琴稲妻佳弘の情報(こといなづまよしひろ) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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琴稲妻佳弘の情報まとめ
琴稲妻 佳弘(こといなづま よしひろ)さんの誕生日は1962年4月26日です。群馬出身の相撲のようです。
現在、卒業、引退、映画に関する情報もありますね。琴稲妻佳弘の現在の年齢は62歳のようです。
琴稲妻佳弘のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)琴稲妻 佳弘(こといなずま よしひろ、1962年(昭和37年)4月26日 - )は、群馬県利根郡みなかみ町(旧利根郡新治村)出身(のちに協会発表の出身地を沼田市に変更)で佐渡ヶ嶽部屋に所属した元大相撲力士。本名は田村 昌浩(たむら よしひろ)。現在は年寄・粂川。最高位は東小結(1995年(平成7年)11月場所)。現役時代の体格は181cm、137kg。得意手は突き、押し、右四つ、寄り、上手投げ、肩透かし。地味ながら、巧さの光る相撲で長く活躍した。通称は「ピヨ」。 新治村立新治中学校時代、当時活躍していた同郷の関脇・栃赤城に憧れ「あのようになりたい」と言っていたところ、佐渡ヶ嶽(元横綱・琴櫻)に誘われて卒業後に佐渡ヶ嶽部屋に入門し、1978年(昭和53年)3月場所、初土俵を踏んだ。四股名は第7代横綱・稲妻雷五郎に因んだものである。 素質にはあまり恵まれていなかったが稽古熱心でそれを補い、1985年(昭和60年)5月場所で十両昇進、1987年(昭和62年)11月場所で新入幕を果たす。稽古場では厳しく後輩達を鍛え上げ、鬼軍曹と恐れられた。 入幕後しばらくは幕内中位で相撲を取ることが多かったが、1993年(平成5年)頃から攻めに巧さが加わるようになった。そして1994年(平成6年)9月場所では、優勝争いをしていた大関・貴ノ浪と同・若ノ花を連破して8勝7敗と勝ち越し、初の三賞となる殊勲賞を受賞。さらに1995年(平成7年)9月場所では、西前頭筆頭で大関・若乃花を破るなどして9勝6敗と勝ち越して敢闘賞を受賞し、翌11月場所、番付発表時点で33歳6ヶ月にして初めて小結に昇進した。序ノ口から所要106場所でつかんだ新小結の座だったが、これは、同107場所の玉龍に次いで大相撲史上2位のスロー三役昇進記録であった。同場所初日、全盛期を迎えていた横綱・貴乃花を上手投げで投げ飛ばして周囲を大いに驚かせた。しかし6勝9敗と負け越して、三役経験はこの1場所だけで終わっている。また横綱戦での勝利もこの一度のみであり、金星を獲得できなかった。 同学年の水戸泉・栃乃和歌・三杉里・寺尾とともに長く現役を務めたが、1999年(平成11年)7月場所、西十両5枚目の地位で3勝12敗と大きく負け越したことを機に37歳で引退。現役生活は21年の長きに及んだ。引退当時のインタビューでは、思い出の一番として、前述の貴乃花戦を挙げた。その後は年寄・粂川を襲名し、佐渡ヶ嶽部屋付きの親方として後進の指導に当たり、勝負審判も任務した。 歴代の幕内昇進力士の中で、取的時代に2度7戦全敗を経験したことがある数少ない力士である。横綱・北の湖も序二段時代に全勝を記録し三段目に上がった翌場所は全敗を記録しているが、琴稲妻も下記の成績のように三段目で全勝を記録して幕下に上がった場所は全敗を記録している。 引退後は佐渡ヶ嶽部屋付きの親方として後進の指導をしており、相撲協会では指導普及部で職務を行っている。 2021年1月場所は、新型コロナウイルス感染者が確認された部屋の師匠に代わって審判を務めている。 2022年3月11日、協会は1月27日の役員候補選挙で副理事候補に当選した新任の粂川を選任した。2022年3月30日の職務分掌により、副理事として審判部副部長に就任した。 琴稲妻は若手時代に痛風を患い、その治療の為に服用していた内服薬の副作用により髪の毛が抜け、額が広がってしまったが、それが後年、琴稲妻のトレードマークとされた。 そのことは琴稲妻自身も自覚していると見られ、相撲に対する厳しさとは対照的に、ファンやマスコミとのやり取りにおいては頭髪の事に触れられても「立ち合い頭で当たっている証拠です」と冗談で返答するなど、積極的に“自虐ネタ”として利用していた。 九州へ行くと、鹿児島県出身の薩洲洋とよく間違えられたと言うが、薩洲洋も髪が薄く、逆に群馬に行くと琴稲妻と間違われる事があったと言う。 新小結の記者会見で、当時の師匠が琴稲妻の小さな髷を指して「これが本当の小結だ」と発言して記者の笑いを誘った。 「月刊相撲」における、支度部屋でのコメントを題材にした記事によると、自身の髷結いを担当する床山には、髷結いの最中に頭髪が抜けたら1本あたり1000円の罰金を科していたとされる。しかし、実際にこれを徴収した事実は確認されていない。 1999年2月8日に東京体育館で行われた「力士会大運動会」の二人三脚に夫人と共に参加した際、ゲストの松村邦洋に競技前のインタビューで「断髪式ではなくて、植毛式にしてみませんか。」との“提案”を受け、夫人共々失笑する様子が「月刊相撲」で掲載された。 引退直後の取材陣に長く現役を務める事ができた秘訣を尋ねられた折には、照れくさそうに自身の頭をなでながら「怪我(毛が)無かったことですかねえ」と嬉しそうに答え、周囲を爆笑させたこともあった。 断髪式では髷に鋏を入れずにチョンと鳴らすだけという参列者が多かったとされる。一門年寄代表として参列した間垣親方(元横綱・2代若乃花)には「おい、切る髪がないぞ」と言われて苦笑する一幕もあったという。 通算成績:752勝802敗30休 勝率.484 幕内成績:405勝480敗15休 勝率.458 現役在位:128場所 幕内在位:60場所 三役在位:1場所 (小結1場所) 三賞:2回
敢闘賞:1回(1995年9月場所) 金星:なし 田村 昌浩(たむら よしひろ)1978年3月場所(※前相撲のみ) 琴稲妻 昌浩(こといなずま -)1978年5月場所-1985年9月場所 琴稲妻 佳弘(同上)1985年11月場所-1999年7月場所 粂川 佳弘(くめがわ よしひろ)1999年7月- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p27 ^ 現役時代の場内アナウンスでは新治村(一時期は「村」を省略し「新治」のみ)出身とし、佐渡ヶ嶽部屋の公式ホームページでも新治村出身としている。実際に新治村の出身であるが、現在の日本相撲協会公式サイト上のプロフィールでは沼田市出身としている ^ 好角家の漫画家・やくみつるは当場所の三賞初受賞について、2度目の大関陥落後の現役末期に敢闘賞を受賞した名寄岩が主人公となった映画「涙の敢闘賞」を引き合いに出し、琴稲妻の敢闘賞受賞を題材にした映画が作られたとする一コマ漫画を執筆した。 ^ “粂川親方ら代役審判 部屋に陽性者の九重親方ら全休 - 大相撲 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com(2021年1月10). 2021年1月17日閲覧。 ^ 藤島親方ら副理事候補3人を選任 相撲協会理事会 産経新聞 2022/3/11 18:04 (2022年3月12日閲覧) ^ 「伊勢ノ海親方は大阪場所担当部長、佐渡ケ嶽親方は審判部長 日本相撲協会が新職務分掌を発表」『日刊スポーツ』2022年3月30日。2022年3月30日閲覧。 ^ やくみつるも自身執筆の「おチャンコクラブ」の連載初期、両者の対戦で呼出及び行司が両者の酷似っぷりに困惑するネタを描いた。 ^ 右足首関節靱帯断裂により8日目から途中休場 ^ 右大腿部負傷および左腓腹筋挫傷により5日目から途中休場、12日目から再出場、13日目から再度途中休場 小結一覧 琴稲妻 佳弘 - 日本相撲協会 ことこと琴稲妻 表 話 編 歴 佐渡ヶ嶽 粂川 白玉 浜風 荒磯 尾車 琴櫻 琴勝峰 琴栄峰 琴挙龍 琴太豪 琴大進 琴翼 琴ノ藤 琴佐藤 琴大龍 琴羽黒 琴太成 琴大河 琴江頭 琴布野 琴裕将 式守輝乃典 琴三 琴吉 床東 床響 表 話 編 歴 出羽海 中立 高崎 境川 関ノ戸 山科 振分 立田川 武隈 春日野 富士ヶ根 二十山 竹縄 三保ヶ関 清見潟 岩友 玉ノ井 雷 入間川(停年後再雇用) 藤島 大鳴戸 山分 待乳山 錦島 武蔵川 二子山 山響 小野川 木村瀬平(木瀬) 若藤 稲川 井筒 千田川 尾上 千賀ノ浦 北陣 式守秀五郎(式秀) 立浪 二所ノ関 中村 佐渡ヶ嶽 粂川 白玉 浜風 荒磯 尾車 押尾川 鳴戸 秀ノ山 片男波 熊ヶ谷 田子ノ浦 西岩 放駒 松ヶ根 芝田山 峰崎(停年後再雇用) 高田川 花籠(停年後再雇用) 大嶽 阿武松 不知火 常盤山 湊川 湊 錣山 時津風 中川 枝川 荒汐 浦風 伊勢ノ海 勝ノ浦 甲山 立川 春日山 鏡山(停年後再雇用) 音羽山 陸奥(停年後再雇用) 追手風 立田山(停年後再雇用) 高島(停年後再雇用) 高砂 若松 錦戸 九重 谷川 佐ノ山 大山 八角 陣幕 東関 君ヶ濱 伊勢ヶ濱 楯山 宮城野 間垣 安治川 大島 玉垣 浅香山 友綱 朝日山 桐山 出来山 群馬県出身の大相撲力士 1962年生 存命人物 群馬県出身の人物 佐渡ヶ嶽部屋 日本相撲協会の役員 ウィキデータにある日本相撲協会識別子
2024/12/05 19:09更新
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琴稲妻佳弘と同じ誕生日4月26日生まれ、同じ群馬出身の人
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