坂田三吉の情報(さかたさんきち) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
坂田 三吉さんについて調べます
■名前・氏名 |
坂田三吉と関係のある人
関根金次郎: ライバル坂田三吉とは1894年(明治27年)に初手合わせを行い(初手合わせは1891年(明治24年)頃という説もある)、3度戦って関根の2勝1敗。 大山康晴: 「名人位の箱根越え」は坂田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げたことは、象徴的な場面として知られる)。 関根金次郎: この点は、ライバルと言われた坂田三吉と同じであった。 富司純子: 王将物語(1965年、読売テレビ)- 小春(坂田三吉の妻)役 金易二郎: 坂田三吉が「銀が泣いている」とつぶやいて有名になった一局について、大正2年(1913年)の関根戦とする説と、大正4年(1914年)の井上戦であるとする説があるが、後者の説は金が観戦記者の桑島鈍聴子から聞いて、弟子の山本に手紙で伝えた話が根拠となっている。 辰巳柳太郎: 王将一代 (1955年、新東宝) - 坂田三吉 升田幸三: この頃、坂田三吉から「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。 緒形拳: 高校時代に新国劇の舞台に惚れ込むと仲間内で戯曲『王将』(新国劇の当時の人気演目の1つ)を行い、緒形は大阪の名棋士・坂田三吉を演じた。 神田辰之助: 1915年、23歳の時、養家を飛び出して大阪の伶人町に住む坂田三吉のもとに身を寄せた。 阪東妻三郎: 時代劇では『大江戸五人男』、天才棋士坂田三吉を演じた『王将』、コミカルな現代劇『破れ太鼓』などの作品に主演し、大河内伝次郎とともに正真正銘の「スタア」であり続けた。 土居市太郎: 大正4年(1915年)、坂田三吉が、十二世名人小野五平、柳沢保恵伯爵(愛棋家として知られた)らの援助を受けて八段を許された上で、同じ八段の関根、井上と対戦をするため上京する。 金易二郎: 実力制の名人戦実施に尽力する一方、昭和12年(1937年)には坂田三吉からの要望を容れて、木村・花田との対戦を実現させた。 植木等: 性格俳優への転機は、1977年の東京宝塚劇場公演『王将』で坂田三吉を演じたことだった。 神野美伽: 2009年、劇団若獅子公演「王将 -坂田三吉の生涯-」(国立劇場ほか)に出演。 植木等: 1977年 - 東京宝塚劇場公演『王将』で主演し坂田三吉を演じる。 升田幸三: また同著で将棋の世界の仕組みがわかっておらず東京には関根名人がいる、大阪では坂田三吉が関西名人を名乗っている、とすると広島にも名人がおるんじゃなかろうか、まず広島名人をやっつけてから大阪にいく。 緒形拳: 後年、二人の師匠と和解した緒形は、新国劇が70年の幕を下ろす1987年の最終公演で、辰巳の当たり役で知られた戯曲『王将』の坂田三吉を演じ、「辰巳先生に見てもらいたい」という思いで取り組んだ。 金易二郎: 関東の棋士とあまり交友がなかった坂田三吉が唯一心を許した人物だと言われ、上京してきた坂田の世話等は金が担当した。 内藤国雄: 内藤の師匠の藤内金吾(ふじうち きんご)は坂田三吉の弟子であるので、内藤は坂田の孫弟子である。 緒形拳: 辰巳柳太郎の当たり役で知られた戯曲『王将』の坂田三吉を演じたときは「辰巳先生に見てもらいたい」という思いで取り組んだ。 辰巳柳太郎: 1947年に、辰巳自らが坂田三吉を主人公で描くように依頼をして北条秀司が脚本を執筆し、北条が演出も担当した『王将』に主演して大ヒット作となる。国定忠治、宮本武蔵、「大菩薩峠」の机龍之介、「王将」の坂田三吉、「無法松の一生」の松五郎、どぶろくの辰などが当たり役であった。 坂田利夫: 芸名は将棋棋士の坂田三吉に由来するが、将棋は苦手である。 内藤國雄: 内藤の師匠の藤内金吾(ふじうち きんご)は坂田三吉の弟子であるので、内藤は坂田の孫弟子である。 福崎文吾: 坂田三吉の将棋を全局並べた数少ない棋士の一人である。 関根金次郎: 1917年(大正6年)、関西より上京した坂田三吉(阪田三吉)と密かに対局し敗れるという事件が発生し、『萬朝報』は坂田に敗北した関根の責任を追及。 花田長太郎: 大正11年(1922年)に坂田三吉と対戦した記録(平手で勝ち)があり、その時点では七段になっている。 柴田時江: 劇団若獅子 「王将 ‐坂田三吉の生涯‐三幕」(2009年) 木見金治郎: 大阪では大阪朝日新聞嘱託の坂田三吉に対抗し、大阪毎日新聞嘱託のスター棋士となる。 若松政和: 若松の師匠の藤内が坂田三吉の弟子であるため、若松は坂田の孫弟子の一人。 織田作之助: 1943年の「聴雨」「勝負師」および1946年の「可能性の文学」は大阪の将棋棋士坂田三吉を題材としており、織田の死後の1947年に北條秀司がさらに坂田を主人公とした戯曲『王将』を発表をして、坂田三吉の名が広く知られるようになった。 |
坂田三吉の情報まとめ
坂田 三吉(さかた さんきち)さんの誕生日は1870年7月1日です。大阪出身の将棋棋士のようです。
人物、後継者たちなどについてまとめました。現在、事件、引退、家族、映画に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
坂田三吉のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)坂田 三𠮷または阪田 三𠮷(さかた さんきち、1870年7月1日(明治3年6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)は、明治から昭和初期の将棋棋士。贈名人・王将。小林東伯斎八段門下、もしくは小野五平十二世名人門下。大阪府堺市出身。姓については「坂田」と「阪田」の表記があり、一定しない(後述、読みは同じ)。なお「吉」の正確な表記は「𠮷」。 堺県大鳥郡舳松村(現・大阪府堺市堺区協和町)で出生。生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚える。 1886年(明治19年)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公し、町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。 その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の将棋指しとして大阪で有名になる。 1891年(明治24年)頃、関根金次郎(当時三段または四段)と堺の料亭一力で初対決し、惨敗。このことで坂田はプロの道を決意したとされる。なお、初手合わせは1892年(明治25年)・1893年(明治26年)・1895年(明治28年)という説、1894年(明治27年)頃という説もある。また、この対局は両者とも賭け将棋を否定しているが、賭け将棋であるとの意見もある。 また、これまで独学で将棋を学んでいた坂田は、関根を通じて初めて師と呼べる人物に出会う。関根が当時「大阪名人(関西名人)」と呼ばれていた小林東伯斎(天野宗歩四天王の一人)に会った際に坂田との棋譜を見せたところ、小林は坂田の素質に驚き、自分に紹介するよう関根に頼んだ。関根の仲介で坂田と会った小林は、坂田の才能を褒め、さらに上達するための助言として大駒の使い方などを教えた。坂田は小林との出会いが大変励みになったと懐述しており、これをもって小林門下とすることもある。 1903年(明治36年)、四段格の坂田は、七段の関根と「香香角」の手合いで対戦する。香落ちの棋譜は残っており坂田の一勝一敗となっている。坂田の語りを収録した著書『将棋哲学』では、「若いころで自分が四段か四段半のころ、七段の関根さんとの対局で千日手になり、自分(坂田)が攻め方だったため、関根から、関根側の勝ちと言われて、勝負を打ち切られた。天下の七段の関根が、自称四段・四段半の素人の自分に対して、男らしくない」「この敗戦の悔しさから、家内に、今日から本当の将棋指しになると宣言した」とある。この「千日手の攻め方打開のルールを知らずに敗れた」のは、棋譜が残っていない、関根角落ちの一番という説もある。 1906年(明治39年)4月22日、「五段半」の坂田は、八段の関根と大阪阿弥陀池和光寺境内の藤の茶屋で対局(関根の香落ち)をする。双方互角の勝負であったが、終盤坂田が千日手の当時のルール(攻め方による打開が必要)を知らず、無理に打開してペースが狂い惜敗したとされるが、上記の坂田著書『将棋哲学』の「四段のころに、千日手のルールをしらず、ルール違反で強制的に負けにさせられたことがある」という記述と一致しない。そのため、坂田が「坂田が千日手のルールを知らない」エピソードがあったのは、1903年(明治36年)の関根が角または香を落とした一番だという説もある)。坂田にとって「私を本物の将棋指しにしてくれた」一戦であった。以後、坂田は打倒関根を目標として貧困などの危機を乗り越えていく。北条秀司原作による戯曲『王将』では、この年(1906年・明治39年)に関根と初対戦したことになっており、千日手のため、審判の判定で坂田が反則負けにされたと描かれている。 1907年(明治40年)当時の三人の八段である関根金次郎・井上義雄・小菅剣之助の平手対局が神戸新聞により企画され、「六段」の坂田は神戸で小菅剣之助と対戦(小菅の香落ち)して勝つ。この頃には坂田の才能を見出す後援者にも恵まれ、1908年(明治41年)大阪朝日新聞嘱託となる。こうして生活も少しずつ安定し同時に技術人格ともに成長していく。同1908年には、関根と「香角香」の手合で対戦する。 1910年(明治43年)7月、坂田を盟主とする関西将棋研究会が発足する。同時期に後援者の協力を得て七段への昇段を宣言する。もっともこれは自称であり、大阪朝日新聞紙上で「自分は七段の実力があるから自分で七段を認定する」と突如発表したものだった。坂田は「自分で実力があると信じて名乗りをあげたのだから、もし異存があればいつ何時でも手合せに応ずる」と述べ、昇段に異議を唱えて挑戦してきた棋士を全て駒落ちで破っている。 1913年(大正2年)4月に初の東京行きを果たす。4月6日・7日に東京・築地倶楽部において催された歓迎対局で関根八段と対局(関根の香落ち)して勝利をする。この対局において坂田は『銀が泣いている』という言葉を残したとされる(泣き銀の一局)。正式に七段として認められたのはこの時ともされている。4月9日には関根の弟子の土居市太郎(当時は六段)と平手で対局して敗れたものの、7月14日には大阪を訪れた関根と大阪朝日の主催で平手で対戦し、袖飛車を用いて勝つ。 1914年(大正3年)、大阪に出てきた関根と対戦し敗れる。 1915年(大正4年)、小野五平名人により八段昇段を許された。これ以降、坂田は小野門下を自称するようになった。同年に関根と並ぶ東の実力者である井上義雄八段と対戦して勝つ。「泣き銀の一局」は一説にはこの対局のことであるともいう。 1917年(大正6年)に八段となり、柳沢保恵伯爵の後援の下で翌年にかけて関根と平手で6局の対局をし4勝2敗と勝ち越す。だが、関根の一番弟子の土居市太郎(七段)には敗れており、土居の八段昇段を許すこととなる。 1919年(大正8年)5月11日、木見金治郎の七段披露の席で大阪を訪れた土居と対戦し、阪田流向かい飛車を使用して勝利する。この対局は坂田が途中で角損をしており、「角損の一局」とも呼ばれる。 1920年(大正9年)、小野名人の90歳祝賀将棋大会で上京した際の、大崎熊雄七段との香落ち戦は、坂田の奇手「角頭歩突き」で有名な対局だが、この対局には敗れている。同時期の東京での金易二郎七段との香落ち戦での、坂田が不利な局面で打った七一角は、夢でみた「天から降った角」と自身で語っており、「夢の名角」と呼ばれている。 1921年(大正10年)5月、小野名人の死去を受け、関根が「十三世名人」を襲位した。この時点では坂田も関根の名人襲位には賛成していたとされる。 この頃、坂田は眼病を患い、一時は失明の危機に陥る。 1925年(大正14年)3月、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により名人に推薦され、柳沢伯爵の賛同も得て「名人」を名乗る(なお、坂田が称したのは「名人」であるが、東京の名人と区別するために、現在では「関西名人」、「大阪名人」などと表記する者もいる)。この背景には、1924年(大正13年)の東京棋界再編で「東京将棋連盟」の結成に貢献した木見金治郎、大崎熊雄、金易二郎、花田長太郎が褒賞として昇段し、それまで専業プロ棋士では坂田三吉、土居市太郎のみだった「八段」の棋士が一挙に増えたことに対する不満があったとされる。このことは東京将棋連盟から名人僭称とみなされ、連盟を追放される原因となった。 報酬をめぐって大阪朝日との関係がこじれ、1933年(昭和8年)、嘱託の座を神田辰之助に奪われることになると、後援者の多くも神田を支持するようになり、坂田はますます孤立を深めた。この時期に星田啓三を内弟子に迎えている。 1935年(昭和10年)からの神田事件による将棋界の分裂が1936年(昭和12年)6月29日に収束後、従来より東京よりであった木見派のみならず神田派も将棋大成会(現在の日本将棋連盟の前身)に参加するようになり、坂田は将棋界で完全に孤立した。 坂田は復帰を目指し読売新聞や金易二郎に働きかけを行い、その結果1937年(昭和12年)に坂田は東京側と和解し将棋大成会に復帰することになる。同年2月に京都の南禅寺で木村義雄八段と対局(「#南禅寺の決戦」、後述)、3月には天龍寺で花田長太郎八段と対局。いずれも「後手番、初手端歩突き」の奇策を取るが、連敗した。 復帰後、八段格として第2期名人戦挑戦者決定リーグ(八段リーグ)に参加し7勝8敗の成績をあげたが、それを最後に名人戦に参加せずに引退。引退後は大阪市東住吉区田辺の自宅にこもり、文字通りの隠遁生活であった。窮乏を知った木村より顧問の就任を打診されたが「いまさら木村が、なにいいまんね」と拒絶したという。家族によると、将棋を指すのが会社やクラブへの稽古将棋程度になってしまい、「本当の将棋が指したい」と折りたたみの将棋盤でひとり将棋をしていたという。 終戦直後、1946年(昭和21年)7月23日、大阪市東住吉区の自宅で死去。食当たりでの急死であったという(少し傷んでいた鯨肉を、家族の知らぬ間に食べてしまったのが原因といわれている)。坂田の死亡を報じる新聞記事はたった10行のベタ記事で写真もなく、おまけに死亡日が3日も異なっていたという。しかし没後まもなく製作された新国劇の演劇作品・北条秀司脚本『王将』が好評を得たため、坂田の名は将棋指しとして不朽なものとなった。 1947年の戯曲『王将』と、それを原作とする映画『王将』が大ヒットとなり、死去から9年後の1955年(昭和30年)、日本将棋連盟は名人位と王将位を追贈。「贈名人」は伊藤看寿に続き二人目、「贈王将」は坂田が史上唯一。また、坂田に与えられた「王将位」のもととなる「王将戦」という棋戦名について、倉島竹二郎は、そもそも、坂田を主人公とした戯曲「王将」に由来していると推測している。 また、1969年(昭和44年)、新世界町会連合会によって大阪市浪速区の新世界の通天閣下に「王将」の碑が建立された。また生家跡にも1989年(平成元年)11月、「王将阪田三吉顕彰碑」が堺市によって建立された。墓は大阪府豊中市の服部霊園。これは、坂田のファンであった高橋龍太郎の寄附によって1954年(昭和31年)に日本将棋連盟が建立した墓であり、除幕式には土居市太郎、木村義雄、升田幸三、大山康晴ら40名以上の棋士が集まった。しかし、坂田三吉墓は清水次郎長の墓と同じ様に扱われてか、将棋の駒型の墓石を金槌で打ち欠き、その破片を勝守りとする人が絶えず、墓石が損傷している。 1988年(昭和63年)から、出身地の堺市で「阪田三吉名人杯将棋大会」(堺市立陵西中学校体育館、アマチュア棋士対象)が開かれている。 人物勉学を好まず、早期に学校を辞めたことにより、生涯を通じて読み書きができなかった。将棋を親しく教わった升田幸三は、生涯覚えた漢字は「三」「吉」「馬」の三字だったと証言している。坂田の代筆をしていた書道家の北野千里は、この他に「坂」の字も書けたと証言している。現在、日本将棋連盟から販売されている扇子にはこの「馬」の字が使用されており、他の棋士の扇子よりも値段が高く、今なお将棋ファンに根強い人気がある。 北条秀司原作による『王将』というタイトルの戯曲(三部構成)や映画、さらに歌のモデルになった。坂田は生前「わしが死んだらきっと芝居や活動写真にしよりまっせ」と言っていた。しかし、映画などでの坂田像は多分に誇張されたものであり、真実の坂田とはへだたりがあるという、坂田と実際に会った棋士たちの複数の証言がある。 坂田は映画では無法者であるかのように描かれているが、実際には極めて礼儀正しい人物であり(ただし、実際に会った棋士たちも坂田の晩年に近いときに会った話であり、若いころから礼儀正しかったかどうかはわからない)、文字は知らなかったが江戸時代の古い将棋を相当よく知っていた(なお、戯曲版では、坂田の過剰な礼儀正しさは、喜劇的な調子でまで相当に描かれている。)。坂田将棋も完全な独学ではなく、坂田以前に大阪名人といわれた小林東伯斎からアドバイスを受けたことがあった。 有名な阪田流向かい飛車も江戸時代の定跡を元にしたものである。僧侶などの知識人の話を聞くなどの耳学問で一般常識などは身に付いていた。ただ、文字を知らないための奇行があったことは、実際に親しく将棋を教えられた升田幸三も認めており、食堂のメニューが読めなかったり、坂田の記録係だった大山康晴が、算用数字で考慮時間を記録していたのを見た坂田は「英語で記録しているのか」と聞いたりしたという。また坂田自身は字が書けないことを気にしておらず、頭を指さして「ここに将棋が一杯入ってまんねん。」とおどけた。 坂田夫婦が鳥辺山の日蓮宗系の「みょうけんさん」(妙見堂)の熱心な信者だという、映画版でも描かれている有名なエピソードも、戯曲作者の北条秀司が追加設定したフィクションであった。なお、実際の坂田夫婦は、三吉の眼病快癒のため、京都の柳谷観音を信心していた。 なお、戯曲作者の北条秀司は、戯曲『王将』第一作の執筆前に、坂田の遺族(次女夫婦)に取材を申し込んだが、拒否されたとしている。また、戯曲を盛り上げるために意識的にフィクションを盛り込んだのだが、作品の大ヒットにより、戯曲の描写が「坂田三吉の人生そのまま」と受け取られることに困惑していた。また坂田の家族の反応としては、戯曲第一作の上演の際、坂田の息子や次女は、好意的な反応をしたという記録がある。 その一方、戯曲第一作(および映画第一作)の大ヒットを受け、坂田の関西名人在位期を描く続編(『続王将』)の執筆のため北条が再度取材しようとした際に、「父をこれ以上、阿呆よばわりされたくない」(特に伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演の映画版・第一作の『王将』への反感があった)という坂田次女の意向により箝口令が敷かれ、北条は関係者への取材を拒否されたという。 人気少女漫画『ガラスの仮面』の主人公・北島マヤのモデルは『王将』の坂田である。 後継者たち弟子に藤内金吾、星田啓三、高浜禎がいる。また、棋士系統図においては弟子とされていないが、神田辰之助は長く坂田の下で将棋を教わっていた。 その他、ライバルの木見門下である升田幸三の才能を坂田は特に評価していた。坂田は升田が将棋を教えている社交クラブへ出向いて色々なアドバイスをし、「木村(義雄)を負かすのはあんたや、あんたのほかにおらへん」と激励したという。 坂田が得意とした振り飛車戦法は、木見門下である大野源一が改良を加えて引き継いでいる。坂田が創始者とされる戦法に阪田流向かい飛車・袖飛車があり、特に袖飛車では花田長太郎が対抗する定跡を作り上げるまでは当時不敗を誇ったと観戦記者の天狗太郎は記している。 坂田の一番弟子の藤内金吾(1893年-1968年)は弟子を多く育て、高島一岐代、内藤國雄、若松政和を始めとする「坂田三吉の孫弟子」、さらには若松から「坂田三吉の曾孫弟子」で十七世名人の谷川浩司を生んだ。藤内は元々は棋士でもなんでもなく一介の繊維業者であり、坂田とはいわゆるタニマチとしてのつながりでしかなかった。しかし、個人的に稽古をつけてもらっているうちに坂田の魅力にひかれ、気がつけば39歳からプロ棋士になっていたという。 坂田三吉の系譜2024/06/15 01:57更新
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sakata sankichi
坂田三吉と同じ誕生日7月1日生まれ、同じ大阪出身の人
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