土居市太郎の情報(どいいちたろう) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
土居 市太郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
土居市太郎と関係のある人
西村一義: クリーニング店で住み込みで働きながら将棋道場に通い、土居市太郎門下の関屋喜代作四段(当時)、大内延介4級(当時)、高柳敏夫門下の中原誠などの指導を受けた。 岩崎弥太郎: 代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、弥太郎は事業監督を担当した。 関屋喜代作: 土居市太郎名誉名人門下。 加藤博二: 土居市太郎名誉名人門下。 坂田三吉: 4月9日には関根の弟子の土居市太郎(当時は六段)と平手で対局して敗れたものの、7月14日には大阪を訪れた関根と大阪朝日の主催で平手で対戦し、袖飛車を用いて勝つ。 関根金次郎: 1924年(大正13年)9月8日には、東京で専門棋士を擁していた東京将棋倶楽部(関根派)・将棋同盟社(土居市太郎八段派)・将棋研究会(大崎熊雄七段派)の三派を合同させて東京将棋連盟を結成。 金易二郎: 大正6年(1917年)の時点では既に六段になっており、同年のうちに七段に昇段をし、八段の昇段を関根に抑えられていた兄弟子の土居市太郎と段位が並ぶことになった。 坂田三吉: これは、坂田のファンであった高橋龍太郎の寄附によって1954年(昭和31年)に日本将棋連盟が建立した墓であり、除幕式には土居市太郎、木村義雄、升田幸三、大山康晴ら40名以上の棋士が集まった。 金子金五郎: 土居市太郎名誉名人門下。 加藤博二: 1938年に6級で土居市太郎に入門。 関根金次郎: 土居市太郎(名誉名人) 坂田三吉: この背景には、1924年(大正13年)の東京棋界再編で「東京将棋連盟」の結成に貢献した木見金治郎、大崎熊雄、金易二郎、花田長太郎が褒賞として昇段し、それまで専業プロ棋士では坂田三吉、土居市太郎のみだった「八段」の棋士が一挙に増えたことに対する不満があったとされる。 金子金五郎: 大正5年(1916年)、土居市太郎に入門。 大内延介: 1954年、土居市太郎名誉名人の最後の弟子として入門。 関根金次郎: 弟子の数では木見金治郎には及ばないものの、後の日本将棋連盟に連なる直弟子としては土居市太郎や木村義雄を筆頭に8人を輩出している。 坂田三吉: だが、関根の一番弟子の土居市太郎(七段)には敗れており、土居の八段昇段を許すこととなる。 関根金次郎: 対戦後期は坂田に対して分が悪くなっていたが、弟子の土居市太郎七段が1917年(大正6年)に坂田を平手で破っていたこともあり、また、兄弟子の小菅が名人襲位を断るなど紆余曲折もへて、小野の死後の53歳(1921年(大正10年))で、十三世名人の位に就く。 関根金次郎: 将棋欄の講評権を関根から、関根の弟子の土居市太郎に移譲させる。 大内延介: 土居市太郎名誉名人門下。 花田長太郎: 大正4年(1915年)に兄弟子の土居市太郎七段と将棋同盟社の定式会で対戦した記録(飛車落とされで負け)があり、その時点では二段であった。 |
土居市太郎の情報まとめ
土居 市太郎(どい いちたろう)さんの誕生日は1887年11月20日です。愛媛出身の将棋棋士のようです。
病気、事件、引退、結婚、卒業に関する情報もありますね。1973年に亡くなられているようです。
土居市太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)土居 市太郎(どい いちたろう、1887年〈明治20年〉11月20日 - 1973年〈昭和48年〉2月28日)は、将棋棋士。名誉名人。1932年から1934年に日本将棋連盟会長を務めた。関根金次郎十三世名人門下。弟弟子に金易二郎・花田長太郎・木村義雄・渡辺東一らがいる。愛媛県和気郡(現:松山市三津浜)出身。 三津浜に生まれる。12歳の頃、病気にかかり左脚が不自由となり、名医の治療を受けるために上京を志す。しかし、左脚が不治だとわかったため、将棋で身を立てる決心をしたという。 明治40年(1907年)10月、遊歴中の関根金次郎に見出されて入門する。上京した後は関根の玄関番をしたり、各地の将棋所を回ったりした。 明治42年(1909年)、関根が井上義雄八段らと共に「将棋同盟社」を結成すると、土居も参加する。明治43年(1910年)、四段となる。 大正2年(1913年)、奥野一香の娘を娶り、独立する。 大正4年(1915年)、坂田三吉が、十二世名人小野五平、柳沢保恵伯爵(愛棋家として知られた)らの援助を受けて八段を許された上で、同じ八段の関根、井上と対戦をするため上京する。関根は健康を理由に参加せず、井上は坂田と一戦して敗れると延期を申し出たため、柳沢の指名で当時六段であった土居が坂田と対戦することになった。その際、香落ちでの対戦を求められたため柳沢に抗議した。柳沢は関根と図った上で土居の七段昇段を認めたという。その後の坂田との香落ち戦に勝利するが、この将棋は「棋譜非公開」と約束させられていたという。 大正6年(1917年)10月8日、師の関根が再び関西より上京した坂田と密かに対局し敗れるという事件が発生する。東京棋界に動揺が走ったが、同年10月16・17日、東京丸の内の「日本倶楽部」で土居は坂田と対戦し勝利、坂田の名人への野望を砕く。同年のうちに土居は八段に昇段する。これより以前、土居は既に「将棋同盟社」八段昇段の資格を得ていたが、同格の立場となることを嫌った師の関根とその支援者により待ったをかけられていた。また『萬朝報』は坂田に敗北した関根の責任を追及し、将棋欄の講評権を関根から土居に移譲させたが、土居がそれを引き受けてしまったことから関根との関係がますます悪化した。結局関根は土居と袂を分かち、新たに「東京将棋倶楽部」を結成することになる。土居は「将棋同盟社」に残存し、同年11月4日に八段への推薦を得ることが出来た。 大正10年(1921年)5月8日に関根が十三世名人を襲位するが、54歳の関根は既に指し盛りを過ぎており、実質的には土居が実力トップであった。この時期を「土居時代」と称することもある。 大正12年(1923年)の関東大震災を受けた棋界再編で、大正13年(1924年)に関根の「東京将棋倶楽部」、大崎熊雄七段の「東京将棋研究会」と合同し、「東京将棋連盟」を結成し初代会長に就任した。 昭和6年(1931年)、文藝春秋社主催の木村義雄との五番勝負で、1勝4敗となり敗れる。 昭和10年(1935年)、実力制名人戦が開始され、第1期リーグに参加。しかし既に指し盛りを過ぎており、木村義雄が第1期名人に就任する。 昭和15年(1940年)、第2期名人戦で好成績をあげて挑戦者となるが、木村義雄に1勝4敗で敗退。土居唯一の勝局となった一戦は「定山渓の決戦」と称されている。 昭和24年(1949年)、引退。 昭和29年(1954年)4月1日、日本将棋連盟から「名誉名人」贈位。 昭和45年(1970年)、勲四等瑞宝章を受ける。東京サンケイホールで盛大な祝賀会を催した。 昭和48年(1973年)2月28日、肺癌のため死去。葬儀は将棋連盟葬として行われた。 順位戦A級通算3期(第1期(1947年度) - 第3期(1949年度))、1932年には日本将棋連盟会長。 土居は実質第一人者であった時代があったこともあり名誉名人が贈られたが、小菅剣之助と同様、実際には名人には就くことはなかった。そのため「名誉名人は名人になっていない者の称号」という認識が生じ、後に名誉名人の称号を打診された升田幸三が「土居名誉名人と同じではいやだ」と言って断り、名人就位経験のある升田のため新たに実力制第四代名人という称号が考案された。 梶は土居の次女と結婚している。 1907年0月0日:入門 1910年0月0日:四段 1911年0月0日:五段 1914年0月0日:六段 1915年0月0日:七段 1917年0月0日:八段 1949年0月0日:引退 1954年4月1日:名誉名人 名人 1回(第2期 - 1940年度) 勲四等瑞宝章(1970年) 将棋界には「亥年うまれの八段以上」という条件で「亥年会」という会があり、一緒に旅行等をしていた。メンバーは土居の他は、大野源一、大山康晴、原田泰夫、加藤博二、広津久雄、有吉道夫、中原誠、桐山清澄、石田和雄ら。 五十嵐豊一『日本将棋大系 第13巻 関根金次郎・土居市太郎』(筑摩書房、1980年)
加藤一二三『日本将棋大系 第14巻 坂田三吉・神田辰之助』(筑摩書房、1979年)
大山康晴『日本将棋大系 第15巻 木村義雄』(筑摩書房、1980年)
東公平『近代将棋のあけぼの』(河出書房新社、1998年) 棋士系統図(日本将棋連盟『将棋ガイドブック』96-99頁 加藤治郎、原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ、1999年。 増山雅人『カラー版 将棋駒の世界』中央公論新社(中公新書)、2006年。 ^ ここでは便宜上、四段昇段日をプロ入り日として扱うが、土居のプロ入り当時は初段昇段時から専門棋士として扱われていたとされる。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった。その頃、奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立されていった。 ^ 1889年に三津浜町が成立したのち、1940年に松山市に編入された。 ^ 奥野一香(おくの いっきょう、本名は奥野藤五郎、1866 - 1921)は、東京市芝区宇田川町で盤駒店「奥野一香商店」を営んでいた駒師だった。 ^ 東公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36 ^ 加藤治郎、原田泰夫、田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220 ^ 増山雅人 2006, pp. 114–117, 名工作品ライブラリー2 奥野一香(おくの いっきょう) ^ “奥野一香作・昭和大興記念・菱湖書”. 名駒集覧. 2017年7月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月23日閲覧。 ^ 加藤治郎、原田泰夫 1999, p. 8 ^ 東公平『近代将棋のあけぼの』河出書房新社 ^ 週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.114 ^ 『近代将棋 1954年5月号「棋界の二長老に贈位 -土居氏に名誉名人・金市に名誉九段-」』国立国会図書館デジタルコレクション、86頁。https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/6046763/1/47。 ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。 ^ 能智映『愉快痛快 棋士365日」(日本将棋連盟)P.153 将棋棋士一覧 名人 名人戦 土居矢倉 - 土居市太郎が得意とした戦法 土居 市太郎 - コトバンク 表 話 編 歴 関根金次郎 (※1938名人退位) 坂田三吉 (※1940引退) 永沢勝雄 (1946引退) 金易二郎 (1947引退) 渡辺東一 (1985引退) 加藤治郎 (1949引退) 奥野基芳 (1949引退) 土居市太郎 (※1949引退) 金子金五郎 (1950引退) 志沢春吉 (1950引退) 北楯修哉 (1951引退) 木村義雄 (1952引退) 中井捨吉 (1952引退) 市川一郎 (1956引退) 吉田六彦 (1956引退) 佐藤豊 (1956引退) 加藤恵三 (1957引退) 畝美与吉 (※1957引退) 増田敏二 (1958引退) 浅沼一 (1958引退) 梶一郎 (1959引退) 荒巻三之 (1959引退) 板谷四郎 (1959引退) 京須行男 (※1960引退) 高島一岐代 (1962引退) 高柳敏夫 (1963引退) 萩原淳 (1964引退) 平野広吉 (1965引退) 山本武雄 (1968引退) 木川貴一 (1968引退) 山川次彦 (1970引退) 津村常吉 (1970引退) 賀集正三 (1970引退) 山田道美 (※1970現役死去) 佐藤庄平 (1971引退) 岡崎史明 (1972引退) 神田鎮雄 (1972引退) 大友昇 (1972引退) 西本馨 (1973引退) 大村和久 (1975引退) 塚田正夫 (1977現役死去) 清野静男 (1977現役死去) 熊谷達人 (1977現役死去) 升田幸三 (1979引退) 大野源一 (1979現役死去) 高田丈資 (1979現役死去) 二見敬三 (1980現役死去) 松下力 (1981引退) 本間爽悦 (1981現役死去) 原田泰夫 (1982引退) 北村秀治郎 (1982現役死去) 灘蓮照 (1984現役死去) 坂口允彦 (1985引退) 角田三男 (1985引退) 松田茂役 (1985引退) 南口繁一 (1985引退) 下平幸男 (1985引退) 橋本三治 (1985引退) 花村元司 (1985現役死去) 山中和正 (1986引退) 星田啓三 (1986引退) 小堀清一 (1987引退) 北村文男 (1987引退) 芹沢博文 (1987現役死去) 廣津久雄 (1988引退) 五十嵐豊一 (1988引退) 板谷進 (1988現役死去) 伊達康夫 (1989引退) 佐瀬勇次 (1990引退) 加藤博二 (1990引退) 二上達也 (1990引退) 大原英二 (1990引退) 木村嘉孝 (1991引退) 木村義徳 (1991引退) 有野芳人 (1991引退) 吉田利勝 (1992引退) 大山康晴 (1992現役死去) 長谷部久雄 (1993引退) 森安秀光 (1993現役死去) 小野敦生 (1993現役死去) 富沢幹雄 (1994引退) 北村昌男 (1994引退) 関屋喜代作 (1994引退) 丸田祐三 (1996引退) 佐藤大五郎 (1996引退) 高島弘光 (1996現役死去) 村山聖 (1998現役死去) 宮坂幸雄 (1999引退) 田辺一郎 (1999引退) 剱持松二 (2000引退) 木下晃 (2000引退) 若松政和 (2000引退) 池田修一 (2000引退) 青木清 (2000引退) 瀬戸博晴 (2000引退) 安恵照剛 (2001引退) 関根茂 (2002引退) 佐伯昌優 (2002引退) 山口英夫 (2002引退) 河口俊彦 (2002引退) 椎橋金司 (2002引退) 山口千嶺 (2003引退) 米長邦雄 (2003引退) 野本虎次 (2003引退) 本間博 (2003引退) 森安正幸 (2004引退) 中田章道 (2004引退) 鈴木輝彦 (2004引退) 西村一義 (2006引退) 酒井順吉 (2006引退) 桜井昇 (2007引退) 桐谷広人 (2007引退) 小野修一 (2007引退) 関浩 (2007引退) 真部一男 (2007現役死去) 達正光 (2007現役死去) 菊地常夫 (2008引退) 加瀬純一 (2008引退) 中原誠 (2009引退) 坪内利幸 (2009引退) 沼春雄 (2009引退) 有吉道夫 (2010引退) 大内延介 (2010引退) 小阪昇 (2010引退) 依田有司 (2010引退) 勝浦修 (2011引退) 飯野健二 (2011引退) 伊藤果 (2011引退) 松浦隆一 (2011引退) 児玉孝一 (2011引退) 神吉宏充 (2011引退) 石田和雄 (2012引退) 櫛田陽一 (2012引退) 滝誠一郎 (2013引退) 武者野勝巳 (2013引退) 植山悦行 (2013引退) 野田敬三 (2013引退) 佐藤義則 (2014引退) 前田祐司 (2014引退) 武市三郎 (2014引退) 大野八一雄 (2014引退) 飯田弘之 (2014引退) 内藤國雄 (2015引退) 田中魁秀 (2015引退) 淡路仁茂 (2015引退) 大島映二 (2015引退) 安西勝一 (2015引退) 熊坂学 (2015引退) 田丸昇 (2016引退) 伊藤能 (2016現役死去) 加藤一二三 (2017引退) 森雞二 (2017引退) 宮田利男 (2017引退) 森信雄 (2017引退) 堀口弘治 (2017引退) 中尾敏之 (2018引退) 高田尚平 (2019引退) 土佐浩司 (2020引退) 伊藤博文 (2020引退) 東和男 (2021引退) 西川慶二 (2021引退) 金沢孝史 (2021引退) 桐山清澄 (2022引退) 小林健二 (2022引退) 田中寅彦 (2022引退) 小林宏 (2022引退) 藤倉勇樹 (2022引退) 石川陽生 (2023引退) 上野裕和 (2023引退) 中田宏樹 (2023現役死去) 青野照市 (2024引退) 室岡克彦 (2024引退) 中座真 (2024引退) 伊奈祐介 (2024引退) 永作芳也 (1988退会) 橋本崇載 (2021引退、2022退会) ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 将棋棋士 勲四等瑞宝章受章者 愛媛県出身の人物 1887年生 1973年没 障害を持つ人物 Pages using the JsonConfig extension 2024/11/23 10:00更新
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doi ichitarou
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