琴風豪規の情報(ことかぜごうき) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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琴風豪規の情報まとめ
琴風 豪規(ことかぜ ごうき)さんの誕生日は1957年4月26日です。三重出身の相撲のようです。
卒業、家族、引退、事件、テレビ、現在、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。琴風豪規の現在の年齢は67歳のようです。
琴風豪規のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)琴風 豪規(ことかぜ ごうき、1957年4月26日 - )は、三重県津市出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲力士、演歌歌手。本名は中山 浩一(なかやま こういち)。江東区立深川第二中学校卒業。最高位は東大関。現役時代の体格は身長183cm、体重173kg。得意手は左四つ、寄り。スポーツ報知評論家。愛称は「ペコちゃん」。 海軍相撲で鍛えた相撲好きの父(1989年、63歳で死去)の下に生まれる。中山少年が幼稚園児であった頃から家族と佐渡ヶ嶽部屋との縁はすでにできており、父は巡業で地元に佐渡ヶ嶽部屋一行が来ると送迎から夜の接待まで務めた。父は中山少年が小学5年だった1968年に事業に失敗し、子供二人を津市に残して両親は大阪に出稼ぎに出た。 「がぶり寄り」を武器に、膝の怪我に悩まされながらも見事大関まで昇進した力士で、「ペコちゃん」と呼ばれ人気も高く、相撲を取る前には学業で体育以外はオール5というインテリでもあった。小学5年生まで津市立高茶屋小学校に在籍していた。中卒後は料理学校への進学を希望していたが、周囲から「料理なんかうちの母ちゃんでもできる」と冷やかされ、当時大関の琴櫻に勧誘されたことで結果的に力士としての道を進んだ。日本相撲協会退職後に朝日新聞相撲記者の抜井規泰が取材したところによると、最初は「とんでもない!鉄棒や跳び箱が苦手な肥満児に、東京に転校して相撲をやれ、なんて」と中山少年本人は戸惑っていたという。入門前に部屋に見学を訪れた際について本人は「父や祖父、祖母は相撲が好きだったけど、俺は興味がなかった」と後に振り返っている。力士がしごかれる様、響く罵声に恐れをなし、稽古場を離れて近くのベンチに座って父を待っていると、琴櫻に声を掛けられ、父と共にちゃんこに誘われた。土産としてマロングラッセを貰い、その味に「お相撲さんは強くなったらこんなに高級なものが食べられるのか」と入門を決意。琴櫻からは「飛行機に乗せてやるよ」とも口説かれたと伝わる。 琴櫻が、引退後独立した際の弟子としてこっそりスカウトして稽古をつけていた。当時は入門するまでの間はそのまま内弟子として普通の中学生活を行うつもりであり、本人も入門については深く考えず東京で生活できることに喜んでいたが、当時の佐渡ヶ嶽親方(元小結琴錦)に見つかり「内弟子なんか許さん」という佐渡ヶ嶽の方針により1971年7月場所に初土俵を踏まされた。初めは琴櫻の内弟子扱いのため、かなりいじめられ、当時の琴櫻はまだ現役で親方の立場ではなかったため、助けようがなかったという。琴風は涙を堪えながら「人をいじめることには何の意味があるのか」「人をいじめて楽しいのか」と自問自答したが、周囲を見返すために稽古に打ち込み、元々運動音痴であったこともあってか決してうぬぼれはしなかった。琴櫻は引退直後独立を許されなかったため、内弟子であった琴風は父に「横綱の部屋に行けないのだったら相撲をやめる」と打ち明け、廃業する覚悟もしていた。その後、まもなく佐渡ヶ嶽親方が亡くなり、当時白玉親方を名乗っていた琴櫻が正式に佐渡ヶ嶽部屋を継承してからは、いじめはなくなったという。 1975年11月場所に新十両、1977年1月場所新入幕。同年11月場所で2回目の挑戦で北の湖から金星を挙げるなど10勝5敗を挙げ初の三賞となる殊勲賞を獲得。この場所の北の湖戦は、左四つになって右前まわしをつかみ体をあおるように寄り立てると、北の湖は土俵下へもんどりうった、という流れであった。これ以前は腰の重さに任せた相撲であったが、この1番をきっかけとして相撲が速くなった。翌1978年1月場所新関脇。一躍大関候補となり幕内上位の常連となり活躍したが、1978年11月場所の麒麟児戦で左膝内側側副靱帯断裂の大ケガで途中休場。翌1月場所の金城(後の栃光)戦でそれを再発させて再び途中休場。古傷の再発ということで公傷が適用されず、以後2場所連続全休で幕下30枚目まで陥落。それでも腐らずケガを治すと幕下2場所、十両1場所で通過し、1980年1月場所で幕内復帰。その場所で12勝3敗の成績を挙げ敢闘賞を受賞。翌3月場所も10勝5敗の成績を挙げ2場所連続の敢闘賞受賞。5月場所では関脇に復帰し10勝5敗の成績を挙げ殊勲賞を受賞するなど再び大関候補にのし上がるも7月場所ではまたも栃光戦で左膝内側側副靱帯断裂・左膝半月板損傷・左腰部挫傷の大ケガで途中休場。当時理事長の春日野親方(元横綱栃錦)が「今度こそ駄目だろう」と言ったほどの重症であった。この怪我で初めて患部にメスを入れたということからも怪我の重大さが分かる。 それにもめげず1981年3月場所に関脇に復帰すると4場所連続で関脇に在位した。7月場所後に唯一の大関だった千代の富士が横綱に昇進し大関不在となったため、「なんとか大関を生み出したい」との思惑で、7月場所後の巡業では北の湖との三番稽古に精を出した。大関取りとなった9月場所は「こんどが最後のチャンス」とひたむきな相撲をとり12勝3敗で初優勝、場所後の理事会で大関昇進が決まった。直近の大関昇進の事例と比較して直前3場所31勝は勝星数で劣るものの大関不在の事情や直前場所の優勝、幕下まで陥落しながらカムバックした不屈の精神力等が評価される形となった。伝達式では満面の笑みを浮かべたが、その夜になると左膝の怪我を抱えていることから大関としてやっていけるかどうか不安になり、トレードマークである笑顔が消えた。更に1983年1月場所にも14勝1敗で関脇朝潮との優勝決定戦を制し、2度目の優勝を飾った。唯一の綱獲りとなった翌3月場所は11勝4敗と失敗に終わり、その後も優勝や横綱昇進までには至らなかった。それでも2度目の優勝を果たした同年1月場所から1984年1月場所まで、7場所連続11勝以上を挙げ大関としてはかなり安定した好成績を残していた。 しかし1984年3月場所からは3場所連続で1桁勝ち星が続いてからは、調子が下降線をたどり始める。1984年9月場所千秋楽、最後まで多賀竜と平幕優勝を争った小錦に対して、2分を超える大相撲の末勝利し4場所ぶりの2桁勝利となる10勝5敗。翌11月場所も10勝を挙げたが、これが自身最後の2桁勝利となった。 1985年1月場所では、7勝7敗で迎えた千秋楽で大関朝潮を下して8勝7敗とようやく勝ち越し。だが翌3月場所、6日目まで5勝1敗と好調も7日目から千秋楽まで9連敗を喫し、5勝10敗で自身初の大関皆勤負け越しとなる。これで平幕時代の1981年1月場所から続いた連続勝ち越し記録も25場所でストップした。初の大関角番で迎えた翌5月場所では、6日目の大錦戦で敗れた際、右膝外側側副靱帯損傷・右腓骨頭剥離骨折により翌7日目から途中休場、2場所連続負け越しで大関陥落が決まった。 関脇に下がった7月場所は公傷全休。さらに9月場所もけがの回復が遅れ全休、10勝以上で大関特例復帰だったがそのチャンスも失った。11月場所では東前頭10枚目まで番付が降下。この場所再起を掛けて土俵に上がるも、初日三杉磯、2日目霧島、3日目寺尾と3連敗して引退を発表。たび重なる左ひざの大ケガを乗り越えてきた琴風だったが、結果的に良かったほうの右ひざまで故障してしまったのが致命傷となり28歳の若さで引退となった。 引退後は年寄・尾車を襲名し、佐渡ヶ嶽部屋から独立する形で1987年3月に尾車部屋を設立した。部屋設立を決意した際、尾車は妊娠中であった妻に対し「ある日、部屋が火事になり、弟子と実子が建物に取り残されたとする。1人しか助けられない状況なら、私は間違いなく弟子の方を救出する。その強い気持ちが無いと部屋は運営できない」という内容の話を聞かせたが、妻もその決意に納得した。尾車は、怖くて荒っぽい方向で厳しいという相撲のイメージを一新し、尾車部屋で相撲を取っていた経験を買われて社会に安心して受け入れられる人格者を育てたいという思いを持って部屋運営を始めた。以降、豪風や嘉風などの関取を育てるとともに、2005年4月には押尾川親方(元大関大麒麟)が部屋経営を断念したため押尾川部屋を引き取った。2009年1月に所属関取である若麒麟(押尾川部屋からの移籍組)の大麻所持事件により委員から平年寄への二階級降格の処分を受けた。これに際して部屋の閉鎖も考えていたが、嘉風ら部屋の力士から「自分にとっての師匠は親方だけです。親方が部屋を畳むのなら自分も引退します」と諭され翻意した。取的や裏方衆にまで土下座して謝罪したという。師匠としては甘いという印象があるが、豪風や嘉風が厳しい兄貴役を買って出てくれている。ある日その2人に若い弟子が怒られて肩を落としていた時、尾車はジュースと菓子を与えて「何も言われないより、叱られて変わった方が自分の財産になるんだよ。頑張りなさい」と励ました。そんな尾車が激怒したのは、ある時玄関掃除の際に弟子が空家の水道にホースを挿し水を盗用した時であり、これには尾車も「お前たちのやっていることは泥棒と一緒だ」と声を荒げた。 2010年の改選で委員に復帰するが、2011年に大相撲八百長問題に関与したとされる弟子の星風が4月14日に解雇された責任で再び主任に降格した。なお尾車は星風が引退勧告処分になる前に「これだけ騒がれれば、どちらにしても相撲は取れない」と調査委員会の決定に関わらず、星風を引退させる意向であった。 2012年の理事改選で日本相撲協会の理事に初当選し、巡業部長に就任。しかし、同年4月4日に小浜市で行われていた春巡業の会場内で転倒した際に古傷がある頚髄を捻挫して緊急入院し、同月11日に手術。一時は首から下が麻痺して寝たきりの状態であり、2ヶ月の入院を経てリハビリを開始した時には120㎏あった体重が90㎏を割り、握力が左4㎏、右が0㎏となっていた。しかしリハビリの甲斐あって、9月に公の場に姿を見せるようになり、11月11日に退院、14日から職場復帰している。2013年春巡業を以って1年ぶりに巡業の職務に復帰し、しばらくは会場の隅でイスに座って稽古を観察する形で職務を行い、同年秋巡業からは怪我が十分に回復したため通常通り土俵下で指導するようになった。後の話によると件の怪我は頸髄の4番から3番が損傷した上に2番にも傷が付いていたといい、「本来ならば呼吸器をつけて寝たきり」だったという。だが当時存命であり同じ病院に入院中であった大鵬が車椅子に乗ってリハビリ病棟へ見舞いに訪れたことをはじめとして多くの相撲人から激励の数々を受け、キャビンアテンダントとして大切な訓練を行っていた娘が3か月の介護休暇を取ってリハビリの支援を行うなどの助力があって復帰を遂げた。リハビリの甲斐あって入院前まで患っていた糖尿病は完治したという。 また日本相撲協会巡業部長を務める傍ら、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』の相撲解説者として場所ごとに出演しているほか、スポーツ報知の専属評論家を務めている。2015年12月には八角理事長就任により、それまで八角が務めていた協会事業部長を引き継いだ。 2016年6月23日、創価大学で文学部人間学科の共通専門科目「人間学」の授業が行われ、「人生8勝7敗-最後に勝てばよい」と題し講演を行った。 2016年7月31日、「昭和の大横綱」の千代の富士こと九重親方が61歳で病死。その訃報に「電話で聞いて吃驚している。名古屋場所中に体調が悪くて帰京したと聞いていたが、まさかこんなに早く亡くなるとは」とショックを隠せなかった。「中々勝てなかったが、よく出稽古に来た千代の富士関と稽古をしてお互いに鍛えられてきた。私が大関になれたのは九重親方のお陰です」と感謝の言葉を述べた。さらに「自分に厳しい人で、九重親方しか伝えられない経験をもっと伝えて欲しかった。今は『安らかにお眠りください。今後の相撲界を見守ってください』と言いたいです」と無念そうに語っていた。 2017年4月26日に60歳の誕生日を迎え、部屋では還暦祝いが行われる。豪風、天風ら弟子に囲まれ、誕生ケーキを前に祝福された。尾車は「(還暦は)静かに過ぎようとしたのに、こんなにお祝いをしてもらって感無量です」と満面の笑みを浮かべた。さらにマスコミ陣に対しては「まだまだこれから。老骨にむち打って(相撲協会の定年の)5年後迄は頑張る」「(協会ナンバー2の事業部長として)良い時こそ悪い事への原因が生まれやすい。かぶとの緒を締めてかからないと」等、今後の意欲と相撲協会員としての責任感についてコメントした。 2020年1月30日の役員候補選は定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、尾車を含む理事候補10人、副理事候補3人が全員当選。同年3月23日の評議員会で、正式に理事として選任された。 白鵬・鶴竜の2横綱が2020年11月場所を休場した際には「進退を懸けて出てこないとダメじゃないですかね。それぐらいの気持ちを持って出てくるんじゃないですかね」と厳しい言葉で再起を期待した。 2021年12月25日、2022年4月26日に65歳の誕生日を迎えて協会の定年となることに伴い、同年1月場所後に部屋を閉鎖することを明かした。8代尾車は「悔いはない。やりきったと感じている」と話し、これに伴い部屋閉鎖の意向を明かした時点で部屋付きである22代押尾川と13代中村が、それぞれ押尾川部屋、中村部屋の両方を2022年3月場所から始動できるよう調整を進めていることを明かしている。 尾車部屋にとって本場所最後の日となった2022年1月場所千秋楽(1月23日)の取材では、弟子の矢後が1月場所の十両争いに加わったことに対して「いい夢を見させてくれてありがとうと言いたい」と感謝の言葉を述べた。また、部屋持ち時代の思い出として、豪風と嘉風2人が優勝争いに絡んだ場所で優勝用のタイを用意したことを挙げた。自身と同じ大関を育てられなかっただけに「阿炎(錣山部屋)や王鵬(大嶽部屋)、竜電や輝(ともに高田川部屋)が私の夢をかなえてくれることを期待しています」とコメントし、尾車部屋の再興も誰かがしてほしいと願った。 1月場所後の1月27日、日本相撲協会の定例理事会で尾車部屋の閉鎖や、それに伴う押尾川部屋の新設などが2月7日付で承認された。2月7日に尾車部屋を閉じた後は押尾川部屋に部屋付きとして移籍した。 3月場所9日目の3月22日に定年会見が行われた際に「僕みたいな未経験、運動神経が悪い、体形も相撲に向いていない者が大関になれた。賜杯を抱くことだって誰でも夢じゃない」と熱く訴え、14歳での佐渡ケ嶽部屋入門から波瀾万丈だった51年間を振り返った。 家族ぐるみの付き合いのあった元大関・朝潮の長岡末弘が死去した際には「なんて表現したらいいのか…。仲間が減っていくのはつらいよ」と受け止めきれない様子で「朝乃山が綱を張る姿を見たかっただろうな」と思いやった。 2024年5月11日、再雇用の任期満了を待たずに67歳で日本相撲協会を退職した。 2024年11月場所からNHKの大相撲中継の専属解説者に就任した。中継には琴風 浩一名義で出演している。 幕下まで陥落した時、周囲は「怪我で番付を落としたのだから(しかも前に痛めた箇所の再発という理由で公傷制度の適用が認められなかった)本来幕下以下の力士に命じられる部屋の雑用はやらなくて良い」としたが、琴風は「自分は幕下の力士だから」と他の力士同様に十両に復帰するまで雑用をこなしていた。琴風自身も「今までは勝負に勝つことにしか意義を見出せなかったが、膝のケガをしてからは相撲を取ることそのものに意義を感じられるようになった」と心境の変化があったことをインタビューで語っている。幕下で復活を狙っていたある時も、巡業で重いトランクを引っ張って佐渡ヶ嶽の後を付いて行ったが、その巡業で琴風は、当時幕内であった富士櫻から「お前、偉いなあ。絶対に(上に)戻れるからクサるなよ」と励まされた。 怪我で幕下に陥落していた頃には巡業の勝負審判を務めていた佐渡ヶ嶽親方の風呂の世話を務め、綺麗好きで有名な佐渡ヶ嶽親方は琴風に足拭きまで命じていた。同世代の北の富士は幕内経験者へのこの扱いに「佐渡さん、それはかわいそうだよ」と抗議したが、佐渡ヶ嶽は「いや、今が大事な時なんです」と譲らなかった。 その代名詞とも言えるがぶり寄りは下半身が硬い琴風にとって必要に迫られた技でもあったが、上位力士にとっても侮れないものがあった。琴風の体型が相手の懐に飛び込みひたすら前に出るには理想的であったこと、土俵際で投げを打たれにくいなど、相手の変化に影響されにくい利点があった。全盛期の横綱北の湖からの初勝利の時、初優勝の場所で横綱2代若乃花を下した一番でも、このがぶり寄りが大いなる武器となった。しかし、琴風は膝の怪我に悩まされており、全身をバネにする技だけに、がぶり寄りが与える膝への負荷が小さくなかったのも事実であった。 (カッコ内は勝敗数の中に占める不戦勝・不戦敗の数) 他に優勝決定戦で朝潮に1勝がある。 琴風が活躍した時代には様々な強豪がいたが、琴風は下位力士に強く、上位との対戦を多少強いられても十分勝ち越す実力があった。ライバルには朝潮、北天佑などが居た。若嶋津、隆の里との対戦は琴風が大きく勝ち越すなど、上位にも通用する強さがあった(ただし、隆の里との対戦で分が良かったのは優勝をした1983年1月場所までであり、この時点で17勝4敗だったが、1983年3月場所以降は1勝9敗とほとんど勝てなくなってしまった)。 一方、北の湖には23回の取組中僅か3勝と大きく負け越し。この3勝は平幕時代に挙げた金星であり、大関昇進後は全く勝てなくなってしまった。千代の富士に対しては初顔合わせから5連勝していたが、千代の富士が琴風対策を練るために佐渡ヶ嶽部屋に出稽古に来るようになり、6度目の対戦で千代の富士に初黒星を喫して以降は力関係が逆転して全く勝てなくなってしまった(特に千代の富士の大関昇進後は琴風が2度目の優勝を飾った1983年1月場所での1勝のみ)。なお、琴風と千代の富士の三番稽古は千代の富士の横綱昇進後も3年ほど続き、琴風にとっても地力強化をもたらす貴重な財産となった。 1984年から引退する1985年まではあまり目立った活躍とは言えなかったが、蔵前国技館で行われる最後の場所となった1984年9月場所では、入幕2場所目ながら「殺人突っ張り」で上位陣を次々と破る大活躍を見せていた小錦を千秋楽で打ち負かした。 しかしのちに横綱・大関に昇進した、大ノ国(のち大乃国)とは3連勝の後8連敗を喫した。ほか旭富士・保志(のち北勝海)・小錦・霧島・北尾(のち双羽黒)とも、それぞれ互角もしくは負け越しと、分の悪い成績となった。 琴風の安定した成績を表すものとして大関時代の通算成績(212勝110敗8休)がある。在位年数こそ3年半余と決して長いとは言えないものの、勝率(.658)に換算すれば1場所15日制が制定された1949年5月場所以降に昇進した最高位が大関の力士の中では最も高く、1983年1月の2日目から1983年3月場所の7日目にかけて記録した21連勝は、年6場所制になって以降に横綱経験者を除いた力士が記録した中での最高連勝記録となった。大関在位中は皆勤を続けて、在位21場所目の1985年3月場所に5勝10敗と大関の地位で初めて負け越した。自身初かつ唯一の角番となった翌5月場所に大関時代初の休場を経験して大関を陥落した。在位22場所中、1982年11月場所から1984年1月場所にかけての8場所連続を含む13場所で二桁勝利をあげている。自身は「(大関として)9勝6敗でも申し訳なくて、角番なんかとんでもなかった」と後に語っている(サンケイスポーツ2009年9月22日)。下位力士に対する取りこぼしが少なく上位にも充分に通用していたことがこの数字に繋がった。現在でも「琴風の綱姿を見たかった」と話すファンがいる。 その後、2013年9月場所で引退した元大関把瑠都が在位は15場所と短いながら、133勝69敗23休で勝率.658と琴風に並ぶ大関勝率を残した(厳密には琴風は.65839、把瑠都は.65842)。皮肉にも両者はケガが原因で大関から陥落した点、それからまもなくケガで大きく番付を下げて若くしての引退を余儀なくされた点(琴風は28歳7か月、把瑠都は28歳10か月)で共通している。 なお2024年3月場所時点で現役の元大関髙安は把瑠都と同じ在位15場所で113勝57敗55休、勝率.665、同じく朝乃山はさらに短い在位7場所ながら51勝24敗30休で勝率.680であり、大関に復帰できないまま引退すれば琴風を上回る。 19歳の時(幕内で相撲をとっていた頃)に、創価大学の創立者である池田大作に初めて会った。池田大作は、そばに歩いて来て、顔を両手で挟みながら、「可愛い顔をしているね」と声をかけてきた。 生まれてすぐに黄疸にかかり命が危なくなったことがあったという。 学生時代には、体育系を除く教科で優れた成績を残し、教師を目指していたという。
インタビューでの話し方も知性を感じさせる独特なものがあったが、これが好評で現在でもしばしばテレビの解説で活躍する姿が見られる。 審判部からの誘いが持ち掛けられ審判委員も務めたことがあるが(1992年)、現役時代からの膝の故障により長時間座れないことを理由に短期間で断わっている。 サンデースポーツの解説担当時には、当時の司会者・原辰徳とアクション解説をする等の掛け合いが話題になった。なお、2022年4月に日本相撲協会を定年退職するのに伴い、2022年3月20日(大相撲春場所中日・八日目開催日)をもって番組を降板した。 プロボクサー亀田興毅の名である興毅は琴風豪規の豪規からきており、琴風のファンである父の史郎が多少編集して命名したとされる。 切手収集が趣味。子供の頃から熱心に収集し、珍しい切手も多数所有していたが、膝の怪我で幕下まで陥落した際、治療費に当てるために泣く泣く売り払った。後に「大切にしていた物であり思い出も多く大変迷ったが、相撲のほうがより大切だったので売却を決断した」と語っている。関取に復帰してから再び収集するようになり、現在も切手収集家である。 豪風に対しては30過ぎても現役を続けられていることからほとんど指導することがないと語っている。 2017年11月場所前の記事では「稽古と場所を勘違いして拍手する人なんかもいるんですが、朝稽古は見世物ではないので、そこは理解してほしい」と注意喚起している。実際、刈屋富士雄によると、1990年代後半においては稽古見学者は少し喋っただけで稽古場から追い出されたという。 2019年2月26日、日本相撲協会は力士規定によってひげを禁止することを正式に通達しているが、この決定に関与した尾車は力士のひげについて「汚く見えるものもあった」と感想を述べていた。 昭和時代に年寄を襲名した力士としては最も出生が遅い。また、昭和、平成、令和の3元号で年寄を務めていたのは、琴風と若嶋津六夫、三杉磯拓也、2020年3月で退職した大豊昌央の4人だけであり、部屋持ち親方を昭和からの3元号で務めていたのは、琴風と三杉磯だけである(若嶋津と大豊は自身の部屋を創設して部屋持ち親方になったのは平成になってから)。 日刊SPA!は,「尾車親方が、他人に相当恨みを買う手法で権力闘争を戦った事は間違いないようだ。追い落としたメンバーは、大鵬、北の湖、貴乃花と一代年寄りのスーパースターばかりである。2018年に貴乃花が協会を辞めたことにより、権力闘争は完全に終焉した。しかし、相撲協会にできた「禍根」はくすぶり続けるのではないか。」、「計算高い尾車親方も、まさかYouTubeと言う「窮鼠猫を噛む」メディアが脚光浴びる時代が来ることまでは、予想できなかっただろう。」などと評した。 通算成績:561勝352敗102休 勝率.614 幕内成績:395勝249敗80休 勝率.613 大関成績:212勝110敗8休 勝率.658 現役在位:87場所 幕内在位:49場所 大関在位:22場所 三役在位:11場所(関脇10場所、小結1場所) 通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(大鵬と並び歴代10位タイ・1981年1月場所〜1985年1月場所) 幕内2桁連続勝利記録:8場所(1982年11月場所〜1984年1月場所) 三賞:6回
技能賞:1回(1981年9月場所) 敢闘賞:2回(1980年1月場所、1980年3月場所) 金星:6個(北の湖3個、輪島2個、2代若乃花1個) 連勝記録:21(1983年1月場所2日目~1983年3月場所7日目) 各段優勝
十両優勝:1回(1979年11月場所) 幕下優勝:1回(1979年9月場所) 中学生が授業を長期間休んで本場所に出場することが国会で問題となり1971年11月場所8日目に帰京。1972年1月から1973年1月までは中学生だったので東京場所の日曜日(初日、8日目、千秋楽)のみ出場。 他に優勝決定戦で朝潮に1勝がある。 尾車 浩一(おぐるま こういち)1985年11月 - 2024年5月 「まわり道/酒季の歌」(1982年10月)
「東京たずね人」(1983年11月) 「東京めぐり愛/伊勢に帰ろう」(デュエット:石川さゆり、1984年8月)
「東京かくれんぼ/東京たずね人/東京めぐり愛」三部作(琴風豪規&石川さゆり)
デュオ「雨あがり」(デュエット:村上幸子、1986年9月21日)
琴風豪規『青春の意地―土俵にかける執念』潮出版社 1980 中山浩一『琴風の礼儀入門 キミはガタガタ言いすぎる』情報センター出版局 1986 尾車浩一『人生8勝7敗 最後に勝てばよい』潮出版社 2013 ^ 年齢も時代も大きく離れた佐渡ヶ嶽部屋の弟弟子である琴奨菊もがぶり寄りを得意にしているが、隆の里の弟子である稀勢の里に相性が良く、それぞれの次世代がライバルとなり似たような構図となっていた。 ^ 播竜山孝晴、黒瀬川国由、出羽の花義貴、魁輝薫秀、蔵玉錦敏正、大飛進も昭和時代から年寄を務めていたが、令和に改元時は既に停年を迎えて嘱託扱いになっていた。上記の6人と同様に既に停年を迎えたが嘱託で年寄を務めていた舛田山靖仁や2020年12月に停年を迎えた朝潮太郎 (4代)、2016年に死去した千代の富士貢などはいずれも琴風より年上だが、引退年寄襲名は平成に改元後。 ^ 左膝内側側副靱帯断裂により3日目から途中休場 ^ 左膝内側側副靱帯断裂により5日目から途中休場 ^ 左膝内側側副靱帯断裂・左膝半月板損傷・左腰部挫傷により10日目から途中休場 ^ 公傷 ^ 4代・朝潮と優勝決定戦 ^ 角番 ^ 右膝外側側副靱帯損傷・右腓骨頭剥離骨折により7日目から途中休場 ^ 関脇陥落 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p23 ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム ^ “【尾車親方・特別寄稿】引退・嘉風、小さな体で頭から立ち向かう相撲 自慢の弟子一番のファン”. スポーツ報知 (2019年9月13日). 2019年12月6日閲覧。 ^ マロングラッセも一役買った?…トントン拍子で決まった弟子入り、相撲好きの父が師匠と縁…元大関琴風の「演歌と土俵」 讀賣新聞オンライン 2024/07/16 09:24 (2024年7月29日閲覧) ^ 津市立高茶屋小学校"夢をかなえた先輩たち"2012年12月4日更新(2013年7月21日閲覧。) ^ 体育以外はオール5だった 5月場所前に去った名大関の七転八起人生 朝日新聞DIGITAL 2024年6月4日 15時00分 (文・抜井規泰、2024年6月5日閲覧) ^ 【あの時・“地獄を見た男”琴風】(2)お土産に渡されたマロングラッセ 2017年5月8日14時0分 スポーツ報知 ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)132ページから133ページ ^ 【あの時・“地獄を見た男”琴風】(3)大関候補を襲ったアクシデント 2017年5月8日14時0分 スポーツ報知 ^ 大空出版『相撲ファン』vol.06 p18-23 ^ 【あの時・“地獄を見た男”琴風】(4)3度の大けが乗り越え大関昇進 2017年5月8日14時0分 スポーツ報知 ^ 朝日新聞1981年9月9日付朝刊スポーツ面 ^ 朝日新聞1981年9月28日付朝刊スポーツ面 ^ 9月場所を展望する朝日新聞1981年9月9日付朝刊スポーツ面では、琴風の大関昇進ラインとして「三場所で三十二、三勝」としながらも「不在というピンチが考慮されるとそれ以下でも相撲の内容次第で昇進の可能性がある。」とされていた。 ^ 星風、引退へ=師匠が意向表明-大相撲八百長問題 時事ドットコム 2011年4月10日 ^ 【あの時・“地獄を見た男”琴風】(5)前頭10枚目で引退…再び大けがとの闘い - ウェイバックマシン(2017年5月8日アーカイブ分) ^ 尾車親方が緊急入院 転倒し「頸髄捻挫」 スポニチアネックス 2012年11月10日閲覧 ^ 不屈の琴風=大けが乗り越え職場へ-大相撲 時事ドットコム 2012年11月10日閲覧 ^ “尾車親方「奇跡的」復帰、頸髄捻挫重傷から「土俵に戻る」”. スポーツ報知. (2012年11月10日). オリジナルの2012年11月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121110035748/http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20121109-OHT1T00268.htm ^ 『相撲』2013年11月号10頁 ^ 『大相撲ジャーナル』2014年4月号98頁から99頁 ^ “頸髄損傷、あきらめない人生 尾車親方が語る (2/2ページ)”. 日本経済新聞 電子版. (2014年1月18日). http://www.nikkei.com/article/DGXNZO65500220Y4A110C1NNP000/?df=2 ^ 尾車巡業部長が事業部長も兼任「相撲界の発展に全てささげたい」 スポーツニッポン 2015年12月19日閲覧 ^ https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/oguruma.html ^ 元横綱・千代の富士の九重親方が死去 NHKかぶんブログ 2016年7月31日記事 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年7月号 p8 ^ 尾車親方が大けが克服し還暦迎える「老骨にむち打って5年後まで頑張るよ」 サンスポ 2017年4月26日記事 ^ 12年ぶり無投票で理事決定 相撲協会の役員候補選 日刊スポーツ 2020年1月30日12時18分(2020年1月30日閲覧) ^ 「親方の理事10人選任 日本相撲協会評議員会」『産経新聞』2020年3月23日。2020年3月23日閲覧。 ^ 尾車事業部長、両横綱に「進退懸けて出てこないと」 日刊スポーツ 2020年11月7日13時22分 (2020年11月8日閲覧) ^ 「尾車親方が1月初場所後に部屋閉鎖を表明 「悔いはない。やりきったと」」『日刊スポーツ』2021年12月25日。2021年12月25日閲覧。 ^ 尾車親方35年師匠人生に幕「いい夢見させてくれた」十両V争い矢後に感謝 日刊スポーツ 2022年1月23日20時38分 (2022年1月24日閲覧) ^ 「尾車部屋力士の転属先決まる 尾車親方、十両矢後ら新設の押尾川部屋へ転属」『日刊スポーツ』2022年1月27日。2022年2月6日閲覧。 ^ 尾車親方 熱く訴えた「未経験、運動神経が悪い、体形も相撲に向いていない者が大関になれた」 日刊スポーツ 2022年3月22日 05:30 (2022年3月22日閲覧) ^ 尾車親方「仲間が減っていくのはつらいよ」元大関朝潮さんの訃報に親方衆からも悲しみの声 日刊スポーツ 2023年11月5日8時46分 (2023年11月5日閲覧) ^ 「元大関琴風の尾車親方の退職を相撲協会が発表 任期満了の70歳を3年近く残して」『日刊スポーツ』2024年5月11日。2024年5月11日閲覧。 ^ 「元大関・琴風の中山浩一氏、NHK専属解説者に…休養中の北の富士さん&舞の海さんと大相撲中継盛り上げ」『スポーツ報知』2024年11月8日。2024年11月8日閲覧。 ^ NHK大相撲(公式) [@NhkSumo] (2024年11月10日). "九州場所 初日の幕内解説は元大関 琴風 浩一さん 今場所から放送席に加わっていただきました!..." X(旧Twitter)より2024年11月10日閲覧。 ^ 【北の富士コラム】尾車親方は文字通り努力の人であった…琴風時代の“努力エピソード”今も印象に残っている 中日スポーツ・東京中日スポーツ 2022年3月22日 05時00分 (2022年3月27日閲覧) ^ https://home.soka.ac.jp/~myamaoka/Oguruma_Koichi.pdf ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p9 ^ 相撲協会、験担ぎのひげ禁止に 「汚い」「見苦しい」 朝日新聞DIGITAL 2019年2月26日17時35分(朝日新聞社、2019年3月1日閲覧) ^ https://nikkan-spa.jp/1731602/2 大関一覧 大相撲優勝力士一覧 関取在位後に4階級以上陥落した力士一覧 琴風 豪規 - 日本相撲協会 琴風豪規 (ogurumabeya) - Facebook(2013年5月22日 - ) 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 VIAF ドイツ 日本 CiNii Books CiNii Research 三重県出身の大相撲力士 演歌歌手 郵趣家 尾車部屋 佐渡ヶ嶽部屋 報知新聞社の人物 相撲解説者 日本相撲協会の役員 三重県出身の人物 1957年生 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2015年9月 ウィキデータにある日本相撲協会識別子 VIAF識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2024/11/15 02:10更新
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琴風豪規と同じ誕生日4月26日生まれ、同じ三重出身の人
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