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升田幸三の情報 (ますだこうぞう)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

升田幸三の情報(ますだこうぞう) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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升田 幸三さんについて調べます

■名前・氏名
升田 幸三
(読み:ますだ こうぞう)
■職業
将棋棋士
■升田幸三の誕生日・生年月日
1918年3月21日
午年(うま年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
広島出身

升田幸三と同じ1918年生まれの有名人・芸能人

升田幸三と同じ3月21日生まれの有名人・芸能人

升田幸三と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


升田幸三と関係のある人

佐藤康光: 本局を含めた意欲的な指し回しが評価され、佐藤は第18回升田幸三賞を受賞している。


西村一義: また、藤井と三浦と星野は升田幸三賞を受賞している。


近藤正和: いつもにこやかで「ゴキゲン流」の異名をとり、得意戦法の「ゴキゲン中飛車」は有力な戦法として注目され、2002年度には升田幸三賞を受賞した。


加藤一二三: 奨励会時代の加藤は、当時の棋界のトップ棋士の一人であった升田幸三に誘われ、関西本部にてよく将棋を指した。


児玉孝一: この戦法の独創性・優秀性が高く評価され、2003年将棋大賞の升田幸三賞を受賞。


青野照市: この功績により(遅ればせながら)1998年に第25回将棋大賞の第4回升田幸三賞を受賞している。


土居市太郎: そのため「名誉名人は名人になっていない者の称号」という認識が生じ、後に名誉名人の称号を打診された升田幸三が「土居名誉名人と同じではいやだ」と言って断り、名人就位経験のある升田のため新たに実力制第四代名人という称号が考案された。


大山康晴: 同じく河口俊彦は、当時の大山に勝てる棋士は関西に存在せず(升田幸三・七段は、昭和18年11月に二度目の召集を受けて出征していた)、そもそも、死にに行く出征棋士に勝とうなどと思う棋士がいる訳もなく、大山が1敗を喫したのは不思議である。


佐藤康光: 後述のように升田幸三賞を2度受賞している。特別賞ではない升田幸三賞を2度受賞しているのは、佐藤康光と青野照市、藤井猛、千田翔太の4人のみである(2022年4月現在)。


大山康晴: また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「盤外戦」を駆使したといわれている。


大内延介: 2018年4月2日に発表された第45回将棋大賞(2017年度)で、大内に升田幸三賞特別賞が贈られた。


市村清: 「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら当時の若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等の文化人が市村を取り巻いて教えを求め、世間はこれを「市村学校」と呼んだ。


水野成夫: また、将棋棋士・升田幸三の熱心なファンで、産経新聞社社長時代の1962年には、当時はすべて一局に二日から三日かけていた将棋のタイトル戦にあって、初の「一日指し切り制」となるタイトル戦『棋聖戦』を創設した。


大山康晴: 木見門下の兄弟子に大野源一、角田三男、そして終生のライバル升田幸三がいた。内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。


松田茂行: こういうタイプの棋士が高く評価された往時、升田幸三がA級棋士に向かって「君達の将棋は松田君より大駒一枚弱い」と言ったことがあるという。


藤井猛: 1996年度に「藤井システム」で、2012年度に「角交換振り飛車」で升田幸三賞を受賞。


小谷正一: 1946年に将棋の木村義雄名人・升田幸三七段の五番勝負を企画・実行する。


佐藤大五郎: 升田幸三と二上達也には各々1勝1敗とするが、他の3名からは1勝も挙げられず、2勝8敗で陥落。


坂田三吉: これは、坂田のファンであった高橋龍太郎の寄附によって1954年(昭和31年)に日本将棋連盟が建立した墓であり、除幕式には土居市太郎、木村義雄、升田幸三、大山康晴ら40名以上の棋士が集まった。


今里広記: 昭和20〜30年代、銀座のクラブ「エスポワール」では、永野重雄、白州次郎、鹿内信隆、五島昇、中曽根康弘、石原慎太郎、山岡荘八、今東光、升田幸三、吉田正、浅利慶太らとともに夜な夜な侃侃諤諤な議論を交わしていた。


谷川浩司: 2013年度、第72期A級順位戦に参加し、連続A級在籍記録は升田幸三を抜き歴代単独2位となったが、2014年1月7日に渡辺明に敗れ1勝6敗となった後、10日の他の対局でB級1組への降級が決定し、連続在籍記録は32期で途絶えた(最終成績は2勝7敗)。


井上慶太: 戦績は1年間で9局4勝5敗であったが、敗戦局でも中終盤を優位に進めていたことや、同時期に村田顕弘が嬉野流に独自の工夫を加えた「村田システム」を公式戦で採用するなどしたことで、嬉野流が他のプロ棋士にも注目されるようになり、戦法開発者の嬉野宏明が2022年度の将棋大賞升田幸三賞を受賞している。


花村元司: 升田幸三に対し、角香交じり(角落ちと香落ちで交互に対戦すること)で徹夜で勝負して勝ち越し、さらに香落ちの手合いで指し分けとなった実力を買われたことや、後援者たちの推挙を受けたことで1944年に異例のプロ五段試験の実施が決まる。


谷川浩司: この54手目△7七銀成で将棋大賞の升田幸三賞を受賞した。


花田長太郎: 次の第7期名人戦では、第2期順位戦で前名人となった木村を押しのけて3位となり、升田幸三、大野源一、大山康晴と共に挑戦者決定戦の出場資格を得た。


河口俊彦: アマチュアの神奈川県代表となったこともある(ちなみに囲碁の強い棋士としては河口、真部の他、花村元司、大山康晴、升田幸三、北村文男(囲碁・将棋双方のプロだった)、丸田祐三、佐藤庄平、二上達也らが挙げられる。


佐瀬勇次: 米長邦雄・丸山忠久と二人の名人の師匠となったが、これは近代将棋史上木見金治郎(大山康晴・升田幸三の師匠)と佐瀬のみの記録である。


今泉健司: この奨励会在籍中に、2手目△3二飛戦法の開発により、将棋大賞の升田幸三賞を受賞した。


高柳敏夫: 第1期王将戦で升田幸三が木村義雄を相手に香落ちの指込みに持ち込んだ陣屋事件について、「玉音放送より衝撃だった」と語っている。


荒巻三之: 名人経験者の塚田正夫に勝利する健闘を見せたものの、升田幸三・大山康晴ら強豪の壁は厚く2勝6敗の成績に終わり、残留はできずに1期でB級に陥落することとなった。


升田幸三の情報まとめ

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升田 幸三(ますだ こうぞう)さんの誕生日は1918年3月21日です。広島出身の将棋棋士のようです。

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エピソード、名人に香車を引いてなどについてまとめました。引退、病気、現在、映画、テレビ、事件に関する情報もありますね。

升田幸三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

升田 幸三(ますだ こうそう/ますだ こうぞう、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1991年〈平成3年〉4月5日)は、将棋棋士、実力制第四代名人。棋士番号18。

木見金治郎の弟子であり、木村義雄・塚田正夫・大山康晴と死闘を演じ、木村引退後は大山と戦後将棋界で覇を競った。昭和の将棋界で一番のスター棋士である。

名前の読みは「こうそう」であるが、将棋界では「こうぞう」で通した。次男は元東急文化村社長の升田高寛。

父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して家出。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら…」の文言は、後に現実のものとなる(詳細は後述)。

広島市での飲食店やクリーニング店の丁稚奉公など紆余曲折を経て、大阪の木見金治郎八段の門下生となる。同門の先輩には大野源一、角田三男、また後輩には終生のライバル大山康晴がいる。初段でプロになるまで(当時のプロ棋士は初段からだった)が長かったが、1934年(昭和9年)2月に初段になってから、めきめきと頭角を現す。この頃、坂田三吉から「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。

1935年(昭和10年)関西にも奨励会ができ、当時三段だった升田も本来は奨励会員となるはずであったが、特別の強さを認められ三段でありながら引き続き新聞棋戦に登場していた。

1939年(昭和14年)に徴兵されて陸軍に入隊し、1942年(昭和17年)まで広島の部隊に所属。1943年(昭和18年)に再度召集。翌1944年(昭和19年)南方へ派遣され、セニヤビン諸島のポンペイ島(現:ミクロネシア連邦ポンペイ州の主島)に上陸する。同島は米軍の制空権下にあり、補給も途絶し、ジャングルの中を爆撃から逃げ回る苛酷な戦況に戦死も覚悟するが、同島には米軍が上陸してこなかったため玉砕は免れた。戦地では食糧不足に悩み、食べられるものは何でも食べたためかえって体を悪くした。ライバルの木村のことを思い出し「月が通信してくれるなら木村と将棋が指したい」と涙に暮れたという。

1945年(昭和20年)の暮、復員して将棋を再開。このころ、名人戦になかなか登場できなかったが人気抜群の升田のために、公式棋戦以外に以下の番勝負が行われている。

1946年 新大阪新聞主催(企画・小谷正一) 木村義雄名人・升田幸三七段 五番勝負(升田が香落下手、平手、平手と三連勝で終了)

1947年 地方新聞社三社主催 木村義雄前名人・升田幸三八段 三番勝負(升田一勝二敗)

1948年 朝日新聞社主催 塚田正夫名人・升田幸三八段 五番勝負(升田二勝三敗)

1948年(昭和23年)の第7期名人挑戦者決定三番勝負(対大山戦・高野山の決戦)の第三局において、勝勢であったが手拍子の大悪手を指して、頓死を食らい「錯覚いけない、よく見るよろし」という有名な言葉を残す。当時、毎日新聞社文芸部の副部長として第三局を観戦した井上靖は、勝負の世界の烈しさに強い感動を覚え、小説家となった後の1951年(昭和26年)に、この対局をモデルにして短編小説「勝負」を書いている。

関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す。

タイトル戦でなかなか大山に勝てなかったが、1957年、ついに大山を倒して将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「たどり来て、未だ山麓」との言葉を残す。

「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車・居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。有名な新手には升田式石田流、雀刺し、急戦矢倉、棒銀、ひねり飛車、対ひねり飛車タコ金、角換わり腰掛銀升田定跡、駅馬車定跡、升田式向かい飛車、一間飛車、居飛車穴熊などがある。その功績を記念して、毎年行われる将棋大賞にて、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が、升田の没後3年余り経った1995年(1994年度)から設けられている。

角(角行)使いの名手であり、特に、自陣から敵陣をにらむ「遠見の角」を好んだという。

将棋界に大きな功績を残した升田だったが、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多かった。そのためタイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られなかったが、順位戦A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。将棋連盟では1988年に升田のために新たな称号を作って「実力制第四代名人」の称号を贈った。

順位戦A級在籍は通算31期(名人2期と休場8期含む)。順位戦A級参加時は休場期と最後の皆勤となった第30期で4勝5敗に終わった以外の期はすべて勝ち越しており、A級の勝率0.724(139勝53敗1持将棋)は、2021年3月現在において現役を除く歴代A級棋士の中の最高勝率である。

実質的な後継者は加藤一二三であるとされているが、加藤のみならずその棋風を慕う棋士は多く、米長邦雄は「升田さんの序盤は天才的」と言っている。他にも現在の第一人者の羽生善治も将棋を指したい人は誰かと言う問いに「升田先生と指したい」と述べている。将棋年鑑で「指してみたい棋士」という全棋士アンケートが実施された際にも(羽生世代の棋士は大山と指したことがあるという事情はあるにせよ)、升田の名をあげた棋士の数は、大山・木村を凌いでいる。谷川浩司とはペア将棋では対局したことはあるが(谷川は森雞二と、升田は内藤國雄とそれぞれペアであった)、通常の対局で指したことはなかった。

1991年、心不全のため73歳で死去した。晩年は羽生や先崎学といった若手強豪や観戦記者と碁を楽しんでいたという。

エピソード

ヘビースモーカーであり、一日に300本も吸ったといわれる。また酒豪でもあり、後に谷川浩司には、「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」とアドバイスしている。反面、ギャンブルは大嫌いで、一応一通り試してみたが「運に左右されるものは勝負じゃない」と終生好まなかった。

生涯のライバル大山康晴との対局について、王将戦の記録係を務めた内藤國雄はこう語っている。「升田さんはタバコを吸い、大きな灰皿に花びらのようにポーンポーンと吸殻を並べていくんですね。それに対して、大山名人はアゴを引いてジッ…としている。それがまた素晴らしいですね。不動という感じでね。だから全く飽きなかったですね、この2人の対局は。棋譜だけではなく、2人の対局する姿も絵になっていたんですよ。」

1947年(昭和22年)の夏、升田が嘱託を務めていた朝日新聞社経由で、GHQから名指しで「将棋の話を聞きたい」と呼び出された。「呼び出しは、将棋抹殺のための儀式に過ぎない。俺が詰まれたら、将棋は消されちまう」と意を決し、GHQは戦争協力者と疑う木村義雄の話を持ち出して来るだろうと、先の先を読んだ。升田が出頭するとダグラス・マッカーサー司令官の分身と呼ばれたコートニー・ホイットニー民政局長ら数名の将官が面談した。GHQ高官は「チェスと違い、将棋では取った駒を自分の持ち駒として使う。これは捕虜虐待である」という旨を言った。升田はそのように言われることを予期しており「チェスでは取った駒を使わないが、これは捕虜虐殺である。将棋では、捕虜(取った駒)を、官位(角なら角、金なら金)はもとのまま、能力(駒の働き)を尊重して、味方として登用する。これこそ真の民主主義である」と反論した。更に升田は「チェスは王様が危なくなると女王様まで楯にして逃げようとする。これはあなた方の民主主義やレディーファーストに反する行為ではないか」と述べ、担当官を苦笑いさせた。升田は勧められたビールを飲みながら5 - 6時間も話を続け、「もう帰って良い」と言われて辞去する際に「巣鴨プリズンにいる戦犯の者たちを処刑しないで欲しい。あそこにいるのは役に立つ者たちである」という旨を言い、GHQ高官の一人から「良く分かった。貴公は日本人には珍しく実によくしゃべる」と言われた。

どんなに依頼されても、映画テレビに出たことのなかった升田が、松方弘樹主演の関西テレビ『けんか安兵衛』第17話(1975年7月22日放送)にひょっこりゲスト出演した。番組プロデューサー林宏樹が断わられるのを覚悟で、中野の升田宅に出向いたところ、肝心の話をする前に酒を出され、飲むほどに酔うほどについに夜が明けた。すると升田が「若僧、飲みっぷりが気に入ったぞ!」と出演を快諾。トレードマークの長髪をそのまま生かし、二本差しの侍姿になると実にサマになり、撮影所に現れると出演者一同、目を見張った。撮影ではリハーサルの最中から三合枡で本物の酒をグイグイ飲み、風呂嫌いで、「冷や酒に唐辛子を入れて発汗作用を促し、風呂代わりにしておる」などと話し、これには芸能界きっての酒豪・松方弘樹も「すごい人もいらっしゃるんですね」と呆れた。5歳の時から飲んでいたといわれる。

「女は頭が悪い」「女には将棋はできない」と発言したこともあったが、当時の女流名人蛸島彰子が升田にサインを求めたところ、升田は快く応じている。まだ十代で美少女棋士として評判だった中井広恵には、「女は将棋なんて強くなくても抱き心地さえ良ければいいんだ」と発言をしている。

囲碁も強く、アマチュアの大会などにも出場し、団体戦出場時は自分が大将(主将)でなければ気がすまなかったといわれている。死後、後輩の米長邦雄らの尽力により日本棋院より囲碁アマ八段が贈られている(米長は、升田が「ヒゲの九段」と親しまれていたことから九段追贈を求めたが、さすがに許可が下りなかった)。

幼少期は剣道を志していたが、自転車で脚を大怪我をして断念した。棋士になってからも剣豪の話が大好きで、テレビの時代劇に出演したことがある。

参院選に出馬を打診された際「本業に自信のあるものは政治家にはならない」と断った。

1949年の第2回全日本選手権戦(後の九段戦、十段戦、竜王戦)の対局前夜の食事会で名人の木村義雄と口論となり、「ゴミハエ問答」と呼ばれる著名なやり取りをしている。食通の木村が豆腐を食べながら「やっぱり豆腐は木綿ごしに限るよ」と木綿豆腐の良さについて薀蓄を垂れ始めたところ、絹ごし豆腐を好む升田はこれが気に触り、「えらそうなことばかり言うとるが、将棋は名人でも、その道の専門家から見りゃ、木村名人の知識なんかゴミみたいなもんだ」と噛み付いた。木村が「なにい?ゴミだって?名人がゴミなら君はなんだ」と問うと、升田は「さあね。ゴミにたかる蝿ですか」と一言。升田の軽妙なやり取りに食事会は笑いに包まれたが、機嫌を損ねた木村は「君も、えらそうなことばかり言ってないで一度ぐらい、名人挑戦者になったらどうだね」と言い残して席を立ってしまった。翌日の対局は因縁の対決となり、200手を超える泥仕合の末に升田が勝利した。なお、ゴミハエ問答は、升田が対局後に木村の棋力を馬鹿にして発言したものであるという誇張されたエピソードが記載されている書籍もある。

塚田正夫とは仲がよく、一緒に酒を飲むことが多かった。あるとき升田が「俺は太陽で、あんたは月だ」と言うと、普段は無口な塚田も頭にきて「何で俺が月だ」と反論し、太陽だ、月だ、と言いあったことがあった。

晩年には「もう一度生まれてきたら、天野宗歩のように3歳くらいで将棋を覚えて、名人に角を引きたい(ハンデとして自陣の角なしで戦いたい)」と語ったことがある。

朝日新聞の将棋嘱託を務めており、昭和50年代の名人戦問題では朝日寄りの言動が目立った。加藤一二三とともに朝日との棋戦契約存続で運動したが、何かと個性的な両名に共感者の少なかったことが、毎日新聞への移管につながったといわれる。

軍隊に入隊した頃の升田は煙草や酒、不規則な生活で体が相当弱っており、「軍隊に入って規則正しい生活、定期的な運動などしたおかげで大分体調が良くなった。もし入隊していなかったらとっくにくたばっていただろう」と後に述懐している。また銃剣の試合で最初は古参兵にボコボコにされていたが、あるコツをつかんだところ負けなくなったという。そのコツについて升田は後にこう語っていた。「相手の呼吸をよく見るんだ。人間は必ず息を吸って吐く。息を吐いているときは攻撃しても無駄だ。相手が息を吐き終わって吸い始めた瞬間にエイヤと打ち込む。大抵の人間は息を吸い始めた瞬間は無防備になるものだ。それを覚えてからは銃剣で負けなくなった」。升田が将棋でめっぽう強かったのは相手の癖を徹底的に見抜くことにあったことを如実に物語るエピソードである。

ある対局で、もつれた終盤戦で升田がバチッと力強く勝負手を放った。升田は自信満々に「詰みだな」と一言つぶやいた。相手の棋士は大棋士たる升田が詰みだと自信満々に言うので戦意を喪失してそこで投了してしまった。ところが局後の感想戦で詰んでいないことが明らかになった。相手方の棋士はつい恨み言を升田にぶつけたところ、升田は「プロがきちんと確認もしないで俺の一言で投了したんじゃあ、お前の棋力はそんなもんだよ」とうそぶいていたという。

巨人の長嶋茂雄と対談した時「野球は3割打ったら上等と言われるが、将棋は7割勝たんと一流とはいえん、精進したまえ」と言われた長嶋はスランプから脱出したという。

数々のエピソードが示すとおり、やや放言癖があった。しかし、それも升田の魅力の一つであった。

作家の五味康祐と仲が好かった。二人は風貌も似ていて、間違われる事が多かった。

名人に香車を引いて

升田が将棋指しを目指して家を出たとき、母の使う物差しの裏に書いたとされる言葉である。正確には、「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書いた。「香車を引いて」は香落ちの手合割でという意味で、「勝ったら」は「勝つため」の誤りである。そのため他者の出版物では「勝つため」に直して書かれることがあるものの、実際に書かれたのはあくまで「勝ったら」であると升田は自伝で語っている。また同著で将棋の世界の仕組みがわかっておらず東京には関根名人がいる、大阪では坂田三吉が関西名人を名乗っている、とすると広島にも名人がおるんじゃなかろうか、まず広島名人をやっつけてから大阪にいく。と当て推量しているが当時の心境を全く覚えていないと述懐している。ただし、升田がこの言葉を書いた時点では、棋士同士が駒落ちで対局する公式戦は存在せず、非現実的なものであった。

その後1950年に王将戦が創設されることになり、規定として三番手直りとし、3勝差がついた時点で残りの対局を香落ちと平手を交互に指す(指し込み)制度が定められたことにより、夢が現実となる可能性が生まれた。しかし、この制度に反対したのが当の升田であった。もしも名人と戦えば指し込みに追い込める自信を持つ一方、棋士の格を重んじる性分でもあり、そんな事態になれば棋界の存続にかかわるのではないかと危惧したためである。これに対し、当時の名人である木村義雄が「そんな事はあり得ない」と判断したため、見直されることはなかった。

そして1951年の第1期王将戦で、木村名人と七番勝負を争う。升田は木村に対し4勝1敗とし、続く第6戦を香落ちで戦うことになり、「名人に香車を引く」が実現したが、升田が対局を拒否して不戦敗となっている(陣屋事件)。この時の詳細な状況は不明だが、心境については「できたら指したくなかった」と後年に吐露している。

1956年、今度は弟弟子でもある大山康晴名人との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。この際は棄権せずに対局し、大山に勝っている。「名人に香車を引いて勝つ」を実現した瞬間でもあった。後にも先にも、名人を相手に香車を引いて対局をした棋士も、また勝ったのも升田幸三のみである。

この時の心境について、升田は晩年のインタビューで以下のように語っている。

2024/06/14 18:26更新

masuda kouzou


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