大山康晴の情報(おおやまやすはる) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大山 康晴さんについて調べます
■名前・氏名 |
大山康晴と関係のある人
眞部利應: 2016年、公益社団法人日本将棋連盟から、第23回大山康晴賞を授賞。 永瀬拓矢: 振飛車党時代は、「有利になれば相手の駒をすべて取りにいく」ような棋風で「大山康晴十五世名人の再来」と呼ばれた。 淡路仁茂: いずれも定員がA級順位戦より少なく、将棋界屈指の難関リーグとされていたが前者では5勝5敗・4位の成績でリーグ残留、後者では3勝4敗でリーグに残留できなかったものの、2つのリーグで大山康晴(当時棋聖)に3連勝を挙げた。 田丸昇: 1989年度棋王戦で挑戦者決定戦に進出するも大山康晴に敗れる。 塚田正夫: 翌1948年の名人戦は大山康晴の挑戦を退けて防衛した。 徳川夢声: 他は、大山康晴 小島政二郎 島津忠承 高川格 塚田公太 富安風生 坂田三吉: これは、坂田のファンであった高橋龍太郎の寄附によって1954年(昭和31年)に日本将棋連盟が建立した墓であり、除幕式には土居市太郎、木村義雄、升田幸三、大山康晴ら40名以上の棋士が集まった。 山田道美: 山田の現役時代は、大山康晴十五世名人の全盛期と重なっていた。 中原誠: その後、大山康晴、山田を相手に2期防衛して棋聖3連覇。 羽生善治: 2018年度(2019年)の第68回NHK杯で優勝し、同大会優勝回数を11回に更新の上、一般棋戦(タイトル戦以外のプロ公式戦)の通算優勝回数が大山康晴を超え史上最多の45回となった。 関根紀代子: 還暦での番勝負進出は女流棋士では最年長である(棋士を含めると大山康晴の66歳)。 斎藤栄: 1997年、第4回大山康晴賞を受賞。 村山聖: A級在籍のまま逝去したのは、山田道美、大山康晴に続き史上3人目である。 升田幸三: 1956年、今度は弟弟子でもある大山康晴名人との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。 五味康祐: 1956年に、当時名人だった大山康晴を非難する小説を発表し、大山からクレームがあったため、謝罪した。 大野源一: 大山康晴は「受け一方ではなく攻める振り飛車だから恐れられている」と評した。 森安秀光: 1986年の第44期A級順位戦では順位2位で4勝を挙げるも、前年度の大山康晴休場に伴うA級順位戦参加定員増・降級者3名のあおりを受けA級から陥落。 久保利明: これで、関西所属棋士としては谷川浩司(2004年度に王位・棋王の二冠から王位失冠)以来5年半ぶりとなる二冠王となり、振り飛車党が二冠王となるのは大山康晴以来、37年ぶりである。 小池重明: プロ棋士を相手にも次々と勝ち星を重ね、さらに雑誌の企画で角落ち戦のハンデ戦ながらも大山康晴名人との対局にも勝利した。 中原誠: 24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄・加藤一二三・谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。 大野源一: 同門の後輩には角田三男、升田幸三、大山康晴がいる。 内藤國雄: 十五世名人である大山康晴を苦手とし、対戦成績も18勝50敗と大きく負け越している。 谷川浩司: これで、全7タイトルを各1回以上獲得したことになり(7タイトル生涯グランドスラム)、また、大山康晴、中原誠、米長邦雄に次いで史上4人目の四冠王(竜王・棋聖・王位・王将)となり、4度目の最優秀棋士賞受賞した。 内藤国雄: 1972年度の第13期王位戦七番勝負における大山康晴王位との戦いでは、第3局と第5局で大山得意の振り飛車に対し「鳥刺し」戦法含みの序盤戦術を見せて、いずれも勝利。 廣津久雄: 大山康晴から、「振り飛車をやったらどうだね?振り飛車は、楽しいよ」と棋風を変えることを勧められたが、振り飛車党にはならなかった。 児玉孝一: そして、第4期(1991年度)竜王戦2組では、準決勝で大山康晴十五世名人、決勝で石田和雄八段に勝利して2組優勝し、40歳で1組昇級。 島田良夫: 2008年、70歳のときに、第15回「大山康晴賞」を日本将棋連盟から授与された。 坂田三吉: ただ、文字を知らないための奇行があったことは、実際に親しく将棋を教えられた升田幸三も認めており、食堂のメニューが読めなかったり、坂田の記録係だった大山康晴が、算用数字で考慮時間を記録していたのを見た坂田は「英語で記録しているのか」と聞いたりしたという。 升田幸三: 同門の先輩には大野源一、角田三男、また後輩には終生のライバル大山康晴がいる。 佐藤大五郎: 相手は、五冠独占連続3年目の途中にあった大山康晴。 |
大山康晴の情報まとめ
大山 康晴(おおやま やすはる)さんの誕生日は1923年3月13日です。岡山出身の将棋棋士のようです。
兄弟、趣味、結婚、引退、テレビ、現在、卒業、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1992年に亡くなられているようです。
大山康晴のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大山 康晴(おおやま やすはる、1923年(大正12年)3月13日 - 1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。 主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。 順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。岡山県倉敷市出身で、倉敷市および青森県上北郡おいらせ町の名誉市民・名誉町民。 1923年(大正12年)3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。5歳頃から将棋を覚え始める。 才能を注目されて、1935年(昭和10年)に大阪に出て、同じく岡山県出身の木見金治郎八段(当時)に入門し、内弟子となる。同1935年、創設されたばかりの関西奨励会に6級で参加。順調に昇段し、1937年(昭和12年)には二段になった。 二段時代に、中外商業新報(のちの日本経済新聞)の主催の若手勝ち抜き棋戦において、初の公式戦を体験する。 木見門下の兄弟子に大野源一、角田三男、そして終生のライバル升田幸三がいた。内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。 しかし1938年(昭和13年)には、師匠の弟であり、木見家に居候していた木見栄次郎(中将棋の名手、将棋と囲碁はセミプロの腕前)と、中将棋と囲碁に明け暮れる毎日を送り、この年は二段のままであった。 一方で、この時期に中将棋を学んだことで、駒の連携を重視する、用心深く、粘りのある大山の棋風が生まれたと大山自身が述べている。また、この時期に囲碁を本気で勉強したことは、大山が戦時中に兵役に就いた際に身を助けた(後述)。晩年に至るまで大山は囲碁を趣味としており、1950年代には日本棋院からアマ五段の免状を受けていた。 1940年(昭和15年)2月に四段、1941年(昭和16年)に五段、1943年(昭和18年)に六段(前年の昭和17年に六段への昇段点を満たしたが、早すぎるとして昇段を保留された)。1942年(昭和17年)には、大阪毎日新聞(戦後の毎日新聞大阪本社)の嘱託となり、月額100円の手当を支給されるようになった。本来この嘱託の話は升田に持ち込まれていたが、升田が出征中だったため大山に話が回ってきたとも言われ、後に大山と升田が対立する原因の一つとなったとされる。 太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に召集され、5月1日に、岡山市北部に兵営があった陸軍の「四十八部隊」に入営した。大山は、4月18日に倉敷の自宅で召集令状を受け取った時点で、六段で11勝3敗の成績であり、あと4勝で七段に昇段できる状況であった。大山は直ちに大阪に行き、入営の前に4局指させて欲しい(全て勝って七段になって入営したい)と師匠の木見に願い出た。大山の希望は叶えられ、4月20日から23日の間に、大野源一・八段、高島一岐代六段、松浦卓造四段、星田啓三・四段(段位はいずれも当時)と4局を指したが、松浦四段に1敗を喫し、3勝1敗の成績で昇段はできなかった。 将棋大成会(日本将棋連盟の前身)は、出征すれば生還を望めない状況を鑑み、出征が決まった棋士を無条件に昇段させていた。河口俊彦は、大山も何もしなくても七段に昇段できたはずなのに、あくまでも実力での昇段を望んだのは、真の将棋指しであった大山の人柄を表している、と評している。 同じく河口俊彦は、当時の大山に勝てる棋士は関西に存在せず(升田幸三・七段は、昭和18年11月に二度目の召集を受けて出征していた)、そもそも、死にに行く出征棋士に勝とうなどと思う棋士がいる訳もなく、大山が1敗を喫したのは不思議である。大山は勝つのが当然と油断しており、その隙を松浦四段に突かれて負けたのだろうと推定している。 入営して二等兵(歩兵)となった大山は、厳しい初年兵訓練を1カ月受けたが、その後に縫工(ミシンを使って裁縫作業をする配置)に回された。同僚の兵は多くが沖縄戦に投入され、生還できなかったが、大山は戦地への動員を免れて岡山に残留した。岡山県出身の上官(氏名は出典に記載なし)が、特殊技能を持つ兵は岡山に残す、と判断した結果のようであった。 1945年(昭和20年)4月25日に大山の所属部隊が再編成され、本土決戦に備えて南九州に進出した。そこで所属部隊を離れて上級部隊である第154師団の司令部附となり、宮原健雄大佐(第154師団参謀長、陸士36期・陸大47期)の当番兵となり、終戦を迎えた。 以下は、宮原健雄大佐の戦後の証言による。 戦後に復員して棋士に戻り、創設された順位戦にB級六段として出場。1947年(昭和22年)に七段昇段。同年、妻・(旧姓・中山)昌子と結婚。1948年(昭和23年)、時の塚田正夫名人への挑戦者は升田幸三八段と見られていたが、大山はB級1位ながら当時の変則運用によりA級棋士を連破して、A級1位の升田にも「高野山の決戦」(第7期名人挑戦者決定三番勝負)で辛勝して初めて名人挑戦者となる。25歳での名人挑戦は、当時の史上最年少記録であった。また、20代での名人戦登場は史上初のことであった。しかし、第7期名人戦は2勝4敗1千日手で敗れる。この年、A級八段に昇段。 1950年(昭和25年)、A級順位戦に優勝し名人挑戦者決定戦も制して、第9期名人戦で木村義雄名人に挑戦するも2勝4敗で敗れる。その後、新設された、第1期九段戦で、優勝して、初タイトルとなる九段を獲得。27歳でのタイトルホルダーは、当時の最年少記録であり、20代でのタイトル獲得も史上初のことであった。 1951年 九段のタイトルを防衛。 1952年(昭和27年)、29歳の大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝1敗で勝利し、当時の史上最年少名人が誕生した。20代での名人獲得は史上初であった。また、九段のタイトルも保持していたため、史上初の二冠達成。ただし、九段位は直後に塚田正夫挑戦者に奪われる。「名人位の箱根越え」は坂田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げたことは、象徴的な場面として知られる)。以後、5連覇して1956年(昭和31年)には永世名人(十五世名人)の資格を得る。1952年 - 1954年には名人・王将の二冠を3年間保持した。1956年以前の九段戦は名人不参加であったため、当時の大山は全冠独占とは扱われないものの、出場しているタイトルは全て獲得していることとなる。 関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す。 「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝していた升田幸三であったが、「新手一生」「名人に香車を引いて勝つ」 を標榜しながら巻き返しを狙っていた。1955年(昭和30年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。このとき、王将戦の規定(指し込み制)で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成している。この時の心境を大山は「ハラワタがちぎれるほど悔しかった」と言っている。1956年(昭和31年)の第16期名人戦において、第12期・第13期と升田を退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、無冠に転落した。升田は、名人・九段・王将の全冠を独占して、棋界初の三冠王となった。 その後大山は、1957年(昭和32年)度の王将戦、1958年(昭和33年)の九段戦、1959年(昭和34年)の名人戦と、升田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋界2人目の三冠王(全冠独占)となった。この頃の「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、扇子の揮毫などでよく知られている。以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。 1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、1960年(昭和35年)創設の王位戦で王位を獲得して初の四冠独占をし、そして1962年(昭和37年)創設の棋聖戦で棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たした。 1959年 - 1966年(昭和34年 - 昭和41年、36歳 - 43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年 - 1970年(昭和37年 - 昭和45年)頃も四度、五冠王になった。特に、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてはタイトルを19期連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。大山の全盛期は、1950年代後半 - 1960年代の日本の高度経済成長期とほぼ重なっている。 二上達也・山田道美・加藤一二三・内藤國雄といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「盤外戦」を駆使したといわれている。 しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた中原誠が台頭してきた。山田は夭折したが、中原は大山攻略術を編み出した。桂馬を巧く使うことが、大山の堅い囲いを崩すのに有効だったという。あるいは、中原には大山の盤外戦が通じなかったともいわれ、大山は中原だけには非常に相性が悪かった。中原とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山の獲得数は4、中原の獲得数は16である。1968年 - 1972年(昭和43年 - 昭和47年)度にかけて、大山は中原によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の1973年(昭和48年)王将戦で無冠となった。大山が無冠となったのは16年ぶり。中原はこの年に四冠王(後に五冠王)になり、「棋界の太陽」と呼ばれ、「大山時代」が終わって「中原時代」が来たと言われるようになった。 1973年(昭和48年)9月26日、日本将棋連盟は臨時総会を開き、無冠となった大山が現役のまま「永世王将」を名乗ることができることを決定、同年10月31日に永世王将を就位した。また、1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位した。これらの永世称号を名乗るのは原則として引退後であるが、大山が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの「九段」とは呼べないという連盟側の配慮であった。 しかしながら「中原時代」の大山も、分の悪い対・中原戦を除けば依然として強さを発揮し、50歳代にもかかわらず十段1期・棋聖7期・王将3期の計11期を獲得した(59歳の王将位獲得は、タイトル獲得の最年長記録)。また、谷川浩司によれば、通算成績においても、20歳代の時より50歳代の時の方が多く勝っているとのこと。その他では谷川、羽生善治などにも負け越している。 1974年(昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって日本将棋連盟本部である「将棋会館」の建設に、1977年(昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設に尽力。1976年12月から1989年5月(昭和51年 - 平成元年)には、第一線のA級棋士で王将を3期連覇しながら日本将棋連盟の会長を務め、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事した。戦後に日本将棋連盟が発足して以来、会長とタイトルホルダーが兼ねていた唯一の事例である。 会長に就任した頃から、将棋の普及活動に、ひときわ熱心に取り組むようになった。 大山は、1978年(昭和53年)4月、55歳の時に、将棋普及のために青森県上北郡百石町(現・おいらせ町)を初めて訪れた。それ以来、大山は同町を繰り返し訪問し、「第二の故郷」と呼ぶほどの深い交流を持った。 1989年(平成元年)には百石町名誉町民の称号を贈られ(2005年(平成17年)に「おいらせ町」が発足してからは、おいらせ町名誉町民)、没後の2004年(平成16年)には大山を顕彰する町立の施設「大山将棋記念館」が建てられている。 出身地である倉敷市からは、1953年(昭和28年)に倉敷市文化賞を、1970年(昭和45年)に倉敷市名誉市民の称号を贈られ、没後の1993年(平成5年)には「倉敷市大山名人記念館」が建てられ、同じく1993年に女流棋士のタイトル戦として「大山名人杯倉敷藤花戦」(倉敷市ほか主催)が創設されている。 また、参加対象者を中国地方の小学生に限定して1995年(平成7年)より開始した「倉敷王将戦」は、後に参加対象者を西日本地区から全国の小学生にまで拡大、2012年(平成24年)からは「大山名人杯争奪全国小学生倉敷王将戦」の冠大会となっており、優勝経験者や上位入賞経験者からプロ棋士になった方も多数出している。 1990年(平成2年)には、将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。 このほかの大山の表彰・顕彰としては、次のようなものがある。 1979年 NHK放送文化賞 1979年 紫綬褒章 1987年 第3回東京都文化賞 1987年 菊池寛賞 1992年 正四位勲二等瑞宝章 また、現役棋士としても、以下の賞を受賞している。 1965年 将棋栄誉賞(通算600勝達成) 1972年 将棋栄誉敢闘賞(通算800勝達成) 1977年 特別将棋栄誉賞(通算1000勝達成) 1982年 通算1200勝達成の表彰 晩年期の大山は、肝臓がんと闘病しながら何度も復帰してA級順位戦を闘い、さらにはタイトル獲得に挑み続けた。還暦を過ぎた60歳でNHK杯テレビ将棋トーナメントで優勝し、63歳となった1986年(昭和61年)に名人戦で中原名人に挑戦し、平成元年度の1990年(平成2年)には棋王戦で66歳にして南芳一棋王に挑戦した。この棋王挑戦は、タイトル挑戦の最高齢記録である(五番勝負は0-3で奪取ならず)。 この年代になって、順位戦で降級の危機に瀕することはあった。「A級から落ちたら引退する」という大山の決意はファンにも知れ渡っており注目を集めたが、A級の地位を維持した。1987年(昭和62年)度は、生涯最低の3勝6敗の成績ながらも、最終戦を待たずして残留が決定していた。1990年(平成2年)度は、最初に5連敗したが、その後4連勝して降級を免れた。 さらに1991年(平成3年)度(1992年(平成4年)3月まで)の順位戦(第50期)では、がん治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの谷川浩司四冠王(当時)を最終9回戦で破って、6勝3敗の4人でのプレーオフに持ち込んだ。プレーオフはパラマストーナメントのため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要があったが、プレーオフ初戦の高橋道雄との対局で敗れ(勝勢になったが決め手を見逃して敗局)、これが大山がフル出場した最期の順位戦となった。 大山は最期まで現役を貫いた。没年となった1992年(平成4年)度の順位戦も休場せず、A級1回戦で田中寅彦との対局(1992年6月11日)に臨んだ。その3日後、1992年6月14日に高松市「高松市民会館」で行われた第13回将棋日本シリーズ1回戦(公開対局)での小林健二との対局において勝利し(147手)、公式戦通算成績を1433勝とした。これが大山の棋士人生最後の勝利となった。 1992年6月25日の棋聖戦二次予選での中村修との対局(146手で中村の勝ち)が大山の生涯最期の公式戦対局となり、53年間余りの公式戦通算成績を1433勝781敗(勝率0.647)として棋士人生を終えた。それから1ヶ月後の7月26日、大山はA級の地位を守ったまま死去した。A級在籍のまま死去した将棋棋士は山田道美に続き史上2人目であり、後に村山聖もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。大山が残した69歳4ヵ月のA級在籍記録は将棋史上最年長であり、現在も破られていない。 米長邦雄は、大山の、終盤での強靭な粘り、最善手ではない、敢えて相手の悪手や疑問手を誘うよう手を指す逆転術を「終盤が二度ある」「二枚腰」と評した。 同じく米長邦雄は、大山将棋の神髄は受けにあり、守りの要となる金の使い方の巧みさでは並ぶ者がない、と評している。 大山が1992年に死去した後、藤井猛が大山の棋譜を徹底的に研究して藤井システムを創案し、それを駆使して1998年度に初タイトルとなる竜王を獲得した際に、藤井の将棋と大山の将棋が酷似していると感じた米長邦雄は、「嫌な者」(大山)が生き返ってきたかのようだ、という趣旨の発言をしたという(河口俊彦による)。 羽生善治は、大山の棋風について「読んでいないのに急所に手が行く」「最善手を追求しない」と評している。大山との実戦では「まあこんなところだろう」という感じで手が伸びてくるのがピッタリ当たり、まさに名人芸という指しまわしであったと評している。 若い頃の大山は、その当時の主流であった矢倉や腰掛銀などの居飛車が多かったが、突如振り飛車党に転向、特に美濃囲いでの四間飛車とツノ銀中飛車を好んで指した。この転向について、勝又清和は「ファンに喜ばれる将棋を指そうと考えたため」と説明しているが、大山の場合は多忙の中、兄弟子の大野源一から序盤がある程度決まっている(序盤の研究を省略できる)振り飛車を勧められたためとも言われている。 しかしその一方で相振り飛車は極端に嫌っていて、相手が飛車を振った場合は必ず居飛車で指していた(大山が公式戦で相振り飛車を指した棋譜は1局しか残っていない)。 鈴木大介は、大山が相振り飛車を嫌っていた理由として、当時の相振り飛車で一般的に使われていた金無双の右銀の使い方に苦心していたためではないかと話している。その根拠として、大山が最後に指した相振り飛車の対局では、大山は二枚金の形にはしたものの右銀は2八に上げずに3九に置いたまま戦い、最終的に終盤で取られてしまうまで3九から動かすことは無かった。 相手の手番のときには、相手が盤上のどこを見て考えているか視線の方向を観察していた。 対局相手に無形の圧力を加えるなど、いわゆる「盤外戦」を駆使した面がしばしば強調される。 例えば有名な高野山の決戦である。A級1位だった升田が塚田正夫への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた毎日新聞社は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には、対局の日程も場所も事前に通知がなく、真冬の高野山に行く升田に同行者を出さないという冷遇をした。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたが、毎日新聞社は寒冷な高野山を選ぶなど、升田は対局する以前に大山側から強烈な盤外戦を喰らっていたという説もある。 一方、河口俊彦は、毎日新聞社が、朝日新聞社の嘱託棋士であった升田に悪意のある仕打ちをしていたというのは、升田の考えすぎであろう、という趣旨を述べている。 1948年(昭和23年)の「高野山の決戦」の後の1953年(昭和28年)に毎日新聞社に入社し、長く観戦記者を務めた井口昭夫は、下記のように述べている。 「B級1位を参画」という制度変更は、「順位戦の開始前」にされていたはずだ(升田は知らなかったかもしれないが)。順位戦が終わった段階での、制度変更は考えられない。なお「B級1位を参画」は七段時代の升田が、木村名人との五番勝負に勝った結果として「B級の逸材にも挑戦のチャンスを与えよう」という流れである。 井口は、高野山での対局を毎日新聞社で担当した者に話を聞いた。当時は食糧難で対局場所を探すのも困難であり、食糧が十分確保されている高野山が対局場所として適所としてあげられた。なお、「途中は寒くても、寺に入ってしまえば防寒の用意は発達している」と高野山側の説明を受けていた。 毎日側は升田に連絡しようとしたが、升田の所在がわからず困惑していた。朝日新聞側の担当者も、升田に連絡がつかないことを心配していた。 敗戦から3年を経た1948年、未だ日本の食糧事情は厳しく、「高野山の決戦」については、対局の前夜に供されるすき焼きの材料は主催社の毎日新聞社が提供し、高野山滞在中に関係者が食べる白米(出典には「銀飯」とある)は高野山が提供し、左党の升田に欠かせない酒は後援者が提供した。食糧確保のための関係者の努力は多大なものであった。 なお、大山の側も、朝日新聞社が名人戦を主催するようになって以降は相当の盤外の圧力を被っていたという説もある。升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰った、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するよう迫ったという逸話が伝えられている。これで奮起した大山は2期後に名人位を升田から取り戻し13期連続、通算18期名人位を獲得し、その後二度と終生のライバルであった升田にタイトルを譲ることはなかった。 日本の古典将棋である中将棋の権威でもあり、さらにはチェスでも日本チャンピオンになり、日中国交正常化の翌年1973年に日中象棋協会(後に日本シャンチー協会に改名)を設立して会長職を務めてシャンチー(中国象棋)の普及にも努め、日中協会の役員 にもなって日本将棋の中国への普及にも努めた。 1935年00月00日 : 入門 1940年01月01日 : 四段 1941年00月00日 : 五段 1943年00月00日 : 六段 1947年05月10日 : 七段(順位戦B級在籍) 1948年04月01日 : 八段(A級昇級) 1958年04月17日 : 九段(1954年時点での名人3期達成による) 1973年10月31日 : 永世王将を就位(特例) 1976年12月06日 : 十五世名人を襲位(特例、1976年11月17日「将棋の日」に木村義雄十四世名人から推戴状授与) 1976年12(同06日0日本将棋連盟の会長就任) (1989年05月24日0日本将棋連盟の会長退任) 1992年07月26日 : A級現役のまま逝去(69歳没) 登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。 王座戦 9回(1953 - 1955、1959、1964、1966、1968、1980 - 1981年度) NHK杯テレビ将棋トーナメント 8回 = 歴代2位(1954 - 1955、1961、1964、1970、1972、1979、1983年度) 全日本選手権戦(名人九段五番勝負) 4回(1950 - 1951、1953、1955年度) 名人A級勝抜戦5勝以上 4回(1952後期=6連勝、1954後期=5連勝、1956前期=7連勝、1958前期=7連勝) 早指し王位決定戦 4回 = 歴代1位(1954 - 1957年度) 日本将棋連盟杯争奪戦 4回 = 歴代1位(1972、1975、1978 - 1979年度) 早指し将棋選手権 4回 = 歴代1位タイ(1973年度前期、1974年度前期、1975年度後期、1976年度後期) 東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦 2回 = 歴代1位タイ(1960 - 1961年度) 全八段戦 1回(1952年度) 産経杯争奪トーナメント 1回(1953年度) 名将戦 1回(1979年度) JT将棋日本シリーズ 1回(1982年度) オールスター勝ち抜き戦5勝以上 1回(1985年度=5連勝) 合計44回(歴代2位) この他、東西対抗勝継戦5勝以上 1回(1955(第4回))がある。本棋戦は本来は名人の参加しない一般棋戦だが、この年は「特別模範勝抜戦」と題して名人の大山が特別に参加した。この優勝相当成績は日本将棋連盟の公式の一般棋戦優勝回数には含まれていない。 第1回(1973年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞 第2回(1974年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞 第3回(1975年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞 第4回(1976年度) 連勝賞 第7回(1979年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞(いずれも最年長記録、56歳) 第13回(1985年度) 特別賞 第19回(1991年度) 特別賞 第20回(1992年度) 東京将棋記者会賞 生涯成績 1433勝781敗 勝率0.647 通算勝数:1433勝(歴代2位) 通算優勝回数:124回(歴代2位、タイトル戦80・一般棋戦44・非公式戦0) 通算公式戦優勝回数:124回(歴代2位、タイトル戦80・一般棋戦44) タイトル戦獲得:通算80期(歴代2位) 登場タイトル戦連続獲得:連続19期(歴代2位、1963年度名人戦 - 1966年度名人戦 / 第8期棋聖戦での失冠で連続記録途絶) 全タイトル戦連続獲得:連続19期(歴代1位、同上) 全タイトル戦連続登場:連続50回(歴代1位、1957年度名人戦 - 1967年度十段戦 / 第11期棋聖戦の本戦敗退で連続記録途絶) 名人在位:通算18期(歴代1位) 名人連続在位:連続13期(歴代1位、第18期 - 第30期) 十段位在位(九段戦含む):通算14期(歴代1位) 十段位連続在位(九段戦含む):連続14期(歴代1位、第9期九段戦 - 第12期九段戦 - 第1期十段戦 - 第6期十段戦) 同一タイトル戦連覇:連続13期(歴代2位、名人戦 / 第18期 - 第30期) 同一タイトル戦連続登場:連続21期(歴代2位=2度、名人戦 / 第11期 - 第31期、王将戦 / 第2期 - 第22期) タイトル戦最年長奪取:56歳11か月(歴代1位、第29期王将戦) タイトル戦最年長防衛:59歳00か月(歴代1位、第31期王将戦) タイトル戦最年長失冠:59歳11か月(歴代1位、第32期王将戦) タイトル戦最年長挑戦:66歳11か月(歴代1位、第15期棋王戦) 名人最年長防衛:48歳03か月(歴代1位、第30期名人戦) 名人最年長挑戦:63歳02か月(歴代1位、第44期名人戦) 順位戦A級在籍(名人在位含む):連続44期 / 連続45年(歴代1位、第3期順位戦 - 第30期順位戦 / 第36期順位戦 - 第51期順位戦) 最年長A級:69歳04か月(歴代1位、第51期順位戦 A級在籍のまま死去) ※升田と二上の対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。 ※有吉、米長、谷川、羽生の対局数と敗数は、大山の死去に伴う不戦敗扱いを各1局ずつ含む。 赤いマス目 はタイトル獲得(奪取または防衛)。 0 は永世称号獲得 o : 勝ち / x : 負け / j : 持将棋 / s : 千日手(すべて後日指し直し) 指: 当時の王将戦の規定による指し込み(指し込み以降の勝敗は記載しない)
大の麻雀好き。タイトル戦を戦っている最中にも控室に顔を出し、その場にいる棋士や観戦記者達に「早く仕事(=麻雀)をしなさい」と場を立てさせようとするほどで、2日制のタイトル戦では毎夜雀卓を囲むことが珍しくなかった。そのため立会人を務める棋士についても「麻雀を打てる人にして欲しい」とリクエストしていたほどで、時には封じ手の時間を「みなし長考」扱いにして繰り上げてまで麻雀を打ったこともあるという。田丸昇はこれらの行動について「対局場を仕切って自分のペースにするのも戦略だと思っていた。麻雀はその小道具だった。ひとつの盤外戦術といえる」と分析している。 「ゴルフを初めてやった大山は、「こんな面白いものが将棋に悪くないはずがない」と言ってきっぱりやめてしまった」と伝えられることも多いが、実際はゴルフもある程度、熱心にたしなんだ後に、「将棋によくない」ときっぱりやめた とされる。しかし河口俊彦『大山康晴の晩節』によると、晩年の大山は「健康のためのゴルフ」を熱心に行っていた。 大山は健啖家だったが、酒は好きではなかった。大山の盟友であった丸田祐三も酒を嗜まなかった。 持っていたタイトルを全部失って途方に暮れていたとき、無性に横溝正史に会いたくなり、一升ビンを持って正月早々に横溝家に押しかけたことがある。社交性がなく、仕事以外で他人と酒を酌み交わした覚えがないと自認する大山は、「この様な事は、横溝正史先生以外の人にした事がない」と記している。 妻・(旧姓:中山)昌子の実家がある吉備郡岡田村(現・倉敷市真備町岡田)に疎開していた横溝正史は、たまたま昌子との見合いに来ていた大山を見かけ、東京に戻ってから「まあちゃんのお婿さん」というエッセイを時事新報に載せたところ、それを読んだ大山夫妻が横溝家を訪ねてきて以来、両家の親交が続くこととなった。 食べ物では「嫌いなものは特にない」一方で「辛いものが好き」。カレーライスでは30倍カレーを普通に平らげるほど辛さに強く、同じく激辛好きの林葉直子と意気投合することが多かった。 NHK杯テレビ将棋トーナメントやテレビ将棋対局では、非常にわかりやすい解説に定評があった。 自宅最寄り駅の荻窪駅から自宅へ帰る途中や将棋会館最寄り駅の千駄ケ谷駅から将棋会館へ歩いて向かう途中、人に追い越されると悔しくて抜き返したという。 升田とは兄弟弟子でありながら、お互いにトップ棋士となった頃には、上記の通り盤外戦でも嫌がらせの応酬に終始したと伝えられる。1970年代には関係が修復され、1974年には将棋会館建設を巡り日本将棋連盟執行部の退陣を求め共闘したほか、同年の日本棋院主催の囲碁団体戦では共に「日本将棋連盟チーム」の一員として参加するなど一時蜜月関係となるが、1976年の名人戦の主催者移行(朝日→毎日)を巡り再び対立し関係が悪化するなど、その仲は二転三転した。ただ升田が逝去したときには真っ先に駆け付け、「面会謝絶」と留められるのを振り切って死に顔に面会した。 1968年にビクターレコードよりリリースされた三沢あけみの楽曲「勝負」を作詞した。 河口俊彦が大山の人物像を描いた「大山康晴の晩節」は、第15回(2002年度)将棋ペンクラブ大賞を受賞している。 河口俊彦によると、大山に禁煙を勧められた河口が「(やめた方がいいのは)わかってはいるんですけどねえ」と答えると、「わかっているのに実行しないとは信じられない」というような目で見られたという。 藤井猛九段は『大山康晴全集』の全棋譜を並べるほど熱心に大山将棋を学んだという。このため、藤井の指し手には大山将棋の影響が表れていると言われる。 坂口安吾の小説『九段』には、若き大山九段のウヌボレ屋な一面と、坂口安吾との偶然の縁が描かれている。 バトルロイヤル風間の将棋4コマ漫画にも初期にはよく登場し、将棋と全然関係ないシーンで大山が「ワシにまかせろ!」なる怒号と共に出てきて、強引に片付けてしまうのが定番のギャグだった。風間によると「ネタに詰まるとすぐ大山」だったとの事で、これが縁で大山と風間の対談も実現している。対談は漫画にされ将棋マガジンに掲載された。風間は「大山は将棋しか考えない鉄人だった」と語っている。この時、国会議員に立候補しないのかと風間が聞いたところ、大山は「たとえなっても歩にすぎないので馬鹿馬鹿しい。王将にだったらなるが」という意味の返答をした。 55年組の強豪の南芳一九段は、かつて「リトル大山」の異名を取った。 渡辺明は、その風貌、終盤の強さや逆転術などから、四段時代より「大山の再来」といわれてきた。 コンピュータ将棋については、まだ本将棋を指せず、詰将棋プログラムが先行して研究されていた頃から反対していた。「人間が負けるに決まってるじゃないか」 というのがその理由である。また、「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」が口癖だった。大山の生前はコンピュータ将棋はプロの棋力には遠かったが、2013年の第2回将棋電王戦で、初めて公にプロ棋士がコンピュータに敗れた。 コンピュータ将棋『早指し 二段森田将棋』の題字は大山の筆である。発売されたのは、大山の死後である1993年6月18日だった。 多胡本家酒造場 - 『加茂五葉(かもいつは)』(昭和40年代:岡山県ローカル。地方ローカル局(山陽放送)のみ) ライオン - 『エメロン石鹸』(1974年:ACC CMフェスティバル 第14回テレビフィルムCM部門秀作賞) 毎日新聞(1979年) 箱根湯本温泉『天成園』(1980年代) 『将棋・勝つ受け方』(1984年6月、池田書店、ISBN 4-262-10263-7) 『大山流勝負哲学』(1985年4月、産能大学出版局、ISBN 4-382-04856-7) 『四間飛車のポイント 大山流振飛車の真髄』(1987年6月、日本将棋連盟、ISBN 4-8197-0116-9) 『背水の陣で生きる―ガンを克服した63歳の挑戦者』(1986年7月、光文社カッパ・ホームス、ISBN 4-334-05129-4) 『昭和将棋史』(1988年1月、岩波新書、ISBN 4-00-430007-X) 『大山康晴全集』(1991年5月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 978-4-89563-546-2)
第2巻 無敵時代(昭和38年 - 46年) 第3巻 記録への挑戦(昭和47年 - 平成3年) 『棋風堂堂―将棋と歩んだ六十九年間の軌跡』(天狗太郎編集、1992年10月、PHP研究所) 新版『大山康晴 人生に勝つ』(1999年12月、日本図書センター、ISBN 4-8205-5767-X) 新版『勝負のこころ』(2009年2月、PHP研究所) 新版『不動心論 あるがままに身を置いて心ゆるがず』(2017年6月、ロングセラーズ、ISBN 4-8454-5024-0) (2019年11月14日現在) 市川は1967年に将棋連盟を退会。 有吉は大山とのタイトル戦で4度の「師弟対決」。大山・有吉以外で、タイトル戦の師弟対決は起きていない。 中田の弟子・大山の孫弟子に当たる佐藤天彦が実力制第十三代の名人となり、3期在位。名人の孫弟子が名人になったのは初めて。 行方は大山死去後の1993年にプロ四段昇段。名人戦挑戦1回。 有吉の門下として、坪内利幸(1970年プロデビュー)、有森浩三(1983年プロデビュー)がいる。この2人は大山の孫弟子にあたるが、いずれも大山が現役中にプロ入りを果たしているため、大山は「自身が現役中に孫弟子がプロデビュー」という珍しい快挙を達成したことになる。 ^ 名人18期を含む ^ 戦前、「月給100円」は相当な価値とステータスを有していた。 ^ 大山康晴『棋風堂々』(PHP研究所、1992年)には、召集令状を受け取った時点で六段で10勝2敗の成績で、後6勝すれば七段に昇段できるので、師匠の木見に頼み込んで20日から25日までに6局指したが、4勝2敗で昇段が成らなかった、とある。 ^ のちに加藤一二三がこの記録を更新した。 ^ のちに中原誠が、当時の最年少となる20歳で棋聖を獲得し、大山の記録を塗り替えた。 ^ 升田も同年に東京に転居している。 ^ 香落ち(自分の香車を落とすハンディ戦)にしてまでも勝つこと。 ^ 後に中原も同様の理由で現役のまま永世十段を名乗ることとなった。 ^ おいらせ町が発足した2005年に制定された「おいらせ町名誉町民条例」には、附則2として「この条例の施行の際、合併前の百石町名誉町民条例(昭和38年百石町条例第18号)の規定により名誉町民の称号を贈られた者は、この条例の規定により名誉町民の称号を贈られた者とみなす。」とある。よって、大山は、おいらせ町名誉町民である。 ^ 47歳の若さで名誉市民になるのは全国的にも異例であり、棋士が名誉市民になるのは史上初であった。 ^ この棋王戦挑戦者決定トーナメントにおいて、19歳で竜王にあった羽生善治に勝っている。 ^ このため谷川浩司は『NHK杯 伝説の名勝負』 p.88で、「大山先生の60歳は晩年と言うイメージではなかった。」と、その後の名人挑戦、棋王戦にも言及しつつ語っている。 ^ 大山の死後、羽生善治との日本シリーズ2回戦の対戦予定(8月30日)は羽生の不戦勝扱いとなった。 ^ 河口俊彦によると、米長邦雄は大山と気性が合わず、仲が良くなかったという。 ^ 振り飛車は、当時のアマチュアには棒銀と並んで人気があった一方で、プロ棋界ではいきなり角道を止める振り飛車は受け身で消極的とされ、若手棋士が指すと年輩棋士から叱責を受けるほどだった。そのような風潮の中で、升田・大山の両巨匠が振り飛車党に転向したことは衝撃的なことだった。 ^ この機に日本将棋連盟は九段位を新設。
また、同誌の同年12月号では「ことしの出来事」として「4・17 新規定により、升田、大山両氏は永世九段位を獲得」とある。 ^ 大山康晴による「全(登場)タイトル戦連続獲得記録」(19期)の内訳は、
1964年度の6棋戦(名人戦、棋聖戦(前期)、王位戦、十段戦、棋聖戦(後期)、王将戦の全6棋戦)、 1965年度の6棋戦(名人戦、棋聖戦(前期)、王位戦、十段戦、棋聖戦(後期)、王将戦の全6棋戦)、 1966年度 名人戦(全6棋戦中1棋戦) ^ 大山康晴によるタイトル戦連続登場記録(50期)の内訳は、
1958年度の3棋戦(名人戦、九段戦、王将戦の全3棋戦)、 1959年度の3棋戦(名人戦、九段戦、王将戦の全3棋戦)、 1960年度の4棋戦(名人戦、王位戦、九段戦、王将戦の全3棋戦)、 1961年度の4棋戦(名人戦、王位戦、九段戦、王将戦の全4棋戦)、 1962年度の5棋戦(名人戦、王位戦、十段戦、棋聖戦、王将戦の全5棋戦)、 1963年度の6棋戦(名人戦、王位戦、十段戦、棋聖戦〈前期/後期〉、王将戦の全6棋戦)、 1964年度の6棋戦(名人戦、王位戦、十段戦、棋聖戦〈前期/後期〉、王将戦の全6棋戦)、 1965年度の6棋戦(名人戦、王位戦、十段戦、棋聖戦〈前期 / 後期〉、王将戦の全6棋戦)、 1966年度の6棋戦(名人戦、王位戦、十段戦、棋聖戦〈前期 / 後期〉、王将戦の全6棋戦)、 1967年度の4棋戦(名人戦、棋聖戦、王位戦、十段戦の全6棋戦中4棋戦) ^ https://www.shogi.or.jp/about/history.html 将棋連盟について 創立・沿革 ^ 加藤治郎 監修 『[写真でつづる]将棋昭和史』 毎日コミュニケーションズ p. 26 ^ 井口 1992, pp. 20–31, 2-木見道場のころ ^ 『勝負の世界2 将棋VS囲碁対談五番勝負』(毎日コミュニケーションズ)pp. 33–34 ^ “昭和棋界の双璧だった大山と升田の珍しいツーショット写真”. 田丸昇公式ブログ「と金横歩き」 (2011年10月20日). 2017年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月27日閲覧。 ^ 中山 2003, pp. 22–40, 第三話-秒針の轟き ^ 大山 1992, pp. 61–64, 第2章-将棋の道を歩き始める-攻めと受け ^ 井口 1992, pp. 32–47, 3-戦中戦後 ^ 岩瀬彰『「月給百円」のサラリーマン-戦前日本の「平和」な生活』講談社(講談社現代新書)、2006年。 ^ “藤井聡太も達成の全冠制覇者・大山康晴だが…「見込みがない。田舎にさっさと帰りなさい」“兄弟子”升田幸三との確執が生まれるまで(田丸昇)”. 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(2004), 役に立つ将棋の格言99, 毎日コミュニケーションズ 内藤國雄、加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、森内俊之、佐藤康光、渡辺明 (監修) (2013), NHK出版, ed., NHK杯伝説の名勝負 次の一手, NHK将棋シリーズ, NHK出版 中山典之『完本-実録囲碁講談』岩波現代文庫、2003年。 『平凡は妙手にまさる―大山康晴名言集』(永井英明著、1993年2月、佼成出版社、ISBN 4-333-01627-4) 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 羽生善治『決断力』角川書店(角川oneテーマ21新書)、2005年。 『現代に生きる大山振り飛車』(藤井猛・鈴木宏彦著、2006年12月、日本将棋連盟、ISBN 978-4-8197-0232-4) 升田幸三『名人に香車を引いた男 升田幸三自伝』中公文庫、2003年。 米長邦雄『将棋の天才たち』講談社、2013年。 将棋棋士一覧 名人 (将棋) 棋戦 (将棋) 将棋のタイトル在位者一覧 大山康晴の戦績 棋風 文化功労者の一覧 岡山県出身の人物一覧 大山康晴賞 - 日本将棋連盟が、将棋の普及や文化の振興のため貢献した個人・団体に与える賞。大山の死去した翌々年、1994年(平成6年)に第1回が授与された。 岡山県倉敷市 - 名誉市民、「倉敷市大山名人記念館」がある。 大山名人杯倉敷藤花戦 - 大山の功績を讃えるために創設された女流タイトル戦。 青森県上北郡おいらせ町 - 名誉町民、「大山将棋記念館」がある。 大山康晴 - 棋士データベース(日本将棋連盟) 名誉市民シリーズ(6) 大山康晴(倉敷市) 倉敷市立大山名人記念館 大山将棋記念館 大山康晴 - NHK人物録 表 話 編 歴 一世名人 初代大橋宗桂 二世名人 二代大橋宗古 三世名人 初代伊藤宗看 四世名人 五代大橋宗桂 五世名人 二代伊藤宗印 六世名人 三代大橋宗与 七世名人 三代伊藤宗看 八世名人 九代大橋宗桂 九世名人 六代大橋宗英 十世名人 六代伊藤宗看 十一世名人 八代伊藤宗印 十二世名人 小野五平 十三世名人 関根金次郎 十四世名人 木村義雄 十五世名人 大山康晴 十六世名人 中原誠 十七世名人 谷川浩司 ※十八世名人 森内俊之 ※十九世名人 羽生善治 表 話 編 歴 01. 木村義雄 (1947) 02. 渡辺東一 (1948-1952) 03. 坂口允彦 (1953-1954) 04. 萩原淳 (1955-1956) 05. 加藤治郎 (1957-1960) 06. 原田泰夫 (1961-1966) 07. 坂口允彦 (1967-1968) 08. 丸田祐三 (1969-1972) 09. 加藤治郎 (1973) 10. 塚田正夫 (1974-1976) 11. 大山康晴 (1977-1988) 12. 二上達也 (1989-2002) 13. 中原誠 (2003-2004) 14. 米長邦雄 (2005-2012) 15. 谷川浩司 (2012-2017) 16. 佐藤康光 (2017-2023) 17. 羽生善治 (2023-現在) 表 話 編 歴 関根金次郎 (※1938名人退位) 坂田三吉 (※1940引退) 永沢勝雄 (1946引退) 金易二郎 (1947引退) 渡辺東一 (1985引退) 加藤治郎 (1949引退) 奥野基芳 (1949引退) 土居市太郎 (※1949引退) 金子金五郎 (1950引退) 志沢春吉 (1950引退) 北楯修哉 (1951引退) 木村義雄 (1952引退) 中井捨吉 (1952引退) 市川一郎 (1956引退) 吉田六彦 (1956引退) 佐藤豊 (1956引退) 加藤恵三 (1957引退) 畝美与吉 (※1957引退) 増田敏二 (1958引退) 浅沼一 (1958引退) 梶一郎 (1959引退) 荒巻三之 (1959引退) 板谷四郎 (1959引退) 京須行男 (※1960引退) 高島一岐代 (1962引退) 高柳敏夫 (1963引退) 萩原淳 (1964引退) 平野広吉 (1965引退) 山本武雄 (1968引退) 木川貴一 (1968引退) 山川次彦 (1970引退) 津村常吉 (1970引退) 賀集正三 (1970引退) 山田道美 (※1970現役死去) 佐藤庄平 (1971引退) 岡崎史明 (1972引退) 神田鎮雄 (1972引退) 大友昇 (1972引退) 西本馨 (1973引退) 大村和久 (1975引退) 塚田正夫 (1977現役死去) 清野静男 (1977現役死去) 熊谷達人 (1977現役死去) 升田幸三 (1979引退) 大野源一 (1979現役死去) 高田丈資 (1979現役死去) 二見敬三 (1980現役死去) 松下力 (1981引退) 本間爽悦 (1981現役死去) 原田泰夫 (1982引退) 北村秀治郎 (1982現役死去) 灘蓮照 (1984現役死去) 坂口允彦 (1985引退) 角田三男 (1985引退) 松田茂役 (1985引退) 南口繁一 (1985引退) 下平幸男 (1985引退) 橋本三治 (1985引退) 花村元司 (1985現役死去) 山中和正 (1986引退) 星田啓三 (1986引退) 小堀清一 (1987引退) 北村文男 (1987引退) 芹沢博文 (1987現役死去) 廣津久雄 (1988引退) 五十嵐豊一 (1988引退) 板谷進 (1988現役死去) 伊達康夫 (1989引退) 佐瀬勇次 (1990引退) 加藤博二 (1990引退) 二上達也 (1990引退) 大原英二 (1990引退) 木村嘉孝 (1991引退) 木村義徳 (1991引退) 有野芳人 (1991引退) 吉田利勝 (1992引退) 大山康晴 (1992現役死去) 長谷部久雄 (1993引退) 森安秀光 (1993現役死去) 小野敦生 (1993現役死去) 富沢幹雄 (1994引退) 北村昌男 (1994引退) 関屋喜代作 (1994引退) 丸田祐三 (1996引退) 佐藤大五郎 (1996引退) 高島弘光 (1996現役死去) 村山聖 (1998現役死去) 宮坂幸雄 (1999引退) 田辺一郎 (1999引退) 剱持松二 (2000引退) 木下晃 (2000引退) 若松政和 (2000引退) 池田修一 (2000引退) 青木清 (2000引退) 瀬戸博晴 (2000引退) 安恵照剛 (2001引退) 関根茂 (2002引退) 佐伯昌優 (2002引退) 山口英夫 (2002引退) 河口俊彦 (2002引退) 椎橋金司 (2002引退) 山口千嶺 (2003引退) 米長邦雄 (2003引退) 野本虎次 (2003引退) 本間博 (2003引退) 森安正幸 (2004引退) 中田章道 (2004引退) 鈴木輝彦 (2004引退) 西村一義 (2006引退) 酒井順吉 (2006引退) 桜井昇 (2007引退) 桐谷広人 (2007引退) 小野修一 (2007引退) 関浩 (2007引退) 真部一男 (2007現役死去) 達正光 (2007現役死去) 菊地常夫 (2008引退) 加瀬純一 (2008引退) 中原誠 (2009引退) 坪内利幸 (2009引退) 沼春雄 (2009引退) 有吉道夫 (2010引退) 大内延介 (2010引退) 小阪昇 (2010引退) 依田有司 (2010引退) 勝浦修 (2011引退) 飯野健二 (2011引退) 伊藤果 (2011引退) 松浦隆一 (2011引退) 児玉孝一 (2011引退) 神吉宏充 (2011引退) 石田和雄 (2012引退) 櫛田陽一 (2012引退) 滝誠一郎 (2013引退) 武者野勝巳 (2013引退) 植山悦行 (2013引退) 野田敬三 (2013引退) 佐藤義則 (2014引退) 前田祐司 (2014引退) 武市三郎 (2014引退) 大野八一雄 (2014引退) 飯田弘之 (2014引退) 内藤國雄 (2015引退) 田中魁秀 (2015引退) 淡路仁茂 (2015引退) 大島映二 (2015引退) 安西勝一 (2015引退) 熊坂学 (2015引退) 田丸昇 (2016引退) 伊藤能 (2016現役死去) 加藤一二三 (2017引退) 森雞二 (2017引退) 宮田利男 (2017引退) 森信雄 (2017引退) 堀口弘治 (2017引退) 中尾敏之 (2018引退) 高田尚平 (2019引退) 土佐浩司 (2020引退) 伊藤博文 (2020引退) 東和男 (2021引退) 西川慶二 (2021引退) 金沢孝史 (2021引退) 桐山清澄 (2022引退) 小林健二 (2022引退) 田中寅彦 (2022引退) 小林宏 (2022引退) 藤倉勇樹 (2022引退) 石川陽生 (2023引退) 上野裕和 (2023引退) 中田宏樹 (2023現役死去) 青野照市 (2024引退) 室岡克彦 (2024引退) 中座真 (2024引退) 伊奈祐介 (2024引退) 永作芳也 (1988退会) 橋本崇載 (2021引退、2022退会) 表 話 編 歴 01. 木村義雄 (1935-1937) 02. 木村義雄 (1940) 03. 木村義雄 (1942) 04. 木村義雄 (1944) 05. 木村義雄 06. 塚田正夫 (1947) 07. 塚田正夫 (1948) 08. 木村義雄 (1949) 09. 木村義雄 (1950) 10. 木村義雄 11. 大山康晴 12. 大山康晴 13. 大山康晴 14. 大山康晴 15. 大山康晴 16. 升田幸三 17. 升田幸三 18. 大山康晴 (1959) 19. 大山康晴 (1960) 20. 大山康晴 21. 大山康晴 22. 大山康晴 23. 大山康晴 24. 大山康晴 25. 大山康晴 26. 大山康晴 27. 大山康晴 28. 大山康晴 (1969) 29. 大山康晴 (1970) 30. 大山康晴 31. 中原誠_ 32. 中原誠_ 33. 中原誠_ 34. 中原誠_ 35. 中原誠_ ( 1977年 中止 ) 36. 中原誠0 37. 中原誠_ (1979) 38. 中原誠_ (1980) 39. 中原誠 40. 加藤一二三 41. 谷川浩司 42. 谷川浩司 43. 中原誠_ 44. 中原誠_ 45. 中原誠_ 46. 谷川浩司 47. 谷川浩司 (1989) 48. 中原誠_ (1990) 49. 中原誠_ 50. 中原誠_ 51. 米長邦雄 52. 羽生善治 53. 羽生善治 54. 羽生善治 55. 谷川浩司 56. 佐藤康光 57. 佐藤康光 (1999) 58. 丸山忠久 (2000) 59. 丸山忠久 60. 森内俊之 61. 羽生善治 62. 森内俊之 63. 森内俊之 64. 森内俊之 65. 森内俊之 66. 羽生善治 67. 羽生善治 (2009) 68. 羽生善治 (2010) 69. 森内俊之 70. 森内俊之 71. 森内俊之 72. 羽生善治 73. 羽生善治 74. 佐藤天彦 75. 佐藤天彦 76. 佐藤天彦 77. 豊島将之 (2019) 78. 渡辺明_ (2020) 79. 渡辺明_ 80. 渡辺明_ 81. 藤井聡太 82. 藤井聡太 (2024) 十四世名人 木村義雄 十五世名人 大山康晴 十六世名人 中原誠 十七世名人 谷川浩司 十八世名人 森内俊之(資格保持者) 十九世名人 羽生善治(資格保持者) 表 話 編 歴 九段戦より発展 1 大山康晴 2 大山康晴 3 大山康晴 4 大山康晴 5 大山康晴 6 大山康晴 7 加藤一二三 8 大山康晴 9 中原誠 10 中原誠 11 中原誠 12 大山康晴 13 中原誠 14 中原誠 15 中原誠 16 中原誠 17 中原誠 18 中原誠 19 加藤一二三 20 加藤一二三 21 中原誠 22 中原誠 23 米長邦雄 24 米長邦雄 25 福崎文吾 26 高橋道雄 発展解消し、竜王戦に 大山康晴 中原誠 表 話 編 歴 1 大山康晴 2 大山康晴 3 塚田正夫 4 塚田正夫 5 塚田正夫 6 塚田正夫 7 升田幸三 8 升田幸三 9 大山康晴 10 大山康晴 11 大山康晴 12 大山康晴 発展解消し、十段戦に 塚田正夫 表 話 編 歴 (第1回は一般棋戦)- __第1期. 升田幸三 02. 大山康晴 03. 大山康晴 04. 大山康晴 05. 升田幸三 06. 升田幸三 07. 大山康晴 08. 大山康晴_ 09. 大山康晴 10. 大山康晴 (1960年度) 11. 大山康晴 12. 二上達也 13. 大山康晴 14. 大山康晴 15. 大山康晴 16. 大山康晴 17. 大山康晴 18. 大山康晴_ 19. 大山康晴 20. 大山康晴 (1970年度) 21. 大山康晴 22. 中原誠_ 23. 中原誠_ 24. 中原誠_ 25. 中原誠_ 26. 中原誠_ 27. 中原誠_ 28. 加藤一二三 29. 大山康晴 30. 大山康晴 (1980年度) 31. 大山康晴 32. 米長邦雄 33. 米長邦雄 34. 中原誠_ 35. 中村修_ 36. 中村修_ 37. 南芳一_ 38. 南芳一__ 39. 米長邦雄 40. 南芳一_ (1990年度) 41. 谷川浩司 42. 谷川浩司 43. 谷川浩司 44. 谷川浩司 45. 羽生善治 46. 羽生善治 47. 羽生善治 48. 羽生善治_ 49. 羽生善治 50. 羽生善治 (2000年度) 51. 佐藤康光 52. 羽生善治 53. 森内俊之 54. 羽生善治 55. 羽生善治 56. 羽生善治 57. 羽生善治 58. 羽生善治_ 59. 久保利明 60. 久保利明 (2010年度) 61. 佐藤康光 62. 渡辺明_ 63. 渡辺明_ 64. 郷田真隆 65. 郷田真隆 66. 久保利明 67. 久保利明 68. 渡辺明__ 69. 渡辺明_ 70. 渡辺明_ (2020年度) 71. 藤井聡太 72. 藤井聡太 73. 藤井聡太 74. (予選 進行中、2024年度) 大山康晴 羽生善治 表 話 編 歴 01. 大山康晴 (1960) 02. 大山康晴 03. 大山康晴 04. 大山康晴 05. 大山康晴 0 06. 大山康晴 07. 大山康晴 08. 大山康晴 09. 大山康晴 10. 大山康晴 (1969) 11. 大山康晴 (1970) 12. 大山康晴 13. 内藤國雄 14. 中原誠 0 15. 中原誠 0 0 16. 中原誠 0 17. 中原誠 0 18. 中原誠 0 19. 中原誠 0 20. 米長邦雄 (1979) 21. 中原誠 0 (1980) 22. 中原誠 0 23. 内藤國雄 24. 高橋道雄 25. 加藤一二三 26. 高橋道雄 27. 高橋道雄 28. 谷川浩司 29. 森雞二 0 30. 谷川浩司 (1989) 31. 谷川浩司 (1990) 32. 谷川浩司 33. 郷田真隆 34. 羽生善治 35. 羽生善治 0 36. 羽生善治 37. 羽生善治 38. 羽生善治 39. 羽生善治 40. 羽生善治 (1999) 41. 羽生善治 (2000) 42. 羽生善治 43. 谷川浩司 44. 谷川浩司 45. 羽生善治 0 46. 羽生善治 47. 羽生善治 48. 深浦康市 49. 深浦康市 50. 深浦康市 (2009) 51. 広瀬章人 (2001) 52. 羽生善治 53. 羽生善治 54. 羽生善治 55. 羽生善治 0 56. 羽生善治 57. 羽生善治 58. 菅井竜也 59. 豊島将之 60. 木村一基 (2019) 61. 藤井聡太 (2020) 62. 藤井聡太 63. 藤井聡太 64. 藤井聡太 65. 藤井聡太 0 66. (2025、棋戦進行中) 大山康晴 中原誠 羽生善治 藤井聡太 表 話 編 歴 01. 大山康晴 (1962 後期) 02. 大山康晴 (1963 前期) 03. 大山康晴 (1963 後期) 04. 大山康晴 (1964 前期) 05. 大山康晴 (1964 後期) 06. 大山康晴 (1965 前期) 07. 大山康晴 (1965 後期) 08. 二上達也 (1966 前期) 09. 大山康晴 (1966 後期) 10. 山田道美 (1967 前期) 11. 山田道美 (1967 後期) 12. 中原誠_ (1968 前期) 13. 中原誠_ (1968 後期) 14. 中原誠_ (1969 前期) 15. 内藤國雄 (1969 後期) 16. 大山康晴 (1970 前期) 17. 中原誠_ (1970 後期) 18. 中原誠_ (1971 前期) 19. 中原誠_ (1971 後期) 20. 中原誠_ (1972 前期) 21. 有吉道夫 (1972 後期) 22. 米長邦雄 (1973 前期) 23. 内藤國雄 (1973 後期) 24. 大山康晴 (1974 前期) 25. 大山康晴 (1974 後期) 26. 大山康晴 (1975 前期) 27. 大山康晴 (1975 後期) 28. 大山康晴 (1976 前期) 29. 大山康晴 (1976 後期) 30. 大山康晴 (1977 前期) 31. 中原誠_ (1977 後期) 32. 中原誠_ (1978 前期) 33. 中原誠_ (1978 後期) 34. 中原誠_ (1979 前期) 35. 中原誠_ (1979 後期) 36. 米長邦雄 (1980 前期) 37. 二上達也 (1980 後期) 38. 二上達也 (1981 前期) 39. 二上達也 (1981 後期) 40. 森雞二_ (1982 前期) 41. 中原誠_ (1982 後期) 42. 森安秀光 (1983 前期) 43. 米長邦雄 (1983 後期) 44. 米長邦雄 (1984 前期) 45. 米長邦雄 (1984 後期) 46. 米長邦雄 (1985 前期) 47. 米長邦雄 (1985 後期) 48. 桐山清澄 (1986 前期) 49. 桐山清澄 (1986 後期) 50. 桐山清澄 (1988 前期) 51. 南芳一_ (1988 後期) 52. 田中寅彦 (1989 前期) 53. 中原誠_ (1989 後期) 54. 中原誠_ (1989 前期) 55. 中原誠_ (1989 後期) 56. 屋敷伸之 (1990 前期) 57. 屋敷伸之 (1990 後期) 58. 南芳一_ (1991 前期) 59. 谷川浩司 (1991 後期) 60. 谷川浩司 (1992 前期) 61. 谷川浩司 (1992 後期) 62. 羽生善治 (1993 前期) 63. 羽生善治 (1993 後期) 64. 羽生善治 (1994 前期) 65. 羽生善治 (1994 後期) (第66期より年1期制) 66. 羽生善治 (1995) 67. 三浦弘行 (1996) 68. 屋敷伸之 (1997) 69. 郷田真隆 (1998) 70. 谷川浩司 (1999) 71. 羽生善治 (2000) 72. 郷田真隆 73. 佐藤康光 74. 佐藤康光 75. 佐藤康光 76. 佐藤康光 77. 佐藤康光 78. 佐藤康光 79. 羽生善治 80. 羽生善治 (2009) 81. 羽生善治 (2010) 82. 羽生善治 83. 羽生善治 84. 羽生善治 85. 羽生善治 86. 羽生善治 87. 羽生善治 88. 羽生善治 89. 豊島将之 90. 渡辺明_ (2019) 91. 藤井聡太 (2020) 92. 藤井聡太 93. 藤井聡太 94. 藤井聡太 95. 藤井聡太 96. (棋戦進行中) (2025) 大山康晴(第5期) 中原誠(第18期) 米長邦雄(第45期) 羽生善治(第66期) 佐藤康光(第77期) 藤井聡太(第95期) 表 話 編 歴 1 大山康晴 2 大山康晴 3 大山康晴 4 小堀清一 5 松田茂行 6 塚田正夫 7 大山康晴 8 丸田祐三 9 本間爽悦 10 加藤一二三 11 灘蓮照 12 大山康晴 13 丸田祐三 14 大山康晴 15 山田道美 16 大山康晴 17 中原誠 18 中原誠 19 中原誠 20 中原誠 21 中原誠 22 中原誠 23 桐山清澄 24 中原誠 25 中原誠 26 中原誠 27 中原誠 28 大山康晴 29 大山康晴 30 内藤國雄 日本経済新聞社 王座戦 (タイトル戦) 表 話 編 歴 01. 木村義雄 02. 升田幸三 03. 塚田正夫 04. 大山康晴 05. 大山康晴 06. 原田泰夫 07. 升田幸三 08. 灘蓮照 09. 丸田祐三 10. 加藤一二三 11. 大山康晴 12. 灘蓮照 13. 升田幸三 14. 大山康晴 15. 丸田祐三 16. 加藤一二三 17. 大友昇 18. 丸田祐三 19. 内藤國雄 20. 大山康晴 21. 加藤一二三 22. 大山康晴 23. 加藤一二三 24. 中原誠 25. 大内延介 26. 加藤一二三 27. 中原誠 28. 米長邦雄 29. 大山康晴 30. 有吉道夫 31. 加藤一二三 32. 中原誠 33. 大山康晴 34. 田中寅彦 35. 谷川浩司 36. 前田祐司 37. 中原誠 38. 羽生善治 39. 櫛田陽一 40. 先崎学 41. 羽生善治 42. 中原誠 43. 加藤一二三 44. 中原誠 45. 羽生善治 46. 森内俊之 47. 羽生善治 48. 羽生善治 49. 鈴木大介 50. 羽生善治 51. 森内俊之 52. 三浦弘行 53. 久保利明 54. 山崎隆之 55. 丸山忠久 56. 佐藤康光 57. 佐藤康光 58. 羽生善治 59. 羽生善治 60. 羽生善治 61. 羽生善治 62. 渡辺明 63. 郷田真隆 64. 森内俊之 65. 村山慈明 66. 佐藤康光 67. 山崎隆之 68. 羽生善治 69. 深浦康市 70. 稲葉陽 71. 豊島将之 72. 藤井聡太 73. 佐々木勇気 74. (棋戦進行中) 羽生善治 ( 通算10回優勝者が該当 / 計11回優勝={ 第38回,41,45,47,48,50,58,59,60,61,第68回 } ) 現 司会 鈴木環那 (2022 - ) 現 司会 室谷由紀 (2024 - ) 倉島竹二郎(ラジオ放送時代) 田辺一鶴(197x) 神田山陽 (? - 1980) 永井英明 (1981 - 1990) 谷川治恵 (1991 - 1993) 山田久美 (1994 - 1996) 藤森奈津子 (1997 - 1999) 中倉彰子 (2000 - 2002) 千葉涼子 (2003 - 2005) 中倉宏美 (2006 - 2008) 矢内理絵子 (2009 - 2013) 清水市代 (2014 - 2015) 藤田綾 (2016 - 2021) 中村桃子 (2019 - 2023) 日本放送協会 NHKラジオ第1放送 NHK教育テレビジョン 将棋の時間 将棋フォーカス 表 話 編 歴 1 中原誠 2 大山康晴 3 中原誠 4 大山康晴 5 米長邦雄 6 松田茂行 7 大山康晴 8 桐山清澄 9 大山康晴 10 加藤一二三 11 米長邦雄 12 有吉道夫 13 米長邦雄 14 米長邦雄 15 加藤一二三 16 真部一男 17 桐山清澄 18 森安秀光 19 中原誠 20 田中寅彦 21 有吉道夫 22 森雞二 23 南芳一 24 加藤一二三 25 森内俊之 26 羽生善治 27 深浦康市 28 小林健二 29 羽生善治 30 村山聖 31 郷田真隆 32 土佐浩司 33 藤井猛 34 丸山忠久 35 丸山忠久 36 羽生善治 1 田中寅彦 2 塚田泰明 3 脇謙二 4 脇謙二 5 小野修一 6 塚田泰明 7 森内俊之 8 森内俊之 9 佐藤康光 10 佐藤康光 11 小林宏 12 深浦康市 13 畠山成幸 14 行方尚史 15 鈴木大介 16 藤井猛 17 野月浩貴 18 深浦康市 19 深浦康市 20 深浦康市 21 山崎隆之 テレビ東京 テレビ将棋対局 表 話 編 歴 3 松下力(12) 6 大友昇(14) 15 内藤國雄(15) 16 西村一義(10) 1 山田道美 2 米長邦雄 3 中原誠 4 内藤國雄 5 大山康晴 6 内藤國雄 7 大内延介 8 大山康晴 9 二上達也 10 板谷進 11 大山康晴 12 大山康晴 13 大内延介 14 勝浦修 15 森安秀光 16 米長邦雄 17 田中寅彦 1 加藤一二三 2 高橋道雄 3 羽生善治 4 羽生善治 5 谷川浩司 6 森下卓 7 谷川浩司 8 高橋道雄 大阪新聞社 表 話 編 歴 1 加藤一二三 2 丸田祐三 3 丸田祐三 4 原田泰夫 5 大山康晴 6 大山康晴 7 二上達也 8 大野源一 9 加藤一二三 10 山田道美 11 有吉道夫 1 下平幸男 2 梶一郎 3 関根茂 4 芹沢博文 5 長谷部久雄 6 有吉道夫 7 大友昇 8 加藤博二 9 花村元司 10 北村昌男 11 加藤一二三 東京新聞社 表 話 編 歴 1 坂口允彦 2 本間爽悦 3 大山康晴 1 大山康晴 2 大山康晴 3 大山康晴 4 大山康晴 5 灘蓮照 6 加藤一二三 産業経済新聞社 表 話 編 歴 1 中原誠 2 中原誠 3 有吉道夫 4 内藤國雄 5 森安秀光 6 大山康晴 7 米長邦雄 8 米長邦雄 9 加藤一二三 10 内藤國雄 11 内藤國雄 12 米長邦雄 13 米長邦雄 14 桐山清澄 週刊文春 表 話 編 歴 01. 米長邦雄 (1980) 02. 中原誠 03. 大山康晴 04. 加藤一二三 05. 米長邦雄 06. 森安秀光 07. 米長邦雄 08. 加藤一二三 09. 高橋道雄 10. 谷川浩司 (1989) 11. 谷川浩司 (1990) 12. 羽生善治 13. 谷川浩司 14. 郷田真隆_ 15. 郷田真隆 16. 郷田真隆 17. 谷川浩司 18. 谷川浩司 19. 羽生善治 20. 丸山忠久 (1999) 21. 森内俊之 (2000) 22. 丸山忠久 23. 藤井猛 24. 羽生善治_ 25. 佐藤康光 26. 藤井猛 27. 佐藤康光 28. 森下卓 29. 森下卓 30. 谷川浩司 (2009) 31. 羽生善治 (2010) 32. 羽生善治 33. 久保利明 34. 久保利明_ 35. 渡辺明 36. 三浦弘行 37. 豊島将之 38. 山崎隆之 39. 渡辺明 40. 渡辺明_ (2019) 41. 豊島将之 (2020) 42. 豊島将之 43. 藤井聡太 44. 藤井聡太_ 45. 渡辺明 か 広瀬章人(2024) 日本たばこ産業(JT) 日本将棋連盟 河北新報社 熊本日日新聞 西日本新聞社 静岡新聞 静岡放送 北海道新聞社 新潟日報 四国新聞 山陽新聞 中日新聞社 北國新聞 中国新聞社 表 話 編 歴 1 大内延介(9) 2 桐山清澄(6) 3 勝浦修(7)・内藤國雄(6)・石田和雄(6) 4 森安秀光(11) 5 谷川浩司(6)・田中寅彦(6)・島朗(5) 6 淡路仁茂(5)・南芳一(5) 7 有吉道夫(11)・谷川浩司(5)・中原誠(5) 8 青野照市(6)・勝浦修(6)・大山康晴(5)・島朗(6) 9 谷川浩司(12)・島朗(7) 10 該当なし 10-11 中原誠(12) 11 羽生善治(6) 12 森下卓(6)・南芳一(9)・米長邦雄(6)・中田宏樹(8) 13 屋敷伸之(10)・森内俊之(6)・羽生善治(5)・森下卓(6) 14 丸山忠久(6)・森雞二(6)・南芳一(7) 15 丸山忠久(11) 16 森下卓(8) 17 該当なし 18 久保利明(6)・中田宏樹(5) 19 深浦康市(5)・野月浩貴(6)・佐藤康光(7) 20 丸山忠久(8)・羽生善治(16)・阿部隆(5) 20-21 郷田真隆(7) 21 丸山忠久(6) 22 羽生善治(7) 近代将棋 表 話 編 歴 1 木村義雄 2 萩原淳 3 大山康晴 4 大山康晴 5 塚田正夫 6 大山康晴 7 塚田正夫 8 大山康晴 読売新聞社 九段戦 表 話 編 歴 74 大山康晴 75 中原誠 76 中原誠 77 中原誠 78 中原誠 79 米長邦雄 80 大山康晴 81 二上達也 82 加藤一二三 83 中原誠 84 米長邦雄 85 米長邦雄 86 谷川浩司 87 高橋道雄 88 谷川浩司 89 羽生善治 90 羽生善治 91 谷川浩司 92 谷川浩司 93 羽生善治 94 羽生善治 95 羽生善治 96 羽生善治 97 羽生善治 98 谷川浩司 99 羽生善治 00 羽生善治 01 羽生善治 02 羽生善治 03 羽生善治 04 森内俊之 05 羽生善治 06 羽生善治 07 佐藤康光 08 羽生善治 09 羽生善治 10 羽生善治 11 羽生善治 12 羽生善治 13 渡辺明 14 森内俊之 15 羽生善治 16 羽生善治 17 佐藤天彦 18 羽生善治 19 豊島将之 20 渡辺明 21 藤井聡太 22 藤井聡太 23 藤井聡太 24 藤井聡太 表 話 編 歴 74 木村義雄 75 大山康晴 76 大山康晴 84 谷川浩司 85 加藤治郎 86 大山康晴 87 大内延介 90 二上達也 92 大山康晴 94 米長邦雄 95 谷川浩司 96 羽生善治 97 清水市代 99 村山聖 03 谷川浩司 09 中原誠 13 羽生善治 17 加藤一二三 18 藤井聡太 20 木村一基 表 話 編 歴 74 米長邦雄 75 大山康晴 , 米長邦雄 76 大山康晴 77 米長邦雄 78 米長邦雄 , 淡路仁茂 79 米長邦雄 80 大山康晴 81 米長邦雄 82 森安秀光 83 中原誠 84 森安秀光 85 加藤一二三 86 谷川浩司 87 谷川浩司 88 高橋道雄 89 羽生善治 90 羽生善治 91 森下卓 92 森内俊之 93 羽生善治 94 佐藤康光 95 郷田真隆 96 深浦康市 97 谷川浩司 , 阿部隆 98 郷田真隆 99 藤井猛 , 羽生善治 , 谷川浩司 00 谷川浩司 , 丸山忠久 01 羽生善治 02 木村一基 03 羽生善治 04 森内俊之 05 羽生善治 06 羽生善治 07 佐藤康光 08 羽生善治 09 久保利明 10 久保利明 11 渡辺明 12 羽生善治 13 羽生善治 14 羽生善治 15 豊島将之 16 佐藤天彦 17 千田翔太 , 佐々木勇気 18 藤井聡太 19 広瀬章人 20 佐々木大地 21 永瀬拓矢 22 藤井聡太 23 服部慎一郎 24 伊藤匠 表 話 編 歴 74 大山康晴 75 大山康晴 76 大山康晴 77 加藤一二三 78 淡路仁茂 79 米長邦雄 80 大山康晴 81 米長邦雄 82 森安秀光 83 中原誠 84 桐山清澄 85 加藤一二三 , 有吉道夫 , 島朗 86 谷川浩司 87 谷川浩司 88 羽生善治 89 羽生善治 90 羽生善治 91 森下卓 92 森内俊之 93 羽生善治 94 佐藤康光 95 羽生善治 , 郷田真隆 96 羽生善治 , 丸山忠久 , 深浦康市 97 阿部隆 98 郷田真隆 99 藤井猛 00 丸山忠久 01 羽生善治 02 木村一基 03 羽生善治 04 森内俊之 05 羽生善治 06 渡辺明 07 佐藤康光 08 羽生善治 09 久保利明 10 豊島将之 11 羽生善治 12 羽生善治 , 豊島将之 13 羽生善治 14 羽生善治 15 菅井竜也 16 佐藤天彦 17 千田翔太 18 藤井聡太 19 佐々木大地 20 藤井聡太 21 藤井聡太 , 永瀬拓矢 22 藤井聡太 23 藤井聡太 24 伊藤匠 , 藤本渚 表 話 編 歴 1974-中原誠 75-大内延介 76-石田和雄 77-大山康晴 , 加藤一二三 , 森雞二 , 坪内利幸 , 田中寅彦 78-大内延介 1979-青野照市 1980-伊藤果 81-有吉道夫 82-加藤一二三 83-南芳一 84-小野修一 85-有吉道夫 86-南芳一 87-塚田泰明 88-神谷広志 1989-羽生善治 1990-羽生善治 91-中田宏樹 92-中田宏樹 93-羽生善治 94-佐藤康光 95-丸山忠久 96-丸山忠久 97-鈴木大介 98-屋敷伸之 1999-久保利明 2000-丸山忠久 01-羽生善治 02-佐藤康光 03-山崎隆之 04-山崎隆之 05-近藤正和 06-羽生善治 07-糸谷哲郎 08-佐藤和俊 2009-金井恒太 2010-阿久津主税(13連勝) 2011-佐藤天彦(17連勝) 2012-永瀬拓矢(18連勝) 2013-中村太地(15連勝) 2014-永瀬拓矢(12連勝) 2015-横山泰明(13連勝) 2016-佐藤天彦(15連勝) 2017-豊島将之 , 青嶋未来(12連勝) 2018-藤井聡太(29連勝) 2019-渡辺明(15連勝) 2020-永瀬拓矢(15連勝) 2021-澤田真吾(14連勝) 2022-渡辺和史(20連勝) 2023-渡辺和史(18連勝) 2024-佐々木大地(15連勝) 表 話 編 歴 81 松下力 82 原田泰夫 83 角田三男 84 荒巻三之 85 金子金五郎 86 渡辺東一 , 花村元司 87 山本武雄 88 高柳敏夫 89 廣津久雄 90 佐瀬勇次 91 五十嵐豊一 92 加藤治郎 93 大山康晴 94 蛸島彰子 95 長谷部久雄 96 丸田祐三 97 木村義徳 98 内藤國雄 99 加藤博二 00 関根茂 , 関根紀代子 01 有吉道夫 02 加藤一二三 03 西村一義 04 二上達也 05 河口俊彦 06 瀬川晶司 07 コンピュータ将棋協会 08 真部一男 09 大内延介 10 谷川治恵 11 佐伯昌優 12 勝浦修 13 石田和雄 14 滝誠一郎 15 佐藤義則 16 淡路仁茂 17 森信雄 18 森雞二 19 伊藤果 20 高橋和 21 杉本昌隆 22 桐山清澄 23 田中寅彦 , 中田宏樹 24 小林健二 , 小山怜央 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 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2024/11/21 06:05更新
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ooyama yasuharu
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