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米長邦雄の情報 (よねながくにお)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

米長邦雄の情報(よねながくにお) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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米長 邦雄さんについて調べます

■名前・氏名
米長 邦雄
(読み:よねなが くにお)
■職業
将棋棋士
■米長邦雄の誕生日・生年月日
1943年6月10日
未年(ひつじ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
山梨出身

(昭和18年)1943年生まれの人の年齢早見表

米長邦雄と同じ1943年生まれの有名人・芸能人

米長邦雄と同じ6月10日生まれの有名人・芸能人

米長邦雄と同じ出身地山梨県生まれの有名人・芸能人


米長邦雄と関係のある人

山口瞳: だが、晩年には、山口英夫や将棋連盟の米長邦雄との間にトラブルが起きたことや、将棋界の保守的な体質に対して不信感を抱いたこともあり、将棋界との交流を絶った。


二上達也: 1980年度後期の第37期棋聖戦で米長邦雄を破り、14年半ぶりにタイトル獲得。


桐山清澄: 1984年度、棋王戦五番勝負で米長邦雄四冠王を3-1で破り、初のタイトル獲得。


関屋喜代作: なお、もう一人の昇級者は、同じく10勝2敗の米長邦雄(関屋の10歳下)であった。


武者野勝巳: 2005年5月、武者野が監修した将棋ソフトの著作権を侵害されたとして、米長邦雄およびソフトウェア製作会社「サクセス」らに対して約4100万円の損害賠償を求めた訴訟を起こした。武者野が社長を務めるソフトウェア会社「棋泉」が2000年に製作し、大部分の著作権を保持している『米長邦雄の将棋セミナー21』と、「サクセス」社が2002年に製作した『みんなの将棋』とに類似が見られ、『みんなの将棋』の開発に米長が関与していたことから、両者を訴えたものである。


水野成夫: 棋聖位を7期獲得し、永世棋聖の称号を持つ米長邦雄によると、水野が棋聖戦を一日指し切り制にしたのは、体力面に問題があり、二日制のタイトル戦で思うような成績を残せなくなっていた升田に、何としてもタイトルを取らせたかったからだという。


芹澤博文: また一門は違ったものの、米長邦雄も奨励会時代から芹沢に可愛がられていた。


米長晴信: 叔父は日本将棋連盟元会長で永世棋聖の米長邦雄


田丸昇: このとき、兄弟子である米長邦雄からは高校進学をアドバイスされたが、結局は師匠の意向もあって、高校進学はしなかった。


大山康晴: 同じく米長邦雄は、大山将棋の神髄は受けにあり、守りの要となる金の使い方の巧みさでは並ぶ者がない、と評している。


土佐浩司: リーグ戦では残留はならなかったものの、米長邦雄・大山康晴・有吉道夫を敗り3勝7敗と健闘した。


森安秀光: 翌1985年の第43期の名人戦挑戦者決定リーグ(順位戦A級)最終局では、勝てばプレーオフ進出だったが、挑戦・降級ともに関係なかった米長邦雄に『米長哲学』を喰らい完敗。


田中魁秀: (1980年度、リーグの結果は勝浦修及び米長邦雄に1勝ずつ挙げたのみで陥落。


佐藤康光: いろは坂事件の際は1995年1月で当時25歳の若気の至りもあり青年でワイルド(野性的)で猪突猛進であったが、それからわずか10年強の2006年に、米長邦雄会長(当時)の将棋ソフトとの対戦打診を断った際は達観して熟考した上に断っているほど変化が大きい。


内藤國雄: 1973年度後期の棋聖戦(第23期棋聖戦)では、米長邦雄を相手に2連敗から3連勝でタイトル奪取。


島朗: 1988年度の第1期竜王戦で米長邦雄に4-0のストレート勝ちし、初代竜王に輝く。


児玉孝一: 本戦では2回戦で田中寅彦を破るが、3回戦で米長邦雄(この回に優勝)に敗れる。


杉本昌隆: 2001年、第20回朝日オープン将棋選手権で、米長邦雄、森内俊之、中原誠らを破り、決勝進出。


大内延介: 1963年4月1日の四段昇段(プロ入り)は、同じ中大の後輩である米長邦雄と同期である。


島朗: 島が名付けたのではないが、米長邦雄が各方面で言及した結果、定着した。


中原誠: 1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、米長邦雄と6度目の名人戦となったが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失う。


佐伯昌優: 1962年、第6回古豪新鋭戦で米長邦雄(三段)に勝ち決勝進出するが、大内延介(三段)に敗れて準優勝。


丸山忠久: 兄弟子の米長邦雄は、「丸ちゃん」と呼んでいた。


加藤一二三: 大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖を相手に、それぞれ100回以上対局している(百番指し)。


大野源一: 1969年のB級1組順位戦最終局でA級昇級(復帰)をかけて米長邦雄と対局する。


丸山忠久: 渡辺明と戦った決勝戦は序中盤から目まぐるしい展開となり、解説の米長邦雄と聞き手の千葉涼子の話も弾んだ。


木村一基: このとき、兄弟子の米長邦雄は、自身のネット掲示板で実況中継を行っていたが、局後、「この将棋は木村君の会心譜となるはずでした。


来生たかお: 東久留米の将棋クラブに所属し、米長邦雄や田丸昇等と対戦したこともあった。


米長晴信: この選挙では叔父である米長邦雄が選挙対策本部の特別顧問を務めている。


有吉道夫: また、第27期(1977年度)王将リーグでは、米長邦雄、加藤一二三らに勝ち、6勝1敗で挑戦権を得るが、中原王将に2勝4敗で、またも敗退。


米長邦雄の情報まとめ

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米長 邦雄(よねなが くにお)さんの誕生日は1943年6月10日です。山梨出身の将棋棋士のようです。

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人物、棋風などについてまとめました。引退、趣味、テレビ、兄弟、父親、家族、母親、卒業に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

米長邦雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

米長 邦雄(よねなが くにお、1943年(昭和18年)6月10日 - 2012年(平成24年)12月18日)は、将棋棋士。タイトル獲得数19期は歴代7位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段(日本棋院から追贈)。2003年(平成15年)12月、引退。日本将棋連盟会長(2005年(平成17年) - 2012年(平成24年))。

2003年(平成15年)11月、紫綬褒章受章。2013年(平成25年)1月、旭日小綬章受章(没後叙勲)。

北陸先端科学技術大学院大学特任教授(2011年(平成23年)10月1日 - 2012年(平成24年)9月30日)。 日本財団評議員(2011年(平成23年)4月 - 2012年(平成24年)12月)。財団法人JKA評議員(本来の任期満了予定日は2013年(平成25年)3月31日であったが、死去により死去日をもって自動的に退任した)。日本テレビ番組審議会委員。ニッポン放送番組審議会委員。東京都教育委員(1999年(平成11年)12月 - 2007年(平成19年)12月)などを歴任。

肩書、タイトルはいずれも当時。

山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)出身。増穂村の米長家は元々地主の家系であったが、第二次世界大戦後の農地解放により土地を失った。「将棋を覚えたのは弟が小学生に上がるころで、四人兄弟が二組に分かれ、暇さえあれば将棋を指していました。しばらくすると三男が四男の邦雄に負け、さらに二男の私も勝てなくなりました。」と次兄の修が語っている。当時たばこ屋を営んでいた米長家の生活は、父親が肺結核を患っていたこともあって非常に困窮しており、当初は子供たちは全員高校進学せずに奉公に出す方針だった。

小学校3年の頃、周囲の大人達を負かすようになる。小学校6年の頃、師匠となる佐瀬勇次が米長の生家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めた。そのとき佐瀬が両親に言った言葉は、「息子さん(米長)は名人になれるかわからないが、八段にはなれます」であったという。「小学六年の時、山梨県の将棋大会で初段以下の部で優勝しました。翌日佐瀬七段というプロと、アマ有力者が我が家に来て、この子は将棋の才能が素晴らしい、中学になるとき内弟子になってプロを目指してもらいたい、経済的には一切面倒を見ると言われました。両親は将棋界の知識はありませんでしたが、最後の一言が決め手になり承諾しました。つまり、弟が将棋の世界に入ったのは口減らしのためだったのです。」とは次兄の修の談。こうして米長は佐瀬の元で修行するために、東京へ転居することとなった。

北区立十条中学校、東京都立鷺宮高等学校を経て、中央大学経済学部に入学するも、4年次3月(年度末)退学。

佐瀬は高校進学に反対したが、米長は「一日五時間六時間もぶっ通しで勉強するようなそういう勉強法だからあなたは七段止まりなんだ」「あなたの考えた勉強法では、あなた止まりになってしまう」と大喧嘩になった。

プロ入りしたのは1963年(昭和38年)で、ちょうど大山康晴が五冠独占を続けていた時代に当たる。A級昇級は1971年(昭和46年)、初タイトルは1973年(昭和48年)の第22期棋聖戦で、それぞれ数え年で28歳、30歳の時と、超一流と呼ばれる棋士の中では出世は遅い方であった。

1970年(昭和45年)、王位戦で大山康晴に挑戦。これがタイトル初挑戦である。これを含め、大山とのタイトル戦で4連続奪取失敗をする。大山からのタイトル初奪取は、1983年(昭和58年)の1982年度・第32期王将戦まで待つこととなる。

1973年(昭和48年)、第22期棋聖戦で有吉道夫を破り、初のタイトル獲得。最終局の終盤、劣勢の中でトン死の筋(金を取りながら詰めろ馬取り)で大逆転。米長曰く「対局相手の有吉さんは、トン死の筋に気づいた時30センチくらい飛び上がった」という。

中原誠は、大山以上の天敵であった。1973年度の王将戦に始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てなかった。

2年連続で中原王将への挑戦者となった1975年(昭和50年)の1974年度・第24期王将戦では、七番勝負開幕前のインタビューで「第一局では中原王将(当時)があっと驚く奇策を考えている」と発言。その言葉通り、先手番となった第一局では三手目に▲8六歩と突く角頭歩戦法を見せるが、後手番の中原誠は冷静に△4四歩と応対。角頭歩戦法の肝とも言える角交換を封じられた米長はいいところなく敗れ、以後角頭歩戦法を公式戦で用いる事はなかった。一方の七番勝負も3勝4敗と、第一局での敗戦が最後まで影響する結果となった。ちなみに中原誠は、この時の七番勝負第七局(最終局)を「米長さんとの最も印象に残っている一局」として挙げている。中原誠曰く「タイトル戦七番勝負の第七局で、双方残り一分の秒読みになったのは、後にも先にもこの時以外記憶にない」からである。

中原への8度目の挑戦となった1979年度・第20期王位戦はフルセットの戦いとなり、最終局での千日手指し直しの戦いの末に奪取。ようやく中原に一矢を報いた。

1984年度、中原誠と十段戦七番勝負を戦う。フルセットで迎えた最終局(1985年1月)に勝利し奪取。史上3人目の四冠王となり、7つのタイトルのうちの過半数を占めた。俗に「世界一将棋の強い男」とも称された。しかし、名人位にだけはなかなか手が届かなかった。

この1980年代前半に米長と最も多く対局したのは中原誠ではなく、振り飛車の雄・森安秀光であった。A級順位戦やタイトル戦などでの森安との激闘は居飛車対振り飛車、特に居飛車急戦の戦術発展に大きく寄与した。その一例が1985年3月の第42期A級順位戦最終局であるこの一局、森安が勝てば6勝2敗となり、最終局が抜け番だった中原王将(当時)(同じく6勝2敗)に並び、プレーオフとなるところだった。一方の米長は勝っても負けても名人挑戦や降級には関係ない一番だった。この対局で新手を放ち勝利する。米長哲学を実践した一例とされる。

米長は、早指しの棋戦でも力を発揮した。早指し将棋選手権で、1974・1977・1979・1980年度に優勝、日本シリーズでは、1980・1984・1986年度に優勝、NHK杯戦でも1978年度に優勝した。また、公式戦ではないが、決勝戦が持ち時間15分・1分の考慮時間10回の富士通杯達人戦でも、歴代2位タイとなる4度の優勝を果たしている。

横歩取り戦法が流行していた頃、1990年(平成2年)の1989年度・第39期王将戦で挑戦者となった時に、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、南芳一王将(当時)を挑発した。この時は弟子の中川大輔四段(当時)のアパートに通い、南対策を教わったと自身の著書で書いている。南は対局で横歩を取った。この七番勝負は4-3で米長が王将位を奪取、うち2局が横歩取りとなり、1勝1敗であった。しかし翌年1991年(平成3年)の1990年度・第40期王将戦で挑戦者となった南に2-4で敗れ防衛に失敗する。

1993年(平成5年)、第51期名人戦で7度目の挑戦者となり、中原名人をストレートで降して初の名人位を獲得した。49歳11か月での獲得、50歳での在位(50歳名人)は、2022年度名人戦終了時点で史上最年長記録である。新宿の京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2,000人を超える異例の人数の参加があった。会場には新たにA級に昇級した羽生善治もおり、席上で米長は羽生を指して「私個人のことになりますけれども、来年アレが出てくるのではあるまいか」とスピーチした。その予言通り、翌年の第52期名人戦は、A級1年目にして名人挑戦を果たした羽生に2勝4敗で破れ、防衛に失敗する。以降は各棋戦の本戦に顔を見せることはあっても、タイトルを獲得することはなく、挑戦者になることもなかった。

1994年、通算1,000勝を達成して特別将棋栄誉賞を受ける。

1998年(平成10年)、第56期順位戦で4勝5敗の成績ながらリーグ表順位の差で、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。B級1組で指す道を選択せず、フリークラス宣言をして順位戦から撤退し、名人挑戦の可能性を残す道を自ら断った。

1998年5月22日、日本将棋連盟の棋士総会において、米長が「永世棋聖」を現役のまま就位することが、同日付で認められる。

2003年(平成15年)4月、記者会見を開き、勝ち残った棋戦のみ指し続け、すべて負けた場合に引退届を提出することを予告する異例の表明を行なった。当時59歳(実際の引退時は60歳)の米長の立場では規定により65歳が定年であったが、これを約5年早めるものであった。各棋戦の予選で敗退を重ねていく中で第53期王将戦は、予選で2人のA級棋士(三浦弘行・藤井猛)を破り、60歳で挑戦者決定リーグの参加を果たす。しかし、初戦から3連敗を喫して挑戦権争いから脱落することが確定し、4回戦の前日に改めてリーグ終了後に引退届を提出することを宣言した。翌日の対局は、佐藤康光棋聖が相手であったが、佐藤は米長に敬意を払い和服(羽織袴)を着用して下座に着いていた(本来はタイトル保持者の佐藤が上座)。朝、対局室でこれを知ったスーツ姿の米長は、すぐに自身の事務所に連絡して和服を取り寄せ、午後から和服姿で対局した。第5局は森内俊之竜王であり、森内もまた先に対局室入りすると和服を着用して下座に着いていた。事前に察していた米長も今回は最初から和服を用意しており、森内に上座に座るよう勧めたが、森内の意思が堅いと知ると諦め、その代わりに玉将を自玉として森内に敬意を表した(本来は上座が王将、下座が玉将)。12月12日、最後の公式対局となった第6局の相手は郷田真隆であり、同じく共に和服での対局となった。当日は、羽生名人と森内竜王の事前の提案で、特別対局室で行うこととなり、後手番の米長が力戦形に持ち込む難解な終盤戦となったが、郷田が勝利した。感想戦後には花束が送られるなどし、最後に報道陣に「これから新しい人生のスタートです。応援してください」と言って対局室を去った。

予告通り12月17日に引退届を提出し、約40年の棋士生活を終えた。ただし、連盟の専務理事として運営には関与を続け、2005年には連盟会長に着任して死去する2013年まで同職を務めた。

2003年(平成15年)、中原誠が会長になったのを受けて、日本将棋連盟の専務理事に就任。そして、2005年(平成17年) 中原誠の後を受け、日本将棋連盟会長に就任。名人戦の朝日新聞と毎日新聞による共催実現、瀬川晶司のプロ入り試験実現、日本女子プロ将棋協会(LPSA)の独立問題への対応など、個々の事例については批判もあるが、一定の実績を残している。

また、将棋連盟の赤字体質改善のため、多くのリストラを行ったが、関西本部にあった「将棋博物館」を2006年(平成18年)に閉鎖し、収蔵品を大阪商業大学アミューズメント産業研究所に譲渡したことについては木村義雄十四世名人の娘などから批判を受けた。

将棋連盟会長となって以降も、自身のサイトからの情報発信に加え、前述の『正論』や中日スポーツ・東京中日スポーツの連載コラム「セブンデイズ」など個人の立場での寄稿を継続している。日本将棋連盟のホームページでは笑顔でWピースの写真を役員紹介の写真に採用している。

1976年、米長は池袋東武百貨店のイベントでコンピュータ将棋との公開対局を行った。これがコンピュータ将棋初の対プロ戦であり、もちろん当時のコンピュータ将棋は非常に弱かったため圧勝した。

それから数十年、「米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ将棋電王戦」と称してコンピュータ将棋ソフトと2012年(平成24年)1月14日に対戦することが、2011年(平成23年)10月6日に発表された。ボンクラーズの棋力は高く、米長によるとタイトルホルダーを含めた複数人のプロがボンクラーズに大きく負け越したという。

2012年(平成24年)1月14日のボンクラーズとの対局で、プレマッチに引き続き奇策、先手7六歩に対し後手6二玉を採用した。コンピューターに読ませない将棋にするのが狙いの練りに練った手で、これが成功し途中までは大優勢だったと述べている。

しかし、後手の米長は113手で敗れた。米長は電王戦敗戦後に書かれた自著『われ敗れたり』で第24回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞している。

2009年(平成21年)1月9日に前立腺癌で放射線治療を受けていると発表し、自身のホームページ「米長邦雄の家」の「癌ノート」に詳細を連載した。2012年(平成24年)12月18日午前7時18分、東京女子医科大学病院で死去。戒名は、棋聖院純実日邦居士(きせいいんじゅんじつにっぽうこじ)。「人生すべて感謝である」のブログ更新は、自身最期の更新である。

人物

家族

家族構成は父親母親(2001年死去)、5人兄弟。先述のように家計が厳しかったことで特別教育熱心の家庭ではなかったが、3人の兄(泰、修、優)は東京大学に進んだ(米長も中央大学へ進学)。長兄である泰は、秋田工業高等専門学校教授として都市工学を専門するかたわら、将棋の全日本学生名人戦で優勝を果たすなどアマチュア強豪として知られており、将棋の棋風分析の一人者として「米長伊甫」名義の著書もある。

「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」という言葉は有名である。ただし、実際に米長自身が発言したのかどうかははっきりしていない。なお、将棋世界1972年1月号で石垣純二との対談の際において「兄弟そろったとき、どうも東大卒の3人の給料より私のほうが年収はちょっと多かったので兄たちはクサっていました」と東大出身の兄と将棋指しの自分を比較している発言をしている。

元参議院議員の米長晴信は甥。

弟子

棋士になった弟子は先崎学・中川大輔・伊藤能・長岡裕也・高崎一生・中村太地・杉本和陽の7名。他に、元・女流棋士の林葉直子。先崎と林葉は内弟子であった。

一番弟子の伊藤能が三段リーグで不振に陥っていた頃に発した言葉が、「最近、お前はだらけている。目がな、目が死んでいるんだ!(中略)オマンコを見るような目で、将棋盤を見ろ!!」である。これが伊藤の闘志に火をつけ、三段リーグを2位で卒業し、四段昇段を果たした。

交友

升田幸三とはウマが合い、「麦長君」とよばれて親しまれた。また、芹沢博文・内藤國雄とも親しい関係で、中原誠とも自称親友の間柄という。

趣味の一つに囲碁があり、『碁敵が泣いて口惜しがる本』という著書もある。囲碁界の無頼派の棋士・藤沢秀行を尊敬して、兄事している。

大の将棋ファンであった山口瞳は米長のことを親しみを込めオランウータンというあだ名をつけた。

1993年(平成5年)の名人位獲得には、若手とともに研究を行ったことが大きな要因であったとされる。米長は徹底的に自分の序盤戦術を洗い直す作業に取り掛かる。名人戦では対局の合間に、当時島朗が主宰して、羽生善治・佐藤康光・森内俊之で構成された伝説の研究会「島研」に顔を出した。また、1980年(昭和55年)から1990年代にかけて数十人の若手棋士が参加した「中原研究会」に対抗して、数年前から自宅を改造して若手棋士を集めて開いていた研究会「米長道場」で、徹底的に対中原名人戦の研究を重ねた。特に道場の師範代格で、当時序盤研究の第一人者だった森下卓から、大きな示唆をもらったという。なお、米長道場は「若手に教えを請う」という姿勢で運営しており、米長は森下卓のことを「先生」と呼んでいた。また佐藤康光に対する評価も高く、あるアンケートでの「無人島に1年間住むとしたら、何を持って行くか(2つ)」という質問に対し「美人とグロンサン」と回答している(「グロンサン」は当時の佐藤のあだ名)。

武者野勝巳とゲームの著作権に関して裁判で争った。裁判は米長が武者野に対し和解金を支払うことで解決。ただし、米長は自身のサイトで「和解金」ではなく「解決金」と書いた。

米長哲学

「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれる。

著書『人間における勝負の研究』では、「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。第24期順位戦(1969年度)は、中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗で昇級が決まり、もう1人の昇級枠を58歳の大野源一と22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長のアシストによりA級に昇級した。なお、米長がA級昇級を果たしたのは翌年であったが、これについて前記の著書の中で、前年のことがあったからこそ昇級できたとの考えを述べている(精神面もさることながら、その年上がれなくとも翌年の昇級争いの最有力候補になる中原がB1リーグ戦から消えていたことは米長の昇級に有利になった)。

著書『米長の勝負術』では、トーナメントなどの例外を除き、その対局の結果が第三者に影響を及ぼす勝負の場合、自身の勝負に勝とうが負けようが第三者の悲喜の総量は変わらないが、それが故に結局は自身が全力を尽くしたかどうかだけが残り、手を抜いてしまっては純粋に、自身にとってマイナスであるとしている。この「米長哲学」は将棋界全体に広く普及し、大相撲などの八百長問題の際に新聞などで引用されることもある。

政治思想

産経新聞の『正論』執筆者に名を連ねるような保守派の言論人である。60年安保に高校の社研の部長として国会包囲に参加したが、後述のナンパ活動を通じて、この世の中に絶対正しいものは無いと考え転向する。

東京都教育委員会委員だった時は、ジェンダーフリー教育阻止と、東京都の公立学校に対する「日の丸・君が代」の義務化に尽力した。石原慎太郎からは「私はタカかハトかで、タカと言われているが、米長さん、あんたはコンドルだよ」と言われた。一方でゆとり教育にはそれほど否定的ではなく、「ゆとり教育というのは表現の失敗であって『ゆとり』は素晴らしいものです。文科省に再考を促したい。生きる力を育むのは『ゆとり』しかあるまい。」と述べている。

2004年秋の園遊会に招待された際、明仁天皇(当時)に対し「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」と発言したところ、「強制になるということでないことが望ましいですね」と笑顔で返され、真っ青になって慌て「そう、もちろんそうでございます。素晴らしいお言葉ありがとうございます」と礼を言った。

教育委員として日本共産党と対立し続けたが、政治的な意見を別として将棋・囲碁への貢献から「政党で真っ先にいちばん感謝しなければならないのは日本共産党」と将棋文化振興議員連盟設立総会で発言している(しんぶん赤旗は若手の登竜門である「新人王戦」を、将棋では1970年以来、囲碁では1976年以来、主催している)。

名解説

米長は対局解説がわかりやすいことで有名であった。1988年度(昭和63年)のNHK杯羽生加藤戦で解説を務めたが、後日、羽生がこの対局に触れ、61手目に▲5二銀を指した時、対局室と解説室は離れていて防音もされていたが、米長の叫び声が対局室まで聞こえたという。

お色気

20歳の頃にはナンパ活動を実施、最終的に500人ぐらいまでいったと豪語。「『させてくれ』と女にお願いしているうちは半人前である」「鍛練して『してください』と頼まれるようにならなければいけない。なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない」と述べている。42歳のときには、写真週刊誌で鳥取砂丘でのヌード写真を掲載した。

平成10年版『将棋年鑑』(1998年)の棋士アンケートにおいて、「あなたのストレス解消法は」の質問に「口に出すわけにはいかない」と答え、「可能ならばやってみたいスポーツは」という質問には「段違い平行棒」と答えている。

2004 - 2005年に、ニッポン放送の携帯サイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。内容は、モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。

妻帯者であったが自他共に認める性豪として知られた。前立腺癌を宣告された後、全摘手術を躊躇したことが結果として転移に繋がった。その心の機微が闘病記である著書「癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~」に記されている。

棋風

厚みを重視し、劣勢になると自陣に駒を打ち付け複雑にして逆転を狙う棋風から、「泥沼流」と呼ばれる。本人の性格や見た目から「さわやか流」と呼ばれていたこともあり、米長本人は後者の方が好きだったと言う(ただし、棋風との関連は不明)。

弟弟子である丸山忠久は、米長将棋の特徴について「米長先生の棋風は『さわやか流』、『泥沼流』などと評され、清濁併せ呑むというのが一般的なイメージかも知れません。しかし、私は清から濁、濁から清への転換の見事さこそが米長将棋の本質だと考えています」と述べた上で、「清なら清、濁なら濁がずっと続くわけではなく、鮮やかに切り替わるのです。その変わり身の速さは、おそらく誰も真似できないでしょう。これが米長将棋の最大の魅力だと思っています」と、局面に対する柔軟性の高さを評価している。

居飛車本格派ながら、定跡研究などによる序盤の構想よりも中~終盤の攻防でねじ伏せる勝利が多く、特に将棋の終盤戦術の向上に貢献した。その独特の感覚は「米長玉」などに表れており、現代将棋の終盤の基本パターン「自分の玉を‘Z’(ゼット、絶対詰まない形)にして攻めまくる」に、大きな影響を与えている。四冠王になるなど絶頂期にあったときには、自著『逆転のテクニック』の中で序盤研究に否定的な見解を示し、詰将棋で鍛え抜いた読みの力をベースに劣勢になっても相手のミスを招く勝負術ならびに終盤力が将棋における勝負の本質であるとの見解を示していた。

若手時代から「序盤下手」と揶揄されることが多かった(谷川と共に「序盤の二下手」と呼ばれたこともある)一方で、羽生善治は米長の序盤を「序盤から息を抜けず緊張感を強いられる序盤巧者」と評している。ただ、定跡に挑戦するチャレンジ精神は相当あり、対山田戦では 「▲3七桂対△1三銀型矢倉は千日手」という常識に挑戦した(結果は負けた)。また、対中原戦では総矢倉(これも常識では千日手)で ▲6八銀左という新手を指して勝っている。

また、同じ振り飛車党に対しても大山に対しては位取りをメインにした持久戦を、森安に対しては鷺宮定跡(急戦)を採用するなど、 相手によって戦法を変えることを明言していた。

四冠王になる前には、「角頭歩戦法」や「新鬼殺し戦法」といった奇抜とも言える序盤戦術を開拓していた。「角頭歩戦法」はタイトル戦(1975年(昭和50年)の王将戦第1局)の舞台で使用し、大きなインパクトを与えた。しかし「角頭歩」についてはすぐ相手側の「回避策」が出てしまったが、それに影響を受けた戦法「立石流」の源泉となった。また「新鬼殺し戦法」は初心者向けのハメ手と戒められていた鬼殺しを立派な一戦術として確立させている。また2011年(平成23年)12月21日に行われたコンピュータ将棋「ボンクラーズ」とのエキシビジョンマッチで敗北したものの、ボンクラーズの初手▲7六歩に対し2手目に△6二玉(本人は「新米長玉」と呼称している)という珍しい手を繰り出した。

四冠王となった頃に「米長流急戦矢倉」の開発、対振り飛車における「玉頭位取り」や「鷺宮定跡」の整備といった功績がある。

「矢倉は将棋の純文学」という有名な表現は米長の言葉である。これは米長によれば(矢倉は)高尚である、と言った意味での発言ではなく、角が上下にギザギザネチネチと動き、ネチネチと押したり引いたりし、相手の出方を見てネチネチと手を変え、と言ったそのネチネチさを指して「純文学」と表現したとのことである。

2024/06/15 09:01更新

yonenaga kunio


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