葛原しげるの情報(くずはらしげる) 童謡詩人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
葛原 しげるさんについて調べます
■名前・氏名 |
葛原しげると関係のある人
福原麟太郎: 『子供の詩』(ロバート・ルイス・スティーヴンソン、葛原しげる共訳、東光閣書店) 1922 宮城道雄: 『古戦場』 - 大正8年、歌曲、作詞:葛原しげる 宮城道雄: 『おうむ』 - 大正7年(1918年)、童曲、作詞:葛原しげる 福井直秋: 東京府青山師範学校校歌(作詞:葛原しげる) 宮城道雄: 『春の雨』 - 大正6年(1917年)、童曲、作詞:葛原しげる 福井直秋: 茨城県水戸市立五軒小学校校歌(作詞:葛原しげる) 宮城道雄: 『貝の葉』 - 大正7年、作詞:葛原しげる タモリ: 幼稚園入園時期が迫り、とある園に見学に行った際に「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日』葛原しげる作詞・室崎琴月作曲)」を両手を回転させてお遊戯している園児らを見て、自分には出来ないと入園を拒否したというエピソードがある。 うしおそうじ: 葛原しげる童謡集 1947年、まひる書房 挿絵 宮城道雄: 道雄は葛原しげる、高野辰之、山田源一郎、田辺尚雄らの洋楽作曲家や評論家、学者などに注目され、また彼らの支援や助言により、1919年(大正8年)、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催し作曲家としての本格的なデビューを果たした。 宮城道雄: 『文福茶釜』 - 大正7年、童曲、作詞:葛原しげる ※葛原と制作した作品は、同年で8つの童曲があり、この他に『鮭と麸』、『蝸牛』、『秋』 、『秋のお庭』などが挙げられる 梁田貞: 代表作に、『城ヶ島の雨』(作詞北原白秋)、『どんぐりころころ』(作詞青木存義)、『昼の夢』(作詞高安月郊)、『隅田川』(作詞小松耕輔)、『木の葉』、『お玉じゃくし』(以上 作詞吉丸一昌)、『羽衣』、『あられ』、『てふてふ』、『たんぽぽさいた』、『鬼が島』、『とんび』(以上 作詞葛原しげる)など、多くの作曲を遺している。 有本倶子: 『葛原しげる青春日記 前田純孝との友情』(編、神戸新聞総合出版センター、2009年) 宮城道雄: 『おさる』 - 大正7年、童曲、作詞:葛原しげる |
葛原しげるの情報まとめ
葛原 しげる(くずはら しげる)さんの誕生日は1886年6月25日です。広島出身の童謡詩人のようです。
現在、兄弟、卒業、父親、趣味に関する情報もありますね。1961年に亡くなられているようです。
葛原しげるのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)葛原 しげる(くずはら しげる、1886年(明治19年)6月25日 - 1961年(昭和36年)12月7日)は、日本の童謡詩人、童謡作詞家、童話作家、教育者。福山市名誉市民。なお「しげる」の正しい漢字は𦱳(滋の旧体。草冠でなくソ一と書く)。ただし普段使用される漢字でないため、「しげる」とひらがなで表記することが多かった。葛原「慈」名義での録音も存在する。北原白秋門下の歌人・葛原繁とは別人。 広島県安那郡八尋村(現在の福山市神辺町八尋)生まれ。祖父は盲目の琴の名手、葛原勾当(諱重美)。母(葛原勾当の次男の妻)は岡山県議会議長などを務めた三宅栗斎の兄弟。1903年(明治36年)福山中学校(現・福山誠之館高校)卒業、年齢不足のため、翌1904年(明治37年)東京高等師範学校(現・筑波大学)英語科入学。在学中から泰西名曲に詩をつけて合唱用に発表する。 卒業後は九段精華高等女学校教諭、同理事、跡見女学校(跡見学園)講師などで教壇に立ちながら、博文館編集局にも勤めて、『少年世界』他の編集に携わり自らも雑誌などに唱歌を発表する。明治の終わりから全国の小学校に普及した『尋常小學唱歌』が堅苦しく、児童の心情や能力の発達段階に適さない等の批判が出ていたため小松耕輔、梁田貞と共に「大正幼年唱歌」(1915年~1919年)、続いて「大正少年唱歌」「昭和幼年唱歌」「大正少年唱歌」と順次刊行。これらは吉丸一昌の「新作唱歌」(1912年~1916年)と共に、まだ童謡という名は用いていないが、後の童謡運動の先駆けと評価される。 また父親の薦めで宮城道雄と親交を結び、1917年(大正6年)、「春の雨」を発表。『赤い鳥』創刊の1年前のことである。葛原は小学校や幼稚園向けの唱歌とは別に、家庭向きの子供のための歌の必要性を考え、当時はまだピアノよりも一般家庭に普及していた箏を伴奏に、宮城とのコンビで多数の童曲を発表した。宮城作品全425曲のうち、葛原作詞の童曲は98曲にも及び、まだ無名だった宮城を後援者として支え、生涯変わらぬ友情を持ち続けた。『赤い鳥』創刊で興った童謡運動には「童謡に大人の趣味を混入させるべきではない」と強く批判し西條八十と激しい論戦を繰り広げたこともあった。ただしこうした邦楽界の童謡=童曲は、当時はそれなりの人気があったが、現在一般にはほとんど知られていない。 葛原の代表作として広く知られる作品に「夕日」がある。これは洋楽の童謡だが「夕日」の詩は最初、「きんきんきらきら」であった。小二の長女に「『きんきんきらきら』は朝日」で、「夕日は『ぎんぎんぎらぎら』でしょう」と言われて変更、おかげで強い生命力を感じさせる名作となった。1921年(大正)10年、室崎琴月作曲でレコード発売され全国的に有名になった。 1945年(昭和20年)28年間勤務した九段精華高女が、戦火によって廃校となり帰郷。地元の私立至誠高女(広島県立至誠高校を経て現在は戸手高校)の校長に就任し1960年(昭和35年)勇退するまで勤務。郷土の子弟教育に尽力したが、地元の人達からもニコピン先生と呼ばれ親しまれた。これは、子どもはいつもニコニコピンピンと願い自らもそうありたいと願っていたからだという。 1961年(昭和36年)母校、当時の東京教育大で倒れ、75歳で没した。 作詞した童謡は4000篇とも言われ他の代表作に、「とんび」、「白兎」、「キユーピーさん」、「羽衣」、「たんぽぽ」などがある。また「どんどんひゃらら、どんどんひゃらら」の「村祭」は長年、作詞・作曲者不詳の文部省唱歌とされてきたが、近年、葛原作詞、南能衛作曲とされた。その他ボーイスカウトの日本連盟歌「花は薫るよ」の作詞(1957年(昭和32年)ボーイスカウト日本連盟・鷹章)や、依頼されて広陵高校、真岡高校、明大中野高校、広島大学附属福山中学校・高等学校、香川県立高松商業高等学校など、全国約400の校歌の作詞も手がけている。自分の額から掌を下ろし「ここから下は青年じゃ」というのが口癖だったらしい。明るく前向きな生き方を死の直前まで示したという。毎年命日の12月7日になると生家の前で「ニコピン忌」がおこなわれ元気な子どもたちの声が響きわたる。現在、地元では「葛原文化保存会」が組織され、葛原しげるとその祖父葛原勾当の遺徳を顕彰している。 ^ “福山市の名誉市民”. 福山市. 2022年7月13日閲覧。 ^ “葛原慈”. 国立国会図書館 歴史的音源. 2020年2月14日閲覧。 ^ 「童謡夕日を作曲 室崎琴月 古城公園思い曲想練る」北日本新聞 2016年4月14日13面 日本の小説家一覧 児童文学作家一覧 夕日 (童謡) - 日本の歌百選に選定。 室崎琴月 ドレミを選んだ日本人、千葉優子著、音楽之友社、2007年3月 日本童謡音楽史、小島美子著、第一書房、2004年10月 葛原しげる/神辺町観光協会 誠之館人物誌 「葛原しげる」 詩人、教育者 FAST ISNI VIAF WorldCat イタリア アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research MusicBrainz 19世紀日本の詩人 20世紀日本の詩人 日本の作詞家 19世紀日本の児童文学作家 20世紀日本の児童文学作家 スカウト関係者 日本の中等教育の教員 東京高等師範学校出身の人物 広島県立福山誠之館高等学校出身の人物 広島県出身の人物 1886年生 1961年没 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 ICCU識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事
2024/11/04 05:57更新
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kuzuhara shigeru
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