林屋辰三郎の情報(はやしやたつさぶろう) 歴史学者(日本史) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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林屋辰三郎の情報まとめ
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林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう)さんの誕生日は1914年4月14日です。石川出身の歴史学者(日本史)のようです。
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家族、経歴などについてまとめました。卒業、家族、事件に関する情報もありますね。
林屋辰三郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 - 1998年2月11日)は、日本の歴史学者・文化史家。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1961年)。立命館大学教授・京都大学教授・京都国立博物館長などを歴任。中世史の研究において大きな足跡を残した。 1914年石川県金沢市に生まれ、1938年京都帝国大学文学部卒業。専攻は日本古代中世史。卒業論文は「近世初頭に於ける遊藝の研究」。 卒業後、日本史研究会の創立に参加し代表委員を務める。1948年立命館大学教授に就任するが、1969年に学園紛争で辞任し、翌年京都大学人文科学研究所教授となる。 部落史・地方史・女性史の視点から中世芸能史を実証的に研究し、1961年に「中世芸能成立史の研究」で芸術選奨受賞。部落問題研究所理事、京都国立博物館長などを歴任する一方で、京都市史編纂事業を指導し、『京都の歴史』・『史料 京都の歴史』等の編著を刊行し、各社の<日本の歴史>の編集委員を務めた。個人としても、自宅に<燈心文庫>と名付けた書庫を持っているほどの、古文書・史料類の収集家だった。岩波新書版の『京都』や、中公文庫版の『日本の歴史 天下一統』は、初版から半世紀近く経ても重版されている。 戦後の京都の歴史学、特に中世史において多くの研究者を育てた。立命館大学では赤井達郎・横井清・守屋毅・川嶋将生・源城政好・下坂守ら、京都大学では村井康彦・戸田芳実・大山喬平・脇田晴子らが著名。 家族実父の林屋新兵衞 (1874年石川県生まれ)は、金沢の老舗茶店「林屋」の四代目で、京都宇治の「日本茶精」社長。林屋は江戸時代(1753年)に越中出身の初代新兵衛が金沢で開業し、明治時代には京都宇治木幡に茶園を持ち、北陸各地に支店を構えて販売、三代目新兵衛は加賀棒茶の考案者と言われる。大正時代には林屋一族が出資し林屋製茶合名会社を設立した。日本茶精は、1920年に林屋新兵衛が松方正義の後援により設立した粉末茶の会社で、1924年にはサントリーの指導でレモンティシロップ「レチラップ」を開発、世界初のインスタント紅茶を販売した。 弟にスペイン大使を務め、マヤ文明「マヤ神話ポポル・ヴフ」(中央公論社)や<大航海時代叢書:岩波書店>の訳者の一員でもあった林屋永吉、叔父に参議院議員、国務大臣の林屋亀次郎、従弟に陶磁器研究家の林屋晴三がいる。長女寛子 (1944 - ) の夫は歴史地理学者で同志社大学名誉教授・武藤直。 経歴1914年(大正3年)- 茶商を営む四代林屋新兵衛の四男として、石川県金沢市に生まれる。生後一年足らずのうちに新兵衛の次兄林屋次三郎の養子となり、生家を離れ東京に移る。 1924年(大正13年)- 中国北京に一家渡航・居留。二年後中学校準備のため単身帰国。 1927年(昭和2年)- 慶應義塾幼稚舎を卒業。慶應義塾普通部に進学。翌年、京都に移住、京都府立京都第一中学校第二学年に編入学。 1931年(昭和7年)- 京都第一中学校卒業。第三高等学校文科甲類に入学。 1935年(昭和10年)- 第三高等学校文科甲類を卒業。京都帝国大学文学部史学科に入学。 1938年(昭和13年)- 京都帝国大学文学部史学科を卒業。同大学院に進む。 1941年(昭和16年)- 京都府寺院重宝調査臨時事務を嘱託される。 1943年(昭和18年)- 大学院を退学する。京都市史編纂事務を嘱託される。 1945年(昭和20年)- 日本史研究会の創立を発企し、代表委員となる。 1948年(昭和23年)- 立命館大学教授兼専門学校教授に任ぜられ、1956年(昭和31年)、同文学部長に任命される。 1950年(昭和25年)- マルクス主義に基づく「新しい歴史学」の啓蒙活動として紙芝居『祇園祭』を作成。 1951年(昭和26年)- 部落問題研究所、社団法人認可、理事となる。 1961年(昭和36年)- 論文『中世芸能史の研究』により芸術選奨文部大臣賞を受賞。京都大学より文学博士の学位を受ける。 1963年(昭和38年)- 芸能史研究会の創立を発企し、代表委員となる。 1964年(昭和39年)- 『光悦』により毎日出版文化賞受賞。 1966年(昭和41年)- 文化厚生会館事件をめぐる対立により、部落問題研究所理事を辞任した。 1969年(昭和44年)- 立命館大学紛争により学部長ならびに本職の辞表を提出する。 1970年(昭和45年)- 京都大学人文科学研究所教授に就任、1974年同研究所長併任、1978年定年により退職。 1978年(昭和53年)- 京都国立博物館長に就任、1985年退官。 1979年(昭和54年)- 紫綬褒章受章。 1986年(昭和61年)- 勲二等瑞宝章受章。 1988年(昭和63年)- 京都大学名誉教授の称号を授与される。同年10月高麗美術館 初代館長に就任。 1989年(平成元年)- 京都府文化賞特別功労賞受賞。 1990年(平成2年)- 朝日賞受賞。 1992年(平成4年)- 日本学士院会員に選出される。 2024/06/24 20:58更新
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hayashiya tatsusaburou
林屋辰三郎と同じ誕生日4月14日生まれ、同じ石川出身の人
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