青野照市の情報 (あおのてるいち) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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三浦弘行: 第61期は4勝5敗で丸山忠久(1位)・青野照市(7位)・島朗(9位)・郷田真隆(10位)と並んだが、順位の差で7位に浮上。 片上大輔: 2016年に将棋ソフト不正使用疑惑が発生し、理事として混乱に対する責任を問われ、2017年2月27日に行われた臨時総会で青野照市、中川大輔と共に解任された。 藤井猛: 後述のように升田幸三賞を2度受賞しているが、特別賞以外の升田幸三賞を2度受賞している棋士は藤井、佐藤康光、青野照市、千田翔太の4人のみである(2023年6月現在)。 東和男: そしてこの臨時総会で解任された青野照市の後任の専務理事に選任され、5月29日の任期満了まで務めた。 桐山清澄: 1982年度、第1回全日本プロトーナメントにおいて、決勝三番勝負で青野照市に2-1で勝利し、初代優勝者となる。 桐谷広人: 相手の攻め駒を攻める、駒得を重視する戦術で、優勢になってもなお相手の攻撃の応接を継続する「マッサージ戦術」を得意として「桐谷マッサージ戦術」(青野照市)などと呼ばれた。 神吉宏充: 第49回(1999年度)NHK杯戦では、青野照市と森内俊之に勝つ(この回の優勝者となる鈴木大介に3回戦で当たり、先手で持将棋となり先後入替の指し直し局で敗れる)。 浦野真彦: しかし、明くる1996年度のB級1組順位戦では、有吉道夫、青野照市、小林健二、内藤國雄、田丸昇とともに6名で5勝7敗の成績に並んで終え、B級1組初参加のためリーグ表で下位の浦野は1期でB級2組へ降級してしまうという不運を味わった。 佐藤康光: 特別賞ではない升田幸三賞を2度受賞しているのは、佐藤康光と青野照市、藤井猛、千田翔太の4人のみである(2022年4月現在)。 中井広恵: 2003年度のNHK杯テレビ将棋トーナメントでは、1回戦で畠山鎮に、2回戦では当時A級棋士だった青野照市に勝利した(3回戦で中原誠に敗退)。 若松政和: 1976年度、第3回名棋戦においては、決勝で青野照市に勝って優勝。 安食総子: 青野照市九段門下。 高橋道雄: リーグでは田中寅彦、森安秀光、大山康晴、谷川浩司、青野照市といった錚々たる面々を相手に5戦全勝。 山田道美: 当時山田の研究会に参加していた若手棋士や奨励会員に中原誠、青野照市、田丸昇、菊地常夫、沼春雄らがいる。 深浦康市: 青野照市以降、女流に敗れた2人目のA級棋士となったが、青野は早指し棋戦であるNHK杯であったため、長時間の棋戦では深浦の敗戦が初である。 大崎善生: 1998年4月、青野照市九段と共にスウェーデンとノルウェーの二か国を現地の将棋ファンとの交流と指導対局ために訪れた[18,19]。 堀口一史座: 2005年9月2日の順位戦B級1組青野照市との対局で、56手目の一手に、昼食休憩を挟む5時間24分の記録的な大長考をしたことで話題となった。 |
青野照市
青野 照市(あおの てるいち)さんの誕生日は1953年1月31日です。静岡出身の将棋棋士のようです。
序盤研究、人物・エピソードなどについてまとめました。卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。青野照市の現在の年齢は71歳のようです。
青野 照市(あおの てるいち、1953年1月31日 - )は、将棋棋士。廣津久雄九段門下。棋士番号は114。静岡県焼津市出身。竜王戦1組通算6期、順位戦A級通算11期。 研究派として知られ、A級在籍時には大山康晴、中原誠、米長邦雄、谷川浩司等としのぎを削り、さらに羽生善治、佐藤康光、森内俊之、藤井猛等(いわゆる「羽生世代」)が台頭してきた中でも健闘した。1999年度のB級1組順位戦で1位となり、2000年に10年ぶりにA級に復帰したとき、羽生世代の棋士たちがA級の大半を占める中での活躍は「中年の星」として話題となった。 1950年代生まれの棋士としては唯一、70歳を過ぎても現役を続けている。 将棋に熱中し出したのは中学の頃で、後に一流棋士になった者としては晩学である。1968年(昭和43年)に15歳で新進棋士奨励会に4級で入会。将棋会館で寝泊まりし雑用をこなす「塾生」となった。 東西対抗三段リーグ制度(奨励会A組)の最後のリーグ卒業者である。青野が関東優勝を決めた後、過去に2度の関西優勝歴があった淡路仁茂が関西優勝をしたため、東西決戦なしで二人が同時に四段に昇段することとなった。その朗報が青野のもとに届いた当日、青野がちょうどタイトル戦の記録係をしていたことは話題となった。 プロ1年目(1974年度、21歳)で新人王戦に優勝。出場時は四段昇段前であったが、2回戦と3回戦の間に四段昇段している。 プロ2年目(1975年度)には、順位戦でC級1組昇級を決め、さらには棋聖戦と第2回名将戦でも本戦で活躍するなど全棋士中トップの勝率(0.745)を挙げ、第3回将棋大賞の勝率一位賞と新人賞を同時受賞。 1978年度、公式戦15連勝を記録(将棋大賞連勝賞)。同年度、第5期名棋戦で優勝。 第37期順位戦(1978年度)C級1組、第38期順位戦(1979年度)B級2組で、いずれも9勝1敗で1位となり、2年連続昇級でB級1組に上がる。 1979年度、新人王戦で2度目の優勝。記念対局では、前回優勝の時には敗れた中原誠名人に勝つ。 1982年度、第32回NHK杯戦で決勝進出。中原誠に敗れて準優勝。第1回全日本プロトーナメントで準優勝。そして、B級1組3年目となった第41期順位戦で9勝3敗・1位の成績を収め、1983年、A級八段となる。その後3期目で陥落するが、1期で復帰している。 1983年度、第24期王位戦でリーグ入り。谷川浩司、大山康晴、田中寅彦、森安秀光を相手に4連勝する快進撃であったが、5回戦で新鋭の高橋道雄との全勝対決で敗れ、挑戦者決定戦進出を逃す(高橋はこの期に王位を獲得し、史上最低段タイトルの記録を作ることとなる)。また、第33期王将戦でも挑戦者決定リーグ入りを果たし、リーグも5勝1敗で終え首位タイの成績を残した。しかし、挑戦者決定プレーオフではリーグで唯一敗れた森雞二に再度敗れ、こちらでもあと一歩でタイトル挑戦を逃した。 1987年度、第46期A級順位戦で5勝4敗とし、A級で初めて勝ち越す。 第37期(1989年度)王座戦でタイトル初挑戦。五番勝負で途中まで2勝1敗として中原誠王座を角番に追い詰めるが、そこから2連敗して惜敗。全局先手番勝利のタイトル戦であった。 第3期(1990年度)竜王戦で高橋・谷川・中原らを破り、1組優勝。 2000年、第58期順位戦B級1組で8勝3敗の成績を挙げ10期ぶりのA級復帰を果たし、以降4期連続でA級在籍。同年、史上23人目の通算600勝(将棋栄誉賞)を達成。第59期A級順位戦では5勝4敗の成績を挙げ、A級順位を自己最高の5位とした。 第8回(2000年)および第11回(2003年)の達人戦(非公式戦)で優勝。第16回(2008年)には準優勝。 2009年度、第68期B級2組順位戦で、降級点を1つ抱えた状態で前半戦4連敗しC級1組への陥落が危ぶまれたが、そこから5勝5敗の指し分けとし、逆に降級点を消した(2年連続指し分けの規定)。同じクラスから元タイトルホルダーの内藤國雄・森雞二が降級していく中で、ベテランの意地を見せた。 2010年、第58期王座戦でベスト4に進出。 2011年2月17日、史上23人目の通算700勝(655敗)を達成。 還暦を迎えて以降も、特に順位戦において健闘を続けてきた。第70期順位戦(2011年度)で桐山清澄(当時64歳)がC級1組に降級して以降、昭和20年代生まれの棋士で唯一B級2組に留まり続ける。なお当期順位戦では、1勝9敗と振るわず再び降級点を喫してしまったものの、翌第71期は2勝5敗から後半戦3連勝で5勝5敗の指し分け、第72期は4勝6敗と負け越したものの前期の好成績が影響し降級点を回避した。 第73期順位戦は3勝5敗からの2連勝で5勝5敗の指し分け、翌第74期は初戦から2連勝と好調に滑り出し、後半戦でやや失速し最終局(10回戦・対井上慶太戦)を4勝5敗で迎えた。この対局に勝ち、2期連続で指し分けの成績により、再び降級点を抹消。 第42期(2016年度)棋王戦予選で千葉幸生六段に勝ち、10年ぶりとなる本戦に進出。本戦トーナメントでは糸谷哲郎八段に敗れた。 第76期順位戦でC級1組、第79期でC級2組に降級した。 2022年度、桐山清澄の引退により現役最年長棋士となり、また、フリークラス宣言棋士の定年である65歳を超える、唯一の現役棋士となった。 2024年1月11日、第82期順位戦C級2組第8回戦において、当時の最年少棋士で52歳年下の藤本渚四段に敗れ、残り2局の時点で降級点3が確定し順位戦陥落が決定、年齢制限により第82期が最後の順位戦となる。また、勝ち残り棋戦を全て敗退した時点での引退が決定した 。2024年2月20日、NHK杯戦予選で勝利し通算800勝(将棋栄誉敢闘賞)を達成。史上最年長・初の負け越しでの達成である。 序盤研究対振り飛車急戦戦法のひとつである鷺宮定跡の創始者。その名称は、青野とタイトル戦で連採した米長邦雄がともに西武新宿線鷺ノ宮駅(東京都中野区)付近に住んでいたことに由来する。この功績により(遅ればせながら)1998年に第25回将棋大賞の第4回升田幸三賞を受賞している。 加藤一二三らが使用していた対三間飛車三歩突き捨て急戦など居飛車後手番の急戦策研究でも名高い。 飛車先不突矢倉の雀刺し戦法は青野流と呼ばれ、この戦法で谷川浩司の順位戦連勝を18でストップさせた。 角換わり型棒銀や奇襲矢倉の棒銀など、棒銀戦法の名手としても知られた。 相横歩取りで、飛車交換直後に4六角と打つ新手を発見。 佐藤康光とのA級順位戦で後手番一手損角換わり戦法を採用し、敗れはしたものの戦法が流行するきっかけを作った。 インターネットに明るいことで知られ、いろいろな将棋サイトで研究対象となったこともある3×3将棋を「9マス将棋」として商品化を提案し、幻冬舎から2016年8月に発売。若いころはゲームブック「棒銀大作戦」「矢倉大作戦」も監修している。 横歩取り青野流(5八玉型)は、青野の弟子の奨励会員が研究会で指したのがきっかけで、青野が弟子と一緒に研究して戦法化した。佐々木勇気による「横歩取り勇気流」(6八玉型)と共に、第45回将棋大賞の升田幸三賞を同時受賞している。 人物・エピソード奨励会時代山田道美主宰の「山田教室」に参加していて、以来振り飛車には急戦を使用する。 七段時代(1980年)の頃、イギリスなどに出向き普及活動をしていた。 1997年10月27日、竜王戦2組・対中川大輔戦で僅か33手で敗れる。しかも逆転負けという非常に珍しい将棋であった。 村山聖の最後の順位戦の相手。これに敗北した際、降級を覚悟したが、ライバルも負けたため降級を回避した。その後村山は休場しそのまま逝去。A級に上がっても将棋を指せない人がいることを知り、降級に怯える自分が情けなくなり、若手との対局を楽しもうと考えを変えてから成績が良くなり、その後のA級復帰の原動力となった。 2003年度のNHK杯テレビ将棋トーナメントで女流棋士の中井広恵に敗れた。現役A級棋士が女流棋士に負けた初の事例となった。 奨励会時代に反則負けの直後の一局で後手にもかかわらず先に指してしまい初手反則負け、2局連続どころか2手連続での反則負けという不滅の記録(本人談)を打ち立てたことを自著で述べている。 2018年10月23日、第77期順位戦C級1組での対都成竜馬戦で、青野の「二歩」により反則負けとなった。 2020年1月12日、第69期王将戦第1局の検討会の際、中村修の指導をもとにTwitterを始めた。 静岡県出身のプロ棋士の中で現役最年長であり、近年静岡県内にて行われるタイトル戦においては正立会人を務めることが多い。直近では2023年令和5年4月27日、28日 :浮月楼(静岡市葵区紺屋町11番1号)第81期名人戦第二局 お~いお茶杯第63期王位戦第五局<新聞三社連合>令和4年9月5日(月)6日(火) 2022年令和4年3月3日(木) :浮月楼(静岡市葵区紺屋町11番1号)順位戦最終局 2020年令和3年2月26日(金):浮月楼(静岡市葵区紺屋町11番1号)順位戦最終局 2019年令和2年2月27日(木):浮月楼(静岡市葵区紺屋町11番1号)順位戦最終局 2018年平成31年3月1日(金):浮月楼(静岡市葵区紺屋町11番1号)順位戦最終局 その他、 2011年第37期棋王戦<共同通信社>第三局、 2022年第35期竜王戦<読売新聞>第三局、 2016年第42期棋王戦<共同通信社>第一局、 2014年第64期王将戦<スポーツニッポン新聞社・毎日新聞社>第一局、 2012年第62期王将戦<スポーツニッポン新聞社・毎日新聞社>第一局、 2011年第61期王将戦<スポーツニッポン新聞社・毎日新聞社>第一局、 など。 実力制歴代名人経験者との対局は、青野の四段プロ入り時にすでに引退していた木村義雄十四世名人(実力制第一代名人)を除き、塚田正夫実力制第二代名人から藤井聡太名人(実力制第十六代名人)までの15人と公式戦で対局経験がある。 2024/05/23 04:29更新
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aono teruichi
青野照市と同じ誕生日1月31日生まれ、同じ静岡出身の人
青野照市と近い名前の人
話題のアホネイター
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