もしもし情報局 > 1969年 > 6月15日 > 将棋

村山聖の情報 (むらやまさとし)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

村山聖の情報(むらやまさとし) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

村山 聖さんについて調べます

■名前・氏名
村山 聖
(読み:むらやま さとし)
■職業
将棋棋士
■村山聖の誕生日・生年月日
1969年6月15日
酉年(とり年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
広島出身

(昭和44年)1969年生まれの人の年齢早見表

村山聖と同じ1969年生まれの有名人・芸能人

村山聖と同じ6月15日生まれの有名人・芸能人

村山聖と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


村山聖と関係のある人

滝誠一郎: 甥弟子(自身の弟弟子・森信雄の弟子)の村山聖が順位戦A級に昇進し東京で一人暮らしをしていた時期(1995年頃)には村山の面倒をよく見ていたという。囲碁将棋チャンネル・村山聖没後10年特別番組「まっすぐに生きて」によると、村山に洒落っ気が著しく欠如していることに業を煮やし、派手なデザインのアロハシャツを無理やり購入させたことがあるという。


藤原竜也: 聖の青春(2001年1月6日、中国放送・TBS) - 村山聖


谷川浩司: 1998年度のA級順位戦は、村山聖の休場(同年に死去)により9人でのリーグ戦となった。


谷川浩司: 第42期王将戦(谷川4-0村山聖)では防衛に成功したものの、第18期棋王戦(谷川2-3羽生)ではフルセットの戦いの末、奪取に失敗した。


木村一基: 1998年3月30日、村山聖と対局(第39期王位戦挑戦者決定リーグ白組3回戦)して敗れた。


青野照市: 村山聖の最後の順位戦の相手。


村山慈明: 序盤戦の深い研究で知られ、同じ名字の村山聖が存命で新鋭の頃に「終盤は村山に聞け」と呼ばれたことにあやかり、「序盤は村山に聞け」(あるいは「終盤は聖に聞け、序盤は慈明に聞け」とも)と呼ばれる。


藤井猛: いわゆる「羽生世代」の一人であるが、羽生善治、佐藤康光、森内俊之、郷田真隆、村山聖といった早熟の棋士達とは異なり、丸山忠久と共にやや遅れて台頭してきたグループに属する。


萩元晴彦: 遺作は、2001年の新春スペシャルドラマで、病身で勝負に打ち込む棋士・村山聖を描いたドラマ『聖の青春』。


糸谷哲郎: 村山聖、山崎隆之、片上大輔は、広島将棋センターの先輩であり、森信雄門下の兄弟子でもある。


瀬川晶司: 1969年度生まれ(佐藤康光、村山聖と同学年)であり、羽生世代の強豪棋士たちと年齢が重なる。


森信雄: 広島県広島市出身の弟子が村山聖含めて多い。


豊田利晃: 将棋棋士を目指して9歳で関西奨励会に入会したが、同時期に関西奨励会員であった村山聖(九段)や佐藤康光(九段、永世棋聖資格者、タイトル13期、日本将棋連盟会長)らの才能を見て自らの限界を悟り、17歳の時に自ら退会した。


杉本昌隆: 杉本の振り飛車は奨励会時代から定評があり、先に四段に上がった村山聖は「全振り飛車党の中で唯一の本格正統派」「メチャクチャ格調が高い」と評していた。


大崎善生: 2000年、将棋棋士の村山聖の生涯を追ったノンフィクション小説『聖の青春』で作家デビュー。


屋敷伸之: 入会時の年齢が違うために単純な比較は難しいものの、屋敷以前に奨励会を記録的な速さで駆け抜けたことで話題となった谷川浩司(11歳で入会し所要3年8か月)、羽生善治(12歳で入会し所要3年)、村山聖(14歳で入会し所要2年11か月)らよりも短期間でプロ入りしている。


南口繁一: 村山聖をはじめとする森門下の棋士及び阿久津主税(滝の弟子)は孫弟子にあたる。


山本おさむ: 夭折した非凡の棋士村山聖の人生を基にした『聖-天才・羽生が恐れた男』を描くことになったきっかけは、後に死別した妻の久木田が村山と同じ病気を患っていたことであり、間もなく久木田は連載中に亡くなった(後に福島県岩瀬郡天栄村出身の女性と再婚)。


丸山忠久: その第2戦は、病苦に耐える村山聖(丸山とともにA級昇級した後に死去)との深夜に及ぶ173手の激闘として知られる。


大山康晴: A級在籍のまま死去した将棋棋士は山田道美に続き史上2人目であり、後に村山聖もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。


森信雄: 村山聖が将来にランクが下がってきたら師弟で対局できるとして楽しみにしていたが、村山の死去で叶わなくなってしまった。


片上大輔: 村山聖、山崎隆之、糸谷哲郎などの棋士を生んだ広島将棋センター出身。


山崎隆之: また、これにより師匠(森信雄)の段位を、師匠が現役のまま複数の弟子(村山聖と山崎)が追い抜く、珍しい記録も作った。


谷川浩司: なお、直後の第46期王将戦(谷川0-4羽生)でも、王将リーグで村山聖との4勝2敗同士のプレーオフを制して羽生に挑戦したが、敗退した。


森下卓: 1993年度では第51期順位戦のB級2組で9勝1敗となり、1位でB級1組に昇級(村山聖との同時昇級)。


松山ケンイチ: 聖の青春(2016年11月19日) - 主演・村山聖


東出昌大: 同作の主人公である村山聖を演じた松山ケンイチと東出の二人に対して日本将棋連盟が初段免状を贈呈することとなり、同作公開時の舞台挨拶の際に、羽生善治が登壇して二人に免状を手渡した。


屋敷伸之: 第46回(1996年度)NHK杯戦で村山聖・佐藤康光・島朗らに勝ち決勝進出。


羽生善治: 第47回(1997年度)NHK杯戦決勝(対局日は1998年2月28日)は、村山聖との最後の対戦となった(約5か月後の1998年8月8日に村山が死去)。


羽生善治: その傍ら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖・森内俊之・丸山忠久・郷田真隆・有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取った。


村山聖の情報まとめ

もしもしロボ

村山 聖(むらやま さとし)さんの誕生日は1969年6月15日です。広島出身の将棋棋士のようです。

もしもしロボ

昇段履歴、主な成績などについてまとめました。病気、結婚、家族、映画、兄弟に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

村山聖のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、日本の将棋棋士、九段(追贈)。森信雄七段門下。棋士番号は180。いわゆる「羽生世代」と呼ばれる棋士の一人。

広島県安芸郡府中町出身。血液型はAB型。

3兄姉の次男として生まれる。5歳のとき、腎臓の難病であるネフローゼ症候群にかかっていることが発覚。府中町立府中小学校に入学するも病状が悪化し、広島市民病院の院内学級・引続き広島県立原養護学校(国立療養所原病院に隣接)で6年生の1月まで過ごす。ともに入院していた子が亡くなることもあったという。

入院中に父から将棋を教わり、それに没頭するようになる。体に障るからと何度注意されても朝から晩まで指し続けた。母には、小学館の学習雑誌や「将棋世界」などの本を持ってきてもらったという。初めて読んだ将棋の本は「将棋は歩から」(加藤治郎著)

10歳の時、広島市内の元奨励会員が開く将棋教室に、療養所の月3回の外出日を利用し通い、アマチュア四段を認定される。その後、11歳から名門将棋道場「広島将棋センター」に移ってさらに腕を磨き、中国こども名人戦で4大会連続優勝。また、当時タイトルホルダーの森安秀光(棋聖)を飛車落ちで破るまでに至った。1981年の小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光と対局し敗れたという。1982年府中町立府中中学校1年の中学生将棋名人戦でベスト8に入り(優勝は中川大輔)、それによる上京の際に真剣師として知られる小池重明と遭遇し、彼と指し合い勝利したエピソードも記録されている。

当時名人候補であった谷川浩司を倒したいという目標より、中学1年生となった1982年にプロ棋士を目指す(谷川の名人就位は1983年)。両親にとってその知らせは青天の霹靂であったが、病気の背景もあってか「好きなことをやらせたい」という思いがあり、師匠探しをすることに。

しかし、プロ棋士への道はうまくはいかず、以前将棋を教わっていた元奨励会会員は、まだ師匠の紹介は早いと告げ、態度を保留した。しかしながら、病身であり猶予がないことから、これにめげず両親は他に師匠探しを始める。その結果、「広島将棋センター」の日本将棋連盟広島将棋同好会支部の支部長より、大阪の森信雄の紹介を受けた母は聖を引き合わせた。当時30歳であった森は「一目で気に入った。好きなタイプ。普通の子ではない」と思い、聖を絶賛したという。この時、村山は暑がりなのか真冬なのに裸足でズックを履き、ワイシャツを腕まくりしていたと伝えられている。

1982年、森を師匠とし奨励会を受験、合格する。しかし、当初相談を受けた元奨励会員も、実は親交のあった灘蓮照に紹介をしており、灘は弟子としての申請を進めていた。灘はこれを理由に入会に反対し、結果として認められなかった。その後、森の師匠であり当時病床にあった南口繁一の仲裁もあり、翌1983年再受験して5級で入会する。

入会後、大阪で単身で暮らす病身の村山を、師匠の森が同居して親身な世話をして支えた。村山はしょっちゅう熱を出し、「40度になったら死にます」と言っていたが、実際に41度であっても森は「40度になってない。大丈夫や」と嘘をついて村山を安心させた。村山の体調が悪いとき、森はお使いにも出かけた。村山が少女漫画をたくさん求めると、どこで売っているかさえわからなかった森が、あちこちの書店へ奔走した。「どちらが師匠かわからない」ということで知られる逸話である。

その後、師匠の家から1分のところで一人暮らしをはじめ、3000冊の少女漫画などの漫画に囲まれて過ごす。購入するにあたっては同じ巻のものを3冊揃えた。その内訳は、読む分、書棚に飾る分、保存する分だったという。また、読書家でもあり、のちに1998年の「将棋年鑑」アンケートで「好きな作家」に河あきら、麻耶雄嵩、太刀掛秀子、森博嗣、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.、アガサ・クリスティ、梶尾真治、倉知淳、ピーター・ラヴゼイを挙げている。また、1997年のインタビュー記事では好きな漫画家として萩尾望都、塀内真人をあげている。しかし、関西将棋会館には体調の許す限り毎日のように通い、研究にいそしんだ。将棋に打ち込みたいあまり、無理をしてでも出かけたことも度々あったという。

1986年11月5日にプロデビュー。奨励会入会からプロ入りまで2年11か月は、谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピードであった(しかも村山は病気による止むを得ない不戦敗がたびたびあった)。風貌のイメージともあわせ、「怪童丸」の異称で呼ばれる。

しかし有名になったため、悪口も言われるようになる。村山は髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから切ることを極端に嫌がり、ネフローゼ症候群による浮腫もあいまって独特の風貌であったため、周りから不潔だと噂されていた。ある日、森に「僕、不潔と言われるんですが、悪いんですかね」と泣きそうな顔で相談すると、森は「不潔なのは誰でもいややろう。だけど、強くなったら言われなくなる」と励ました。また、ある日森が日本将棋連盟雑誌編集部の大崎善生とともに公園の中を歩いていると、村山と遭遇。村山が「しまった」という感じのバツが悪い様子で歩み寄ったところ、森は「飯食うとるか。髪切りや。たまには歯ぁ磨き。手ぇ出し。(手を握って)まあまあやな」と語りかけ、大崎は強い師弟愛を目の当たりにした。なお、弟弟子に山崎隆之がおり、村山は「肉丸」、山崎は「ちん丸」というあだ名で呼び合っていたという。

奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほどであった。その代表的なエピソードとして、村山を含む棋士達が、A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で検討していた際、関西の大御所で詰将棋作家でもある内藤國雄が入室してきて「駒(持駒)はぎょうさんある。詰んどるやろ」と言った。そこでほとんどの棋士達が一斉に詰み手順を検討し始めたところ、「村山くんが詰まんと言っています」という声が上がった。後に内藤は「詰みを発見しようという雰囲気の中で『詰まない』と発言するというのは相当な実力と自信」と賞賛している。

村山の目標は他の多くの棋士と同じく「名人」だったが、10代の終わりで「名人になって早く将棋を辞めたい」とも語っていた。自分の時間が残り少ないことの裏返しの言葉だとされている。

1989年6月15日夜、雀荘にいる森のところまで村山がわざわざ姿を見せ、「二十歳になりました」と話す。その理由は「20歳まで生きることができて嬉しい」ということであった。

棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意を剥き出しにすることが多かったが、羽生に対してだけは特別の敬意を払っていたという。当時、羽生を筆頭として10代でプロ棋士になった者らは恐るべき勢いで勝ち進み、新人類棋士、チャイルドブランドなどと呼ばれ、羽生、佐藤康光、森内俊之と村山の4名が、その有力なメンバーであった。この世代が後に「羽生世代」と呼ばれ、将棋界の中心となった。また、「東の羽生、西の村山」と並び称され期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できないこともあり、実績では羽生に遅れを取った。

1989年9月6日、若獅子戦決勝で羽生に敗れる。その6日後のC級1組順位戦でも羽生に敗れたが、感想戦が終わって羽生が席を立つ時、「がんばって昇級してください」と声をかけたという。

翌年、1990年10月1日、第13回若獅子戦決勝で佐藤康光を破り、棋戦初優勝。

1994年1月12日に師匠の森が結婚式を挙げる。結婚するという話を直接聞かされていなかった村山は、披露宴のスピーチで「新聞に出るまで弟子に黙っているなんて、考えられないと思いますけどねぇ」と笑顔で述べ、列席者達を爆笑させた。

その後村山は関西から関東への移籍を決心。森も村山自身のためになるとして賛成し、『将棋世界』編集長となっていた大崎がアパート探しをして数軒の候補に絞った結果、村山は会館から徒歩5分のところに決めた。東京では遊びも覚え、先崎学、郷田真隆ら棋士仲間と麻雀、酒を楽しみ、人生を語り合い、その際結婚願望も口にしたという。「聖」の名から「ひじりちゃん」というあだ名をつけられた。

1995年4月、A級八段まで登りつめ、名人位が射程圏となる。

1996年度の終わり、第30回早指し将棋選手権で優勝。これが村山にとっては新人棋戦以外での唯一の優勝である。また、同時期の1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦し、強手△7五飛(70手目)から優勢を保って124手目までで羽生に勝ち、通算対戦成績を6勝6敗としている。しかし、この頃から病状が悪化、脱力感や血尿に悩まされるなどして、持ち時間の長い順位戦では成績が振るわず、1997年春、B級1組に降級してしまう。

その直後、進行性膀胱癌が見つかり、東京のアパートを引き払って地元の広島大学病院に入院。村山は「子供を作れなくなるのが嫌だから」と手術を一旦拒否したが、同じ手術をした経験のある男性と会わせて体験談を聞かせるなどして医師が説得。手術を受けることを決断させた。1997年6月16日に行われた手術は、片方の腎臓と膀胱を摘出するという8時間半の大手術であったが、休場することなく棋戦を戦い続けた。抗癌剤や放射線治療については、「脳に悪影響があって将棋に支障が出ては困る」という理由で拒否していた。

手術後早くも復帰の意思を見せ、医者には「脱走してでも行く」と告げるほどであった。1997年7月14日、復帰第1戦となった第56期B級1組順位戦2回戦の対丸山忠久戦は、角換わり腰掛け銀の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ戦いとなる。持ち時間の残りがなくなり1分将棋となっていたところで、村山は強引に丸山の玉を詰ましにいったが詰まなかった。結果は丸山の勝ちで、33手詰めであった。しかし、病苦に耐えながら指していたとはとても思えない内容の激闘・名局として伝説化されている。この一戦では敗れたものの、1期でA級復帰を決める。

同年度は、NHK杯戦でも決勝まで勝ち上がる活躍。決勝の相手は羽生であった。村山優勢で進んでいたが、最後に秒読みに追われてミス(68手目△7六角)をして優勝を逃す。しかし、局後のインタビューでは、「優勝したはずなんですが、ポカしてしまいました」と笑顔で冗談混じりに答えた。これで羽生との対戦を通算6勝7敗で終えた(休場による4月の不戦敗も含めると6勝8敗)。

1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表。森は「1年休んだら弱くなるぞ」と言ったが、村山は「命のほうが大事ですから」と答え、彼は「変わったな」と思ったという。同年3月の最後の対局を5戦全勝で終えて将棋対局の場から離れ、A級復帰祝賀会が村山最後の表舞台となった。1998年版「将棋年鑑」のプロフィールでは、「今年の目標は?」との項目に「生きる」と書き残している。

以降、広島大学病院の名札の無い病室でひっそりと過ごし、8月8日に死去(享年29)。名人になる夢は叶わなかった。薄れていく意識の中でも棋譜をそらんじ、「……2七銀」が最期の言葉であったという。遺志により葬儀は家族のみの密葬とし、葬儀終了後にその死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。日本将棋連盟は、その功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。また、「将棋世界」は98年10月号を「特別追悼号 さようなら、村山聖九段」と題して発行し、無冠の棋士の死を悼んだ。A級在籍のまま逝去したのは、山田道美、大山康晴に続き史上3人目である。

死後、地元府中町では「村山聖杯将棋怪童戦」を、日本将棋連盟広島将棋同好会支部・中国放送・中国新聞社と共催し、顕彰に努めている。

村山はかなりの負けず嫌いな性格であった。将棋以外にも、囲碁や麻雀で負けた際も非常に悔しがっていた。生前、徹夜で麻雀に付き合った当時奨励会三段だった瀬川晶司は「なんて子供っぽい人だろう」と思い、「A級がそんなことを言うたらあかんがな」と言ったことがある。これがきっかけとなり、村山は、亡くなるまで彼と親交を持った。

麻雀については映画『聖の青春』でも語られ、ライバルの羽生は将棋と共にチェス(チェスは将棋と同じインドのチャドランガを祖とする兄弟関係であり、ルールも似ている)との二刀流であるのに対し、村山は囲碁や麻雀(特に麻雀は劇中で語られる)など将棋とルールや先読み能力などが全く異なるゲームも並行して三刀流以上であった。

指導棋士の加藤昌彦は、奨励会から去る時の送別会の酒席で村山から「加藤さんは負け犬ですよ」と言われたことに怒り、殴り合いの喧嘩に発展したことがあると語っている。映画『聖の青春』にもこのエピソードが描かれており、映画を見た加藤は「ほぼ、あの通りです。25年前のことなんですが、何とも言えない複雑な気持ちになる。ぼくは将棋界に帰ってくるつもりはなかったし、村山君もぼくとの別れが寂しかったんでしょう」とコメントしている。

晩年に病気に苦しめられた時に母に治療しろと強く言われるが、聖は麻酔で脳にダメージで将棋が弱くなるとして治療を拒否し、母は治療の説得を諦めた。

他棋士の間でゴルフブームが起きた時に、村山もゴルフをやりたいと言ったが師匠森信雄がゴルフなんかやったら病弱で死んでしまうとしてゴルフ厳禁にし、村山は抗議し殴り合い状態にまでなった。(聖の青春で描かれている)

昇段履歴

1983年12月 : 5級(奨励会入会)

1984年06月 : 4級(9勝2敗)

1984年08月 : 3級(9勝2敗)

1984年09月 : 2級(6連勝)

1985年01月 : 1級(9勝3敗)

1985年08月 : 初段(12勝4敗)

1986年01月 : 二段(12勝4敗)

1986年07月 : 三段(12勝4敗)

1986年11月05日 : 四段(13勝4敗)プロ入り(奨励会在籍2年11か月)

1988年04月01日 : 五段(順位戦C級1組昇級)

1991年10月31日 : 六段(勝数規定)

1993年04月01日 : 七段(順位戦B級1組昇級)

1995年04月01日 : 八段(順位戦A級昇級)

1998年08月08日 : 死去(享年29)

1998年08月09日 : 九段(追贈)

主な成績

生涯成績 356勝201敗(うち不戦敗12)勝率0.639

竜王戦1組在籍4期 第8期(1995年) - 第11期(休場のため第11期1組準決勝以降を不戦敗)

順位戦A級在籍3期 第54期(1995年度) - 第55期, 第57期(第57期休場中にA級のまま死去)

タイトル戦登場

王将挑戦(第42期 = 1992年度)

登場回数1、獲得なし

一般棋戦の優勝歴

若獅子戦 1回(第13回 = 1989年度、決勝は1990年10月1日)

早指し将棋選手権 1回(第30回 = 1996年度)

優勝回数合計2

将棋大賞

第20回(1992年度) 敢闘賞

第26回(1998年度) 特別賞

在籍クラス

順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始年度 (出典)順位戦
(出典)
(出典)竜王戦
(出典)
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝T
1組 2組 1組 2組
1987 46 C51 1 6組 --
1988 47 C21 2 6組 --
1989 48 C07 3 5組 --
1990 49 C15 4 4組 --
1991 50 C08 5 3組 --
1992 51 B19 6 2組 --
1993 52 B12 7 2組 --
1994 53 B04 8 1組 --
1995 54 A10 9 1組 --
1996 55 A08 10 1組 --
1997 56 B01 11 1組 --
1998 57 A10 第11期竜王戦は途中休場(1998年4月以降)
第57期順位戦は休場(1998年4月以降)
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。順位戦の右数字はクラス内順位 ( 当期降級点 / *累積降級点 / 降級点消去 )順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 (村山聖九段(追贈)は1998年4月から休場、1998年8月8日 死去。)

2024/06/14 00:43更新

murayama satoshi


村山聖と同じ誕生日6月15日生まれ、同じ広島出身の人

平繁 龍一(ひらしげ りゅういち)
1988年6月15日生まれの有名人 広島出身

平繁 龍一(ひらしげ りゅういち、1988年6月15日 - )は、広島県東広島市(旧賀茂郡黒瀬町)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。広島県立吉田高等学校卒業。 サンフレッ…

平山 郁夫(ひらやま いくお)
1930年6月15日生まれの有名人 広島出身

平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 2009年12月2日)は、日本の日本画家、教育者。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。 東京芸術大学美術学部教授、…

伊賀 健一(いが けんいち)
1940年6月15日生まれの有名人 広島出身

伊賀 健一(いが けんいち、1940年6月15日 - )は、日本の工学者。工学博士。広島県呉市出身。東京工業大学栄誉教授・第18代学長。文化功労者。 1940年、広島県呉市出身。広島大学附属高等学…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


村山聖と近い名前の人

村山 優香(むらやま ゆうか)
2003年2月19日生まれの有名人 茨城出身

村山 優香(むらやま ゆうか、2003年2月19日 - )は、日本の女優。茨城県北茨城市出身。アークプロモーション所属。 2015年、映画『忘れ雪』で女優デビュー。 2022年、『ウルトラマンデ…

村山 久美(むらやま くみ)
1993年2月18日生まれの有名人 千葉出身

村山 久美(むらやま くみ、1993年2月18日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント、レースクイーンである。 千葉県出身。エヌウィード系列の『ヴィクトリーロード』に所属している。愛称は「くー…

村山 彩希(むらやま ゆいり)
【AKB48】
1997年6月15日生まれの有名人 神奈川出身

村山 彩希(むらやま ゆいり、1997年〈平成9年〉6月15日 - )は、日本のアイドル、YouTuberであり、女性アイドルグループ・AKB48のメンバーである。愛称は、ゆいりー。元子役。神奈川県出…

村山 幸子(むらやま ゆきこ)
1940年3月10日生まれの有名人 東京出身

村山 幸子(むらやま ゆきこ、1940年3月10日 - )は、日本の将棋の元女流棋士。東京都墨田区出身。女流棋士一期生6人のうちの一人。日本将棋連盟所属時の女流棋士番号6。師匠はいない。 1974…

村山 祐介(むらやま ゆうすけ)
1981年6月10日生まれの有名人 福岡出身

村山 祐介(むらやま ゆうすけ、1981年6月10日 - )は静岡県出身の元プロサッカー選手。ポジションはディフェンダー。 2009年オフに大宮アルディージャを戦力外となり、12月29日に大分トリ…

村山 千代(むらやま ちよ)
1981年4月20日生まれの有名人 新潟出身

新潟総合テレビ(2004年-2013年) 村山 千代(むらやま ちよ、1981年4月20日 - )は、ライムライト所属のアナウンサー。 新潟県長岡市出身。 長岡市立東北中学校、新潟県立長岡高等学…

村山 喜彦(むらやま よしひこ)
1964年4月21日生まれの有名人 東京出身

村山 喜彦(むらやま よしひこ、1964年4月21日 - )は、日本テレビアナウンサー。 東京都世田谷区出身。筑波大学附属駒場高等学校、国際基督教大学教養学部卒業後、1988年入社。 同期入社は…

村山 摩衣(むらやま まい)
11月21日生まれの有名人 福岡出身

村山 摩衣(むらやま まい、11月21日 - )は、日本の女性声優。福岡県出身。身長145cm、血液型はO型。オフィスもり所属。 ※ 太字は主役・メインキャラクター 美人がこっそりやってる美容の…

村山 香月(むらやま かづき)
1985年8月21日生まれの有名人 埼玉出身

村山 香月(むらやま かづき、1985年8月21日 - )は、日本の女性声優、MC。千葉県出身。フリー。 尚美ミュージックカレッジ専門学校声優学科卒業、映像テクノアカデミア声優・俳優科プロクラス卒…

村山 敬美(むらやま たかよし)
1983年1月26日生まれの有名人 埼玉出身

村山 敬美(むらやま たかよし、1983年1月26日 - )は、日本の男性声優。埼玉県出身。KAMプロモーション所属。 「風の塔」初之助役 「里見八犬伝」大法師役 横浜美術館公演「シャーロック・ホ…

村山 ひとし(むらやま ひとし)
1972年1月19日生まれの有名人 東京出身

村山 ひとし(むらやま ひとし、1972年1月19日 - )は、日本のタレント、放送作家、脚本家、アイドル評論家である。 東京都練馬区出身。東放学園専門学校放送芸術科卒業。自らが代表取締役を務める「…

村山和実(むらやま・なごみ )
1988年10月31日生まれの有名人 神奈川出身

村山和実(むらやま・なごみ 1988年10月31日-)は神奈川県出身のタレント、モデル、トータルビューティーデザイナー。所属事務所はビーイング傘下のWhite Dream 文化学園大学卒業。在学中の…

村山渉(むらやま わたる)
1月4日生まれの有名人 東京出身

箱庭仙界(マッグガーデン) 村山渉は今日も元気です。(ブログ) 村山 渉(むらやま わたる、11月4日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。女性。血液型はA型。

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
村山聖
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

NORD (アイドルグループ) XOX King & Prince SUPER★DRAGON Number_i OCTPATH PRIZMAX さくらしめじ DISH// 三四郎 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「村山聖」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました