長与又郎の情報(ながよまたお) 医学者(病理学) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
長与 又郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
長与又郎と関係のある人
石原忍: ボート競技にも取り組んでいたことがあり、1940年(昭和15年)、戸田漕艇場オープン時に行われたデモンストレーションに当時、東大総長であった長与又郎らとともに出漕している。 西丸四方: 『傑出人脳の研究第1』長与又郎・内村祐之共著、岩波書店 1939 内村祐之: 『傑出人脳の研究』(長与又郎, 西丸四方共著、岩波書店) 1939 尾崎右宗: 映画は刀を巡る因縁に奔走する主人公を演じた『ソード・シーカーズ~刀狩るもの~ 』(GAGA)、人気SF小説の映画化『クロノス・ジョウンターの伝説』(パル企画)で主人公の熱き親友・藤川雅則 、『うさぎ追いし』長与又郎医師(近藤明男監督)、『関ヶ原』『燃えよ剣』(原田眞人監督/東宝)がある。 尾崎右宗: うさぎ追いし 山極勝三郎物語(2016年、近藤明男監督、新日本映画社) - 長与又郎 |
長与又郎の情報まとめ
長与 又郎(ながよ またお)さんの誕生日は1878年4月6日です。東京出身の医学者(病理学)のようです。
現在、卒業、離婚に関する情報もありますね。1941年に亡くなられているようです。
長与又郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)長與 又郎(新字体:長与 又郎、ながよ またお、1878年(明治11年)4月6日 - 1941年(昭和16年)8月16日)は、日本の病理学者、男爵。癌研究の世界的権威。号は雷山。長與專齋の子。 医学界の重鎮長與專齋の三男として東京神田に生まれる。慶應義塾幼稚舎、正則学校、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)12月に東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業する。ドイツのフライブルク大学に留学、1910年(明治43年)に帰国して助教授となり、翌年に東京帝国大学の病理学教授となる。夏目漱石の主治医でもあり、1916年(大正5年)、漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。 伝染病研究所長や医学部長を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学第12代総長に就任する。1936年(昭和11年)帝国学士院会員。 1937年(昭和12年)、林内閣発足時に文部大臣への就任要請を受けたが辞退した。 1938年(昭和13年)、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任する。同年12月28日、東京帝国大学名誉教授の称号を授与された。 昭和初期には、満州へ渡航し関東軍司令部や731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会などを通じ、石井四郎軍医と交流があった。 またがん研究会会頭在任時にがん研究所やその附属病院(現がん研究会有明病院)の開設に尽力し、1941年には日本癌学会を設立するなど、癌の解明に努力する。父の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立した。自ら予言していた通りに肺癌となり、1941年(昭和16年)8月15日、死の前日に、医学への貢献により男爵となる。 翌8月16日、東京都麻布区の自宅にて死去。享年64。墓所は青山霊園(13-1イ-2-2-6) 東京帝国大学野球部長も務め、部の寮である「一誠寮」の看板は長與の揮毫による。この時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なったが、これを指摘した選手たちに「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったという。東大の六大学野球最高位は1946年春季の2位であるため、以後も「ノ」の部分が欠けたままとなっている。 ボート競技にも取り組んでいたことがあり、晩年の1940年(昭和15年)、戸田漕艇場オープン時に行われたデモンストレーションに出漕している。漕ぎ終わった後のインタビューでは「ラジオ体操をやっているから、まだまだ若い者には負けない」と語っている。 1996年、日本癌学会は長與を記念して長與又郎賞(長與賞)を設立した。 『長與又郎日記 近代化を推進した医学者の記録』全2巻、小高健編、学会出版センター、2001年2月 長兄長與稱吉も医師で男爵。弟岩永裕吉は同盟通信社の初代社長。弟の長與善郎は白樺派の作家。妻は森村組創業者の一人森村豊の娘・玉。長男の長與太郎は銀行員で男爵位を継承。太郎の妻に志賀直哉の次女・留女子(るめこ)を迎えたが1年ほどで離婚。四男の長與健夫も医師で、愛知県がんセンター総長などを務める。孫の長與寿恵子は作曲家で、夫の吉田耕一とともに「杜こなて」という共有の筆名を用いている。 ^ がん研究の権威、元東大総長が死去『朝日新聞』(昭和16年8月17日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p559 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 『官報』第3597号、昭和13年12月29日。 ^ 漕ぎ初め式、古希艇や還暦艇も出場『東京日日新聞』(昭和15年11月1日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p549 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 『官報』第1680号「叙任及辞令」1918年3月12日。 ^ 『官報』第4383号「叙任及辞令」1941年8月16日。 ^ 『官報』第4385号「叙任及辞令」1941年8月19日。 ^ 『定本横光利一全集 第16巻』、河出書房新社、1981、p259 ^ 細川周平、片山杜秀 監修「杜 こなて もり・こなて」『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、678-679頁。ISBN 978-4-8169-2119-3。 長与又即日記 昭和十二年十月ー十二月 照沼康孝、中野実、「東京大学史紀要」第4号、1983年(昭和58年)7月 長与又郎日記 昭和十三年一月~五月 照沼康孝・中野実・前田一男、「東京大学史紀要」第5号、1986年(昭和61年)2月 長与又郎日記 昭和十三年六月 照沼康孝・中野実、「東京大学史紀要」第6号、1987年(昭和62年)3月 長与又郎日記 昭和十三年七月 照沼康孝・中野実、「東京大学史紀要」第7号、1989年(平成元年)3月 長与又郎日記 昭和十三年八月 照沼康孝・中野実、「東京大学史紀要」第8号、1990年(平成2年)3月 長与又郎日記 昭和十三年九月 中野実・照沼康孝、「東京大学史紀要」第9号、1991年(平成3年)3月 長与又郎日記 昭和十三年十月 中野実・照沼康孝・清水康幸、「東京大学史紀要」第10号、1992年(平成4年)3月 東京帝大経済学部問題と長与又郎―長与又郎日記を中心に― 照沼康孝、「東京大学史紀要」第8号、1990年(平成2年)3月 表 話 編 歴 法理文三学部綜理 加藤弘之 1877-1881 医学部綜理 池田謙斎 1877-1881 加藤弘之 1881-1886 事務取扱 外山正一 1886 事務取扱 外山正一 1886 初代 渡辺洪基 1886-1890 第2代 加藤弘之 1890-1893 第3代 浜尾新 1893-1897 第3代 浜尾新 1897 第4代 外山正一 1897-1898 第5代 菊池大麓 1898-1901 第6代 山川健次郎 1901-1905 第7代 松井直吉 1905 第8代 浜尾新 1905-1912 事務取扱 桜井錠二 1912 第9代 山川健次郎 1913-1920 第10代 古在由直 1920-1928 第11代 小野塚喜平次 1928-1934 第12代 長与又郎 1934-1938 事務取扱 佐藤寛次 1938 第13代 平賀譲 1938-1943 事務取扱 寺沢寛一 1943 第14代 内田祥三 1943-1945 第15代 南原繁 1945-1947 第15代 南原繁 1947-1951 第16代 矢内原忠雄 1951-1957 第17代 茅誠司 1957-1963 第18代 大河内一男 1963-1968 事務取扱/第19代 加藤一郎 1968-1969/1969-1973 第20代 林健太郎 1973-1977 第21代 向坊隆 1977-1981 第22代 平野龍一 1981-1985 第23代 森亘 1985-1989 第24代 有馬朗人 1989-1993 第25代 吉川弘之 1993-1997 第26代 蓮實重彦 1997-2001 第27代 佐々木毅 2001-2005 第28代 小宮山宏 2005-2009 第29代 濱田純一 2009-2015 第30代 五神真 2015-2021 第31代 藤井輝夫 2021- 辻新次 1872 辻新次 1872 柳本直太郎 1872 副長 伴正順 1872-1873 学長/校長 伴正順 1873/1873 畠山義成 1873-1874 畠山義成 1874-1876 校長補 浜尾新 1875-1877 綜理 加藤弘之 1877 学長 長谷川泰 1872 学長/校長 相良知安 1872-1873/1873-1874 相良知安 1874 長与専斎 1874-1877 池田謙斎 1877 権頭/頭 楠田英世 1871-1873/1873-1875 第二局法学課長 杉山孝敏 1875-1877 学校課長 青山貞 1877-1879 学校課長/生徒課長 植村長 1879-1880/1880 生徒課長/第七局長 黒川誠一郎 1880-1881/1881-1884 書記局学務課長 加太邦憲 1884-1886 心得 加太邦憲 1884-1885 山尾庸三 1871-1872 権頭/頭 大鳥圭介 1875/1875-1877 大鳥圭介 1877-1882 大鳥圭介 1882 副長 竹田春風 1882-1886 関沢明清 1877-1882 関沢明清 1882-1885 岩山敬義 1885-1886 前田献吉 1886 松野礀 1881-1886 前田献吉 1886-1889 高橋是清 1889 前田正名 1889-1890 肥田昭作 1874-1876 服部一三 1876-1877 主幹 服部一三 1877-1879 主幹 浜尾新 1877-1880 主幹/予備門長 服部一三 1880-1881/1881-1882 杉浦重剛 1882-1885 事務取扱 小林小太郎 1885 心得/予備門長 野村彦四郎 1885-1886/1886 野村彦四郎 1886-1887 古荘嘉門 1887-1889 木下広次 1889-1893 嘉納治五郎 1893 心得 久原躬弦 1893-1894 心得/校長 久原躬弦 1894/1894-1898 澤柳政太郎 1898 狩野亨吉 1898-1906 事務取扱/校長 今村有隣 1906/1906 新渡戸稲造 1906-1913 瀬戸虎記 1913-1919 事務取扱/校長 菊池寿人 1919/1919-1924 杉敏介 1924-1929 森巻吉 1929-1937 橋田邦彦 1937-1940 事務取扱 佐久節 1940 安倍能成 1940-1946 事務取扱 日高第四郎 1946 天野貞祐 1946-1948 麻生磯次 1948-1949 矢内原忠雄 1949-1950 湯原元一 1921-1927 塚原政次 1927-1934 近沢道元 1934-1940 藤原正 1940-1945 峰尾都治 1945-1949 矢内原忠雄 1949-1950 高木貞二 1950-1951 塩谷不二雄 1939-1943 事務取扱/主事 颯田琴次 1943/1943-1944 部長/事務取扱 颯田琴次 1944-1947/1947 事務取扱 颯田琴次 1947-1952 カテゴリ メディア 東京大学 東京大学 源流・前身諸機関 人物 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 チェコ CiNii Books CiNii Research 日本の病理学者 癌研究者 帝国学士院会員 19世紀日本の医師 20世紀日本の医師 東京大学総長 東京大学名誉教授 東京大学の教員 東京大学医科学研究所の人物 癌研究会の人物 結核予防会の人物 大学野球指導者 日本の男爵 長與家 正則高等学校出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 東京大学出身の人物 慶應義塾幼稚舎出身の人物 東京都区部出身の人物 従五位受位者 勲一等瑞宝章受章者 1878年生 1941年没 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2024/11/17 06:18更新
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nagayo matao
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