渡辺銕蔵の情報(わたなべてつぞう) 経済学者、経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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渡辺銕蔵の情報まとめ
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう)さんの誕生日は1885年10月14日です。大阪出身の経済学者、経営者のようです。
卒業、結婚、事件、映画、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1980年に亡くなられているようです。
渡辺銕蔵のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。大正8年(1919年)経済学部設立に携わり同教授に就任し今日の経営学の一つの源流を形成した。大正6年に起こったロシア革命の影響は直ちに日本に現れた。大正9年(1920年)、同学部の助教授・森戸辰男が機関誌にクロポトキンの論文を掲載(森戸事件)。渡辺はこれを論理も学術的価値もないと批判したが、東大新人会が森戸を擁護し、これをきっかけに学生の赤化思想に拍車がかかった。これは渡辺が後の東宝争議に際し不退転の勇猛心を与える事件となったが、さらに経済学部のマルクス派の助教授の結束が現われ始めたことや、国立大学教授の停年制採用反対に賛同者が無かったこと等で職を辞し、昭和2年(1927年)、強く要請のあった東京商業会議所に転じ書記長に就任した。翌昭和3年(1928年)、商工会議所法により東京商工会議所専務理事。また日本商工会議所設立に伴いその専務理事も兼務し、郷誠之助会頭らの下で実力者として才腕を振るった。昭和8年(1933年)ジュネーヴの国際労働会議に日本使用者側代表として出席。同年より政府・軍部が経済統制に着手すると反対の立場をとったため、昭和9年(1934年)理事辞職を余儀なくされた。 昭和11年(1936年)、衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で東京府第1区に立候補し当選。政務調査会副会長を務めるが、翌昭和12年(1937年)の衆議院議員総選挙では落選。 昭和13年(1938年)~昭和17年(1942年)全国無尽集会所(全国相互銀行協会)理事長。他に都市計画中央委員会委員・帝都復興審議会評議員・東京特別都市計画委員会委員、日本米穀会副会頭などのポストに就いた。 同年、「渡辺経済研究所」を開設。世界各国の財政・物価・国防資源などの調査研究を元に論文・著作を多数刊行。日独伊三国同盟反対や対米戦争を批判、昭和19年(1944年)、「戦争はやめるべき」との発言が憲兵に密告され、流言蜚語の罪で投獄された。 戦後新憲法施行後第一回となる昭和22年(1947年)4月25日投票の衆議院総選挙に日本自由党公認で東京都第1区から立候補して次点落選。同年11月17日、強力な労働組織を持つ東宝の取締役から反共の信念を見込まれ同社社長に就任。昭和23年(1948年)4月、経営再建のため、砧撮影所の約半数にあたる600人余りいたといわれる共産党員のうち、組合活動員を主とした社員270人の解雇を断行。しかし労組の強い反発で争議は泥沼化した。同年8月、東京地裁が争議団のこもる砧撮影所占有解除の仮処分を執行した際、GHQに協力を要請し腕ずくで解決。警視庁予備隊1800人に加え米軍の戦車や装甲車、飛行機も出動させ「こなかったのは軍艦だけ」といわれた東宝争議で、組合員を強制排除した。この争議をきっかけに名だたる大スターらとスタッフが新東宝を設立し、有名監督らもこぞって移籍してしまったため、東宝は制作をやめ配給専門の会社にするしかないといわれるほどの未曾有の危機に陥った。昭和24年(1949年)東宝会長に就任。また映画産業振興審議会会長に就任。 昭和25年(1950年)1月16日に東宝取締役会長を辞して自由党公認で参議院選挙に東京地方区から立候補したが落選。その後芦田均らと反共・再軍備・憲法改正に力を注ぎ昭和27年(1952年)「軍備促進連盟」を結成し超党派の国民運動を開始した。昭和28年(1953年)衆議院総選挙に分党派自由党公認で東京都第2区から立候補して落選。 昭和30年(1955年)アジア反共連盟総会自由アジア協会を創設し理事長。昭和31年(1956年)アジア人民反共連盟(APACL)日本代表として韓国・台湾の運動と深い関係を持った。同年、映倫委員長として日活の"太陽族映画"の製作を中止させたりした。その他日本体育専門学校(現日本体育大学)校長、GHQ閉鎖機関審査委員会副会長、国立公園審議会副会長、教育刷新調査会会長、公職資格審査委員会委員などを務めた。 昭和55年(1980年)4月5日死去。享年94。 昭和26年、マキノ雅弘監督は喜劇時代劇『豪快三人男』を東映で撮ったが、月形龍之介演じる「島根兼四郎(すまんねかんにんしろ)」という人物が、劇中何かあると屁をこくキャラクターだった。これを映画産業振興審議会(正式発足は昭和28年から)会長だった渡辺が「不謹慎である」として咎め、マキノ監督と脚本の小國英雄を呼び出した。 マキノと小國は渡辺に「映画で屁をこくとは客に失礼である!」と叱責されたが、これには二人も大笑い。マキノは「まだこんな頭の固いやつらが私たちの上に立ってとやかく云ってくるのか、画面からくさい臭いが出るはずもないのに! と情けなくなった」と語っている。 長男・文夫は東京海上火災保険社長、日本航空会長を務めた。次男・正雄は電通元常務。 欧州戦争と独逸の食料政策、有斐閣書房、1916年 社会問題批判、修文館、1919年 商事経営論、修文館、1922年 都市計画及住宅政策、修文館、1924年 英国の労働組合運動、岩波書店、1924年 経済政策要論、清水書店、1924年 工場経営論、清水書店、1924年 現代社会政治管見、弘文堂書店、1924年 日本の力、章華社、1935年 自滅の戦ひ、東京修文館、1947年
反戦反共四十年、自由アジア社、1956年 孤独のたたかい、自由アジア社、1959年 天皇のある国の憲法、自由アジア社、1964年 激動の日本、自由アジア社、1968年、新版1976年 渡辺銕蔵著作集 全3巻(激動の日本/自滅の戦い 前・後編)、自由アジア社、1982年 ^ 同校出身者は他に佐々木到一、内藤克俊、藤田一暁、阿川弘之、竹西寛子、朝比奈隆 (画家)ら。 ^ 渡辺銕蔵コトバンク 20世紀日本人名事典 2019年11月20日閲覧。 ^ e-hon 本/広島積善館 ^ 『日本近代人物履歴事典』 東京大学出版会 2002年 574頁 自著『孤独のたたかい』 自由アジア社 1969年 2頁 ^ 広島陸軍偕行社附属済美学校の碑 “ヒロシマを生きて被爆記者の回想/65 母校・済美の廃校 校舎焼失、門柱だけ残る 軍に関係、再建許されず /広島”. 毎日新聞. 毎日新聞社 (2020年4月17日). 2023年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月25日閲覧。土門稔 (2016年8月12日). “被爆71年:「2016ピースウォーク 軍都広島を歩く」に参加して”. クリスチャントゥデイ. 2016年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月25日閲覧。 ^ 『映画渡世・地の巻 マキノ雅弘伝』(マキノ雅弘、平凡社) 田中文雄『神を放った男 映画製作者田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年。ISBN 4-87376-070-4。 日本の実業家―近代日本を創った経済人伝記目録、日外アソシエーツ、2003年7月 歴代閣僚と国会議員名鑑、憲政資料編纂会、1988年9月 日本の映画人-日本映画の創造者たち-、佐藤忠男著、日外アソシエーツ、2007年6月 20世紀WHO'S WHO 現代日本人物事典、旺文社、1986年11月 現代日本朝日人物事典、朝日新聞社、1990年12月 20世紀日本人名事典、日外アソシエーツ、2004年7月 日本の労働争議 1945-80年、労働争議史研究会、東京大学出版会、1991年1月 法政大学大原社研_東宝争議〔日本労働年鑑 1951年版207〕 自由アジア社ホームページ 表 話 編 歴 大澤善夫1943-1947.3 田辺加多丸1947.3-1947.12 渡辺銕蔵1947.12-1949 米本卯吉1949-1950 小林富佐雄1950-1951 小林一三1951-1955 小林富佐雄1955-1957 清水雅1957-1967 松岡辰郎1967-1974 清水雅1974-1977 松岡功1977-1995 石田敏彦1995-2002 高井英幸2002-2011 島谷能成2011-2022 松岡宏泰2022-現在 渋沢秀雄1943-1947.3 田辺加多丸1947.12-1949 渡辺銕蔵1949-1950 米本卯吉1950-1951 松岡辰郎-1967 清水雅1967-1974 馬淵威雄1974-1981 松岡功1995-2009 表 話 編 歴 隠岐重節 1893-1894 東条英教 1894-1897 武田秀山 1897-1900 吉村寅太郎 1900-1902 高島平三郎 1902-1904 加納久宜 1904-1912 代理 寺田勇吉 1912-1915 代表者 小林好愛 1915-1917 代表者/校長 久能司 1917/1917-1920 代表者 比志島義輝 1920-1924 稲垣三郎 1924-1939 二荒芳徳 1939-1941 二荒芳徳 1941-1946 事務取扱 秋山四麿 1946-1947 事務取扱/校長 飯塚晶山 1947/1947-1948 渡辺銕蔵 1948-1949 事務取扱/校長 栗本義彦 1949-1950/1950-1951 事務取扱/初代 栗本義彦 1949-1950/1950-1972 代行/第2代 清水正一 1972-1973/1973-1979 第3代 岡田俊彦 1979-1982 第4代 岩間英太郎 1982-1988 代行 綿井永寿 1988-1989 第5代 稲垣安二 1989-1992 第6代 綿井永寿 1992-1998 第7代 塔尾武夫 1998-2001 第8代 長谷川正明 2001-2005 代行 落合卓四郎 2005 第9代 伊藤孝就 2005-2007 代行/第10代 落合卓四郎 2007/2007-2010 代行 塔尾武夫 2010 第11代 谷釜了正 2010-2017 第12代 具志堅幸司 2017-2021 第13代 石井隆憲 2021- カテゴリ 日本体育大学 人物 メディア FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 IdRef 20世紀日本の実業家 日本の経済学者 東京府選出の衆議院議員 (帝国議会) 昭和時代戦前の衆議院議員 日本体育大学学長 日本体育大学の教員 東京大学の教員 東宝の人物 黎明会の人物 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 広島県立広島国泰寺高等学校出身の人物 大阪市出身の人物 広島市出身の人物 1885年生 1980年没 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/19 10:04更新
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watanabe tetsuzou
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