関根金次郎の情報(せきねきんじろう) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
関根 金次郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
関根金次郎と関係のある人
渡辺東一: 関根金次郎十三世名人門下。 原田泰夫: 10歳のころ、13世名人(関根金次郎)の立派な指導対局姿に心を打たれ、棋士を志す。 金易二郎: 関根金次郎十三世名人門下(それ以前は井上義雄八段門下)。 木見金治郎: 関根金次郎十三世名人門下。 木見金治郎: 後の十三世名人関根金次郎に一ひねりされ、将棋の勉強を始める。1914年、家業を捨て東京に出て、関根金次郎門下に入門。 土居市太郎: 関根金次郎十三世名人門下。 金易二郎: 当時は将棋家元制が崩壊してから将棋大成会(日本将棋連盟)が発足するまでの移行期、すなわち将棋界が分裂していた時期に当たり、師匠の井上は当初関根金次郎(後の十三世名人)と共に将棋同盟社を結成していたものの、1910年にこれを脱退して新たに将棋同志会を結成した。 木見金治郎: 1927年5月5日、主宰していた棋正会を関根金次郎名人の東京将棋連盟に合流させ、日本将棋連盟の創立に参加。 山本鉱太郎: 『名人 関根金次郎の生涯』(芝居) 1988/11/20 花田長太郎: 関根金次郎十三世名人門下。 坂田三吉: 1891年(明治24年)頃、関根金次郎(当時三段または四段)と堺の料亭一力で初対決し、惨敗。 土居市太郎: 明治40年(1907年)10月、遊歴中の関根金次郎に見出されて入門する。 渡辺東一: 1918年、渡辺の親戚でもある関根金次郎に入門。 木見金治郎: 関根金次郎の門下だったという資料もあるが、日本将棋連盟の棋士系統図においては関根とは別系統の祖の一人となっている。 坂田三吉: 1907年(明治40年)当時の三人の八段である関根金次郎・井上義雄・小菅剣之助の平手対局が神戸新聞により企画され、「六段」の坂田は神戸で小菅剣之助と対戦(小菅の香落ち)して勝つ。 幸田露伴: 特に将棋は、十二世名人小野五平、十三世名人関根金次郎、十四世名人木村義雄に師事し、更に、将棋史の研究にも励み、雑誌『太陽』に「将棋雑考」「将棋雑話」といった論文を寄稿している。 羽生善治: 羽生の師匠である二上達也、二上の師匠である渡辺東一も会長経験者であり、渡辺の師匠である関根金次郎も現行の日本将棋連盟につながる将棋大成会・(旧)日本将棋連盟の会長経験者であることから、実質師弟四世代で連盟会長の経験者となる。 金子金五郎: 大正6年(1917年)、「将棋同盟社」において土居が師の関根金次郎と仲たがいし将棋界が分裂すると、土居門下の金子は「将棋同盟社」に残存した。 五十嵐豊一: 1939年、関根金次郎十三世名人門下に入門。 |
関根金次郎の情報まとめ
関根 金次郎(せきね きんじろう)さんの誕生日は1868年4月23日です。千葉出身の将棋棋士のようです。
現在、事件、兄弟、脱退、引退に関する情報もありますね。1946年に亡くなられているようです。
関根金次郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)関根 金次郎(せきね きんじろう、1868年4月23日〈慶応4年4月1日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月12日)は、明治から昭和初期の将棋棋士、十三世名人。本来の表記は關根金次郞。八代伊藤宗印及び十二代大橋宗金門下。将棋連盟や実力名人制を創始した。「近代将棋の父」とも称される。 下総国葛飾郡東宝珠花村(現在の千葉県野田市東宝珠花)の生まれ。 1883年(明治16年)_:二段 1888年(明治21年)頃:三段 1891年(明治24年)_:四段 1895年(明治28年)_:五段 1897年(明治30年)_:六段 1905年(明治38年)_:八段準名人 1921年(大正10年)_:名人襲位(十三世名人) 1938年(昭和13年)_:名人退位(1938年2月11日) 1946年(昭和21年)_:死去(享年77) 東宝珠花村で農業と灸点業を営む関根積次郎・たみの次男として生まれる。隣村岡田村の寺子屋に通わせられるが、途中、将棋を指してばかりのため、やめさせられてしまう。次に学校に通わされると、学校では将棋好きの校長先生と指し、村では老人らと指し、一日ごとに強くなる実感を得る。ついには、あまりの強さに村中で相手がいなくなり、宝珠花小僧の異名で呼ばれるようになった。学校に行くふりをして弁当持参で遠くの村にも遠征した。その後、親によって学校に行くのをやめさせられ、奉公に出されるも、将棋を指してばかりで1週間 - 10日ほどで追い出され、奉公先を転々とする。 11歳の春、将棋指しを志して上京し、のちの十一世名人伊藤宗印(当時は名人に襲位前の八段)の門戸をたたき、四枚落ちで指してもらう。いったん郷里が恋しくなり帰郷した後、再び伊藤を訪れたところ、しばらく東京から離れて将棋遊歴(修行の旅)に出ることを勧められ、旅に出る。この旅には数々のエピソードがある(後述)。 その後、1883年(明治16年)に二段、20歳で三段、1891年(明治24年)に四段。明治24年大阪で小林東白斎八段と角落戦でやぶれて発奮し、また、四国、中国、九州と遊歴したのち(関根自身は将棋の勉強のために、全国を三巡したことがあるとのちに言っている)大阪でふたたび対戦し勝利をおさめた。 1893年(明治26年)に師匠の十一世名人伊藤宗印が死去し、家元・伊藤家が断絶すると、名人位は空位となる(大橋分家は既に断絶しており、大橋本家の宗金は棋力が低かった)。 1895年(明治28年)五段、1897年(明治30年)六段。 1898年(明治31年)、政界などの後押しを受けた小野五平が家元を継ぐことなく十二世名人を襲位。その名人披露の招待状が来なかったことに怒った関根は、小野に挑戦状を送るが、芳川顕正らが間に立ち、和解。のちに関根は「生涯の一大過失」と反省している。 同1898年、残された唯一の家元である大橋宗金の門下となり(七段)、さらに入門希望者を次々と取り次いで大橋家に入門させた。この後、明治期末には宗金の嫡子である大橋五郎と関根との間で、関根が段位を審査して、それに基づいて大橋家が免状を発行するという契約が交わされており、実質的に関根が将棋家元・大橋家を掌握するに至った。 1905年(明治38年)八段準名人。 1907年(明治40年)、当時の3人の八段である、関根・井上義雄・小菅剣之助の平手対局が神戸新聞により企画され、関根は井上に3勝1敗とする。小菅とは対局しないまま、小菅が地元の三重に戻ってしまい、関根が三重を訪れて小菅と対局するが、手合いの話がつかず、互いに香落ちとする二番勝負を八日市で戦うが関根が連敗、さらに名古屋で香落ち下手番で戦うがこれにも関根は敗れる。 1909年(明治42年)、「万朝報」記者の三木愛花の斡旋で将棋同盟会(のち将棋同盟社)を結成。 1917年(大正6年)、関西より上京した坂田三吉(阪田三吉)と密かに対局し敗れるという事件が発生し、『萬朝報』は坂田に敗北した関根の責任を追及。将棋欄の講評権を関根から、関根の弟子の土居市太郎に移譲させる。また同1917年、土居の八段昇段をめぐって対立し、関根は「将棋同盟社」を退会することとなり、1918年(大正7年)、東京将棋倶楽部を結成した。 ライバル坂田三吉とは1894年(明治27年)に初手合わせを行い(初手合わせは1891年〈明治24年〉頃という説もある)、3度戦って関根の2勝1敗。最後の対局(1918年(大正7年))までに生涯32局戦い、関根の15勝16敗1分だった。対戦後期は坂田に対して分が悪くなっていたが、弟子の土居市太郎七段が1917年(大正6年)に坂田を平手で破っていたこともあり、また、兄弟子の小菅が名人襲位を断るなどの紆余曲折も経て、小野十二世名人が1921年(大正10年)1月29日に逝去すると、関根を含めた関係者が同年2月4日に集い、関根を次期名人に推挙することを決定、関根は53歳で十三世名人を襲位し同年5月8日に名人披露将棋会が執り行われた。 1924年(大正13年)9月8日には、東京で専門棋士を擁していた東京将棋倶楽部(関根派)・将棋同盟社(土居市太郎八段派)・将棋研究会(大崎熊雄七段派)の三派を合同させて東京将棋連盟を結成。関根自らは名誉会長に就任し、弟子の土居を会長に就任させた。 1927年(昭和2年)、東京将棋連盟に木見金治郎が主催する関西の「棋正会」が合流し、日本将棋連盟になると、会長に就任した。 小野五平が91歳までの長寿であったため、関根が名人の座に就いたのは、すでに盛りを過ぎていた頃であった。そこで、将棋連盟顧問の中島富治が実力による短期名人制を発案し、東京日日新聞の阿部眞之助と企画を進め、関根自身も英断を行う。弟子の金易二郎(当時八段)を将棋連盟の会長とし、金は1935年3月26日付けで「三百年伝統の一世名人の制を廃す」(抜粋)との発表。同日付で関根も「中島富治を通じて辞任を申し出たところ了承され、昭和12年(1937年)70歳をもって名人位を退くことにしてくれた」(抜粋)との声明を発表した。これにより、1935年から実力制の名人戦(第1期名人戦)が始まる。 ところが、第1期名人戦の途中(1935年)、神田辰之助七段(当時)の八段昇段問題が引き金となり、棋界の分裂騒動(神田事件)が起こる。神田を支持する棋士が脱退し、反対派と中立派が連盟に残った。多くの弟子・孫弟子達も絡んだいさかいに心を痛めた関根は、四日市に住む兄弟子・小菅剣之助(元棋士・実業家)のもとを訪れ、仲裁を懇願。翌1936年、小菅と関根が「将棋大成会」と名づけた会に神田一派も加わって大同団結し、関根は会長に就任、神田も加えて名人決定戦が続行されることとなった。 弟子の木村義雄が、1937年12月に第1期名人戦に優勝し、1938年2月11日に初代の実力制名人に就位したのを見届けた(同時に関根は名人を退位した)。 晩年は視力を失ってしまい、医者にも「回復の見込みなし」と診断され、失意の中で過ごしたと言われる。戦中に郷里東宝珠花の実家に戻った。1946年3月に死去、享年77。実家隣の共同墓地に埋葬されたが、墓碑は将棋の駒を模した"駒形"をなしている。 出身地である千葉県野田市の複合施設「いちいのホール」(旧関宿町役場庁舎を改装)5階には「関根名人記念館」がある(2004年4月1日開館)。 近代将棋界の確立者と同時に、その黎明期において数多くの弟子を育て日本将棋連盟公式サイトの棋士系統図において系譜の起点の一人となっている。 弟子の数では木見金治郎には及ばないものの、後の日本将棋連盟に連なる直弟子としては土居市太郎や木村義雄を筆頭に8人を輩出している。また、その直弟子らも数多くのプロ棋士を輩出しており(福井を除いてすべてプロ入りした弟子を持ち、また福井自身も北海道出身のプロ棋士育成に尽力した)、孫弟子にも名伯楽として知られる高柳敏夫や花村元司がいるなど、現代の将棋界において関根門下の系譜が最大の数を誇る。タイトルホルダーも数多く輩出しており、名人経験者だけでも、実力制第一代名人となる木村以降、塚田正夫、中原誠、加藤一二三、羽生善治、森内俊之、藤井聡太がいる。 なお、将棋遊歴の時期に木見と出会い、負かされた木見が関根に入門して弟子となったという資料が存在するが、日本将棋連盟公式サイトの棋士系統図においては木見は関根の弟子とはされていない。 土居市太郎(名誉名人) 金易二郎 花田長太郎 小泉雅信 木村義雄(十四世名人) 渡辺東一 福井資明 五十嵐豊一 小林東白斎(当時八段半の段位を持つ、大阪の名人)と対局し明らかな負け将棋となり、相手の善意で「この将棋を指し掛け(これ以上指さないで引き分けにする)にしてはどうだろう」と持ちかけられた時にわざわざそれをはねのけ、完膚なきまでに負かされる。 残っている写真からもうかがえるように、若いときから見目麗しい美男子であり、大変女性にもてた。本人もそれなりに女好きだったようで、指導将棋で謝礼を渡される時に「そんなことより、女をひとつ」とおどけて言ったこともあるという。 プロになってからは、金銭に執着がなく、無欲だった。指導将棋の謝礼(当時としてはかなりの高額である)をみんな周りにくれてやって帰ったことも1度や2度ではなかったという。この点は、ライバルと言われた坂田三吉と同じであった。 弟子に対しては慈愛をもって接し、小手先の勝敗にこだわらなかった。関根の最後の弟子である五十嵐豊一は、「奨励会でなかなか昇段できなくて、成績を報告しに行く時にいつ田舎に帰れ、と言われるかとびくびくしていたけど、関根先生はどんな時でも、顔色一つ変えずに『負けろ負けろ』と励ましてくれて、小遣いをくれたりした」と奨励会当時を述懐している。 若い頃武術の鍛錬もしており(明治時代の将棋の対局は、時に命懸けの真剣勝負となることもあったため)、無念流の使い手であった。名のある師匠についたことはないが、将棋の修行のために全国を遊歴した際も、それぞれの地で剣術修行をしたという。 また、やはり若い頃、浅草西鳥越町にあった中村座に、たまたまの役者不足のために出演したことがきっかけで芝居に熱中し、将棋修行での地方遊歴先で、女形専門(関根は、掌が小さかったため女形に向いていた)で役者をつとめた。また博徒の修行もし、清水次郎長の世話になったこともあるという。 1904年(明治37年)12月14日の萬朝報紙上に、「新題旅順陥落詰め」と題する265手詰の詰将棋を発表したが、この作品は九代大橋宗桂の「将棋舞玉(1786年)」第51番の盗作であった。また同誌上に日露戦争戦勝記念として発表した曲詰め「艦影」も添田宗太夫の「将棋秘曲集」第100番「船」の盗作だった。 囲碁の名人だった本因坊秀哉と非常に仲がよく、親友関係だった。 将棋遊歴をしていた際、以下のような経験をしている(本人談)。 石川友次郎(後に35歳で死去)を追って北関東を探し回った後、木更津でついに再会。そして、関根を追っていた村社浅吉も木更津で合流。三日三晩将棋を指し続け、頬が落ちて目がギラギラしたため、宿の人達が気味悪がって近寄らなかった。 熊本で人混みの中を歩いていたとき、懐にしまっていた修行の棋譜とお金少々をスリにすられた。同じく熊本で、熱病にかかって医者にかかっても治らないことに癇癪を起こし、宿の池に飛び込んで浸かり水もがぶ飲みしたところ、翌日から回復した。 新潟から山形に小さい船で向かった際、大しけが何日も続き、他の乗船者達が念仏を唱えたとき、駒と本を腹に巻きつけて転覆に備えた。その後、観念すると、今度は駒を磨き始めた。 碓氷峠で膝の高さまで雪が積もっていて、人に止められたのを聞かずに一人で歩き倒れそうになったところを助けられた。 白河で歩いている途中、道端で倒れたが、夜露で目が覚めたところ、運良くそこが瓜畑であったため、空腹を逃れることができた。 一文無しで空腹を抱えて川越の出外れを歩いていたところ、古道具屋を発見。中に入って交渉した結果、「買おう。何か売るものはないか(=めぐむのではない、何か差し出せば買って金を出してやるぞ)」と店主に提案される。売るものなどなかった関根は、その場で身につけていたふんどしを外し店主に渡して、代金として天保銭1枚を貰った。その金で焼き芋を買って食べ、人情に涙した。「将棋ではめったに負けたことはなかったが、この主人には負けた。今でもよくこの主人のことを思い出す」と後に述懐している。 名勝負の解説(囲碁将棋チャンネル、解説:所司和晴 聞き手:上川香織)
「心の友と最後の対局」京都の棋友との一局 関根金次郎七段 vs 石川友次郎七段 対局日:1899年8月16日 「決断の1三歩」対坂田 「香香角」三番勝負 第1局 関根金次郎七段 香落ち vs 坂田三吉四段格 対局日:1903年3月20日 「受けの真髄」準名人対局 第2局 関根金次郎八段 vs 井上義雄八段 1907年10月21日 「受けて攻める」準名人対局 第4局 関根金次郎八段 vs 井上義雄八段 1907年10月27日 対小菅 「香相引き」三番勝負 第3局 関根金次郎八段 vs 小菅剣之助八段 香落ち 1907年12月1日 「攻防の6八桂」対坂田 「香角香」三番勝負 第1局 関根金次郎八段 香落ち vs 坂田三吉六段 1908年9月 「最初の平手戦」対坂田 「一番手直り」の平手戦 関根金次郎八段 vs 坂田三吉七段 1913年4月13日 「最後の右香車落戦」名人継承の儀式将棋 関根金次郎八段 vs 小野五平12世名人 右香車落 1917年 「新名人との祝賀対局」 関根金次郎13世名人 vs 木村義雄名人 対局日:1938年5月 ^ ここで言う「一世名人」とは、死去するまで名人という意。 ^ 「関根金次郎」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』2014年 ^ 「地方の時代満一歳 1981 房総まちむら検診 東葛飾郡関宿町(上)」1981年3月2日付千葉日報京葉東葛版 ^ 山本武雄『改定新版 将棋百年(第1章)』時事通信社/国立国会図書館デジタルコレクション、1976年、5-42頁。 ^ 野田市観光協会「関根名人記念館」『観光野田市』(2015年3月15日時点のアーカイブ) ^ 岡本嗣郎『9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝』(1997年、集英社) ^ 増川宏一「ここまで分かった!将棋の歴史」将棋世界2015年12月号。将棋史研究者の増川は、家元の名を借りて実質的な関根の弟子を集めたのだろうと推定している。 ^ 週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.49-50 ^ 週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.50 ^ 内藤国雄『阪田三吉名局集』(講談社)P.21 ^ 「日本将棋の歴史(7)|将棋の歴史」『日本将棋連盟』。 ^ 当日集まった関係者は関根のほか、土居市太郎八段、竹内八段、金易二郎七段、矢島七段、三木、佐藤。ほかに、坂田三吉八段、大崎熊雄七段両名の代表として朝日新聞社の将棋記者の桑島俊が、他有段者十数名が参加。。 ^ 山本武雄『改定新版 将棋百年』(1976年、時事通信社)第3章 ^ 日本将棋連盟「棋士系統図」 ^ 越智信義編『将棋随筆名作集』(三一書房)収録の「関根名人昔語り」(菅谷北斗星著) ^ 二上達也、福田稔『名作詰将棋』有紀書房、1987年3月、ISBN 4-638-07228-3 p158 名人 (将棋) 名人戦 (将棋) 順位戦 将棋棋士一覧 関根金次郎:作家別作品リスト - 青空文庫 表 話 編 歴 関根金次郎 (※1938名人退位) 坂田三吉 (※1940引退) 永沢勝雄 (1946引退) 金易二郎 (1947引退) 渡辺東一 (1985引退) 加藤治郎 (1949引退) 奥野基芳 (1949引退) 土居市太郎 (※1949引退) 金子金五郎 (1950引退) 志沢春吉 (1950引退) 北楯修哉 (1951引退) 木村義雄 (1952引退) 中井捨吉 (1952引退) 市川一郎 (1956引退) 吉田六彦 (1956引退) 佐藤豊 (1956引退) 加藤恵三 (1957引退) 畝美与吉 (※1957引退) 増田敏二 (1958引退) 浅沼一 (1958引退) 梶一郎 (1959引退) 荒巻三之 (1959引退) 板谷四郎 (1959引退) 京須行男 (※1960引退) 高島一岐代 (1962引退) 高柳敏夫 (1963引退) 萩原淳 (1964引退) 平野広吉 (1965引退) 山本武雄 (1968引退) 木川貴一 (1968引退) 山川次彦 (1970引退) 津村常吉 (1970引退) 賀集正三 (1970引退) 山田道美 (※1970現役死去) 佐藤庄平 (1971引退) 岡崎史明 (1972引退) 神田鎮雄 (1972引退) 大友昇 (1972引退) 西本馨 (1973引退) 大村和久 (1975引退) 塚田正夫 (1977現役死去) 清野静男 (1977現役死去) 熊谷達人 (1977現役死去) 升田幸三 (1979引退) 大野源一 (1979現役死去) 高田丈資 (1979現役死去) 二見敬三 (1980現役死去) 松下力 (1981引退) 本間爽悦 (1981現役死去) 原田泰夫 (1982引退) 北村秀治郎 (1982現役死去) 灘蓮照 (1984現役死去) 坂口允彦 (1985引退) 角田三男 (1985引退) 松田茂役 (1985引退) 南口繁一 (1985引退) 下平幸男 (1985引退) 橋本三治 (1985引退) 花村元司 (1985現役死去) 山中和正 (1986引退) 星田啓三 (1986引退) 小堀清一 (1987引退) 北村文男 (1987引退) 芹沢博文 (1987現役死去) 廣津久雄 (1988引退) 五十嵐豊一 (1988引退) 板谷進 (1988現役死去) 伊達康夫 (1989引退) 佐瀬勇次 (1990引退) 加藤博二 (1990引退) 二上達也 (1990引退) 大原英二 (1990引退) 木村嘉孝 (1991引退) 木村義徳 (1991引退) 有野芳人 (1991引退) 吉田利勝 (1992引退) 大山康晴 (1992現役死去) 長谷部久雄 (1993引退) 森安秀光 (1993現役死去) 小野敦生 (1993現役死去) 富沢幹雄 (1994引退) 北村昌男 (1994引退) 関屋喜代作 (1994引退) 丸田祐三 (1996引退) 佐藤大五郎 (1996引退) 高島弘光 (1996現役死去) 村山聖 (1998現役死去) 宮坂幸雄 (1999引退) 田辺一郎 (1999引退) 剱持松二 (2000引退) 木下晃 (2000引退) 若松政和 (2000引退) 池田修一 (2000引退) 青木清 (2000引退) 瀬戸博晴 (2000引退) 安恵照剛 (2001引退) 関根茂 (2002引退) 佐伯昌優 (2002引退) 山口英夫 (2002引退) 河口俊彦 (2002引退) 椎橋金司 (2002引退) 山口千嶺 (2003引退) 米長邦雄 (2003引退) 野本虎次 (2003引退) 本間博 (2003引退) 森安正幸 (2004引退) 中田章道 (2004引退) 鈴木輝彦 (2004引退) 西村一義 (2006引退) 酒井順吉 (2006引退) 桜井昇 (2007引退) 桐谷広人 (2007引退) 小野修一 (2007引退) 関浩 (2007引退) 真部一男 (2007現役死去) 達正光 (2007現役死去) 菊地常夫 (2008引退) 加瀬純一 (2008引退) 中原誠 (2009引退) 坪内利幸 (2009引退) 沼春雄 (2009引退) 有吉道夫 (2010引退) 大内延介 (2010引退) 小阪昇 (2010引退) 依田有司 (2010引退) 勝浦修 (2011引退) 飯野健二 (2011引退) 伊藤果 (2011引退) 松浦隆一 (2011引退) 児玉孝一 (2011引退) 神吉宏充 (2011引退) 石田和雄 (2012引退) 櫛田陽一 (2012引退) 滝誠一郎 (2013引退) 武者野勝巳 (2013引退) 植山悦行 (2013引退) 野田敬三 (2013引退) 佐藤義則 (2014引退) 前田祐司 (2014引退) 武市三郎 (2014引退) 大野八一雄 (2014引退) 飯田弘之 (2014引退) 内藤國雄 (2015引退) 田中魁秀 (2015引退) 淡路仁茂 (2015引退) 大島映二 (2015引退) 安西勝一 (2015引退) 熊坂学 (2015引退) 田丸昇 (2016引退) 伊藤能 (2016現役死去) 加藤一二三 (2017引退) 森雞二 (2017引退) 宮田利男 (2017引退) 森信雄 (2017引退) 堀口弘治 (2017引退) 中尾敏之 (2018引退) 高田尚平 (2019引退) 土佐浩司 (2020引退) 伊藤博文 (2020引退) 東和男 (2021引退) 西川慶二 (2021引退) 金沢孝史 (2021引退) 桐山清澄 (2022引退) 小林健二 (2022引退) 田中寅彦 (2022引退) 小林宏 (2022引退) 藤倉勇樹 (2022引退) 石川陽生 (2023引退) 上野裕和 (2023引退) 中田宏樹 (2023現役死去) 青野照市 (2024引退) 室岡克彦 (2024引退) 中座真 (2024引退) 伊奈祐介 (2024引退) 永作芳也 (1988退会) 橋本崇載 (2021引退、2022退会) 表 話 編 歴 一世名人 初代大橋宗桂 二世名人 二代大橋宗古 三世名人 初代伊藤宗看 四世名人 五代大橋宗桂 五世名人 二代伊藤宗印 六世名人 三代大橋宗与 七世名人 三代伊藤宗看 八世名人 九代大橋宗桂 九世名人 六代大橋宗英 十世名人 六代伊藤宗看 十一世名人 八代伊藤宗印 十二世名人 小野五平 十三世名人 関根金次郎 十四世名人 木村義雄 十五世名人 大山康晴 十六世名人 中原誠 十七世名人 谷川浩司 ※十八世名人 森内俊之 ※十九世名人 羽生善治 ISNI VIAF WorldCat 日本 名人 (将棋) 将棋棋士 1868年生 1946年没 千葉県出身の人物 Pages using the JsonConfig extension ISBNマジックリンクを使用しているページ 2024/11/21 20:43更新
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