青野武の情報(あおのたけし) 声優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
青野 武さんについて調べます
■名前・氏名 |
青野武と関係のある人
田中亮一: 劇団芸協代表だった青野武の死去後は田中自身が代表を務めたが、2013年に解散した。 高橋正夫: “青野武の役者一筋”. p. 3. 2016年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。 多田野曜平: また『荒鷲の要塞』吹替版では青野武の代役も担当している。 喉押さえマン: 青野武 雨森雅司: 肺の病気で入院した際、青野武が見舞いに行くと、カルピスの包装紙に隠したサントリーホワイトを取り出して「お前が来て酒の一杯も出さないんじゃ、俺のコケンに関わる」と、湯呑茶碗に氷を入れさせて一緒に飲み始めたというエピソードがある。 家弓家正: 学院の1年後輩に青野武がいる。 島本須美: 青野武と現場で共演していた時、「古文書」を「こぶんしょ」と読んでいたところ、「須美ちゃん、ここは〝こもんじょ〟のほうがカッコいいよ」とさりげなく教えてくれたという。 三木のり平: アニメ版の声は青野武が担当した。 山寺宏一: また、ドク役の青野武をはじめ、富山敬や谷口節と共演出来たことは財産であったとしている。 古川登志夫: 演じたのは青野武)も持っている。 肝付兼太: 劇団仲間だった青野武と組んで、スナックでバーテンとして働いていたこともある。 ハリー=スタントン: 日本語吹き替えは主に千田光男・青野武が担当していた。 肝付兼太: 七曜会が解散した後は、青野武と共に日生劇場のこけら落とし公演のオーディションを受け合格し、これに出演。 富山敬: 青野武によると、青野が酔っ払って酒場で他の客と殴り合いのケンカを起こした際、一緒に飲んでいた富山はケガをした青野を家まで連れて帰り、朝まで介抱してくれたという。 大塚芳忠: 青野武は駆け出しのころからの恩師で、毎日呑みにつれてってもらいお酒をおごってもらったり、プライベートで遊びに連れってもらうほどの間柄で、芳忠自身青野は「大好きな先輩」であったと振り返っている。 島田敏: 2010年に病気療養のために役を降りた青野武に代わり、『ちびまる子ちゃん』のおじいちゃん(さくら友蔵)役を同年6月27日放送回より引き継いだ。 櫛田泰道: 声優を目指すきっかけとなった人物は青野武であり、小学生の頃から映画『霊幻道士』のチェン道士が好きだった。 松尾貴史: キッチュのラジオ大魔術團(東芝EMI、宮沢章夫プロデュース、共演:山田康雄、納谷悟朗、青野武、松尾スズキ、他) 高橋正夫: “青野武の役者一筋”. p. 2. 2016年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。 |
青野武の情報まとめ
青野 武(あおの たけし)さんの誕生日は1936年6月19日です。北海道出身の声優のようです。
人物、後任などについてまとめました。映画、卒業、ドラマ、解散、趣味、テレビに関する情報もありますね。75歳で亡くなられているようです。
青野武のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)青野 武(あおの たけし、1936年〈昭和11年〉6月19日 - 2012年〈平成24年〉4月9日)は、日本の俳優、声優、ナレーター。青二プロダクションに所属していた。 北海道旭川市出身。旧芸名は青野 武士。 北海道旭川市で誕生後、青野家に貰われる。 小・中学生の時、学芸会や文化祭に出ており、小学4、5年頃に友人の実家が経営していた映画館で上映されていた映画を観るほど映画が好きだった。また、映画と一緒に旅回りの芝居をしていたが、「よく覚えていなかった」という。 中学校進学後、後述の家庭環境もあり、孤独感や苦しみから抜け出すため野球部に所属し、野球の練習に熱中していた。「どうせ生みの親から見放された人間なら、1人で立派に生きていけるプロ野球選手になってやろう」と思っていた。 当時の容貌がハンサムだったことから、中学3年生の時に担任の教師に「君のさ、ファーストで球を受ける時の体の線、実に美しいんだワ、今度の文化祭で演劇やってみないかい?」と言われて本格的に芝居を始める。中学時代に菊池寛の『父帰る』の長男・賢一郎役を演じていたが、それはそれで終わりだった。 北海道旭川東高等学校に進学後の高校1年生の時も野球部に所属し野球をしていたが、耳を患って激しいスポーツを禁じられてしまう。その時に演劇部の先輩の女性に「あなたの中学の時の文化祭観たんだワ、とっても良かった。あなた素質あるわ、演劇部に入らない?」と言われ、演劇にはまり込む。その時に演じたのが、ヘンリック・イプセン作『幽霊』のオズワルド役で、全国演劇コンクールで三位に入賞した。翌年の高校2年生の時にジャン=ポール・サルトル作『出口なし』のガルサン役を演じ、今度は二位を獲得。その当時、東京都に千秋実がしていた薔薇座で演出をしていた人物が北海道に来て、青野らに演技指導してくれた。青野にはこの芝居は難しいため、さっぱりわからなかったが、その人物の言うとおりにしていた。翌年、調子に乗って高校3年生で演出まで担当していたところ、圏外だったという。その時、NHKなどで書いていたライターが北海道に帰っており、審査員をしていた。終わってから、審査員の「僕は上京して夢破れ、挫折して都落ちしたが君達の前途は洋々だ。僕達の分まで頑張ってもらいたい」という言葉に勇気づけられ、上京を決意したという。 本屋の店頭で当時、出始めた週刊誌をめくっていたところ、俳優養成所の記事が載っていた。そこには俳優座養成所、民芸水品演劇研究所、舞台芸術学院などがあったが、「俳優座と民芸はアルバイト不可」、「舞芸は地方の人物が多くアルバイトしながら学んでいる」とあり、「もう舞芸しかない」と思い、同高校卒業後は家出同然の旅立ちで単身上京。同芸術学院に願書を貰うため、玄関に立ったが誰もいなかったという。その時、芝居の稽古中の声が聞こえて、その素晴らしい声に「その修練を積んだ声、これがプロになる人の声か!」とショックを受けると同時に、「なにがなんでもここに入って、絶対役者になってやろう」と思っていたという。その時に同じ北海道出身の俳優の松山照夫がコッペパンをかじりながら、「お前どっから来たの?」と言われ、「北海道です」と答えると、「そうか、北海道か。俺も北海道だ。お前、役者になりたくてでてきたんだべ?悪い事は言わんから、クニに帰れ」と言われたという。しかし願書の手続きをはじめ色々面倒をみてもらい、「俺やお前と同じ北海道出身で同期の奴がいるから会わせてやる」と言って、喫茶店へ案内してくれたという。カウンターの中に同期の山田吾一、のちの劇団仲間で先輩の宮内幸平がいた。松山、山田が音頭をとってもらい、歓迎会を開いてくれたという。歓迎会には北海道出身の同芸術学院の人物達が6人程集まり、その中にのちに妻となる女性もいたという。その後、同芸術学院に入学して、演劇を学ぶ。同芸術学院の1年先輩に家弓家正がいる。当時は喫茶店の風月堂、サンドイッチマン、レストランの出前持ち、バーテン、ストリップの照明係、アルサロのボーイ等のアルバイトを経験していた。同芸術学院卒業の際、クラス担任の教師が「君は暗すぎる。そんなに暗くちゃこれからの役者人生、とてもやっていけないよ。」と述べていた。この言葉は身に染み、生い立ちを含めて、食う、食わずの毎日の生活、「さらに役者として自分はやっていけるのだろうか」という不安で、暗くしていった。しかしその教師は同芸術学院卒業後も、芝居を欠かさず観にきており、絶えず暖かく励ましてくれたという。 劇団七曜会に所属した際に主役を務めた『欲望という名の電車』での演技が認められ、それを観ていたTBSのディレクターから「一時間物の西部劇の主役の声を演ってみないか」と声が掛かり、海外ドラマ『ブロンコ』の主役であるタイ・ハーデンの吹き替えを担当した。しかし当時は毎回アテレコに苦労し、終わるたびに己の力のなさを痛感していたという。晩年も時々北海道訛りは出ていたが、当時はそれ以上に訛りが酷く、放映を観ていた友人たちに「お前訛りひどいよ、駄目だよあれじゃ」と指摘されていた。唯一、主役の声に抜擢してくれたディレクターが素晴らしく、「青ちゃん気にするな。西部劇ってのはね、『アメリカの東北』なんだよ。向こうの役者だって訛りがひどいよ、土の臭いが出ていればいいの」という一言で気が楽になったかもしれないという。トチッていた時、酷い失敗をしてしまったがそのままOKになり、一応ディレクターに報告したところ「あーあそこね、心配ないよ。馬の蹄の音を大きく入れるから」と励まされた。ある日録音が終わり、帰り支度をしていたところ一緒に出演していた俳優座に所属していた俳優から「青野君一寸!」と呼ばれた。その時にスタジオの隅に連れていかれ「青野君、向こうの音(セリフ)に引っ張られては駄目だよ。英語のセリフの調子と日本語とでは違うんだからね。これは日本語版なんだから日本語の内容を考えてしゃべりなさい」とアドバイスを受けた。その時の帰り道は感動し涙が止まらず、吹き替えを始めたばかりの駆け出しで右も左もわからず、心細かった時期だったことから、たまらなく嬉しかったという。 『ブロンコ』の放送中は所属していた劇団七曜会が解散したり、娘が誕生したりしたが、『ブロンコ』だけでは生活できず、アルバイトは続けていたという。『ブロンコ』は一番思い出のある作品であり、前述のTBSのディレクターも大恩人と語っていた。「もし『ブロンコ』がなかったら、1979年時点の青野はいなかったかもしれない」といい、『ブロンコ』はそのままアテレコの経歴にも記されていた。 これを機に、以後多くのアニメ・吹き替えなどで声優として活躍した。また俳優としても、大河ドラマ『北条時宗』やNHK教育の『このまちだいすき』などの映像作品に出演した。 七曜会解散後は3、4年は、当時ボツボツと出来初めていたプロダクションに所属、小さな劇団に入団したり、腰の落ち着かない日々を送り、アテレコの仕事も遠のいてしまったという。 その中でも、七曜会に一緒に所属していた高橋正夫との勉強会は楽しく、月に一、二度、高橋の宅で岸田國士の戯曲の読み合わせをしていた。 当時は、色々な意味で、飢えて、その勉強会も、妻と4歳の娘を抱え、役者業だけでは食えなくガリ版切りのアルバイト、雑事に追われ自然消滅し、相変わらずの暗闇の中での手さぐり状態が続いていた。1年程たった頃、再び高橋に会う機会があり、その時に「今芝居を演ってるんだ、観においで。」とチケットをもらい、それが、劇団芸協の芝居で、これが芸協との初めての出会いだった。 ある時高橋に「うちの演出家が僕に言うんだ。あなたの切符でいつも一番後ろの席で、芝居を観ている青年がいる。ひとつ会わせてくれないかってね。どうだい、会ってみるかい」と言われ、その演出家が、あずさ欣平だった。 その時に「会う場所はこちらで決めてくれ」との事で、初めてアルバイトした店の風月堂に決めていた。あずさとは劇場で二、三度見かけただけであり、話ししていたのはこれが初めてだった。その時にあずさは青野の昔の舞台は見ており、あずさから「君、芝居はやらないの?役者を目指して上京したのなら、役者を続けなきゃダメじゃない」、「埋もれさせておくには惜しい人材」と入団を誘ってくれたという。 演劇活動では、劇団青俳の研究生、七曜会解散後に作品座の所属を経て、劇団新劇場などを経て、20代の頃に出会ったあずさ欣平と親交を結び、30歳の時に劇団芸協に所属した。あずさの他、劇団仲間であった雨森雅司、宮内幸平、田中和実など、死去した友人の遺志を継ぎ、同劇団の主宰を務めた。 劇団芸協での初舞台は久米正雄作『地蔵教由来』となる。 劇団芸協に入団後、あずさは、芝居の演出の他、外国映画の吹き替え、アニメーションのディレクターもしていた縁でまたアテレコの仕事に少しづつ出演させてくれるようになり、徐々に声の出演作品が増えていった。しかし生活は相変わらずで、ガリ版切りのアルバイトに追われる毎日だったという。 声優としては演協プロ、河の会、江崎プロダクション、オフィス央を経て、青二プロダクションに所属していた。 2003年7月6日にある場所で突然、背中を馬に蹴られたような激痛が走り、病院で医者に急性大動脈解離と診断される。当時は手術なしで済み、二週間程で退院でき、退院時には医者から「大きな声を出さない事、過激な運動は駄目、ストレスや緊張状態は極力避けること、とにかく血圧が上がらないように。舞台?一番悪いでしょう。今度破裂したら助かりませんよ。」と言われた。その時に青野は「先生、言葉を返すようですが、大きな声を出すなと言われても、役者をやっている以上、役によっては出さない訳には参りません。役者をやれないのだったら生きてる甲斐がありません!」と言っていたが、退院後は、出番の多い役は控えて主に演出面での役割が中心だった。晩年は声優業は大丈夫だったが、舞台は負担が大きく、体に問題はなかったが、不安はあったという。 しかし2010年5月15日に解離性大動脈瘤の手術を受けたが、6月26日に脳梗塞であることが判明して入院。療養で復帰の目処が立たないことから、当時演じていた全ての持ち役を降板した(後述)。2年近い闘病生活の末、2012年4月9日午後4時38分、解離性胸部大動脈瘤術後多発性脳梗塞のため、東京都八王子市の病院で死去。満75歳没(享年76)。 2013年、第7回声優アワード「特別功労賞」を受賞。 人物一人っ子。育ての父は建具指物師だったが、飲んだくれで母を泣かせていた。家計は苦しく、その日その日を暮らしていくのが精一杯だったという。妻は女優の板橋真砂子。夫婦そろっての映画ファンであり、妻は『SCREEN』の愛読者。女優の板橋七生は妻の妹。娘がいる。 趣味・嗜好特技はジョギングで、36歳くらいから60歳少し前まで約20年間していた。58歳くらいになったある時、タバコを吸っていた影響で体力が落ちており、つらくてつらくてしかたなかった。そうしていたところ、妻が「あなた、もう年なんだから歩けばいいじゃない」と言われ、ウォーキングに切り換えた。体力作りのために、朝、仕事がない時は、だいたい8キロから10キロくらいウォーキングをしていた。趣味は野球、競艇。 座右の銘はウィリアム・スミス・クラークの「少年よ、大志を抱け(Boys Be Ambitious)」を挙げており、幼い頃からこの言葉をことあるごとに聞いて育った。役者を目指して上京したが、挫折して夢を断念しそうになった時、この言葉を聞いて頑張っていたという。 特色・役柄声種はバリトン。役柄としては悪役や落ち着いた老人役を初め、ひねった役、異常者の役、ハイテンションな役などを演じることが多かった。本人も「悪役や様々な感情を演じられる役は演じていて面白い」とも発言している。 20代の頃は、5役も6役も端役を演じていたことからちょい役を演じていた。5役なら5役きた時に、たとえばおじいさん役ならおじいさん役で、本当におじいさんになるように向こうの絵のようになるように心がけていた。こっちの若い人物は、若い人物の声に完全に分けるようにしており、それをすれば、きっと「あ、こいつ、こういうふうなこともできるのか」と思われるだろうと、思ったという。そういうのを自分で決めて、5役なら5役全部変えて、「これでもか!」という、そういうつもりで演じていた。そしたか、そのうちに「こいつ、フケも結構やるな」のようなことで、ちゃんとした役で、当然ダブリだが、フケなど、そういうのも演じるようになった。その後、30半ばくらいで『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王役のような異常な役を演じるようになった。 『うる星やつら』、『らんま1/2』、『犬夜叉』など、高橋留美子原作のアニメ作品に数多く出演する常連だった。 『ONE PIECE』ではテレビシリーズでミホーク役などで出演しており、同作の劇場版では第10作まで毎回異なる役柄で出演していた。原作のリメイク作品では、ラッスーやイッシー20のひとりといった、テレビシリーズで声優が決められていなかった人物の声を担当した。 『ウルトラマン』のザラブ星人のアテレコに際して、キャラの特徴をつかむために着ぐるみの中に入って実際に演技していた。また後年のウルトラシリーズでも死去するまでザラブ星人の声を担当。 『宇宙戦艦ヤマト』では真田志郎役を演じていたが、オーディションでは当初は別の役で受けており、終えて帰ろうとしていた。その時に『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーの西崎義展が「ちょっと君、こっちの役も演ってみなさい」と言われたのが、真田役であり、オーディションを受けた役は落選し、真田役が決まったという。その頃のアニメ出演は『宇宙戦艦ヤマト』の真田役のようなリアルな演技の役が多かったのが、『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王役、『キテレツ大百科』の熊八役など、次第に演技のデフォルメが強い役も増えていった。元々、吹き替えでは狂気を帯びたり、型破りな役の声を当てるのが好きで、抵抗はなく、演技の起伏が激しい役は最高で楽しくてしょうがなかったという。 『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』でも真田役を演じていたが、今までに『宇宙戦艦ヤマト』のゲーム、パチンコ等に出演しており、それ以前にも『宇宙戦艦ヤマト』の劇場版を制作の噂は聞いていたが、青野としては半信半疑だった。あれから年以上経ち、もし制作としても真田役を演らせてもらえるかどうか解らなかったという。『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の収録当日、スタジオに入って行ったところ、ディレクター席に自らが演出をすることになった西崎が座っており、西崎から「青野さん久しぶりです。あれから大分経っているので、ちょっと声を聞かせてくれませんか」と声が掛かった。その時は30年以上経っていたことから正直一寸ビビったという。セリフを読み終えて「ヤー青野さん、全然声が変わってないじゃないですか、驚いたな」と西崎の声がスタジオに響き、その一言は役者として少し誇らしく、そして嬉しくもあったという。録音を終えて、西崎に挨拶をしていたところ、「僕はまだまだこれからも良いものを創るからね」と言われ、そのバイタリティには頭が下がったという。 『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王役を演じていた時は、悪になるところは、異常であり、ディレクターの小松亘弘が「やっぱり、ああいうのは青野だ」と言われていた。その時に「ガアッ」と演じていたことから、周囲に「ウワッ」と顔を背けられてしまったりしていたという。『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王が自分の分身であるピッコロを産み出す場面では「産みの苦しみだ」と力を入れすぎたため、胃を悪くしてしまった。 独創的なアドリブを入れることが多いが、『勇者王ガオガイガーFINAL』のギムレット役は、監督が「青野さんならこんな言い回しをするだろう」と考えて、元からセリフにアドリブを組み込まれた趣向であったため、イントネーションを工夫することでしか対抗できなかった。 吹き替えでの持ち役はマイケル・ペイリンを始めクリストファー・ロイド、ジョー・ペシ、ダニー・デヴィート、ラム・チェンインなどがある。穂積隆信や樋浦勉とは同一作品の別音源で同じ役を演じる機会が多かった。 今まで演じていた役で一番好きだったのは『刑事トマ』のトマ役であり、「『刑事トマ』のような、どこか影のある役が一番好き」とのこと。主演のトニー・ムサンテが出演していた『ある戦慄』を見て、ムサンテの異常性格的な演技に魅せられていた。『刑事トマ』のオーディションの時、ムサンテが主演と知って驚き、その後自分がムサンテの吹き替えと決まって再度驚き、同時に嬉しかったという。『刑事トマ』のムサンテは毎回のように変装するため、役柄がバラエティーに富み、吹き替える声にも変化を加えたことから面白かったという。感情が出てくると高めの声になりがちのため、影のある暗い感じを出すため、低め低めに声を出そうと留意したようで、色々声を変えたりしていた。 その他エピソード少年時代は近所のガラスを割ったり、塀を壊したり、小さな子供を泣かすなどの悪ガキであり、「青鬼」というあだ名が付けられていた。当時は雪深い山裾に住んでいたが、小学校入学時に買ってくれたスキーは、高校卒業の日まで買い換えてもらえなかった。そういった環境が悪ガキの道へと向かわせたのかもしれないという。しかし小学6年生の時、近所のおせっかい焼きの少年から、青野が「もらいっ子」であることを聞かされていた。青野は「そんなバカな!」と怒りその少年を殴り倒してしまったが、その後それが真実であることが分かったという。その日まで本当の「とうちゃん」と「おっかあ」とばかり思っていたが、全く血の繋がりの無い人物達と分かった時、身体中の血が一時に逆流する思いがした。その日を境にして、性格は暗くなり、黙ってふさぎ込んでいるような少年になっていったという。 劇団仲間だった肝付兼太と組んで、スナックでバーテンとして働いていたこともある。肝付とはウマが合い、2人でアドリブを連発し、「漫才バーテン」と呼ばれて評判となっていたという。当時は巧みなシェーカー振りが客に受けた。 若い頃は酒癖が非常に悪く、飲みに行った際に酔っ払って他の客とケンカになったが、同行していた富山敬が朝まで介抱してくれたことがあった。1995年にその富山から『ちびまる子ちゃん』のさくら友蔵役を引き継いだ際は、「役が決まった際は複雑な心境だったが、富山敬の名を汚さないように頑張ろうと思った」と語っている。 「芝居で食べていける」とそういう「安心感」を感じたことはなく、若い頃は食うや食わずの生活だった。寂しさを紛らわすためにお酒を飲んだり、何度、北海道に帰郷しようと考えていたという。劇団芸協の運営費を賄うためだったが、50代の頃にアルバイトをしていた時期もあった。 井伏鱒二作の舞台『へんろう宿』に何回か出演していたが、『へんろう宿』を最初に出演した高橋正夫が故郷へ帰郷したため、あずさ欣平が「『へんろう宿』やってみないか。それも動いて演ってみようよ。」という事で、出演したという。『へんろう宿』の登場する子供もおばァさん、生みの親を知らない設定であり、前述の青野の家庭環境もあったようで、『へんろう宿』には愛着を感じていたという。 競艇をテーマにした出演作である『モンキーターン』のDVD6巻に収録されたオーディオコメンタリーでは、同じく競艇ファンであった麦人とともに、競艇場の試乗体験でペアボートに試乗したことがあるという体験談や、最初に名前を覚えた選手から彦坂郁雄が解雇されたエピソードなど競艇のオールドファンならではの話などをしていた。 後任青野の療養に伴う降板および死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 ただし、声優を総入れ替えした作品については趣旨から外れるため、対象外とする。
2024/06/15 03:57更新
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aono takeshi
青野武と同じ誕生日6月19日生まれ、同じ北海道出身の人
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