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河野高明の情報 (こうのたかあき)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月23日】今日誕生日の芸能人・有名人

河野高明の情報(こうのたかあき) ゴルフ 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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河野 高明さんについて調べます

■名前・氏名
河野 高明
(読み:こうの たかあき)
■職業
ゴルフ選手
■河野高明の誕生日・生年月日
1940年1月4日 (年齢2010年没)
辰年(たつ年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

(昭和15年)1940年生まれの人の年齢早見表

河野高明と同じ1940年生まれの有名人・芸能人

河野高明と同じ1月4日生まれの有名人・芸能人

河野高明と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


河野高明と関係のある人

尾崎将司: プロゴルフ転向後の1971年9月に日本プロで初優勝を飾ると瞬く間に5勝を挙げてスターダムにのし上がり、1972年にはニュージーランドPGAに杉本英世・河野高明・村上隆・内田繁・今井昌雪と共に招待されて出場。


東聡: 1983年のかながわオープンでは最終日に67をマークし、秋富由利夫・河野和重に並ぶと同時に湯原信光・矢部昭・中村忠夫・豊田明夫・中村通を抑えて河野高明の2位タイに入った。


安田春雄: 鈴村照男・石井・河野高明の3人に急追されるが、なんとか73でしのいだ安田が通算12アンダーで2度目の優勝を飾り、初代「クラウンズ男」と呼ばれるようになった 。


新井規矩雄: 更に総武CCで行われた日本オープンは河野高明に優勝こそ譲ったが、ブルース・デブリン(


河野光隆: 兄は元プロゴルファーの河野高明


島田幸作: 2015年には関西スポーツ賞特別功労賞を受賞し、2017年には陳清水、清元登子、河野高明、村上隆、涂阿玉と共に第5回日本プロゴルフ殿堂入りを果たす。


石井裕士: 1969年の日本プロでは杉本英世が予選で姿を消し、河野高明・安田春雄が下位に低迷するという波乱含みの展開の中、日吉定雄と共に通算6アンダーで首位に立つ。


橘田規: 1976年には22歳の中嶋常幸が初勝利を挙げるなど新しい力も台頭してきた一方、1960年代に圧倒的な存在感を誇っていた杉本、河野高明といったビッグネームが衰え、世代交代が完了したことは明白であった。


杉本英世: 同時代に活躍した河野高明、安田と共に「和製ビッグ3」とも称された。


河野高明の情報まとめ

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河野 高明(こうの たかあき)さんの誕生日は1940年1月4日です。神奈川出身のゴルフ選手のようです。

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卒業、現在、引退、事件に関する情報もありますね。2010年に亡くなられているようです。

河野高明のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

河野 高明(こうの たかあき、1940年1月4日 - 2010年4月22日)は、神奈川県横浜市出身の元プロゴルファー。

子供の頃はいつも人の陰に隠れていて、小学校の運動会ではいつも最下位であったが、負けん気だけは強く、いつも最後まで歯を食いしばって走っていた。

横浜市立保土ヶ谷中学校卒業後、父・安蔵が支配人を務めていた縁から程ヶ谷カントリー倶楽部に入り、キャディをしながらゴルフを修業。小野光一に師事し、1959年に19歳でプロテストに合格 。弟の光隆が日本プロを連覇(1965年・1966年)するなど先に大きく羽ばたいたため、兄の高明はその陰に隠れた形となっていたが、1967年に関東オープンで初優勝を飾ったのを機に急成長。同年の日本シリーズでは初日にいきなり6アンダー67のコースレコードを樹立し、2位の橘田規に4打のリードを奪うと2日目も70で、71の橘田との差を更に一つ広げた。3日目にはリードが7打差と開き、最終日も手堅く72でまとめ大会新記録の9アンダー281で優勝。一昨年の杉原輝雄と同じ2位に1打差の圧勝であり、50万円アップした優勝賞金150万円を獲得。4位の鈴村照男は愛知学院大学出身で、シリーズ初登場の学士プロであった。

1968年にはブラジルオープンで海外初制覇も果たし、2位には細石憲二が入って日本人ワンツーとなった。日本オープン・日本シリーズの2冠も達成し、大会予選を通過できなかったが、推薦で出場した日本オープンは最終日に崩れるも、冷や汗の逃げ切り初優勝を飾る。予選ラウンド2日間で通算10アンダーとし、2位に7打差を付けたが、36ホールの最終日に雨でショットが乱れたところを鷹巣南雄、ブルース・デブリン(オーストラリアの旗 オーストラリア)に追いかけられ、31ホール目の午後の14番でボギーとして一旦は鷹巣に並ばれた。17番で4mを沈めるバーディーで、ボギーとした鷹巣を突き放し、最終的には1打差で逃げ切った。日本シリーズは大阪よみうりCCでの初日こそ初出場であった地元関西の松田司郎が河野を1打リードして首位に立ったが、2日目は逆に河野が松田を1打抑えてトップに立つ。東京に舞台を移した3日目には2位以下に12打差を付け、71の河野に対して松田がベストスコア70をマークしてピタリと並び、最終日も2人の争いは激烈となる。首位に並んだ松田とのマッチレースになり、松田が4番でダブルボギーを叩いて流れが来る。アウトを終わって河野が3打リードしていたが、松田も盛り返して15番で1打差に迫るも、河野は17番ロングホールで2オンに成功。バーディーを奪って松田を振り切り、大会史上初の2連覇を達成し、この2つの日本タイトルで、翌1969年のマスターズへの招待が舞い込む。

同年から1972年まで5年連続でワールドカップ日本代表に選出される。1968年は細石とのペアでニール・コールズ&バーナード・ハント(イングランドの旗 イングランド)、ジミー・キンセラ&クリスティ・オコナー(アイルランドの旗 アイルランド)と並ぶ10位タイであった。1969年には安田春雄とペアを組み、団体でオービル・ムーディ&リー・トレビノ(アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国)に次ぎ、ロベルト・デ・ビセンツォ&レオポルド・ルイス(アルゼンチンの旗 アルゼンチン)、謝永郁&許渓山(中華民国の旗 中華民国)、シャクリー・オンシャム&スシン・スワナポン(タイ王国の旗 タイ)、ベン・アルダ&エレウテリオ・ニーバル(フィリピンの旗 フィリピン)、アンヘル・ガジャルド&ラモン・ソタ(スペインの旗 スペイン)を抑えての2位と健闘。個人でもトレビノ、ビセンツォ、謝永、ムーディ、オンシャム、アルダに次ぐ7位に入る。1970年も安田とベアを組み、ジャン・ガライアルド&バーナード・パスカシオ(フランスの旗 フランス)と並ぶ10位タイであった。

1972年の第20回大会では初選出の村上隆とペアを組み、団体で呂良煥&謝敏男(中華民国)に次ぎ、ティーニー・ブリッツ&ゲーリー・プレーヤー(南アフリカの旗 南アフリカ共和国)、ブルース・クランプトン&ビル・ダンク(オーストラリア)、ジム・ジェイミーソン&トム・ワイスコフ(アメリカ)を抑えての2位、個人でも謝敏男に次ぎ、ブリッツ、クランプトン、呂良煥を抑えての2位と好成績を挙げる。大会初日はイーブンパーの71にまとめ、日本は1アンダー、141で、団体でも台湾とベルギーに3打差をつけて首位に立った。ワールドカップでの首位は優勝した1957年以来で、2度目の快挙に向けて絶好のスタートを切ったが、翌日は悪天候で中止となり、大会は54ホールに短縮されることになった。仕切り直しの2日目はアウトで2アンダー、33をマークするが、インでは3ボギーと崩れてこの日は1オーバーの72。日本は通算2オーバーの2位に後退し、代わって首位に立った台湾は謝が69をマークして引っ張り、通算1オーバーで初めての世界一に王手をかけた。最終日は強い風が吹き荒れて選手達は軒並みスコアを崩す中、風に強い台湾勢は踏ん張り、日本勢は大苦戦。一時は台湾との差は8打にまで広がっていたが、台湾勢も徐々にスコアを落とし始める。個人戦でトップを走る謝が9番から6ホール連続でパーセーブにならず、残り2ホールとなったところで日本が台湾に並ぶ。明暗が分かれたのが17番パー5で、台湾が呂、謝と立て続けにバーディーを奪ったのに対して先にプレーしていた日本は2人ともにパーに終わっていた。ここでついた2打差を18番で詰めることができず、河野は「17番で2人ともバーディーパットを逃したのが痛かった」と悔しがったが、大会史上初となるアジア勢の1、2位独占となった。

1969年のマレーシアオープンでは首位に6打差16位でスタートした最終日、アウトで4バーディーを奪った。首位のフランク・フィリップス(オーストラリア)が崩れ、河野は12番で3mを入れ、17番ではグリーンエッジからチップインバーディーで通算8アンダーとして逆転。最終ラウンドの開始時に6ショット遅れて66をマークし、ジョン・リスター(ニュージーランドの旗 ニュージーランド)とデビッド・グラハム(オーストラリア)を1ショットで制して海外2勝目を挙げる。

1971年のマレーシアオープンでは、初日、8バーディーを奪うなど6アンダー66で首位に立った好調の安田を2打差2位を追いかけるが、2日目にはビッグスコアを叩き出す。8番から5連続バーディーなど7バーディー、1ボギーの66で回り、通算11アンダーとした。3日目も好調に飛ばし、8バーディーを量産し、コース記録タイの64をマーク、通算19アンダーに伸ばすと、2位謝永郁に7打差の独走態勢になった。最終日は大量差に守られていたが、2番でダブルボギーを叩いて少し雲行きが怪しくなる。アウト1オーバーで折り返し、11、12番連続バーディーも、13、14番連続ボギーともたついた。その間にデビッド・グラハムが猛追、66をマークして通算17アンダーで先にホールアウト。河野は16番で2mを入れてこの日イーブンに戻し、2打差で逃げ切った。デビッド・グラハム、グラハム・マーシュ(オーストラリア)を破り、2年ぶり2度目の優勝を飾る。同年のシンガポールオープンでは安田の2位に入って日本人ワンツーとなり、1972年の同大会では優勝し、海外4勝目とアジアサーキット3勝目を挙げた。初日に67で飛び出して首位に立ち、3日目は2つ落として尾崎将司に首位を譲るが、最終日には1番をボギーにした尾崎に対して、河野は2番でバーディーを奪って逆転。4番の尾崎のバーディーで一旦並ばれたが、河野は5番ですぐに取り、尾崎の6番からの3連続ボギーで独走態勢に入る。通算9アンダーで優勝を飾り、2位には4打差で村上が入って日本人ワンツーとなり、現地の英字新聞では「little Japanese maestro」と称えられた。

1972年には杉本・村上・内田繁・今井昌雪・尾崎と共にニュージーランドPGAに招待出場し、大会前に開催地のマウント・マガヌイGCで行われた前哨戦の親善プロアマで優勝。大会本番では初日に10番から3〜4mのパットが入り出して4連続バーディーを奪うなど5アンダー66をマークして首位に立ち、2日目も好調をキープし、尾崎の9アンダーを知った11番から3連続バーディーで、通算11アンダーの単独首位に立った。決勝ラウンドの3日目は強風に雨も混じるコンディションになり、首位スタートの河野がインで5ボギーと崩れて後退し、最終的には9位に終わった。

1969年から1973年まで5年連続でマスターズに出場し、初出場の1969年にブルース・クランプトン(オーストラリア)、アル・ガイバーガー(アメリカ)、ハロルド・ヘニング(南アフリカ)、バート・ヤンシー(アメリカ)と並ぶ13位タイの奮闘ぶりを見せると、1970年にはチャールズ・クーディ、バート・グリーン、トニー・ジャクリン(イングランド)、ドン・ジャニュアリーと並んで当時の東洋人最高位の12位タイと快挙を成し遂げる。

初出場の初日は1アンダー71で16位と好スタートを切り、2日目は75と崩れて28位に後退したが、圧巻は3日目であった。5バーディー、1ボギーでこの日ベストスコアの68(-4)を記録し、ジャック・ニクラス、アーノルド・パーマーを抑え、一気に通算2アンダー10位に浮上した。2オンさせた520ヤードの15番パー5での第2打のクラブを記者団から聞かれ「5番アイアン」と答えて驚かれ、同組のフランク・ベアードが「河野は恐ろしいプレーヤーだ。こんな体であんなに飛ばす選手は見たことがない」とAP通信にコメントしている。ドン・ビーズ、ジーン・リトラーと並んでトップ10に入り、タイトルを獲得するチャンスも僅かにあったが、最終日に躓いた 。この日本人のベストスコアは4万人を超す大観衆を驚かせたが、中嶋常幸に破られるまで21年間、河野が保持していた。最終的には74と落としたが通算イーブンパー288で13位で、17番では第2打を直接入れ、マスターズ史上初めての同ホールでのイーグルを記録し、世界中に衝撃を与えた。

1970年は3月にアジアサーキットのマレーシアオープンを制した後、オーガスタに乗り込む。初日は2番パー5でダブルボギーを叩くなど75の24位でスタートしたが、サム・スニードと同組になった2日目は2番で1.5mを入れるバーディーと好発進し、3番ボギーの後に4、5番、7、8番連続バーディーなどアウトを32で回った。インは13、15番のバーディー(10、18番ボギー)でこの日4アンダー68をマーク。この日のベストスコアで通算1アンダーとし、首位ヤンシー、リトラーに4打差、デーブ・ヒルと並ぶ7位タイとトップ10に入った。3日目は当時のトッププロとしては最長身、198cmのジョージ・アーチャーと同組で、身長差40cm以上で河野の小柄さが際立ったが、1番で約150ヤードの第2打を7番アイアンで直接入れるイーグルでスタート。2番もバーディーで、スタート前の首位に1打差と迫り、結局1アンダー71で通算2アンダー、首位に6打差9位に付けた。ベアード、ラリー・ヒンソン、ボブ・ラン、ニクラスを抑えての9位 と残り、アーチャーを「いつも5ヤードから10ヤードオーバードライブされた。あのちっぽけな体のどこに力があるのか」と感心させた。最終日はアジア勢初のアンダーパーフィニッシュを期待されたが、74を叩いて前年と同じイーブンパー288であったが、順位は1つ上げて12位に食い込み、アジア勢最高位を更新した。2年連続の活躍に「東洋から来た飛ばし屋」として、162cmという小柄な身長で奮闘する姿から「リトル・コーノ」の愛称で多くの観客から愛され、出場し続けた5年間で4つのイーグルを残し、1972年には4日間で2つのイーグルを残した。

小柄な体格とは裏腹に外国人選手と堂々と渡り合い、小柄な身体で限界までスイング円弧を大きくするために、独自のループスウィングを編み出した。飛距離だけでなく、狙ったところに落とす正確さに世界の観客は魅了され、実際にマスターズ観戦に行った関係者も「ボールが柔らかく空中に舞いカップに吸い込まれた」という表現を残した。

国内では1970年に5勝を挙げて日本人初の1000万円プレーヤーとなり、同時代に活躍した安田、杉本英世と共に「和製ビッグ3」と称され、プロゴルフ人気を高めることにも大きく貢献。全盛期の30歳で藤沢市鵠沼海岸へ移り住み、オフシーズンは海岸を黙々と走り足腰を鍛えた。

日本ツアーがツアー制度を施行した1973年には2勝を挙げて賞金ランク8位になったが、以後は勝利から遠ざかる。

1973年の産報クラシックでは初日をマーシュ・日吉定雄・謝敏・アルダと共に5アンダー67の首位タイでスタートし、2日目もアイアンが冴えて依然快調に飛ばし、マーシュと共に首位タイを守った。3日目には島田幸作・田中文雄と並んでの5位タイに後退したが、最終日にはマーシュと並んでの2位タイとした。

続くファーストフライトでも好調のゴルフを見せ、初日に7アンダー65のコースレコードを出して首位に立ち、前年に尾崎将がマークした66を更新。2日目も好調に4アンダー68でまとめ、通算11アンダー133で首位の座を守るが、3日目は激しい降雨で中止となる。最終日にはアプローチに冴えを見せ、7バーディ、ノーボギーでコースレコードタイの65を出し、通算18アンダー198で尾崎将・アルダを6打差離して楽勝。

1981年のジーン・サラゼン ジュンクラシックでは3日目に69をマークして5位から首位に浮上し、最終日も中盤までベテランならではの巧みな技を駆使してリードを広げるなど主導権を握っていた。独走かと思われた直後の「魔の14番」でまさかのトリプルボギーを叩き、逆にバーディであった湯原信光の逆転を許す。一騎打ちの様相を呈した上がり4ホールでは、15番で先に長いパットを決めてイーグル。湯原は4、5mほどのパットが入らずバーディで並び、16番は両者パーに終わり、17番では湯原がグリーンを外してボギーを叩く。18番では先に打った河野のボールはフェアウェイ右の、ラフとの境目近くに止まったが、2オンは厳しい距離が残った。一方の湯原はビッグドライブを放ったものの、左のラフへ捕まってしまい、ボールは幸いにして沈んでいなかったが、爪先下がりで左上がりの複雑なライ。グリーンまでは200ヤードであったが、グリーンの手前には名物の池が大きく口を開けていた。誰が見ても難しい左のラフから、湯原は5番アイアンで会心の1打を放つと、フェード気味の軌道でピンへと吸い寄せられた。手前3mのバーディチャンスにつくスーパーショットで、河野にプレッシャーをかける。一方の河野はまだピンまで30ヤードのアプローチを残していたが、この第3打を寄せ切れず、5mのパーパットも決められず、万事休すの状況となって、2位に終わる。

1983年のかながわオープンでは初日に64をマークして海老原清治・中村通・尾崎将・丸山智弘・豊田明夫を抑えての首位でスタートし、最終日には秋富由利夫・東聡・河野和重・湯原・矢部昭・中村忠夫・豊田・中村を抑えて9年304日ぶりの勝利を挙げ、現在も国内男子ツアーのブランク優勝の記録で歴代5位の記録となっている。

46歳になった1986年にはゴルフ練習場「藤沢ジャンボゴルフ」アドバイザーに就任し、パッティングやアプローチの練習施設の設計・監修に携わったほか、ツアーの合間には一般へのゴルフレッスンも行っていた。パッティングの練習施設を造る際には、代表取締役に「おもちゃを作るな、本物を作れ」と叱咤激励した。並行してTBS解説者(1986年6月 - 1993年6月)も務め、1989年には50歳を前にレギュラーツアーから引退し、その後はシニアツアーで活躍。

2003年から2008年まで日本プロゴルフ協会理事を務めたが、2005年には協会長選挙を巡って暴力団関係者に拉致・監禁される事件もあった。2009年に肝臓癌を患って体調を崩し、2010年4月には秋田県の玉川温泉に療養に出ていたが、吐血して仙北市の市立角館総合病院に入院。同22日に死去。70歳没。

生前、アドバイザーを務めた「藤沢ジャンボゴルフ」1Fロビー横には「河野高明メモリアルブース」を開設。優勝カップや実際に河野が書き込んだマスターズのスコアカードなど、貴重な品々を特別展示している。

2017年には陳清水、清元登子、村上、島田幸作、涂阿玉と共に第5回日本プロゴルフ殿堂入りを果たす。

1967年 - 日本シリーズ

1968年 - 日本オープン、日本シリーズ

1969年 - ダンロップトーナメント

1970年 - 西日本サーキット下関、チャンピオンズトーナメント、グランドモナーク、ロレックストーナメント

1971年 - 西日本サーキット下関、チャンピオンズトーナメント、グランドモナーク

1972年 - チャンピオンズトーナメント

1973年 - チャンピオンズトーナメント、ファーストフライト

1983年 - かながわオープン

1968年 - ブラジルオープン

1969年 - マレーシアオープン

1971年 - マレーシアオープン

1972年 - シンガポールオープン

DNP = 出場せずCUT = ハーフウェイ・カットT =順位タイ黄色はトップ10入り。

^ 【歴代顕彰者紹介㉓】河野高明(第5回顕彰者)マスターズで認められた「リトル・コーノ」

^ 河野 高明 | 日本プロゴルフ殿堂

^ 従来は第1回に石井朝夫の出した68。

^ ゴルフ日本シリーズの歴史 第4回 – GOLF報知

^ “Takaaki Kono venceu o Aberto Brasileiro” (Portuguese). Jornal do Brasil (Rio de Janeiro, Brazil): p. 20. (5 November 1968). https://news.google.com/newspapers?id=VaIpAAAAIBAJ&sjid=oe8DAAAAIBAJ&pg=5354%2C1338165 21 May 2020閲覧。 

^ JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】

^ ゴルフ日本シリーズの歴史 第5回 – GOLF報知

^ 【日本男子の海外挑戦記・昭和編28】猛追及ばず、2度目の世界一を逃す――1972年ワールドカップ

^ 【日本男子の海外挑戦記・昭和編㉓】1969年極東サーキットを日本選手が席巻、全7戦5勝

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^ "> 【日本男子の海外挑戦記・昭和編㉕】1971年極東サーキットで和製ビッグ3の激闘、尾崎将司デビュー

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^ 【日本男子の海外挑戦記・昭和編㉗】1972年極東サーキットで人気の尾崎将司と和製ビッグ3の意地

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^ 【日本男子の海外挑戦記・昭和編㉖】1972年尾崎将司がニュージランドPGAで海外初勝利

^ KONO'S MEMORIAL 河野メモリアル | 藤沢ジャンボゴルフ

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^ リトルコーノが殿堂入り 鵠沼海岸で40年過ごす | 藤沢 | タウンニュース

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^ 朝日新聞縮刷版p588 昭和48年9月17日朝刊18面「下積み11年 花開く 鷹巣、初タイトル 11アンダーで逃げ込む 産報ゴルフ」

^ 朝日新聞縮刷版p749 昭和48年9月21日朝刊19面「コース新で河野首位 ファーストフライト・ゴルフ第1日」

^ 朝日新聞縮刷版p785 昭和48年9月22日朝刊19面「河野高11アンダー 尾崎も急追、1打差に ファーストフライト・ゴルフ」

^ 朝日新聞縮刷版p828 昭和48年9月23日朝刊18面「雨で中止 ファーストフライト・ゴルフ」

^ 朝日新聞縮刷版p847 昭和48年9月24日夕刊5面「18アンダー河野高優勝 ファーストフライト・ゴルフ」

^ リトル・コーノ撃破で父も納得 3羽ガラスの1羽誕生の瞬間【名勝負ものがたり】

^ 朝日新聞縮刷版p900 昭和58年7月24日朝刊16面

^ 朝日新聞縮刷版p934 昭和58年7月25日朝刊18面

^ 47歳・小林正則、史上5番目のブランクVへ 「ヘッドが走る」パターでショットも復調

^ 『TBS50年史』資料編P234。

^ 「PGA前会長ら3人逮捕問題」の続報 拉致された河野高明が語る恐怖体験

^ 『“和製ビッグ3”河野高明氏が死去』

^ “河野高明さん死去 ゴルフ・マスターズ5年連続出場”. asahi.com (朝日新聞社). (2010年4月24日). https://web.archive.org/web/20100428020139/https://www.asahi.com/obituaries/update/0424/TKY201004240239.html 2010年4月24日閲覧。 

^ 顕彰者紹介 | 日本プロゴルフ殿堂

この項目は、ゴルフに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト ゴルフ)。

河野高明 - 日本ゴルフ殿堂 顕彰者紹介

河野高明 - 日本ゴルフツアー機構 プロフィール

河野高明 - 日本ゴルフ協会プロフィール

KONO'S MEMORIAL 河野メモリアル - 藤沢ジャンボゴルフ

63 石井朝夫

64 中華民国の旗 陳清波

65 杉原輝雄

67 河野高明

68 河野高明

69 杉本英世

70 杉原輝雄

71 尾崎将司

72 尾崎将司

73 杉原輝雄

74 尾崎将司

75 村上隆

76 前田新作

77 尾崎将司

78 青木功

79 青木功

80 尾崎将司

81 羽川豊

82 中嶋常幸

83 青木功

84 中村通

85 尾崎健夫

86 中村通

87 青木功,アメリカ合衆国の旗D.イシイ

88 尾崎直道

89 大町昭義

90 尾崎直道

91 尾崎直道

92 中華民国の旗 陳志明

93 中嶋常幸

94 佐々木久行

95 尾崎将司

96 尾崎将司

97 丸山茂樹

98 宮本勝昌

99 細川和彦

00 片山晋呉

01 宮本勝昌

02 片山晋呉

03 平塚哲二

04 オーストラリアの旗 ポール・シーハン

05 今野康晴

06 インドの旗 ジーブ・ミルカ・シン

07 オーストラリアの旗 ブレンダン・ジョーンズ

08 インドの旗 ジーブ・ミルカ・シン

09 丸山茂樹

10 藤田寛之

11 藤田寛之

12 藤田寛之

13 宮里優作

14 宮本勝昌

15 石川遼

16 大韓民国の旗 朴相賢(英語版)

17 宮里優作

18 小平智

19 石川遼

20 アメリカ合衆国の旗 チャン・キム

21 谷原秀人

22 谷原秀人

23 蟬川泰果

27 赤星六郎

28 浅見緑蔵

29 宮本留吉

30 宮本留吉

31 浅見緑蔵

32 宮本留吉

33 中村兼吉

34 中止

35 宮本留吉

36 宮本留吉

37 中華民国の旗 陳清水

38 中華民国の旗 林万福

39 戸田藤一郎

40 宮本留吉

41 延原徳春

42-49 中止

50 林由郎

51 小野光一

52 中村寅吉

53 小野光一

54 林由郎

55 小野光一

56 中村寅吉

57 小針春芳

58 中村寅吉

59 中華民国の旗 陳清波

60 小針春芳

61 細石憲二

62 杉原輝雄

63 戸田藤一郎

64 杉本英世

65 橘田規

66 佐藤精一

67 橘田規

68 河野高明

69 杉本英世

70 橘田光弘

71 藤井義将

72 大韓民国の旗 韓長相

73 フィリピンの旗 ベン・アルダ

74 尾崎将司

75 村上隆

76 島田幸作

77 スペインの旗 セベ・バレステロス

78 スペインの旗 セベ・バレステロス

79 中華民国の旗 郭吉雄

80 菊地勝司

81 羽川豊

82 矢部昭

83 青木功

84 上原宏一

85 中嶋常幸

86 中嶋常幸

87 青木功

88 尾崎将司

89 尾崎将司

90 中嶋常幸

91 中嶋常幸

92 尾崎将司

93 奥田靖己

94 尾崎将司

95 伊沢利光

96 アメリカ合衆国の旗 P・テラベイネン

97 オーストラリアの旗 K・パリー

98 田中秀道

99 尾崎直道

00 尾崎直道

01 手嶋多一

02 ニュージーランドの旗 D・スメイル

03 深堀圭一郎

04 谷口徹

05 片山晋呉

06 オーストラリアの旗 P・シーハン

07 谷口徹

08 片山晋呉

09 小田龍一

10 大韓民国の旗 金庚泰

11 大韓民国の旗 裵相文

12 久保谷健一

13 小林正則

14 池田勇太

15 小平智

16 松山英樹

17 池田勇太

18 稲森佑貴

19 アメリカ合衆国の旗 C・キム

20 稲森佑貴

21 南アフリカ共和国の旗 ショーン・ノリス(英語版)

22 蟬川泰果

23 岩崎亜久竜

24 今平周吾

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2024/11/21 23:41更新

kouno takaaki


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