桑原武夫の情報(くわばらたけお) フランス文学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
桑原 武夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
桑原武夫の情報まとめ
桑原 武夫(くわばら たけお)さんの誕生日は1904年5月10日です。福井出身のフランス文学者のようです。
受賞歴・叙勲歴、記念事業などについてまとめました。卒業、映画、ドラマ、家族、現在に関する情報もありますね。
桑原武夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)の出身。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人が敦賀に愛着を持ち出身地として記載を続けた。 京都一中、三高を経て、1928年(昭和3年)京都帝国大学文学部仏文科卒業。三高講師、旧制大阪高校教授兼京都大学文学部講師を経て1943年(昭和18年)、東北帝国大学法文学部助教授。1948年(昭和23年)、京都大学人文科学研究所教授、1959年(昭和34年)同所長、1968年(昭和43年)定年退官、名誉教授。 スタンダールやアランの研究により、フランスの文学や評論を広く日本に紹介した。父・隲蔵と交流のあった西田幾多郎や内藤湖南ら戦前の京都学派の碩学の謦咳に早くからじかに接し、戦後は同年代の吉川幸次郎や貝塚茂樹など京都学派の中心的存在として、さまざまな文化的ムーブメントに主導的な役割を担った。 フランス文学にとどまらず、深い学識と行動力は多方面に及び、俳句を論じた「第二芸術」(『世界』1946年)は論議を呼んだ。 また、京都大学人文科学研究所(京大人文研)を本拠としてさまざまの分野の研究者を組織し先駆的な学際共同研究システムを推進、『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年毎日出版文化賞)、『宮本武蔵と日本人』など日本の人文科学分野における数々の業績を通じて、梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、鶴見俊輔、多田道太郎ら多くの文化人の育ての親となった。加藤秀俊、松田道雄、黒田憲治、井上清、梅棹忠夫、河野健二らとは「日本映画を見る会」を結成し、チャンバラ映画やメロドラマを批評の対象にした。1976年、鶴見俊輔、多田道太郎、井上俊、津金沢聡広らと現代風俗研究会を創設(桑原が初代会長)。 京都大学人文科学研究所が東方文化研究所から引き継いだ資料に雲崗石窟群のまとまった写真や記録がある。第二次世界大戦を挟んでそれを報告書にまとめようと、水野清一と長広敏雄たちが企画するものの難航していた。同じ研究所にいた桑原はこの『雲石石窟調査報告書』刊行について、吉田茂と面談予定のフランス人の知己に状況を説明、間接的に同意を引き出し、同書は1951年の発刊に至る。吉田は長広が6月に届けた同書を直後のサンフランシスコ講和条約会議に携えたとされる。当該資料のまとまった公刊が達成されるのは2017年である。別途、1975年に限定部数で出した図面も複製してこれに収載された。 時代背景もあり、『百科全書』派研究などが同時代のフランスで高い評価を受けたわけではない。また国内でも和洋漢に及んで「浅く広い」桑原の仕事をディレッタント視する学者もあった。有名な「第二芸術論」も、アイヴァー・リチャーズの『実践批評』を下敷きにしたものであることが外山滋比古によって指摘されている。このことを指したのか明示されていないが、小松左京は「ある人が『あなたのやったことはみな思いつきに過ぎない』と批判したところ桑原さんは『思いつきかも知れないが、おまえ思いつき言うてみい』と切り返した」と回想している。 岩波書店や中央公論社等の出版社との連携も強く、戦後の出版ブームでは『文学入門』『日本の名著』など今日に残る新書のベストセラーを数多く出版した。生前に朝日新聞社と岩波書店からそれぞれ全集が発刊されている。 『明治維新と近代化』(1984年)で講座派を時代錯誤として批判したこと、また梅原猛らと国際日本文化研究センター創立メンバーとなったことなどを、歴史学者中村政則から批判された。 同期である今西錦司らとともに登山家としても知られ、1958年には京都大学学士山岳会の隊長として、パキスタン領のチョゴリザ山への登頂を成功に導いた。登山に関する著作も多い。 所属する京都大学学士山岳会 (AACK) から1957年に連絡を受け、国交樹立前のブータン王国から個人旅行で第3代ブータン国王妃ケサン・チョデン・ワンチュク(英語版)とその家族が来日すると知り、京都で出迎えたのは桑原と芦田譲治である。実際に京都大学ブータン学術調査隊総裁として松尾稔隊長とともに隊を率いて同国に渡るのは1969年であり、中尾佐助による1958年の植物調査から10年後のことであった。近代化前の同国で外国人が行った初の全国学術調査であり、調査地は中国国境タシガンを含む。映像記録はフィルムで200本超に農作業や人々の暮らし、自然の景観を収めている。後輩たちは1983年から1985 年にブータン・ヒマラヤを踏査しマサコン峰登頂に成功する。やがて京都学士山岳会から「京都大学ブータン友好プログラム」が2010年に立ち上がり2014年までに教職員150人超を現地に派遣。60周年記念事業に着手した京都大学は2016年4月に「京都大学ヒマラヤ研究ユニット」を発足する。今西と桑原が開いたヒマラヤ学の道は現在も研究者を現地探査にフィールドワークにと送り出している。 桑原は1981年(昭和56年)に京都市社会教育センター初代所長に就任し没するまで務め、1984年(昭和59年)には世界平和アピール七人委員会の委員に選任される。 受賞歴・叙勲歴1940年(昭和15年)紺綬褒章 1951年(昭和21年)毎日出版文化賞 1966年(昭和41年)フランス共和国国家勲功騎士章 1974年(昭和49年)勲二等瑞宝章 1975年(昭和50年)朝日文化賞 1977年(昭和52年)1月 講書始「フランス学における共同研究」 1977年(昭和52年)日本芸術院会員 1979年(昭和54年)文化功労者顕彰 1982年(昭和57年)NHK放送文化賞、京都市名誉市民 1987年(昭和62年)文化勲章、レジオンドヌール勲章 1988年(昭和63年)春に病没、叙従三位・勲一等瑞宝章追贈 記念事業1998年(平成10年)から2012年(平成24年)まで、人文科学系の優秀な書籍を対象に桑原武夫学芸賞が授与された。 郷里の敦賀市立図書館内には胸像が建立。京都市右京中央図書館の「桑原武夫コーナー」で生前に使用した机や椅子、直筆のノートを展示している。 旧蔵書蔵書のうち、特に学術的価値の高いものは生前に京都大学が受贈、人文科学研究所図書室に「桑原武夫文庫」(1047冊)を設けた。 没後、京都市国際交流会館開設(1989年)に合わせ、1988年に古典名著の全集類やフランス語の哲学書籍などを含む桑原の蔵書約1万冊が京都市に寄贈された。同館は生前の書斎を再現した記念室を設け、旧蔵書を一般公開した。2008年、右京中央図書館の開設に伴い、桑原の記念室は同館に移される。ところが旧蔵書は2015年に廃棄処分され、遺族にも断りはなかったことが2017年に判明する。京都市図書館の蔵書との重複が多いとして正規に登録しなかったこと、保管スペース不足を理由に別の図書館の倉庫に移してあったことが、廃棄を承認した担当部長の処分とともに公表された。 2024/06/11 19:50更新
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