藤井弘の情報(ふじいひろむ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
藤井 弘さんについて調べます
■名前・氏名 |
藤井弘と関係のある人
藤井尚之: 甥は兄・フミヤの長男でフジテレビアナウンサーの藤井弘輝。 高橋一三: 1年目の1965年は新人ながら4月15日の阪神戦(甲子園)で早くも初登板を果たすが、5月11日の広島戦(兼六園)で3番・興津達雄、6番・藤井弘に2打席連続アベック本塁打を浴び、即二軍落ち。 徳永善也: とんねるず(石橋貴明・木梨憲武) - 売野雅勇 - 芹澤廣明 - 藤井弘輝 藤井フミヤ: 長男はフジテレビアナウンサーの藤井弘輝。 水沼四郎: 初出場:1969年4月12日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、10回裏に藤井弘の代走として出場 大和田明: 4月17日の対巨人戦で四番打者に起用されるなど、森永勝治・藤井弘らとともにクリーンナップを打ち、初の規定打席に達して、打率.234(リーグ21位)を記録する。 幸田優: 二盗も決められ無死2塁となるが、続く5番藤井弘、6番横溝桂から連続三振を奪う。 藤井フミヤ: 長男はフジテレビアナウンサーの藤井弘輝。 佐野真樹夫: 初盗塁:1966年10月11日、対サンケイアトムズ26回戦(川崎球場)、9回表に藤井弘の代走として出場し二盗(投手:佐藤進、捕手:岡本凱孝) 木下レオン: 藤井弘輝アナウンサー 長谷川良平: 打撃陣でも古葉竹識が自慢の足で走りまくり、興津立雄や藤井弘といった強打者たちもそれなりの成績を収めた。 ジョー=ルーツ: 一方で、選手を集めた最初のミーティングでルーツは、「君達一人一人の選手には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある」と力説し、その大局的な考え方は阿南準郎、木下強三、龍憲一、藤井弘といった各コーチや山本一義ら選手達に大きな影響を与えた。 徳永善也: とんねるず(石橋貴明・木梨憲武) - 売野雅勇 - 芹澤廣明 - 藤井弘輝 酒主義久: 藤井弘輝休暇・不在時のスポーツキャスター代行(2021年10月22日・2022年4月28日・6月30日・11月10日・17日・24日・12月8日・15日・2023年2月23日・24日・3月9日・10月20日・27日) 白石勝巳: これは、広島の一塁手・藤井弘が指摘したものだが、藤井は「白石さんに、常日頃からベースを踏んだかどうか確かめなさいと教えを受けていた」と話していた。 中井悦雄: その後も24日の国鉄戦(2-0)、29日の中日戦(6-0)で完封し3試合連続完封勝利を記録、10月17日の広島戦の2回に藤井弘に本塁打を打たれるまでデビューから31イニング連続無失点を記録した(セ・リーグ記録)。 佐久間みなみ: 高田文夫のラジオビバリー昼ズ(2022年3月8日) - 藤井弘輝(先輩アナウンサーで藤井フミヤの長男)と揃って生放送にゲスト出演 木下康太郎: 生田竜聖休暇時に酒主義久・藤井弘輝がサブキャスターを代行した時にスポーツキャスターを担当。 |
藤井弘の情報まとめ
藤井 弘(ふじい ひろむ)さんの誕生日は1935年9月29日です。広島出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2018年に亡くなられているようです。
藤井弘のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 藤井 弘(ふじい ひろむ、1935年9月29日 - 2018年11月9日)は、広島県福山市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督。1976年以降の名前は「藤井 博」(読み方同じ)。愛称はゴジラ、通称"ゴジさん"。 盈進商業高校では、1953年春季広島大会決勝に進むが広陵高に敗退。卒業後は倉敷レイヨンに入社。1954年に八幡製鉄から移籍の話があり、内密でグラウンドの見学に行くなどして藤井自身は乗り気となるが、同じ社会人野球のライバルチームへの移籍にクラレから猛反対を受ける。この状況の中で広島カープから入団の打診があり、プロ野球ならやむなしとしてクラレも反対せず、八幡側も加藤喜作監督が白石勝巳監督の先輩だったことで了承し、1955年に広島カープへ入団の運びとなる。 一発強打の打撃力を買われての入団であったが、不器用でプロのカーブが全く打てず、長い二軍生活を送った。新人選手の41打席連続無安打は2021年佐藤輝明に更新されるまでセ・リーグ記録だった。その苦しみは他人の想像を遙かに超えており、遠征の帰路、船上から海に飛び込もうとしたほどであった。それを通りかかった野崎泰一二軍監督に見つかり、「死ね、死んだつもりで頑張ってみろ」と諭され奮起する。1956年のシーズン終盤には一塁手、五番打者の定位置を獲得し20試合に先発出場。入団3年目の1957年は開幕から三番打者として起用され、持ち前の長打力が開花。全試合出場を果たし17本塁打(リーグ5位)、62打点(リーグ3位)を記録、オールスターゲームにも出場した。1958年は打率.272でベストテン10位に喰い込む。1960年は序盤を故障欠場、興津達雄にポジションを譲るが6月には先発に復帰した。以降は中軸打者として1967年まで主にクリーンナップを務め、興津立雄・大和田明・古葉竹識・山本一義らと共にチームの打撃陣を支える。1963年には、キャリアハイとなる打率.280(リーグ12位)、20本塁打(リーグ7位)、80打点(リーグ5位)を記録した。1965年は開幕から右翼手として起用されるが、6月には一塁手に戻る。1968年には衣笠祥雄にポジションを譲り、1969年限りで引退。 現役時代は金田正一を苦手としていたが、1960年の国鉄戦ではその金田から特大ホームランを放ち、チームの64イニング無得点にストップをかけた。1961年7月16日には同じく金田から球団初の逆転サヨナラ本塁打も放っている。 引退後も広島に残り、二軍打撃コーチ(1972年 - 1977年)・一軍打撃コーチ(1978年 - 1983年)・二軍監督(1984年 - 1988年)を歴任。 2018年11月9日、脳梗塞のため広島市内の病院で死去。83歳没。 中軸打者として活躍する一方で、反面、守備はあまり得意ではなかった。一塁側に内野フライが上がると観客は静まりかえったと言う。そこで見事にキャッチすれば大拍手、取り損なっても拍手と、とにかく素人臭い守備はコミカルなアクションとなって観客を魅了した。 平松政次をよく打ち"平松キラー"とも呼ばれた。また"サヨナラ男"の異名を持ち、通算サヨナラ安打12本は球団記録となっている。シーズンによって好不調の波が激しいのが特徴でもあった。 1958年9月19日、この当時巨人のルーキーだった長嶋茂雄が、一塁ベース踏み忘れにより本塁打を取り消される(記録はピッチャーゴロとなる)ということがあったが、この時に一塁を守っており、藤井が鵜狩道夫投手から送球を受け一塁塁審の竹元勝雄にアピールしたことでアピールプレイが成立、長嶋はアウトとなった。後に長嶋を特集したあるラジオ番組で『長嶋がベースを踏まなかったのを確認した時に塁審と目が合ったが、彼も見逃してなかった』ということを語っていたことがあった。 1964年5月5日に、王貞治が5打席連続本塁打に挑んだときのラインドライブの打球を捕った一塁手でもあった。 各年度の太字はリーグ最高 1000試合出場:1964年8月18日 ※史上90人目 オールスターゲーム出場:3回 (1957年、1958年、1962年) 5 (1955年 - 1969年) 54 (1972年 - 1974年) 77 (1975年 - 1988年) ^ よみがえる1958-69年のプロ野球 別冊ベースボール Part4 1961年編(ベースボール・マガジン社、2023年8月刊)p.64 ^ 『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』38頁 ^ 『広島東洋カープ(金山次郎監修)』(ISBN 4-89174-012-4)36-37ページ ^ 藤井弘さん死去 カープ元内野手、83歳 中国新聞 2018年11月13日 ^ 「カープきょうは何の日 1958年9月19日」『中国新聞日刊』第45356号、中国新聞社、広島県広島市中区、2020年9月19日、スポーツ第17版、18面。2020年9月19日閲覧。 ^ 参考:『プロ野球「毎日が名勝負」読本』 オフサイド・ブックス、彩流社 刊 『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』ベースボール・マガジン社、2009年 広島県出身の人物一覧 広島東洋カープの選手一覧 日本の野球選手 盈進高等学校出身の野球選手 クラレ岡山硬式野球部及びその前身チームの選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 広島県出身の人物 1935年生 2018年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/22 00:32更新
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fujii hiromu
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