興津立雄の情報(おきつたつお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
興津 立雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
興津立雄と関係のある人
衣笠祥雄: 初得点:同上、3回裏に興津立雄の2点適時二塁打で記録 山本一義: しかし3年目の1963年には左翼手の定位置を得て興津立雄・森永勝也らと共に中心打者として活躍。 幸田優: しかし、続く7番上田利治にレフト前に運ばれ1点を奪われてしまうが、8番興津立雄を三振にきってとり、史上初の1イニング4奪三振を記録した。 太田誠: 1954年夏の甲子園県予選では、三塁手、三番打者として、エース桶田和男(毎日)を擁し準々決勝に進出するが、興津立雄、松浦三千男のいた静岡商に敗退。 衣笠祥雄: 父親がアメリカ人という話が広く流布したのは、カープに入団して間もなく、たまたま机に向かって英語の勉強をしていたら、同室だった先輩の興津立雄が「まだ会ったことのない父を捜しにアメリカに行くため、英語の勉強をしていた」と作り話をマスメディアに話し、それが黒人兵云々と話が広がった。 佐野真樹夫: 2年目の1967年には三塁手として50試合に先発出場し、興津立雄、漆畑勝久らと定位置を争う。 藤井弘: 以降は中軸打者として1967年まで主にクリーンナップを務め、興津立雄・大和田明・古葉竹識・山本一義らと共にチームの打撃陣を支える。 |
興津立雄の情報まとめ
興津 立雄(おきつ たつお)さんの誕生日は1936年5月19日です。静岡出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。2022年に亡くなられているようです。
興津立雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 興津 立雄(おきつ たつお、1936年5月19日 - 2022年6月9日 )は、静岡県焼津市 出身のプロ野球選手(三塁手、一塁手)。1962年までの登録名は「達雄」。 焼津中学時代は二学年上に田所善治郎(静岡商~国鉄スワローズ)、一学年上に阿井利治(静岡商~国鉄スワローズ)と望月教治(静岡商~専大~熊谷組)、同級にはライバル校の静岡高校に進んだ近藤晴彦(早大~大洋)等がいた。静岡商業高校では四番打者、一塁手として活躍。同期の横山俊雄(静岡商監督)、1年下の松浦三千男(阪神)の両投手を擁し、1954年の夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で後に広島カープの捕手となる田中尊がいた高松商に競り勝ち波に乗る。準々決勝で泉陽高に辛勝。準決勝はこれも広島カープに入団する高知商のエース片田謙二を8回に打ち崩し逆転勝ち。決勝に進出するが中京商の中山俊丈に0-3で完封され敗退、準優勝にとどまる。甲子園通算で4試合に出場し3安打、打率.200。他の高校同期に滝英男捕手(阪神)がいる。 高校卒業時に慶應義塾大学から勧誘を受けるも受験に失敗し、一旦富士製鉄に入社を決めるが、その後は勧誘を受けて専修大学へ進学する。大学同期には後に広島カープで同僚となる古葉毅(1年で中退)がいた。大学1年生時からホームランバッターとして活躍し、その強打者ぶりから「東都の長嶋」と呼ばれた。東都大学野球リーグでは3度優勝。1957年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で杉浦忠、長嶋茂雄、本屋敷錦吾らの立大に0-5で敗れ、準優勝に終わる。リーグ通算96試合出場、272打数68安打、打率.250、5本塁打、35打点。1958年春季リーグでは二塁手としてベストナインを受賞(三塁手には中央大の桑田武が選出された)。 1959年に広島カープに入団、1年目の開幕から三塁手のレギュラーとなる。翌1960年には一塁手に回り、チーム最多となる21本塁打(藤本勝巳と1本差でセ・リーグ2位、森徹と同数)を放ち、オールスターゲームにも選出される。更なる飛躍が期待されたが、翌1961年の春季キャンプで第五腰椎分離症となり、同年のシーズン後半を欠場するなどやや伸び悩んだ。 1962年は腰痛と闘いながら三塁手として復帰。1963年には全試合出場を果たして、打率.303(リーグ5位)、93打点(リーグ3位。当時のチーム記録)をマークするなど、チームの中軸打者として活躍した。1965年からは一塁手も兼ねる。しかし1966年には故障のためシーズン中盤を欠場、翌1967年も故障に悩まされ32試合の先発出場にとどまる。その後は三塁手・一塁手の控えや代打を務め、1971年に引退。 引退時には打撃コーチ就任の要請もあったというが、アパート経営を理由に退団。水道工事会社勤務を経て、東京都杉並区高円寺で水道工事業『興立設備』を経営した。 2022年6月9日、左下葉肺腺がんの為死去。86歳没。 各年度の太字はリーグ最高 1000試合出場:1968年9月11日 ※史上136人目 3イニング連続本塁打:1965年5月11日、対読売ジャイアンツ戦 3回から5回にかけて、ソロ、2ラン、3ラン ※史上3人目 オールスターゲーム出場:3回 (1960年、1963年、1964年) 10(1959年 - 1971年) 興津 達雄 (おきつ たつお、1959年 - 1962年) 興津 立雄 (おきつ たつお、1963年 - 1971年) 静岡県出身の人物一覧 専修大学の人物一覧 広島東洋カープの選手一覧 ^ “興津達雄さん死去 86歳、カープ4番で活躍”. 中国新聞. (2022年6月10日). https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/174865 2022年6月11日閲覧。 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、124ページ ^ 『背番号の消えた人生』24頁 ^ 『背番号の消えた人生』33頁 ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」435ページ 近藤唯之『背番号の消えた人生』新潮文庫、1985年 個人年度別成績 興津立雄 - NPB.jp 日本野球機構 日本の野球選手 静岡県立静岡商業高等学校出身の野球選手 専修大学硬式野球部の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 NPBオールスターゲーム選出選手 20世紀日本の実業家 静岡県出身の人物 1936年生 2022年没 肺癌で亡くなった人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/21 16:19更新
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okitsu tatsuo
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