千里の虎』 : 製作高村正次、監督中川信夫、共同脚本佐伯清、撮影河崎喜久三、音楽高橋半、出演嵐寛寿郎、宮城千賀子、徳川夢声、上田吉二郎、沢村国太郎、左卜全、香川良介 ※東京映画配給配給 松山英夫: 満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた。やがて同社は経営が悪化し、1937年(昭和12年)4月に解散することになり、従業員のための退職金は、中川信夫を監督として製作した『旗本五人男 大江戸の鳶』の配給権を松山が東京に行って売却して用立てた。 |
中川信夫の情報まとめ
中川 信夫(なかがわ のぶお)さんの誕生日は1905年4月18日です。京都出身の映画監督のようです。
映画、卒業、現在、結婚、テレビ、ドラマ、家族、父親、兄弟に関する情報もありますね。1984年に亡くなられているようです。
中川信夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)は、日本の映画監督。元素人映画評論家。 怪談映画の名手として知られる。 1905年(明治38年)4月18日、京都市洛西の嵯峨二尊院門前町に生まれる。父・中川竹次郎は嵐山の料理旅館「嵐峡館」のシン(板前の主任)、母・ソノは同旅館の仲居頭だった。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)卒業。文学者になることを目指し同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思いその道をあきらめ、映画の道に進む。 キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。この時代には山上伊太郎、伊丹万作、小津安二郎らに強い影響を受けた。 1930年(昭和5年)8月、世界大恐慌による不景気によりマキノ撮影所が給料遅配になり争議に突入すると、従業員側の記録係をつとめた。同年12月にマキノが製作を一時中断した後は無職で1年間過ごし、その時間をシナリオ執筆に費やした他、1931年には神戸市三宮の生田筋に喫茶店「カラス」を開業している。 1932年(昭和7年)に市川右太衛門が主宰する市川右太衛門プロダクション(右太プロ)に助監督の身分で移籍し、1934年(昭和9年)『弓矢八幡剣』で監督に昇進した。この作品は昇進試験として監督したもので、実質的なデビュー作は1935年(昭和10年)の『東海の顔役』である。 1936年(昭和11年)に右太プロが松竹に吸収合併された後は、マキノ・トーキーを経て1938年(昭和13年)に東宝に移籍した。時代劇やエノケン(榎本健一)主演作を主に監督したが、戦時期の映画製作本数の減少で、1941年(昭和16年)に東宝を契約解除となる。同年松竹京都撮影所製作部長の渾大坊五郎に招かれて同撮影所に移籍するが、間もなく松竹京都撮影所は製作体制を縮小して松竹大船撮影所に合併されることとなる。生活のために助監督をする覚悟で上京して大船に赴くが、不調に終わる。翌1942年(昭和17年)、中国に渡り、中華電影で日中戦争の記録映画『浙漢鉄道建設』を監督した。途中結婚のための帰国を挟んで2年間撮影が続けられるが、映画は完成することなく終戦を迎えて『浙漢鉄道建設』のフィルムは焼却された。 1946年(昭和21年)、上海から帰国。同年、池田富保が設立した大同映画に入社するが、仕事はほとんどなく生活に困窮する。戦後、映画界に復帰する前から、詩の同人誌に参加していた。11月、神港夕刊新聞社が主催した「新憲法公布記念文芸」の詩編部門で応募作『地ならし』が一等入選となり、知事賞を得る。 1947年(昭和22年)2月、県が日本国憲法公布を記念して募集した「兵庫県民歌」で応募作品が佳作に入賞する。この年、中華電影時代に親交を持った筈見恒夫と京都で偶然再会。当時新東宝のプロデューサーだった筈見の勧めで新東宝に移籍して、1948年(昭和23年)の『馬車物語』で映画監督に復帰した。同社が大蔵貢のワンマン体制に移行した後も同社で大蔵プロデュースの作品を量産し、1957年(昭和32年)の『怪談かさねが渕』以降は同社の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けた。 1961年(昭和36年)に新東宝が倒産した後は、東映京都撮影所、国際放映と専属契約した後、1966年(昭和41年)にフリーとなる。東映東京撮影所製作の『妖艶毒婦伝 お勝兇状旅』(1969年)を最後に映画から離れ、テレビドラマの監督を経て1979年に第一線から離れる。 1977年(昭和52年)から1982年(昭和57年)まで神奈川県芸術祭演劇脚本コンクールに自作脚本6本を応募、いずれも入賞している。1982年、磯田事務所とATGの提携作品『怪異談 生きてゐる小平次』で、13年ぶりに映画監督に復帰(製作は1981年)。同1982年、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。 1984年(昭和59年)にはイタリアのペサロ映画祭で代表作『東海道四谷怪談』などが上映されることになり招待状を受け取るが、同年1月10日風邪から脊髄炎、更に3月には脳梗塞を発症し意識不明に陥ったため、映画祭への出席はかなわなかった。 1984年(昭和59年)6月17日、心不全のため死去。満79歳没。戒名は竟至院映道日信居士、墓所は神奈川県愛甲郡の相模霊園メモリアルパークである。1985年(昭和60年)6月21日、一周忌を記念して新宿胡坐楼で開催された「中川信夫カントクを偲ぶ会」が参加者の総意で毎年開かれることになり、1987年(昭和62年)以降は忌名を「酒豆忌」として現在に至っている。 「怪談映画の巨匠」と呼ばれることが多いが、いつごろからこの称号がついたのかは不明である。映画評論家の佐藤重臣は映画評論1959年8月号掲載の『東海道四谷怪談』作品評において「中川信夫のお化け映画は、ひとつの定評のあることを聞き伝えに知ってはいた」と書いており、おそらくこの頃には既にお化け映画の名手などと呼ばれていたのではないかと思われる。キネマ旬報1974年10月下旬号に中川自らが寄稿した『怪奇映画問答』では、新東宝時代に製作した怪奇映画について「まァまァという出来だと思いましたら、フタを開けてみますと世評が割に良く、(中略)オーバーに申せば伝説的にまで持ち上げる人もあり、今日に至った」と、怪談映画の巨匠と持ち上げられることに戸惑いを覚えたと書いている。生誕102年を記念して2007年に製作・放映されたドキュメンタリー『映画と酒と豆腐と~中川信夫、監督として 人間として~』(CS日本映画専門チャンネル、2007年7月2日初回放映)冒頭のナレーションは「(中川が監督した)怪談・恐怖映画は、全97作品中8作品しかない」と語り、番組全体も、怪奇映画のみが突出して語られることの多い中川信夫が、実は多種多様な作品を残した監督であることを強調し、「怪談映画の巨匠」の面だけが強調されることを避けるような構成になっている。1974年に『怪談軒凝斎』という怪談映画を作る自身の心境を託した詩を書いたのをきっかけに、以後たびたびこの名前を自身の号として名乗っていた。自宅の玄関前に『業流怪談軒凝斎道場』という看板を出していた時期もある。 生活に困窮した若き日のことや、家族のこと、友のこと、人が生きることなどに思いを馳せた詩を書き綴り、1981年にそれらをまとめて『業』というタイトルをつけた詩集を出版した。生前の中川信夫と親しく接した脚本家の桂千穂は、欲望などおのれの業の深さから逃れ得ない人間の悲喜劇こそ中川映画のテーマであると語り、「生活の辛酸を嘗めつくし人生修羅の深淵を見極めた末に、一種の諦めに到達した」とその姿勢を表現している。 酒豪としても知られた。酔うと気に入った相手の頭を「お前、いい奴だな」といってぽんぽん叩くのが癖で、撮影所そばの飲み屋にスタッフと繰り出した際も平気で人の頭を叩き、一緒になって遊んだという。同人誌時代にカフェーで酒の味を覚えたというが、頻繁に飲むようになったのは右太プロ時代からである。もともとは市川右太衛門を演出するプレッシャーと、自作の脚本をなかなか映画化させてもらえない不満から酒量が増えていったと中川本人は自叙伝の中で語り、右太プロ以来終生の友となった映画評論家の滝沢一は、右太プロの女優・有島鏡子に失恋したことが、中川の自暴自棄な飲酒に拍車をかけていったと語っている。また、酔うと近所に住む映画人の表札をはがして回るという酒乱でもあり、伊丹万作・三村伸太郎・嵐寛寿郎などがその被害にあった。マキノ・トーキー移籍後から監督業が軌道に乗ったこともあって精神的にも安定したが、以後も酒を手放すことはなく、豆腐を肴に日本酒を飲むことを終生愛した。長男の中川信吉は「1年のうち豆腐は365日片時も欠かさなかった」と語っている。葬式の時には酒屋と豆腐屋が香典を持って現れたという。なお酒豆忌の忌名は、この生前の好物にちなんでいる。 中川信吉は、少年時代にそうした父の姿を見て「成人しても酒は飲むまい」と心に誓っていたが、20歳の誕生日に茶の間に父親から日本酒一升瓶のプレゼントが置いてあり、以後中川が死ぬまで毎日の晩酌につきあうこととなった。一週間禁酒をした時には「何故そんな馬鹿なことをするんだよ、いいから飲もう」と中川に毎日説得されてまいったと語っている。 下駄ばきで腰に手ぬぐいをぶら下げ、頭には登山帽をかぶるのをトレードマークにしていた。その姿について『東海道四谷怪談』などに主演した若杉嘉津子は、初対面の第一印象を「ええ、あれが先生(映画監督)なの。何か(撮影所に出入りの)電気屋のおじさんみたい」だったと語り、『思春の泉』などの助監督をつとめた瀬川昌治は「どこの小学校の先生かっていう風貌だった」と回想している。 俳優を演出する時は「さり気なく演技して下さい」が口癖だった。若杉嘉津子は、中川の演出を「気持ちから入って演出する人」と語り、沼田曜一は「何も言わないから(監督が何を考えてるか)こっちも考えちゃう。でも出来ないと、カメラを引いてしまう、それが怖かった」と証言している。中川がさり気ない演技を注文するようになった理由について、滝沢一は、大芝居をやる市川右太衛門の演技を抑える工夫から出たものだと語っている。役者に対するこだわりは無く、「誰でもいい」という姿勢で、「中川好みの役者」という者はいなかった。その中でも沼田曜一は話がよく合い、気に入っていた一人だったという。社内でも、誰とでも分け隔てなく付き合う中川に対しては全員が協力的だった。 自作について「(他の監督が断る)変なもんはすぐ僕のところへ来る」作品をこなし続けた「裏街道人生」と表現していたが、新東宝時代にはカメラマンの西本正や美術監督の黒澤治安など優秀なスタッフの協力を得て、次々と実験的な演出に挑戦した。『雷電』では2分半におよぶワンシーン・ワンカットに挑戦し、『東海道四谷怪談』ではローポジションからのワンシーン・ワンカットを描くために車両機材を新たに作るなどしている。活躍の場がテレビドラマに移ってからも実験精神が衰えることはなく、『プレイガール』222話『怪談・屋根裏の悪霊』(1973年)では、通常1時間(実動、48分40秒)のドラマで3、400カットのところ、1000カット撮影に挑戦した。 『地獄』に鬼の役で出演した高橋洋三 は、林寛演じる剛造が地獄で皮を剥がれるシーンでは、中川自ら仕込みを行っていたとして、「喜々として肉を並べてた。なんで中川さんがあんなに楽しんで撮ってたのか今もわからない」と述べている。 『業』所載の詩『死酒』には、「おれが死んだら おれの死顔の上に 一升の酒をぶっかけろ(中略)一級酒がいい 特級酒はいやだよ 二級酒もごめんだ」というくだりがある。ドキュメンタリー『映画と酒と豆腐と』では、この詩を「特級酒のような高級世界は窮屈だし、二級酒のような苦しい生活も実体験から拒否をした。ごく普通の世界で生きたいという願望」と解釈している。中川信吉は毎年、正月か命日が近くなると父の墓参に訪れ、酒と豆腐ともうひとつの好物だったというアンパンを中川の墓前に供えることもある。また、この詩を読んだと思われる墓参者が、たびたび墓を訪れては、一級酒を供えたり墓石にかけたりしているという。 気に入らない脚本箇所があると、それを助監督に直させていたとされ、1940年に製作された『エノケンの彌次喜多』と『エノケンの誉れの土俵入』の脚本は、助監督をしていた市川崑に直させている。 弓矢八幡剣(1934年) 東海の顔役(1935年) 恥を知る者(1935年) 御用唄鼠小僧(1935年) 箱根八里(1935年) 悪太郎獅子(1936年) 修羅八荒 第一篇(1936年) 修羅八荒 第三篇(1936年) 槍持街道(1936年) 旗本八萬騎(1937年) 女左膳 第一篇妖火の巻(1937年) 女左膳 第二篇魔剣の巻(1937年) 日本一の岡っ引(1938年) 伊太八縞(1938年) 月下の若武者(1938年) エノケンの森の石松(1939年) エノケンの頑張り戦術(1939年) 新編 丹下左膳 隻眼の巻(1939年) エノケンの彌次喜多(1940年) 金語楼のむすめ物語(1940年) エノケンの誉れの土俵入(1940年) エノケンのワンワン大将(1940年) 電撃息子(1940年) 暁の進発(1941年) 虞美人草(1941年) 浙漢鉄道建設(1942年) 馬車物語(1948年) 深夜の告白(1949年) エノケンのとび助冒険旅行(1949年) 私刑 リンチ(1949年) 月の出の接吻(1950年) 当り矢金八捕物帖 千里の虎(1950年) アマカラ珍騒動(1950年) 若さま侍捕物帖 謎の能面屋敷(1950年) 右門捕物帖 片眼狼(1951年) 又四郎行状記 鬼姫しぐれ(1951年) 若さま侍捕物帖 呪いの人形師(1951年) 旗本退屈男 唐人街の鬼(1951年) 高原の駅よさようなら(1951年) さすらいの旅路(1951年) 右門捕物帖 緋鹿の子異変(1952年) 犬姫様(1952年) 恋風五十三次(1952年) いとし子と耐えてゆかむ(1952年) 今日は会社の月給日(1952年) 夕焼け富士(1952年) 江戸っ子判官(1953年) 金さん捕物帖 謎の人形師(1953年) 江戸の花道(1953年) 思春の泉(1953年) 若き日の啄木 雲は天才である(1954年) 石中先生行状記 青春無銭旅行(1954年) ほらふき丹次(1954年) 兄さんの愛情(1954年) 番場の忠太郎(1955年) 夏目漱石の三四郎(1955年) 青ヶ島の子供たち 女教師の記録(1955年) 吸血蛾(1956年) 恋すがた狐御殿(1956年) 阿修羅三剣士(1956年) 怪異宇都宮釣天井(1956年) 人形佐七捕物帳 妖艶六死美人(1956年) 風雲急なり大阪城 真田十勇士総進軍(1957年) 人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻(1957年) 怪談かさねが渕(1957年) ひばりが丘の対決(1957年) 将軍家光と天下の彦左(1957年) 毒婦高橋お伝(1958年) 天下の副将軍 水戸漫遊記(1958年) 亡霊怪猫屋敷(1958年) 憲兵と幽霊(1958年) 侠艶小判鮫 前篇・後篇(1958年) 女吸血鬼(1959年) 影法師捕物帖(1959年) 日本ロマンス旅行(1959年) 東海道四谷怪談(1959年) 雷電(1959年) 続雷電(1959年) 女死刑囚の脱獄(1960年) 地獄(1960年) 旗本喧嘩鷹(1961年) 「粘土のお面」より かあちゃん(1961年) 八百万石に挑む男(1961年) 旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷(1962年) 悲しみはいつも母に(1962年) まぼろし天狗(1962年) 紀州の暴れん坊(1962年) 稲妻峠の決斗(1962年) 日本残酷物語(1963年)※小森白、高橋典と共同監督。 男の嵐(1963年) にっぽんを叱る シャッター0(1966年) 怪談 蛇女(1968年) さくら盃 義兄弟(1969年) 妖艶毒婦伝 人斬りお勝(1969年) 妖艶毒婦伝 お勝兇状旅(1969年) 怪異談 生きてゐる小平次(1982年) いつか青空(1962年、TBS) 柔道一代(1963年、TBS)
父子鷹(1964年、TBS) アッちゃん(1965年、日本テレビ) 鳴門秘帖(1966年-1967年、MBS) 剣(1967年、日本テレビ)
つむじ風 祭囃子 コメットさん(1967年-1968年、TBS) プレイガール(1969年-1974年、東京12チャンネル、現:テレビ東京) 江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎(1970年 東京12チャンネル)
『貴女は覗かれている 人間椅子より』 『屋根裏の散歩者』 『恐怖シリーズ 夜の墓場に踊る美女 夢遊病者の死より』 日本怪談劇場(1970年、東京12チャンネル)
怪奇十三夜(1971年、日本テレビ)
『妖怪血染めの櫛』 『怪談悲恋の舞扇』 浮世絵 女ねずみ小僧(1971年、フジテレビ) 鉄道100年 大いなる旅路(1972年、日本テレビ) 怪談(1972年、MBS)
水滸伝(1973年、日本テレビ) 鞍馬天狗(1974年、日本テレビ) ウルトラマンレオ(1974年、TBS)
『レオ兄弟対宇宙悪霊星人』 プレイガールQ(1974年 - 1976年、東京12チャンネル) 破れ傘刀舟 悪人狩り(1975年 - 1976年、NET、現:テレビ朝日) ベルサイユのトラック姐ちゃん(1976年、NET) 映画監督競作 われらの主役(1977年、東京12チャンネル)
日本名作怪談劇場(1979年、東京12チャンネル)
寝返り仁義(1935年、渡辺新太郎監督) 馬賊髑髏隊(1937年、稲葉蛟児監督『猛虎一代』に改題、1938年公開) 杉(1977年、第一回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール佳作入選) 寂寥(1978年、第二回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール佳作入選) 車夫馬丁(1978年、未完) 流氷(1979年、第三回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール第3位、1980年に劇団葡萄座が上演) 人間いちばんあかん(1979年、未発表シナリオ) 父の休日(1980年、第四回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール第3位、1981年に劇団葡萄座が上演) 冬(1981年、第五回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール佳作入選) 大幸福(1982年、第六回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール第2位) 平家悲歌(1982年、歌舞伎台本、未完) 花のある獄門台(小説、1927年、同人誌『幻魚』) 道しるべ(小説、1945年、大陸新報、上海文学賞第一席受賞) 地ならし(詩、1946年、神港夕刊新聞社公募『新憲法公布記念文芸』詩部門第一席(知事賞)) 県民歌(詩、1947年、兵庫県新憲法公布記念『県民歌』公募、佳作入選) 浪曲師(小説、1976年、未発表) 中川信夫詩集 業(1981年、雑草社) 人に歴史あり『左卜全』(1971年12月、東京12チャンネル)※ゲスト出演 実録 四谷怪談(1981年6月7日、テレビ東京)※ゲスト出演 『映画監督 中川信夫』、編滝沢一・山根貞男、リブロポート、1987年 ISBN 9784845702527
自分史『わが心の自叙伝』、中川信夫、p.17-p.38. 『監督時代の映画随想』、中川信夫
『怪奇映画問答』(初出=キネマ旬報1974年10月下旬号)、p.114. 『表札』(初出=季刊えひめ1977年9月号)、p.116-p.119. 対談『青春時代を語る』、滝沢一、中川信夫、p.161-p.176. インタビュー『全自作を語る』、中川信夫、聞き手・桂千穂、p.193-p.220. 人物論『人間・中川信夫 職人・中川信夫』、滝沢一、p.281-p.294. アートシアター151号『怪異談 生きてゐる小平次』 1982年 『日本映画・テレビ監督全集』、キネマ旬報社、1988年12月 鈴木健介編『地獄でヨーイ・ハイ! 中川信夫怪談・恐怖映画の業華』、ワイズ出版、2000年 ISBN 4898300332
『怪談軒凝斎』、桂千穂、p.66-67. 『父』、中川信吉、p.75-p.76. 『中川信夫年譜』、調査・作成=鈴木健介、p.76-p.91. 雑誌『映画評論』、映画出版社、1959年8月号
川本三郎・筒井清忠『日本映画 隠れた名作 昭和30年代前後』(中公選書2014年)pp.259-270 DVD-BOX『中川信夫 傑作撰』、発売元=ファイヤークラッカー、販売元=ジェネオンエンタテインメント、2008年
日本の映画監督一覧 大蔵映画 ^ しかし、兵庫県は2014年まで1947年に県民歌を制定した事実を否定し続けていた。 ^ 本名は高橋勝二。新東宝倒産後は、歌舞伎座テレビやC.A.Lで制作業務を担った。 ^ 小津安二郎作品の詳細なショットの解説を細かく書いた評論などもあった。 - 『「映画評論」の時代』、著佐藤忠男、編著岸川真、カタログハウス、2003年 ISBN 4905943523、P.16. ^ 『ふるほん行脚』、田中眞澄、みすず書房、2008年 ISBN 4622073781, p.120. ^ 神戸新聞、1947年2月19日付2面「兵庫県民歌決る」。 ^ 『作品評』、p.118. ^ 『怪奇映画問答』、p.114 ^ 日本映画専門チャンネル番組詳細、2010年2月23日閲覧。 ^ 『映画と酒と豆腐と』、0分17秒。 ^ 『怪談軒凝斎・中川信夫』、p.66-p.67. ^ 『映画と酒と豆腐と』、5分23秒。 ^ 『幻の怪談映画を追って』(洋泉社) ^ 『青年時代を語る』、p.172 ^ わが心の自叙伝、p.25. ^ 『人間・中川信夫 職人・中川信夫』、p.286. ^ 『表札』、p.117-p.118. ^ 『人間・中川信夫 職人・中川信夫』、p.287. ^ 『映画と酒と豆腐と』、44分30秒。 ^ 『映画と酒と豆腐と』、44分55秒。 ^ 『中川信夫年譜』、鈴木本、p.91. ^ 『父』、p.74. ^ 『若杉嘉津子インタビュー』、p.28. ^ 『映画と酒と豆腐と』、9分55秒。 ^ 『人間・中川信夫 職人・中川信夫』、p.285. ^ 青ヶ島の子供たち 女教師の記録#エピソード ^ 『全作品を語る』、p.207. ^ 『全作品を語る』、p.197. ^ 『映画と酒と豆腐と』、7分20秒。 ^ 東海道四谷怪談 (1959年の映画)#概要 ^ 『千カット自讃日記(前編)』、p.110. ^ 山田誠二『金幻の怪談映画を追って』株式会社洋泉社、1997年8月11日、144-146頁。ISBN 4-89691-274-8。 ^ 『映画と酒と豆腐と』、23分14秒。 ^ 『映画と酒と豆腐と』、43分5秒。 ^ 『映画と酒と豆腐と』、43分21秒。 ^ 『映画と酒と豆腐と』、43分40秒。 ^ 『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、洋泉社、P25 中川信夫 - allcinema 中川信夫 - KINENOTE 中川信夫 - 日本映画データベース Nobuo Nakagawa - IMDb(英語) FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research ドイッチェ・ビオグラフィー IdRef 日本の映画監督 ホラー映画の監督 日本の映画評論家 20世紀日本の評論家 日本の放送関係者 20世紀日本の脚本家 日本の映画の脚本家 日本のテレビの脚本家 20世紀日本の小説家 マキノ・プロダクションの人物 市川右太衛門プロダクションの人物 マキノトーキーの人物 東宝の人物 松竹の人物 新東宝の人物 東映の人物 育英高等学校出身の人物 京都市出身の人物 1905年生 1984年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにあるallcinema人物識別子 ウィキデータにあるKINENOTE ID ウィキデータにあるJMDb人物と企業識別子 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 DTBIO識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/22 20:03更新
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nakagawa nobuo
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