村田元一の情報(むらたげんいち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
村田 元一さんについて調べます
■名前・氏名 |
村田元一と関係のある人
王貞治: 準決勝では、当時の早実の最大のライバルであった明治高(この時のエースは村田元一で後に国鉄スワローズに入り、王にプロ入り初の本塁打を打たれた)を2-1で破る。 土居章助: 4月6日の大洋戦(後楽園)では3回裏に根来広光の本塁打に続き、土居が左翼への連続ソロ本塁打で2-0とし、この2点を先発村田元一が大洋打線を4安打に抑えての完封勝利。 根来広光: 根来も捕手転向時にはとても苦労したため、王が可哀そうになり、村田元一に「お前、同じ東京(出身)だろ。 山本一義: 初本塁打:1961年4月19日、対国鉄スワローズ2回戦(広島市民球場)、4回裏に村田元一からソロ 星山晋徳: 1962年7月21日、後楽園球場での対阪神タイガース戦では一塁の守備についていたが、同僚の村田元一投手があと一人で完全試合達成という場面で27人目の打者・西山和良の打球の処理を誤り、村田の快挙を潰してしまった(記録は内野安打、試合結果は村田の1安打完封勝利)。 徳武定祐: 準決勝では後に国鉄スワローズで同僚となる村田元一を擁する明治高等学校と対戦して辛勝し、決勝は伏兵の成蹊高等学校に大勝して第38回全国高等学校野球選手権大会に出場した。 高屋俊夫: 同期に村田元一、茂木忠之がいる。 飯田徳治: 鈴木のほかには村田元一・佐藤進・石戸四六など投手陣は大活躍の一方で打線の援護が乏しく、主砲・豊田泰光は前半の24試合に出場したのみで夏場以降は完全に姿を消してしまった。 和田徹: 同年8月7日のサンケイ戦(西京極)では村田元一から初のサヨナラ本塁打を記録。 林義一: 前年14勝の渋谷誠司が精彩を欠き、前年まで4年連続2桁勝利の村田元一は故障に泣くなど準エースが期待に応えられなかったが、それでも富士鉄室蘭からプロ入りした佐藤進が10勝、鎌倉学園高を卒業した半沢士郎は8勝と、ルーキーが健闘したのは大きな収穫であった。 茂木忠之: 同期入団に村田元一、高屋俊夫がいる。 砂押邦信: 監督初年度は飯田徳治・土屋正孝(巨人より移籍)・杉本公孝(新人)・徳武定祐(新人)と内野守備陣が充実したほか、金田正一(20勝)・北川芳男(15勝)・村田元一(14勝)・森滝義巳(10勝)ら投手陣が好成績を挙げ、球団史上初のAクラス入り(3位)を達成。 豊田泰光: 協議の中で豊田と金田正一か村田元一のいずれかとの交換トレードも提案されたが、最終的に4500万円のトレードマネーで決着した。 三原脩: また、国鉄が3試合残っていた対阪神タイガース戦では金田も、主力投手の村田元一も登板しなかったため、「国鉄は大洋に優勝させたくなかったのだろう」と言われた。 醍醐猛夫: 準決勝では村田元一を擁する明治高戦に2-1で辛勝したが、決勝では伏兵の成蹊高に13-1で大勝。 王貞治: 王は国鉄村田元一投手が2ストライク1ボールからの4球目に投じた内角低めのカーブをすくい上げると、打球はライトスタンド最前列に落ち公式戦初安打が決勝2ランホームラン(出場11試合目)となった。 斎藤良雄: 同期に村田元一がいた。 西山和良: 1962年7月12日の国鉄戦(後楽園)では、9回2死に石川緑の代打で打席に立ち、安打を放って村田元一の完全試合達成を阻止した。 |
村田元一の情報まとめ
村田 元一(むらた げんいち)さんの誕生日は1938年4月10日です。東京出身の野球選手のようです。
引退、現在に関する情報もありますね。村田元一の現在の年齢は86歳のようです。
村田元一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 村田 元一(むらた げんいち、1938年4月10日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 明治高校では2年生の時、エースとして1955年春季関東大会準々決勝に進むが、水戸商の生田目貢(明大)に完封を喫する。翌1956年夏の甲子園都予選準決勝に進出、早実高の王貞治と投げ合うが1-2で惜敗し、甲子園出場を逃した。 1957年に国鉄スワローズに入団。1958年には開幕2戦目から先発として起用されるも、開幕から3連敗を喫する。4月26日に大洋ホエールズを相手に先発、9三振を奪い中島執の1安打のみに抑え初勝利を完封で飾る。同年はリーグ最多の62試合に登板し、5連勝を含む15勝を記録した。1960年には18勝をマークするなど、金田正一に次ぐ第2エースとして長くスワローズの投手陣を支えた。 1962年7月12日の対阪神タイガース戦(後楽園球場)では、9回2死までパーフェクトに抑えながら、27人目の打者西山和良の一塁への微妙な打球をヒットと判定され、惜しくも大記録を逃している。1964年には不振が続き、シーズン中盤の故障もあって戦列を離れ、わずか2勝にとどまるが、8月には先発に復帰している。1965年、金田正一が巨人へ移籍し球団の経営権がサンケイへと移転すると村田は開幕投手を任される事となり、その後も佐藤進や石戸四六らとチームを支えていく事となるが、この年は僅か6勝に終わる。1966年にも10勝を挙げ、10月12日の中日ドラゴンズ戦の完投勝利で通算100勝を達成。前日の広島カープ戦のリリーフ登板で99勝目を挙げた翌日の100勝到達であった。 しかし1968年には石岡康三や移籍入団の河村保彦が台頭し、先発での登板機会が減少。1969年のシーズン終了後に現役引退。 引退後はマスメディアの取材を拒否するなどメディアとは一切絶縁し、2017年12月にサンケイスポーツのインタビューに応じたのが実に48年ぶりのマスメディア登場であった。現在は「財団法人全日本リトル野球協会 リトルシニア委員会 関東連盟」所属の少年野球(リトルシニア)チーム「東京日暮里シニア」の特別コーチを務めている。 その後も踏み出した前足を突っ張った姿勢でスリークォーター気味に腕を振り切る独特のサイドスローから放たれる速球と、切れのあるシュートとスライダーを武器とした。 制球力があり、通算21無四球試合は歴代32位。さらに、1試合完投した場合の平均与四球数(与四球率)は1.49個で、これは通算2000投球回数以上の投手では、土橋正幸(1.21個)、高橋直樹(1.48個)に次いで歴代3位の記録である。 現役時代の村田は、サンダル履きで球場入り、春季キャンプ地では自分で魚を七輪で焼く、或いは2月の春季キャンプでは、当時国鉄スワローズのキャンプ地だった鹿児島県指宿市の海岸で泳いだり、夏場でも海水浴に行くなど、当時の選手としては破天荒な行動をとっていたという。同僚で国鉄の大エースであった金田正一が、「肩と腕を冷やす」事に繋がる行為や、投手の商売道具たる手足の指先を徒に負傷しかねない行為の一切を、公私におけるコンディション管理で徹底して排除していたのとは対照的である。なお、村田本人は「水泳は全身運動でいいんだから」と語っていた。 国鉄の同僚で「天皇」とまで言われた金田に対しても自分なりの筋を通しきる面も持ち合わせており、1960年後半に18勝目を村田が上げた際、同じ勝数で並んでいた金田から「どうしても先に20勝させてくれ」と懇願され、金田の執念を察しながらも納得の出来ない村田は翌日自ら二軍落ちを申し出て、シーズンの残り1ヶ月をそのままファームで終えたという。結局、この年の18勝が村田のキャリアハイの成績となった。 1959年に王貞治に第1号ホームランを打たれた投手としても知られる。当時の国鉄の正捕手根来広光の回想によると、打者転向したばかりで開幕以来極度の不振に喘いでいた王を見かねて、村田に対して「お前、同じ東京(出身)だろ。打たせてやれよ」と冗談で言ったところ、村田は2ストライク1ボールからの4球目にスライダーを投じて王に第1号本塁打を浴びたという。なお、村田は王に第2号、第300号本塁打も打たれているが、村田はこれらの状況については後年「全く覚えてねえ(同時に「ボケた訳でもない」とも)」と述懐している。 引退後にプロ野球界から姿を消したことについては「俺にとっては国鉄(スワローズ)が全てだったから」だとしている。近鉄バファローズの岩本尭監督や、巨人の川上哲治監督からも入閣の誘いがあったとされるが、村田本人の束縛を嫌う性格や(当時は「常識外れ」とされた)前述の破天荒な行動などが要因となり結局沙汰止みになったという。現役引退に際しては用具やトロフィーなど野球に関する物品を全て廃棄し、国鉄を引き継いだアトムズ球団に対して「名簿から名前を消してほしい」と訴えるなどしたことでも知られた。村田の国鉄スワローズに対する愛着と帰属心の強さは、奇しくも金田のスワローズに対する姿勢とも共通する面があり、2017年に村田の取材に成功したダンカンは、村田自身は「反骨心の固まり」と自己分析した人柄を評して「良く言えば豪放磊落、そのまま言えば我侭」「話を聞いている間、高倉健の名台詞である『不器用ですから』がずっと頭の中で巡っていた」と記述した。 弱小球団であった国鉄-アトムズを通じて2桁勝利を6度、通算118勝を上げた村田は後年一定の評価を得るところとなり、国鉄スワローズ及び1938年生まれの選手のベストメンバー、ベストナインを語る際には村田はしばしばその名前が挙がる選手となっている。 各年度の太字はリーグ最高 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)に、1969年にアトムズに球団名を変更 オールスターゲーム出場:3回 (1958年、1960年、1962年) 52 (1957年) 37 (1958年 - 1964年) 11 (1965年 - 1969年) ^ この試合でバッテリーを組んだ根来広光によれば、西山の打球は本来なら国鉄の一塁手の星山晋徳のエラーと判定されるべきものであったが、星山のせいで完全試合がフイになることを気の毒に思った審判の温情でヒットとされたという(「Number 187号」) ^ 他には1971年の佐々木宏一郎が10月3日に99勝目を挙げて、翌4日に100勝に到達した例がある。 ^ 週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、ベースボール・マガジン社、2011年、P23 ^ 1960年代 - 東京ヤクルトスワローズ ^ “【帰ってきた!ダンカンが訪ねる 昭和の侍】村田元一さん、「世界の王」に第1号を打たれた男”. サンケイスポーツ. 産業経済新聞社: p. 1-4. (2017年12月2日). https://www.sanspo.com/article/20171202-BDGU46ZPSZMBXIDXQGKOZUMH5E/ 2017年12月2日閲覧。 ^ チームスタッフ 東京日暮里シニア公式サイト ^ 「東京」投手・村田元一 球歴明大中野→国鉄…:「全国」 夢のベストナイン特集 - 時事ドットコム ^ “【父の教え】俳優 金田賢一さん「役者ぶるな、外見ばかり取り繕うな」”. msn産経ニュース (2014年5月14日). 2014年5月18日閲覧。 ^ "「こらっ、投手が半袖を着るもんじゃないぞ!」現役時代カネやんに叱られた…北別府さん明かす". Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. 6 October 2019. p. 1. 2019年10月7日閲覧。 ^ 根来広光・小田豊二『聞き書き みんな、野球が好きだった』(集英社、2006年) ISBN 4834251241、p.66 ^ 国鉄スワローズ 不動の大エース・金田正一がけん引/球団別オールタイム・ベストオーダー - 野球:週刊ベースボールONLINE、2018年6月22日。 ^ 【世代別ベストナイン】「1938年」名バイプレーヤーたちが支える“権藤世代”/権藤博、黒江透修、鎌田実 - 野球 - 週刊ベースボールONLINE、2018年4月7日。 東京都出身の人物一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 表 話 編 歴 1950 成田敬二 1951 田原基稔 1952 金田正一 1953 宮地惟友 1954 金田正一 1955 金田正一 1956 金田正一 1957 田所善治郎 1958 金田正一 1959 金田正一 1960 金田正一 1961 北川芳男 1962 金田正一 1963 金田正一 1964 金田正一 1965 村田元一 1966 渋谷誠司 1967 村田元一 1968 石戸四六 1969 河村保彦 1970 石岡康三 1971 松岡弘 1972 松岡弘 1973 松岡弘 1974 松岡弘 1975 松岡弘 1976 松岡弘 1977 松岡弘 1978 安田猛 1979 松岡弘 1980 鈴木康二朗 1981 松岡弘 1982 鈴木康二朗 1983 尾花高夫 1984 高野光 1985 梶間健一 1986 荒木大輔 1987 荒木大輔 1988 尾花高夫 1989 尾花高夫 1990 内藤尚行 1991 内藤尚行 1992 西村龍次 1993 西村龍次 1994 川崎憲次郎 1995 岡林洋一 1996 T.ブロス 1997 T.ブロス 1998 石井一久 1999 石井一久 2000 石井一久 2001 石井一久 2002 藤井秀悟 2003 K.ホッジス 2004 J.ベバリン 2005 石川雅規 2006 石川雅規 2007 石井一久 2008 石川雅規 2009 石川雅規 2010 石川雅規 2011 石川雅規 2012 石川雅規 2013 館山昌平 2014 小川泰弘 2015 小川泰弘 2016 小川泰弘 2017 石川雅規 2018 D.ブキャナン 2019 小川泰弘 2020 石川雅規 2021 小川泰弘 2022 小川泰弘 2023 小川泰弘 2024 サイスニード 日本の野球選手 日本の野球指導者 明治大学付属明治高等学校出身の野球選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 東京都出身の人物 1938年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/10 11:20更新
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murata genichi
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