山田道美の情報(やまだみちよし) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山田 道美さんについて調べます
■名前・氏名 |
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山口瞳: これを用いて「血涙十番勝負」では、飛車落ちで、当時のトッププロであった米長邦雄、原田泰夫に勝利し、山田道美と引き分け、3勝6敗1分け(ただし、6敗のうちの1敗は後述する蛸島彰子との平手戦である)という結果を残した。 村山聖: A級在籍のまま逝去したのは、山田道美、大山康晴に続き史上3人目である。 京須行男: 弟子はいないが、名古屋出身の山田道美は金子金五郎門下だったが金子が名古屋在住であったため、1950年に東京に上京後、京須の道場に通って実力をあげ、また亰須の紹介で同1950年に奨励会に入った。 関根茂: 山田道美、宮坂幸雄、富沢幹雄と研究会を行い、将棋界の研究会の元祖の一人とされる。 関屋喜代作: 中原誠、山田道美らと戦うが、惨敗。 中原誠: 1967年度後期、第11期棋聖戦で山田道美八段にタイトル初挑戦し、フルセットの末に敗退する。 金子金五郎: 愛知県知多郡旭村(長浦)に在住していたことがあり、名古屋出身の山田道美はその時代に半年ほど金子の内弟子となった(のち、東京に移って奨励会員になる)。 有吉道夫: 第12期(1962年度)には、二上達也、加藤一二三、升田幸三、山田道美らを破り6勝1敗で1位タイとなるが、プレーオフで二上に敗れ、挑戦権を逸する(一方の二上は、その勢いに乗ったまま大山から王将位を奪取する)。 二上達也: 同じ時期に奨励会を過ごした山田道美もA級まで昇ったが、1970年に病死した。 中原誠: 三段時代に山田道美主催の山田研究会に加入、芹沢の芹沢研究会にも加入する。 大山康晴: A級在籍のまま死去した将棋棋士は山田道美に続き史上2人目であり、後に村山聖もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。 青野照市: 奨励会時代山田道美主宰の「山田教室」に参加していて、以来振り飛車には急戦を使用する。 勝浦修: 1回戦で山田道美を破る。 大山康晴: 二上達也・山田道美・加藤一二三・内藤國雄といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。 真部一男: 山田道美九段から研究会に誘われたが1回顔を出しただけで、主として芹沢博文九段の研究会に顔を出していた。 二上達也: 1958年にA級入りした加藤一二三をはじめ、芹沢博文・山田道美・内藤國雄など年下の棋士が徐々に台頭した。 大山康晴: しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた中原誠が台頭してきた。 |
山田道美の情報まとめ
山田 道美(やまだ みちよし)さんの誕生日は1933年12月11日です。愛知出身の将棋棋士のようです。
人物、昇段履歴などについてまとめました。病気に関する情報もありますね。山田道美の現在の年齢は90歳のようです。
山田道美のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山田 道美(やまだ みちよし、1933年12月11日 - 1970年6月18日)は、愛知県名古屋市出身の将棋棋士。金子金五郎九段門下。 名古屋在住の新制中学の3年生の時、本格的に将棋をはじめて、板谷四郎に二枚落ちで対局してやぶれる。1949年、高校生時代、金子金五郎が愛知県知多郡旭村(長浦)に在住していた時に内弟子となり、半年ほど同居してから1950年に上京して高校を中退。東京では京須行男の道場に通い、また亰須につきそわれて同1950年に奨励会に入った。 1960年初参加の順位戦B級1組で5勝7敗の成績ながらも降級するが、翌期すぐB級1組へ復帰。一年間の病気休場を余儀なくされるなど停滞した時期もあったが、やがてA級に定着し、第一線で活躍するようになる。 1964年初参加のA級順位戦で優勝し、第24期(1965年)名人戦で大山康晴に挑戦したが1-4で敗退。再度大山に挑んだ第15期王将戦でもフルセットの末に敗れる。 3度目の挑戦となった1967年第10期棋聖戦で大山を下し、初タイトルを獲得。半年後の第11期棋聖戦で、中原誠の挑戦を退けて防衛。しかし、翌期、連続挑戦してきた中原から棋聖位を奪われる。 1970年6月6日の第16期棋聖戦・挑戦者決定戦で大山康晴に敗れたのが、公式戦における生涯最期の対局となり、12日後の6月18日に特発性血小板減少性紫斑病により36歳で急死した。順位戦A級在籍中であったほか、十段戦と王位戦でも挑戦者決定リーグで戦っていた最中だった。現役A級で死去した棋士としては他に大山、村山聖がいる。 人物山田の現役時代は、大山康晴十五世名人の全盛期と重なっていた。打倒大山の担い手として二上達也、加藤一二三と共に期待されていたが、道半ばで急逝した。 奨励会時代から研究・長考派で、当時は規定上は一日何局でも指せたが、必ず一日一局しか指さなかった。 当時では数少ない研究派で、対振り飛車急戦の山田定跡等で知られる。将棋連盟の近くに一室借りてデータベース作りをしており、戦型別の勝敗などを分析していた。 お酒も飲まず、賭け事も一切しなかった。 関根茂、宮坂幸雄、富沢幹雄と振り飛車撃破を命題とする実戦中心の研究会を作った他、奨励会の若手たちと山田教室と呼ばれるグループを作り、後に盛んとなる研究会の基を築いた。弟子は持たなかったが、多くの奨励会員に大きな影響を与えた。
将棋関係の著作や随筆も多く、クラシック音楽や文学(特にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやヘルマン・ヘッセなどドイツ文学が好みで、よくドイツ語の原書で読んでいた)を好んだ。 大山康晴に対しては、常に闘志をむき出しにして挑んだ。山田は読みに集中すると、姿勢がどんどん前のめりになっていく癖があったが、ある対局のとき大山が「(影になって盤面が)暗いから頭を引っ込めてくれないか」と一喝したところ、当時すでに頭髪がすっかり薄くなっていた大山に向かって、すかさず「まぶしくてかなわん。頭巾をかぶってくれないか」と言い返したというエピソードがある。 山口瞳がプロ10人を相手に飛車落ちで挑戦した自戦記「血涙十番勝負」(ただし蛸島彰子と対戦した第三戦だけは平手であった)に描かれたエピソードによれば、山口の第二戦の相手となることが決まった山田は、しばらく駒落ち将棋を指していなかったことから、駒落ち将棋の経験が豊富なプロ棋士仲間に頼んで駒落ち将棋の研究を事前に行ったという。山田自身が将棋雑誌に寄稿した自戦記で、そうした理由を「要するに負けたくないのである」と記している。 昇段履歴1949年00月00日 : 入門 1951年00月00日 : 四段 1954年04月01日 : 五段(順位戦C級1組昇級) 1955年04月01日 : 六段(順位戦B級2組昇級) 1959年04月01日 : 七段(順位戦B級1組昇級) 1964年04月01日 : 八段(順位戦A級昇級) 1970年06月18日 : 現役死去(順位戦A級在籍のまま) 1970年0618同日 : 九段(追贈) 2024/06/17 08:43更新
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yamada michiyoshi
山田道美と同じ誕生日12月11日生まれ、同じ愛知出身の人
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