田原総一朗の情報(たはらそういちろう) ジャーナリスト 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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田原 総一朗さんについて調べます
■名前・氏名 |
田原総一朗と関係のある人
北村浩一: 田原総一朗 森喜朗: 田原総一朗は『サンデープロジェクト』にて「森さん、電話をかけてくれ」と呼びかけたが、前任者の小渕がテレビ朝日に電話をかけた際、同社は協定破りで記者会で処分を受けており、首相がかけられないことを分かっての呼びかけであった。 赤江珠緒: 9月23日には、フジテレビ『クイズ$ミリオネア』のスペシャル版に、解答者として出場した田原総一朗のライフライン(テレフォン)として、テレビ電話ながらテレビ朝日系列以外の番組初出演を果たした。 野村奈央: 田原総一朗「ド〜なる?!ド〜する?!AKB48」公演 富田倫生: 田原総一朗、富田倫生『田原総一朗の新パソコンウォーズ あなたの知らなかった'90年代パソコンの現実』日本ソフトバンク出版事業部〈The computer books. Computer business〉、1990年5月。 三上寛: 配達先のスナックのマスターの紹介で、田原総一朗(当時は東京12チャンネルのディレクター)と会い、永山則夫を題材にした『ピストル魔の少年』(高卒の三上にとって当時の大学生を中心とした学生運動よりも強い重要性を感じた事象であり、永山事件の芝居化も計画していた)を歌う。 小林香菜: 3月31日、AKB48劇場で行われた田原総一朗「ド〜なる?!ド〜する?!AKB48」公演をもって卒業公演とし、劇場公演出場回数は、特別公演を含め928回となり、AKB48としての活動を終了。 小沢遼子: 1984年6月24日、KBS京都企画・制作、独立局11局ネット生放送、田原総一朗司会の、討論番組「21世紀の日本を考える 5時間闘論 平和 なにを、いかにして守るのか」に出演。 田中森一: 『検察を支配する「悪魔」』(田原総一朗との共著 講談社、 2007年12月)ISBN 9784062144537 ケント=ギルバート: これに対してパネリストの小林よしのりは同意し、司会の田原総一朗も「もともとあの憲法はGHQが作った憲法であって、GHQは日本が再び戦争ができない、弱い国にするために作ったんだよ」と返し、ギルバートも「ペナルティなんですよ。 三上寛: 1971年3月、ばばこういち(前述の田原総一朗の上司でもあった)のプロデュースによって、シングル「馬鹿ぶし」でデビュー。 小佐野賢治: 田中自身は、『文藝春秋』誌での田原総一朗のインタビューに答えて、「私が国会で共産党の小林政子議員の質問に答えて、昭和九年当時からの友人、入内島金一君を“フンケイ〔ママ〕の友”と答えたら、それがいつの間にかフンケイの友、小佐野賢治君に書きかえられている」と発言している。 田岡俊次: (田原総一朗)『決断――日本の防衛と対米戦略』(リブロポート、1992年) 高城亜樹: 田原総一朗 「ド〜なる?!ド〜する?!AKB48」公演 越智道雄: 『さらば愛と憎しみのアメリカ 真珠湾攻撃からトランプ大統領まで』(田原総一朗共著、キネマ旬報社) 2017年 ヘンリー=キッシンジャー: 田原総一朗に日本への原子爆弾投下についてインタビューされたことがあり、「あなた方は広島と長崎に原爆を落とした。 魚住昭: 2010年1月18日、フォーラム神保町と現代深層研究会主催の緊急シンポジウム「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」に青木理、大谷昭宏、岡田基志、木村三浩、郷原信郎、佐藤優、鈴木宗男、田原総一朗、平野貞夫、宮崎学らとともに参加した。 渡辺いっけい: 田原総一朗の人間発掘スペシャル・20世紀の成功神話「経営の神様 松下幸之助」(2001年3月25日、テレビ朝日) - 松下幸之助 役 高橋みなみ: スピーチ力や統率力が評価されており、ジャーナリストの田原総一朗に政治家転身を勧められ、また秋元康も同様の話をした。 雨宮処凛: 他の呼びかけ人は森達也、宮台真司、田原総一朗など。 野村奈央: 10月28日、田原総一朗「ド〜なる?!ド〜する?!AKB48」公演で、AKB48劇場公演の本編にデビュー。 山口那津男: 2020年9月12日、山口とジャーナリストの田原総一朗の対談を収録した『公明党に問う この国のゆくえ』(毎日新聞出版)が出版される。 宮崎学: この本は、田原総一朗、魚住昭、佐藤優らが絶賛している。 小田久栄門: 1986年(昭和61年)には編成局長に就き、翌年、田原総一朗の『朝まで生テレビ!』を立ち上げる。 池田敏雄: さらに通産省の平松守彦の指導の下で、いわゆる三大コンピューターグループの編成が行われ、富士通は日立と業務提携しIBM互換機「Mシリーズ」の開発を行った(この辺の経緯は、田原総一朗 人間発掘スペシャル「アメリカに勝った男! 日本コンピューター界の隠れた巨人 激動の生涯」で詳しく紹介されている(平松自身の証言も収録されている))。 階猛: 2023年11月10日、田原総一朗が会長を務めるNPO法人万年野党から、第211国会における三ツ星議員の表彰を受けた。 松尾貴史: 松尾が司会の田原総一朗を始め、二十人以上ものパネリストのものまねをし、武田を原子力発電・放射能に置き換えた疑似討論を一人で行う(進行役はフジテレビアナウンサーの牧原俊幸が渡辺宜嗣に、フリーアナウンサーの中安みゆきが美里美寿々に扮して行う)。 長野智子: 日本における長年の「ジェンダー不平等」の原因を知りたいと思った長野は、同年5月12日、田原総一朗とともに超党派の女性議員による「クオータ制実現に向けての勉強会」を立ち上げた。 向坂逸郎: ^ 『諸君!』1977年7月号『マルクスよりもマルクス』(インタビュアーは田原総一朗) 永六輔: 田原総一朗が石原慎太郎におもねった発言をしたとの理由で批判している。 |
田原総一朗の情報まとめ
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田原 総一朗(たはら そういちろう)さんの誕生日は1934年4月15日です。滋賀出身のジャーナリストのようです。
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メディア出演、発言・思想などについてまとめました。テレビ、映画、卒業、事件、結婚、母親、現在、退社、ドラマ、家族、引退、解散に関する情報もありますね。田原総一朗の現在の年齢は90歳のようです。
田原総一朗のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田原 総一朗(たはら そういちろう、1934年〈昭和9年〉4月15日 - )は、日本のジャーナリスト、評論家、ニュースキャスター。元ドリームインキュベータ社外取締役。元東京12チャンネル(現:テレビ東京)ディレクター、元映画監督。日本国際フォーラム参与、政策委員。公益財団法人日印協会顧問、一般社団法人外国人雇用協議会顧問、NPO法人万年野党会長。芸能事務所のブルーミングエージェンシーと業務協力。 滋賀県彦根市出身。血液型はB型。田原節子は妻、その妹に古賀さと子がいる。 近江商人の末裔。第二次世界大戦中は人並みな軍国少年で、「海軍兵学校を経て海軍に入り、特攻隊員として戦闘機に乗り敵の軍艦にぶつかって死ぬ」のが夢だった。敗戦当時、それまで習ってきた価値観が180度ひっくり返ったことに対して、田原は「そうか、世の中に絶対なんてないんだ。偉い人の言うことは信用できない」と感じたという。 1941年、彦根市立城東国民学校(現:彦根市立城東小学校)に入学。 1943年、学区整理により彦根市立佐和山国民学校(現:彦根市立佐和山小学校)に転校。 1947年、学制改革により新設された彦根市立東中学校に入学(1950年に卒業)。 1953年、滋賀県立彦根東高等学校を卒業。作家を志して上京し日本交通公社(現:JTB)で働きながら早稲田大学第二文学部(夜学)に在籍。文学賞に何度か応募したが箸にも棒にもかからず、さらに同人誌の先輩に才能がないと二、三度「宣告」を受けたことで意気消沈していたところで同世代の石原慎太郎・大江健三郎の作品を読み、田原も「これはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念する。志望をジャーナリストに切り替え、3年間でほとんど通っていなかった第二文学部を辞めた。 1956年早稲田大学第一文学部史学科に再入学し、1960年に卒業。 ジャーナリスト志望だったためNHKや朝日新聞、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)などのマスコミを手当たり次第受けたがどれにも受からず、11社目にして初めて合格した岩波映画製作所に入社。カメラマン助手を務める。 幼少期より相撲が大好きで、非常に強かった。 1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局とともに入社。ディレクターとして、『ドキュメンタリー青春』(東京ガス1社提供の番組で、田原を含め3人が交代で演出していた)、『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がける。田原がTVドキュメンタリーを撮っていた時代は、NHKの吉田直哉らの『日本の素顔』、日本テレビの牛山純一の『ノンフィクション劇場』、村木良彦、宝宮正章らのTBSのドキュメンタリー番組などが主流で、当時開局したばかりの「東京12チャンネル」はインディーズ的存在であった。田原はそれを逆手にとって「過激な題材」を元に「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとり、話題を呼んだ。当時、田原が親交があった清水邦夫や内田栄一に「筋書き」を書いてもらい、出演者にそのとおり「行動」してもらう場合もあった。この田原の「確信犯的」な手法は映画監督の原一男に影響を与えている。 ジャズピアニストの山下洋輔が「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったため、田原はバリケード封鎖されていた大隈講堂からピアノを持ち出して山下に弾かせることを考えた。中核派から分裂した組織「反戦連合」のメンバーたちが運びだし、そのピアノを山下が演奏した。後の作家、高橋三千綱や中上健次、北方謙三、山岳ベース事件で殺された山崎順もピアノを運んだという。また、このイベントは立松和平のデビュー作『今も時だ』という短編小説も産み出している。 著書『私たちの愛』によると、田原は以下のような過激なドキュメンタリーを撮影していた。 ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。 俳優の高橋英二 のガン治療手術から死去に至るまでの撮影では、病室である国立がんセンターに取材拒否されたため、内緒で撮影。さらに右腕の切断手術が必要になり、手術の場面を撮影。手術直後、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んだが女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンもそのまま撮影し、また田原の望むまま国会議事堂に散弾銃を発砲するシーンも撮影した。高橋はスターになるが、間もなく死去した。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるまで撮影した。 全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。余興として花嫁が列席者全員とセックスをする。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原は自ら彼女とセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」は、ゴールデンタイムで放映された。レポーター役の武田美由紀(当時・原一男の同棲相手)と原一男と、二人の間に生まれた子ども(当時、生後3ヶ月)の3人が、全国各地の若者のカップルを訪ね歩く番組であった。 「『わたしたちは……』〜カルメン・マキの体験学入門」という番組で、カルメン・マキが日記(小説的日記)で、「わたしたちは三畳の部屋に住んでいた」と書いていた。だが、実際はカルメン・マキは母親と一緒に住んでいた。そのため、カルメン・マキと同じく「天井桟敷」にいた支那虎という男と、アパートを借りて同棲させた。そして、日記の記述のとおり、「二人で裸でパンを食べさせ」、日記の結末にあるとおり「二人で海に行かせた」。当時天井桟敷のスターだったカルメン・マキに変な男がついたということで、寺山修司が怒り、寺山と支那虎は口論して支那虎は退団したが、そのシーンまで撮影した。なお、支那虎は、その後、田原の作品の助監督をつとめた。 「出発(その1)〜少年院をでたMの場合」、少年院で撮影してくれる少年を探したがなかなかみつからず、ようやく見つけた少年を、スタッフの安田哲男が保証人になって退院させた。 1971年には、ATG映画にて『あらかじめ失われた恋人たちよ』(桃井かおり・加納典明主演・彼らのデビュー作)の制作・監督を務める(劇作家の清水邦夫との共同監督)。 助監督だった尾中洋一(のち脚本家)によれば、劇映画初体験の田原は「アップ撮り」「カット割り」「右目線、左目線」も分からなかった。「よーいスタート」も田原がかけられないので、尾中が担当した。そのまま、田原を無視して「2日目から実質、尾中が監督」で撮影を続けたところ、ある夜、田原が遠くに行き、闇で「ばかにするな-」と叫んだ。だが、そのまま田原を無視して撮影は続いた。「羽咋の駅前で、売春婦と出会って抗議集会」というシーン撮影では警察の撮影許可も取らず、出演しているのは大半は単なる通行人。なお、石橋蓮司や緑魔子も「無能な監督・田原」に怒っていたという。共同監督の清水邦夫もほとんど現場にこず、東京の舞台で行われたリハーサルを演出しただけだった。当時のATG映画は、監督が資金を出して製作する方式であり、田原と清水はスポンサーであった。 猫の死体が映るシーンは、出演者の加納典明が子猫を実際に水に漬けて殺したものであり、撮影で動物虐待が行われていた。 1975年、田原は矢崎泰久らと日本ジャーナリストクラブ (JIC) を立ち上げる。その資金集めのため、新宿コマ劇場にて「のんすとっぷ24時間」という討論会(司会:中山千夏)を行い、撮影して自分が勤務している東京12チャンネルに「番組」として売却した。このイベントが「朝まで生テレビ」の原型となったという。 テーマは「戦後30年・酷暑・おしゃべりと、うたと、けんかと」と題され、8月13日10時から14日の10時まで24時間にわたり公演された。 1976年には、原子力船むつ問題を扱った映画「原子力戦争」 をATG製作で映画化・公開した。映画は原田芳雄扮するヤクザが原子力発電所をめぐる利権争いに巻き込まれるという原作を曲げたものであった。問題作とも評され、田原は発表時脅迫されたという。著書「原子力戦争」では、底辺の人々(反対運動、賛成運動の人々、原子力潜水艦の技術者など)に取材した。だが、実際にものごとを決めているのは「社会の上部の政治家や官僚だ」と気がつき、その後、政治家や官僚について取材していく「契機」となったという。『原子力戦争』の内容は、国会でも話題となり、大手広告会社の逆鱗にふれ、田原は東京12チャンネルを辞職したといわれる。なお現在の田原の原子力発電に対する姿勢は東日本大震災後においても「将来的には廃止が望ましい」としつつも「あと二十年は原発を維持すべきだ」と主張する等原発容認派に転向しており、自己のツイッターの中でも「日本の原子力発電所の技術は世界有数」と日本の原子力技術を賞賛する発言している。 田原は1977年1月に東京12チャンネルを退社してフリーランスとなりジャーナリストの道へ進む。なお、東京12チャンネル時代の後輩には小倉智昭がいた。『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げる。 政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、テレビでは1987年より「朝まで生テレビ!」、1989年4月より「サンデープロジェクト」(2010年3月終了)討論コーナーの司会・出演を務める。またラジオでは2007年10月から「田原総一朗 オフレコ!」(2011年3月以降は週1回放送から月1回放送の「田原総一朗 オフレコ!スペシャル」)のパーソナリティを務めている。「サンデープロジェクト」終了後は、2010年4月から始まったBS朝日の「激論!クロスファイア」に出演。青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持つ。1989年からは、テレビ朝日系の選挙特別番組「選挙ステーション」第2部(討論コーナー)で司会を務めている。 2002年4月より早稲田大学大隈塾塾頭、2003年6月よりドリームインキュベータの社外取締役を務めている。 2009年1月、「フォーラム神保町」主催禰による「田原総一朗ノンフィクション賞」の創設が発表された。また「田原総一朗のタブーに挑戦!」というポッドキャストの番組を持つ。 田原はテレビ朝日系の番組に出演することが多いが、所属事務所は日本テレビ系のニチエンプロダクションである。 2015年12月9日には、憲政記念館において辻元清美議員の「政治活動20年へ、感謝と飛躍の集い in 東京」という政治資金規正法に基づく政治資金パーティーに参加している。 メディア出演テレビ ラジオ ON THE WAY ジャーナル→サードプレース〜とびきり居心地のよい場所〜(ジャパンエフエムネットワーク、第4月曜と毎週水曜のパーソナリティー) 爆笑問題のニッポンの教養 早稲田大学スペシャル(2008年11月25日、NHK) ビートたけしの新春ガチバトル(2010年1月2日、毎日放送)コメンテーター 田原総一朗どうなるニッポン!?日本を元気にする方法SP(2010年9月29日、テレビ東京) BSジャパン10周年記念番組 田原総一朗の遺言〜タブーに挑んだ50年!未来への対話〜(2010年10月23日〜、BSジャパン) 青山ワンセグ開発 実写アニメ さきいか君(4・5)HERO(前編・後編)(NHKワンセグ2)討論コーナー司会 田原総一朗 談論爆発(2011年5月-、ニコニコ生放送) 東北Z 直撃インタビュー 被災地の目線で(2011年6月10日、NHK) 心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU(2011年6月18日、日本テレビ)ゲスト 開運!なんでも鑑定団(2011年6月21日、テレビ東京)ゲスト 小林麻耶の本に会いたい(2011年8月12日、テレビ東京)ゲスト 地球アゴラ 命を守る現場から(2011年12月11日、NHK BS1)ゲスト ホンネ日和(2012年1月16日、TBS)小倉優子と対談 なかよしテレビ〜新春!日中韓言いたい放題SP〜(2012年1月5日、フジテレビ) 田原総一朗の仰天政治塾〜ニッポンリーダー列伝〜(2012年2月19日〜、BSジャパン) 金曜ロードSHOW! 特別ドラマ企画 家族、貸します 〜ファミリー・コンプレックス〜(2012年7月27日、日本テレビ)インタビュアー 役 シルシルミシルさんデー2時間半スペシャル(2012年9月23日、テレビ朝日)ハムの食品加工を扱った「朝まで生テレビ!」のパロディ「緊急!朝までハムテレビ」のコーナー司会 青山ワンセグ開発 田原総一朗とアンガールズの左ヒラメに右カレイ(NHKワンセグ2) 日本人は何を考えてきたのか 第10回(2013年1月13日、NHK-Eテレ) テレビをほめるYESTV(2014年6月24日、NOTTV) 情熱報道ライブ「ニューズ・オプエド®」(NOBORDER NEWS TOKYO) 東京ホンマもん教室(2021年5月8日、5月22日、東京MX) デモクラシータイムス(2022年1月9日、YouTube) ポリタスTV(2022年12月21日、YouTube) 田原総一朗の遺言2012(2012年1月3日、テレビ東京) AKB48「ハイテンション」(2016年) 発言・思想
女性・女系天皇を可能にする皇室典範改正を支持している。これに反対する四宮正貴に対して「聖徳太子、知ってる?」などと発言、四宮が「聖徳太子を知らないのかとは何事だ。君はイエス・キリストを知っているのか」と激怒した。ただし、竹田恒泰の著書『古事記完全講義』(学研パブリッシング、2013年9月)によると、雑誌で対談した際に、「竹田さん、皇統は男系じゃなきゃダメなんだ」「伝統だよ、伝統」と考えを改める発言をしていたことと、中央公論で『日本人にとって天皇とは何か』の連載を始めた理由を竹田に問われ、「竹田さん、僕はね、この年になってやっと気づいたんだよ、日本人は最後は天皇だ」と答えたことが記されている。 『サンデープロジェクト』では菅直人の年金未納問題に絡む代表辞任騒動の討論で、自身の過失ではなく、行政の過失(後に武蔵野市が菅に謝罪の書面を送付していたことが明らかになる。ただし、当時の年金行政の最高責任者の厚生大臣は菅自身であったため、社会保険庁の過失という事実が判明後もほとんど報道されなかった)から年金未納期間が生じた菅を激しく非難。民主党代表辞任を決定的とした。しかし、田原に年金未納期間(1977年2月〜9月)があったことが判明し、田原も翌週番組において謝罪した。 日本共産党が公表した宮澤内閣時代の内閣官房報償費(いわゆる官房機密費)の会計記録で田原が香典代として5万円を受け取っていたことが明らかになり、田原も番組内でこれを認めた(当時の官房長官は加藤紘一)。これ以前に写真週刊誌フォーカス(現在は休刊)で100万円単位で内閣官房報償費を受け取っていた疑惑を報道された。田原はこれを否定しているが、真相は未だ不明。ただし2010年野中広務元官房長官が内閣官房報償費の使用用途について複数のメディアに明かした際、複数の政治評論家たちに対し「盆暮れ500万円ずつ届ける」など報償費を配付したが「返してきたのはジャーナリストの田原総一朗氏だけだった」と証言している。 筑紫哲也の著書『ニュースキャスター』によると田原は「(番組を)引退をしようにも後を継げる人がいないから(番組を)続けるしかない」と発言をしている。また、岡留安則との対談では「倒れるまで番組を続ける」趣旨の発言をしている。 小泉首相と拉致被害者家族会とのやり取りをテレビで見ながら『2ちゃんねる』の反応を見て「これで世論が変わる」「マスコミのミスリードにいら立っていた人々が、『2ちゃんねる』と同様の反応をしたのだと、わたしは捉えている」と雑誌で発言した。 政治改革関連法案の可否をめぐり自民党が紛糾していた1993年「総理と語る」にて首相の宮澤喜一に対し執拗な挑発を行い、「やります、やるんです」との言質を取ったが、政治家改革関連法案が廃案にされると、そのインタビューの模様が何度も放映され、宮澤が退陣に追い込まれるきっかけを作った。 2000年に小渕恵三首相が番組にブッチホンして首相の単独会見は認められないと記者クラブから抗議された(その一方で同じく小渕首相が電話出演した日本テレビはお咎めなしだった)。 北京五輪に際して、中華人民共和国のラサにて、人権弾圧をされているチベット人が抗議活動を行った。その抗議に中国政府は武力弾圧をしたことが報道され、世界の報道機関や日本のマスコミもチベット人死者数について、中国政府側主張とチベット亡命政府側主張の両方を取り上げていたが、田原は自身のコラム にて「日本のマスコミは死者数を140人と報じているが、これはチベットの反政府運動側の発表であり、中国側は20人と言っている。日本のマスコミは多い方を書く等、これは偏向報道だ」「中国では世間で言われているより開放が進んでいる」と発言している一方、日中ジャーナリスト交流会で「中国は外国人ジャーナリストを受け入れるべき」と中国側に発言し、別の記事で「中国には中華思想なるものが未だ根強く残っている」「中国は間違いを認めたがらない」と中国を批判する発言をしている。 映画靖国 YASUKUNIを公開前から支持しており、映画に関しての論争が起こったが、「日本の政治家の圧力により、出演者が拒否しはじめたのではないか」「日本の政治家の圧力により、上映中止の映画館が増えたのではないか」と主張。 2007年参院選の民主党マニフェストに対して、「岡田さん、前原さんのときは消費税3パーセント増税だったから良かった」、「財源が示されてない」、「インチキだ」と批判した。2008年ガソリン税暫定税率、日銀総裁人事問題などに関して、小沢一郎民主党代表を指して、「民主党に約1名変なのがいる」、「政局にしようとしている」、「いつのまにか民主党は、北朝鮮のような党になっていたのだ。いつから民主党は、そんな情けない政党になってしまったのだろうか。これに比べれば自民党は、よほどマシである」 などと述べている。しかし後述のように一貫した検察の批判者でもあり、小沢一郎を巡る政治資金問題では、検察の捜査手法を強く批判している。 元厚生事務次官宅連続襲撃事件についての議論でコメンテーターが「政治家でなく官僚が狙われたことが問題」と発言した際、これに対して「政治家を狙え」と発言した。 2009年、田原がキャスターを務めるテレビ朝日の『サンデープロジェクト』番組内で、民主党の小沢一郎が東京地検特捜部の捜査を受けると検察ファツショでテレビ朝日を挙げて検察と戦うと発言。 2009年、第45回衆議院議員総選挙の前、田原がキャスターを務めるテレビ朝日の『サンデ-プロジェクト』の番組で当時の政治状況を明治維新に見立て、鳩山由紀夫が大久保利通、小沢一郎が西郷隆盛だと断言する。 メディアの公共性のあり方が問われている中で、田原は「いかに視聴率を上げるかが自分の役割だ。『いい番組なら視聴率が悪くてもいい』というのは、絶対に通用しない」とあえて視聴率至上主義を公言している。 「噂の眞相」に連載を持っていたが、後に両者の意見の相違が生じ、同誌の批判の俎上に田原が上がることも珍しくなくなった。田原への批判としてよく使われる「電波芸者」と言う言葉も、同誌が最初につけたと言われている。だが田原と岡留の対談は同誌発行中も休刊後も行われている。 総理との対談番組において、宮澤喜一首相が政治改革を断行すると言質を取ったり、橋本龍太郎首相が恒久減税に関する言質を取ったことが、後の解散総選挙敗北や参院選敗北によって総理退陣をするきっかけに繋がった。 『2ちゃんねる』の管理人・西村博之と雑誌「サイゾー」で対談をしたことがある。その対談の中で、田原は『2ちゃんねる』に対し礼賛に近い発言をしている。このため、2ちゃんねるの暴走を奨励していたとして批判派から徹底批判されている。 『爆笑問題のニッポンの教養』90分拡大スペシャル版 (NHK) 公開収録で爆笑問題の太田光に向かって「そういう馬鹿なこといってテレビ出るなんて、とんでもないよ!」「ふざけるな!」と一喝。続けて田中角栄の金権政治を賛美「田中角栄は、革命だ!!」「金権政治の何が悪い」「冷戦の方がよかった」などと放言、また司会者の爆笑問題を差し置いて番組を仕切りだした。早稲田大学の学生500人が見守る中、看板教授陣も含め3時間半にも及ぶ論戦を繰り広げた。 田原は芸能人による薬物事件に関し、BS朝日『激論!クロスファイア』スタート会見(2010年3月10日)で「僕も外国で大麻をやったことがある」と告白。しかしいいとは全く思わなかったそうで、酒井法子については「いったい薬の何がいいのか聞いてみたい」とコメントした。 検察に対する批判著書『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』にて、ロッキード事件は陰謀で田中角栄は無罪との陰謀論を展開した。しかし、その内容が誤解や伝聞や憶測だけで構成されていること、田原が指摘している内容のほとんどがすでに反論されていること、事件の当事者にちゃんと取材していなかったこと等により、徳本栄一郎らから内容の破綻を批判されている。 2007年6月、リクルート事件についてのノンフィクション『正義の罠 リクルート事件と自民党-20年目の真実』を出版した。田原は、現在、リクルート事件は冤罪と主張している。 2007年12月、検察の実態について、元検事田中森一との対談、『検察を支配する「悪魔」』を出版した。 2009年3月15日、フォーラム神保町主催の緊急シンポジウム「青年将校化する東京地検特捜部〜小沢第一秘書逮捕にみる検察の暴走〜」に魚住昭、郷原信郎、佐藤優、鈴木宗男、平野貞夫、二木啓孝、宮崎学らとともに参加した。 拉致被害者「生きていない」発言2009年4月25日放送の「朝まで生テレビ」において、田原は北朝鮮による日本人拉致問題の被害者の有本恵子、横田めぐみの安否をめぐり、「外務省も生きていないことは分かっている」と発言した。5月11日、北朝鮮による拉致被害者の家族会と支援団体救う会から、テレビ番組で根拠のない発言をしたとして、テレビ朝日の君和田正夫社長と田原に抗議文書が送付された。田原はこれに対して「家族のお気持ちは分かる。しかし、私は事実を言ったまでだ。情報源は言えないが情報を得ている」とし、両名が既に死亡しているとの見解を崩さなかった。 5月19日、中曽根弘文外相が一連の田原の発言に対して、「大変遺憾で非常に誤解を与える発言だ」「外務省は安否不明の拉致被害者はすべて生存しているとの立場、前提に立っている。田原氏の発言はまったくの誤りで残念に思う。一日も早い拉致被害者の帰国に努力している人たちに失礼な話だ」と発言した。同日、田原は「人の生死に関する問題を、具体的な情報源を示すことなく発言したことは深く反省している。横田さんたちが生きていることを心から望んでいる。言葉が足りず、大変申し訳ない」と謝罪した が、情報源については公表しなかった。 7月16日、有本の両親が田原を相手取り、精神的苦痛を受けたとして1000万円の慰謝料を求める訴えを神戸地裁に起こした。これに対して田原は、「表現は乱暴だったが、外務省高官への取材に基づく発言であり、今後、法廷で主張していく」とコメントした。 2010年3月10日、BPO(放送倫理・番組向上機構の放送人権委員会)はこの発言について、根拠を示すことなく断定した点は不適切な発言であるとし、同時にテレビ朝日が行った1ヶ月後の謝罪放送についても、「謝罪の意思が的確に伝わるものではなかった」として放送倫理上の問題があったとした。 10月18日、神戸地裁は田原に対し外務省幹部に取材した録音テープの提出を命令した。田原はこれを不服として大阪高裁へ即時抗告を行った。翌2011年1月21日、大阪高裁は「テープの内容は書面などで代替が可能で、取材源秘匿の社会的価値を考慮してもなお提出が不可欠とはいえない」として地裁の決定を取り消し、有本の両親が最高裁への抗告を断念したため、確定した。 2011年11月4日、神戸地裁は慰謝料請求訴訟についての原告側主張を認め、田原の発言に合理的根拠があったとは認められないとして、田原に対し100万円の賠償支払いを命じた。田原は判決を不服として控訴する方針を表明した が、最終的には断念し、地裁判決が確定した。 2024/06/21 16:56更新
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tahara souichirou
田原総一朗と同じ誕生日4月15日生まれ、同じ滋賀出身の人
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